2013-08-12 18:56:00
茜雲 -あかねぐも-
テーマ:ブログ“わが娘の遺体を探し求め、やっとそれらしい真っ黒な両手両足と、頭部の欠損した遺体が、愛するわが子と認められることになりました。あまりの変わり果てた娘の姿に一気に悲しみが胸にこみ上げました。こんな悲惨な惨い姿になってしまったとは…。”
ある飛行機事故で愛する娘を失った遺族の方が寄せた手記の一文です。
僕が生まれた1985年8月12日
乗員乗客524名を乗せた羽田発大阪行き日本航空123便のジャンボジェット機が、群馬県上野村の御巣鷹山に墜落・炎上し
4名の方が奇跡的に生存・救出されたものの520名もの尊い命が一瞬にして奪われました。
日航ジャンボ機墜落事故
単独機による世界最大にして最悪の航空機事故から今日で28年目の夏を迎えました。
事故当時、僕はまだ生後6ヵ月。リアルタイムでの記憶はありません。
しかし、僕が大学3年生だった2005年に事故から20年の節目としてテレビで放送された特集番組を目にした事で興味を持ち、それをきっかけに事故にまつわる様々な事を僕なりに調べた事がありました。
僕のブログを見てくれている方の中には
この事故を知らない方が沢山いらっしゃると思います。もしくは当時まだ生まれていなかった方もいらっしゃるでしょう。
今日は特にそんな方々にこの事故に触れて頂き、考えてもらいたい事があります。
“命”というものを
そして
“家族”というものを…。
1985年8月12日、18時12分
まったくもって今日のように猛烈な夏の暑さを感じる東京、羽田。
夕刻になろうというのにそのうだるような暑さは和らぐ事なく、地表の熱気でゆらゆらと揺れながら向こうに見える夏の夕日が傾きはじめようとしていた頃
定刻を12分遅れて羽田空港の18番スポットを離れ、大阪・伊丹空港に向け滑走路を離陸する1機のジャンボジェット機の姿がありました。
日本航空123便
お盆の入りを控えた当日の機内は出張帰りのビジネスマンや故郷への帰省客
そして当時開園から2年と間もなかった東京ディズニーランドや茨城県つくば市で開催されていたつくば科学万博の観光客等でほぼ満席の状態でした。
友達や愛する人、または家族を待たせている方もいたでしょう。もしくは何かに思いを馳せて機内に乗り込んだ方もいたかもしれません。
夕闇迫る空に向かって
それぞれがそれぞれの思いを抱えて…。
離陸から12分後の18時24分
大阪に向け順調に高度を上昇させ、相模湾上空に差し掛かりそろそろ水平飛行に入ろうかという時でした。
“パーン”
甲高い乾いた衝撃音とともに123便は突如として緊急事態に陥ります。
『スコーク77』
123便は航空機が緊急事態に陥った際に用いられる緊急救難信号を即座に発信し羽田空港へ引き返す事を管制官に要求しますが、ほどなくして機長から返ってきた言葉に管制官は愕然とします。
それは過去の航空機トラブルの事例をもってしても聞いた事のない言葉だったからです。
“But now uncontrol”
(バット ナウ アンコントロール)
操縦不能。
この時点で既に123便は操縦に必要な油圧操作の機能全てを喪失していました。
飛行機の機体後部には
『圧力隔壁』という、地上に比べて酸素の薄い上空でも地上と同じ気圧に保つ為のおわん型の大きな壁があります。
事故を起こした機体はこの7年前に
『しりもち事故』といって、着陸の際に機体後部を滑走路に接触させる事故を起こしていました。
その際に破損した圧力隔壁の修理ミスが原因で修理箇所が金属疲労を起こして客室内の与圧に耐えきれず損壊、その箇所から一気に漏れ出した空気が尾翼を吹き飛ばして、さらに操縦をつかさどる4系統ある油圧系統のパイプを全て破壊、操縦機能を喪失してしまったのです。
はるか上空から轟いた爆発音はまるで雷が落ちてきたかのように地上でも聞こえ多数の一般市民の方がその時の様子を克明に記憶されています。そしてこの写真は、爆発音が聞こえた方向を飛ぶ操縦不能に陥った123便の姿を目撃した際に一般の方が撮影された一枚です。
