Gozolopというウェブマガジンのインタビューを受けました。2時間ほどだらだらと、縦横無尽に様々なテーマを語らいました。素敵な機会をありがとうございました!
何のために本を読むの?
インタビューのなかで問われたのが「何のために本を読むのか」という質問。これ、人によって回答は変わるでしょうけれど、ぼくは確固たる意味を実感しています。
「自分はなんてちっぽけなんだ!」と痛感するため
ぼくらは生きていると、つい自分の人生、自分が見る世界、自分が感じる思いを「絶対的」なものだと捉えてしまいます。
たとえば、好きな人に振られたり、会社をクビになってしまったり、重い病気にかかってしまったりすると、それはもう人生の一大事に思えてしまい、それこそ死にたくなってきたりするわけです。
しかし、冷静に考えれば、自分の人生はこの広い宇宙からみたら「ちっぽけ」なものです。宇宙という規模まで持ち出さなくても、この「日本」、「東京」という規模にまで小さくしても、やっぱり自分は「ちっぽけ」です。東京には900万人弱の人が住んでいますから、どれだけ今を苦しんでいても、自分は1/9,000,000という極小な存在なのです。
本というのは、つい絶対化してしまいがちな「自分」を、冷水を浴びせかけるかのように「相対化」してくれる効果をもたらしてくれます。わかりやすくいえば、本を読むと「あぁ、自分はなんてちっぽけなんだ!!」と気づくことができる、という話です。ぼくが本を読むのが好きなのは、この相対化効果にあります。
ちっぽけであることを感じさせてくれる作品たち
そういう作品を挙げだしたらキリがないのですが、とりあえず3冊ほど。
たとえば「謎の独立国家ソマリランド」なんて作品は、「日本」「資本主義経済」「先進国」という枠組みを、見事に相対化してくれます。ページをめくるたびに「おいおい、こんな世界があったのか!」と驚愕し、自分が生きている「今・ここ」が「ちっぽけ」なものに思えます。
ガルシア=マルケスの文学作品「百年の孤独」も、自分を相対化させてくれるすばらしい書物です。最後の一行を読み終えた瞬間、「百年の孤独」が自分の全細胞に一気に押し寄せるようなあの感覚は、まさに超一級の文学です。人を選ぶ作品ですが、ぼくは全身に鳥肌が立ちました。
自己啓発書も、自分を相対化させてくれますね。ぼくは元気を貰いたいときは、この作品を読むようにしています。岡本太郎の言葉に触れると、いかに自分がくだらないことでウジウジとしていたかを痛感することができます。
執着を捨て、行動するため
自分をうまく相対化する(「ちっぽけなもの」だと感じる)ことができれば、自然と物事に対する執着は消滅し、「どうせ人生はちっぽけなんだし、いっちょやってやるか」と、行動する勇気が出ます。
シニカルな響きがしてしまいますが、「自分がこの世界において、いかに下らない存在であるか」を理解することは、とても大切です。「自分はこの世界において大切な存在だ」と考えていたら、やりたいこともできなくなってしまいますからね。
余談ですが、相対化には二つの方向があるとも感じます。
ひとつは、「謎の独立国家ソマリランド」のように、「横方向」に世界の広さを実感させてくれる作品。これは「同時代にこんな世界があるのか!」という驚きを与えてくれます。
もう一つは、「縦方向」の長さを感じさせてくれる作品。「あぁ、自分が生きている時代は、宇宙の歴史、人類の歴史からみれば、ごく一部なんだ!」としみじみ感じられる作品ですね。これは「古典」に属する作品が概ね該当するでしょう。最近個人的にハマっているブッダの言葉なんかは、それこそ1,500年近く読み継がれているわけですから、やっぱり自分の悩みがくだらなくなります。
他にも色々書きたいことはありますが、とりあえずここら辺で。みなさんは「どんな理由で」本を読んでいますか?読書家の方もそうでない方も、ぜひコメント欄で教えてください。