赤い○の部分を見て分かる通り、尾翼を失っている事が分かると思います。
緊急事態から墜落までの32分間
123便のコックピット内では原因が分からないまま操縦不能に陥った機体を立て直そうと、残された数少ない操縦手段を用いて懸命に闘う3名のパイロットの方の姿がありました。
その緊迫した闘いを記録した実際の音声は事故現場から回収されたボイスレコーダーによって今日ではYoutube等で皆さんも視聴する事ができます。しかし、この音声記録がメディアを通して世間の日の目を浴びるまでには15年というあまりに長い年月がかかったのでした。
事故から15年が経った2000年
墜落事故関連の調査書類を焼却処分する事と決めた運輸省(現在の国土交通省)の内部関係者が事故の風化を懸念し、コックピット内のパイロットと管制官とのやり取りが収められた実際のボイスレコーダーの音声テープを匿名で有識者に送り、そこから一斉にメディアを通じ世間の耳に届く事になりました。
事故現場から回収されるボイスレコーダー(通称:ブラックボックス)に収められた音声記録の用途は事故原因の究明の為だけのものであり、それを聞く事が出来るのは事故原因の調査に携わった数少ない人間のみ。例え遺族であろうと、その音声を聞く事は本来有り得えない事なのです。
先述した操縦不能を意味する
“But now uncontrol”
(バット ナウ アンコントロール)
機長からこの言葉を聞いた管制官はパイロットの精神的負担を軽減し、事細かなやり取りをしながら緊急事態の状況を把握する為に
『これからは日本語で話して頂いて結構ですから』
という言葉をかけています。
通常、パイロットと管制官のやり取りは国際法に基づいて英語を使う事と決められています。
それほどまでに123便は深刻な事態に陥っていました。
垂直尾翼を失い機体が安定しなくなった123便は
『ダッチロール』
という左右に傾く揺れと
『フゴイド』
という上下に傾く揺れを繰り返しながら本来の飛行ルートを外れます。
そして、機体の高度を下げる緊急降下の為に『ランディングギア』という着陸時に使用する車輪を下ろした事が想定以上の空気抵抗を生じさせたのか、123便は富士山上空をかすめるようにいきなりの急旋回・急降下をします。
この時の機内の様子を生存者の方はこう証言しています。
“まったくの急降下です。まっさかさまです。髪の毛が逆立つくらいの感じです。頭の両わきの髪がうしろにひっぱられるような感じ。
(中略)
怖いです。怖かったです。思いださせないでください、もう。思いだしたくない恐怖です。お客様はもう声もでなかった。私も、これはもう死ぬ、と思った。まっすぐ落ちていきました。”
急降下が収まったコックピット内では
“あたま上げろ”“あたま下げろ”という機長の言葉が頻繁に記録されています。
これは機体の機首を“上げろ”“下げろ”という意味です。激しく上下に機体が傾くフゴイドを抑える為に懸命に操縦捍を握っていた事でしょう。
しかし
無情にも123便は羽田空港がある方角ではなく、標高2000メートル級の山が連なる秩父方面の山岳地帯に迷い込みます。
18時46分
うねうねと連なる山々を縫うように迷走は続くものの何を施しても機体が言うことを効かない状況を悟ったのか、機長がポツリと言ったこんな言葉が残されています。
“これはもう、だめかもわからんね”
その10分後
“もう、だめだ”
そう聞き取れる機長の悲痛な叫びを
けたたましい警報音が掻き消すように
最後は激しい激突音とともにボイスレコーダーはその記録を止めました。
18時56分
墜落
事故から数週間経ったある日
新聞紙面には解析されたボイスレコーダーのやり取りが活字で公表されました。その中で機長が発した
“どーんといこうや”
という言葉が批難の的となりました。
“山にぶつかるかもしれないという時に「どーんといこうや」とは一体どういう神経だ”
‥明らかなマスコミの曲解でした。『墜落』と『死』という恐怖を感じながらもクルーと、そして自らを奮い立たせ鼓舞する為に発せられた言葉が当時は酷評され、その曲解されたままの批難の矛先は機長のご家族に向けられたのでした。
機長のご家族は『遺族』でもあり、一方では『加害者の家族』という側面もあったという事が格好の的になってしまったのかもしれません。
長い間、ご家族の方々は好奇の目にさらされ誹謗中傷や嫌がらせにも苦しめられました。世間から身を潜めるような生活も強いられたのかもしれません。誰にも分かってもらえぬ心の痛みをご家族のみなさんで分かち合って、助け合って、支え合って日々を過ごしてきたそうです。
それが事故から15年経ち、実際のボイスレコーダーから聞こえた
機長の高濱雅巳さん
副機長の佐々木祐さん
航空機関士の福田博さん
三人の方々の最後の最後まで諦めなかったコックピット内での闘いの声がメディアを通して世に広まりました。
その年の慰霊登山
機長の奥さんは、たまたま擦れ違った別の遺族の方から感謝の言葉を述べられたそうです。
“最後まで乗客の命を救おうと、頑張ってくれていたんですね”
遺族と加害者の家族というふたつの立場の狭間で当事者にしか分かり得ぬ苦労に耐え、夫を失って自らが一家の大黒柱として振り返る時間もなく3人ものお子さんを女手ひとつで育てる為に奔走した奥さんとその家族の方々の15年。
その言葉が雪解けのように
枯れてしまっていたはずの15年分の涙として自然と溢れ出たそうです。
墜落現場から回収されたカメラに収められていた機内の様子です。衝撃音とともに落ちてきた酸素マスクを装着する乗員乗客の方々の姿。
ダッチロールとフゴイドを繰り返す機内の客室では
“助かるまい”
そう思った数人の乗客の方は揺れの激しくなる機内の中で手帳やメモ帳に、あるいは座席に備えつけられた紙袋に家族に宛てた遺書を遺していました。
ある人は『死』への恐怖と、『生』への望みと…
恐い
恐い
恐い
助けて
気もちが悪い
死にたくない
そしてある人は大切な『誰か』に向けて…
マリコ
津慶
知代子
どうか仲良く
がんばって
ママをたすけて下さい
パパは本当に残念だ
きっと助かるまい
原因は分らない
今五分たった
もう飛行機には乗りたくない
どうか神様
たすけて下さい
きのうみんなと
食事をしたのは
最后とは
何か機内で
爆発したような形で
煙が出て
降下しだした
どこえどうなるのか
津慶しっかりた(の)んだぞ
ママ
こんな事になるとは残念だ
さようなら
子供達の事をよろしくたのむ
今六時半だ
飛行機は
まわりながら
急速に降下中だ
本当に今迄は
幸せな人生だったと感謝している
PM6・・・30
知子
哲也
(両親を)をたのむ
圭市
突然
ドカンといってマスクがおりた
ドカンといて降下はじめる
しっかり生きろ
哲也
立派になれ
皆さんならどうでしょう
愛する大切な誰かを残して自らの『死』を意識した時
迷走する機体、悲愴な時間の中でこのような言葉を遺せるでしょうか
こんな時に自分ではない他の誰かを、家族を思う行動を取れるでしょうか
きっと
いや、間違いなくこの方々だってほんの昨日まではごくごく平凡でありふれた普通の暮らしを家族と営んでいたのです。
そんな日々が『最期』だと悟った時
皆さんならどうする事ができるでしょうか
僕ならどうするのでしょう
正直
考えても考えても分からないんです。
自分をその立場に置き換えて考えようとしても、とても置き換える事が出来ません。
ただほんの少しだけ分かる事が
本当ならば自分が守らなくてはならない家族を残して逝ってしまう事への『無念』と
せめて最期に出来る事と思い、それを手紙として遺したのであろうという家族に対する『愛』
それだけは、痛いほどに伝わるんです。
520名の犠牲者の中で
一家全員が亡くなられてしまったのが22世帯
また、一家の大黒柱として亡くなられてしまった方は189名にのぼりました。
美谷島健くん
当時9歳の小学校3年生、健くんもこの日航機事故の犠牲者のひとりです。
ご両親から25メートルのプールを泳ぎきったご褒美にと、当時KKコンビと謳われ最強を誇ったPL学園の甲子園観戦をする為大阪の親戚の家を頼り、健くんひとりでこの123便を利用しました。
この当時、日本航空は
『ちびっこVIP』といって、地上係員が子供の搭乗までのエスコートをし客室乗務員にその役を引き継ぎ、目的地まで無事に送り届けるというサービスを行っていました。
『オレンジジュースは富士山が見えてから飲むのよ?』
水筒を渡される時にお母さんに言われた言葉にうんと頷き、お母さんの手から離れた健くんは地上係員に付き添われ搭乗口に消えていきました。
これが健くんとお母さんとの最期でした。
最期に触れた健くんの手は
とても柔らかい手であったそうです。
健くんの乗る飛行機が遠くの空に消えていくのを見送ってから夕飯の買い物を済ませ
羽田空港から近い距離にあった自宅に戻り、ほどなく仕事から帰宅した健くんのお父さんの夕飯の準備にとりかかっている時の事です。
突然でした。
テレビの画面上に
[ニュース速報]
そのテロップと無機質なチャイム音が流れました。
[午後6時 羽田発大阪行の 日航123便がレーダーから消え 現在運輸省が調査中]
その第一報を目にしたお母さんは夕飯の支度の手を止め、慌ててバッグの中から健くんが乗った飛行機の『ちびっこVIP』の証明書を探します。
そこに書いてあったのは
『JAL 123便』
ニュース速報のテロップと、健くんが乗った飛行機の便名が一致した事に動揺したお母さんは外に飛び出し、自宅の周辺をとにかく走り回ったそうです。
そこに居るはずもない、健くんの姿を探す為に‥。
辺りはすっかり、夜のとばりに暮れていました。
翌日
健くんのお父さんとお母さんの姿は群馬県の藤岡市にありました。乗客家族の待機所として市内にある体育館に前日夜に到着し眠れぬ夜を送っていたのです。
昼頃には墜落現場から遺体発見と、そして生存者が発見されたというニュース映像が入り、待機所の家族皆が騒然とします。
しかし、夕方になっても健くんが見つかったという報は入らず。
その日の夜、健くんのお父さんは待機所に備え付けられた電話から学生時代の友人の一人に電話を入れます。
その友人は民放テレビ局のカメラマンとして勤めていた方でした。健くんのお父さんはその友人に涙まじりにこう切り出したそうです。
『健が、落ちた。健が、123便に乗ってたんだ。迎えに行く為に、健が喜びそうな物も着替えも全部持ってきた。‥だけど、警察からは家族の人間は「絶対に行くな」と言われている‥。』
ここにはひとつの偶然がありました。
友人のカメラマンは本来スポーツを専門としていたそうですが、事故翌日は他のカメラマンが出払っていた為に急遽ヘリコプターに乗り込み墜落現場を上空から撮影していました。
そして、健くんのお父さんとお母さんが待機所のテレビから見た生存者発見の様子をどのテレビ局よりも早く現場から生中継した映像を撮影されていたカメラマンが、その友人の方だったのです。
しかし、偶然と同様に友人の方の心にはひとつの葛藤が生まれます。
それは墜落現場の場所を知っている事。
墜落現場の'状況'を身をもって知っていたからです。
520名もの方が亡くなられた墜落現場から収容され、医師団によって検視という作業が行われたご遺体は2000体を越えていました。
時速にして600km/hを超える猛烈なスピードで墜落・尾根に激突した事で機体は大破。
激突時の人間一人にかかる衝撃はすさまじいもので墜落現場には機体の残骸とともに
誰のものとも分からない
ちぎれた手足や頭部のない胴体が足の踏み場がないほどあちこちに散乱していたり
墜落直後の炎上によって炭化してしまったご遺体、さらには盛夏だった事もありご遺体の腐敗の進行も早くまさに現場は凄惨を極めていたのです。
完全遺体として発見されたのが100体強ほどで、それ以外の体の一部のみのご遺体は
『部分遺体』と呼ばれていました。
警察が家族に対して現場に行くなと言うのも無理はありませんでした。
愛する子供を迎えに行くとは言え、あの現場を友人に見せていいものか。
もしもとても悲惨な再会になってしまったら‥。
現場までの山道は険しく行くのは難しいと言って一度はそれを止めたそうですが、その言葉を遮るように健くんのお父さんはこう伝えたそうです。
“健が、あそこで待ってるんだ。”
カメラマンの友人の方はその言葉に覚悟を感じたのでしょう。一瞬の生唾を呑んで伝えます。
“ぶどう峠、ふもとの登山道。そこまで行けばどうにかなる。”
皆さんなら
もし健くんのお父さんやお母さんと同じ立場になったなら、同じように現場に行こうと思われますか。
もしカメラマンの友人の方と同じ立場になったなら、現場の状況を知っていてもそれでも教える事ができますか。
僕はどちらにも“はい”と答えます。
カメラマンの立場であったなら、それを教えるでしょう。なぜなら僕が健くんの親御さんの立場であったなら、絶対に行くからです。
行くしかないと思うんです。
墜落から2日経った8月14日
健くんのお父さんとお母さんは警察の静止を振り切って、乗客家族として初めて御巣鷹山の墜落現場を目指します。
草木がうっそうと生い茂るあまりに険しい道なき道を手を取り合って、時に崖から滑落しそうになりながらもただひたすら健くんを迎えに行く為に何時間も登り続けました。
そして
ようやく現場にたどり着いた先に広がっていた地獄のような光景を見て、お父さんとお母さんは悟ったそうです。
健くんのお母さんは
足元に落ちていた掌ほどの機体の残骸を手に取りそれをさすりながら、もうこの世に健くんがいない事を悟りました。
健くんのお父さんは
そこにある光景を眺めながら
『健、健‥』とただひたすらに名前を呼んでいました。
数日後、現場から見つかった健くんのご遺体は右手の先でした。
あまりに小さくなった健くんのご遺体を棺に納め東京に戻り、執り行った葬儀には夏休み中にも関わらず健くんの同級生をはじめ沢山の方々が最期の別れに訪れました。
“自分がこの時何をしていたのか覚えていない”
茫然としたお母さんの当時の記憶の中でただひとつだけ覚えていた事は
健くんの棺が、あまりに軽かった事だそうです。
今日のブログの題名に使わせて頂いた
“茜雲”
これは健くんのお母さんが事務局長を務める8.12連絡会という事故後に発足された遺族会が毎年発行している、故人に向けた手記集のタイトルです。
墜落の時刻、18時56分に犠牲者の方々が飛行機の窓から見えていたであろう最期の景色が
夕闇迫る“茜雲”だったところからきているそうです。
この事故については未だに再調査を求める声が少なくありません。所謂“急減圧”があったかどうかという問題、ここではその説明を省略させて頂きますが
事故から28年という歳月が経とうとも、ご遺族の方々の故人を思う気持ちは変わらないのです。
だからこそ、この事故原因の真相究明こそがご遺族の方々の望みであり520名の尊い犠牲者の御霊への報いになるのだと思います。
御巣鷹山は墜落時刻である今この時
ご遺族の方々によって静かな祈りに包まれます。
日本人にとって夏という季節は
沖縄戦終結
広島・長崎の原爆投下
終戦
そして日航機事故と、『命』に向き合う季節なのかもしれません。
これらの出来事がリアルタイムでなかった僕らのような世代の方々も
阪神・淡路大震災
米同時多発テロ
そして東日本大震災と、『命』に向き合う出来事を目の当たりにし経験もしてきました。
これを読んで頂いた方は今夜
ほんの少しの時間でも結構ですので大切な誰かの事を思いながら
『命』や『家族』について考えてください。
そして『感謝』をしてください。
命あることを
家族あることを
それらが決して当たり前ではなく
大切な偶然であり、偶然の奇跡であることを
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