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石田三成が悪い奴だというの話は殆どが江戸時代に書かれた書物から来ているって聞...

birth1988lidongさん

石田三成が悪い奴だというの話は殆どが江戸時代に書かれた書物から来ているって聞きましたが本当ですか?

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  • 質問日時:
    2013/10/5 19:54:51
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enigunmakenさん

三成に関する事績や逸話の出典を探すと一次史料による裏付けが無いものが非常に多い事が分かります。プラス評価の話も無いではないですが数は全然少ないです。敗者として悪い事はみんな三成のせいにしてしまえという扱いを受けていたのは間違いありません。例えば

・朝鮮で加藤清正らを讒言した → 一次史料で確認とれず。
・朝鮮で小早川秀秋を讒言した → 一次史料で確認とれず。
・島津の夜襲策を拒否 → 一次史料で確認とれず。
・家康を暗殺しようとした → 当代記など江戸時代の史料。一次史料の証拠無し。
・西軍結成の首謀者だった → 一次史料では詳細不明。
・関が原の挙兵時大谷吉継に人望の無さを指摘された → 常山紀談など江戸期の史料。一次史料の証拠無し。
・加藤清正が朝鮮帰国後三成が茶会を開く話に怒った → 清正記。江戸時代の史料。一次史料の証拠無し。
・秀次を無実の罪で切腹に追い込んだ → 甫庵太閤記など江戸期の史料。一次史料の証拠無し。
・蒲生氏郷を毒殺した → 氏郷記など江戸期の史料。一次史料の証拠無し。
・処刑前に干し柿を拒否して笑われた → 明良洪範、茗話記など江戸期の史料。一次史料の証拠無し。
・淀君と不倫してた → デマレベル。もはや論外。

三成の性格が悪かったとか嫌われていたとか断言する方にその根拠となる信頼性の高い史料(一次史料)をちゃんと提示できますか?という質問をしてもまともな答えは帰ってきません。

一方高潔忠篤の士であったという証拠もまたありません。つまり歴史上の人物の性格などというものが史料上から判明するという例はむしろ稀でイイ奴ワルイ奴などという区分は小説やゲームのイメージを実際の歴史として認知してしまう無知な人間のやることです。

kanetan0102さん

基本的にそう考えていいと思います。
書物の編纂は政治的な部分も大きく、幕府は豊臣から政権を奪取した徳川家康の正当性を強調し、徳川の世に残った大名家は藩祖の活躍をアピールする狙いがあります。こうした中で、政治的に対立する関係にあった石田三成は「意図的におとしめようとしたかどうかは別にしても」相対的に悪く書かれるのは当然なのです。徳川光圀が「にくからざるものなり」「かたきなりとてにくむべからず」と述べているのは、逆に「にくむ」風潮があったからでしょう。

同時代にそこまで「悪い奴」と思われていたかは分かりません。諸大名からは信頼を得て「取次」を務めています。浅野長政も東国で「取次」を務めますが、「全然働いてくれない」として伊達政宗に嫌われて絶交されています。政宗は「取次」を三成に変えています。島津義弘や佐竹義宣、真田昌幸あたりが西軍についたのは「三成が西軍だから」という部分が大きいでしょう。秀吉死後に失脚した三成からの書状を読んだ毛利輝元は三成に同情して涙を流したと、家臣に書状で伝えています。

秀吉死後にいわゆる武断派に襲撃されていますが、この時期日本にいた朝鮮人儒学者カンハンは、(武断派からみて)「讒言」した軍監を彼らが殺すと息巻いたのに対し、三成がかばったことが恨みを買った理由だと記述しています。三成は伏見ではほかの奉行衆とともに籠もっており、三成が個人的に「悪い奴」だからとかではなく、政治的な対立ととらえるべきでしょう。毛利輝元が軍勢を繰り出して家康や武断派を攻撃しようとしたことが書状で分かっており、やはり政治色が強い事件と言えると思います。大谷吉継が三成は「へいくわいもの」だと指摘したという有名な逸話も江戸時代の書物に出る話です。

千利休切腹、豊臣秀次切腹、蒲生氏郷毒殺など、江戸時代に三成と結びつけられた事件は多いです。利休切腹と豊臣秀次切腹は秀吉家臣による讒言説が早くからありますが、それが三成によるものかは分かりません。蒲生氏郷の死因が毒殺でないことは研究で明らかにされています。いい話も登場しているという主張もありますが、島左近の雇用は=三成自身は戦下手説につながり、三献茶もこざかしさを感じる逸話とみることもできます。第一、上記のさまざまな事件への関与説が登場したのと比べると全くフォローになっていないのではないでしょうか。有名な大谷との茶会での友情に関してはソース不明です。むしろ同時代の「宗湛日記」には、秀吉の勘気を被って蟄居していた大谷を慰めようと、三成が貴重な茶碗を神屋宗湛から借りたというこれはこれで温かい逸話があります。

公家が悪く書いた(三成が利休の妻を蛇責めにして殺したというカゼ情報?関ヶ原で敗れたとたんに賊と呼び始めたこと?)とか糾弾書なるものはちょっと知りませんが、襲撃するから悪く書くのは当然です。西軍も挙兵時に家康のことをさんざん言ってますし、謙信だって信玄と戦うときは彼のことを悪く言います。それは相手が「悪い奴」だからではなく、自身の正当性を訴えるための政治的な行動です。彼らは政治家ですのでそれぞれに親密な者も敵対する者もいます。しかし、アニメや漫画みたいに「悪い奴」「嫌いな奴」だけで攻撃したりしません。

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  • 編集日時:2013/10/7 21:17:09
  • 回答日時:2013/10/7 20:28:44

birdea37さん

関が原の合戦で東軍に馳せた細川忠興は
カブトに茶のカキマゼ道具を くっつけた
変わった特注のカブトを していたので
徳川家康は、どういう意味かねと聴くと、
我の茶道の師・千利休は太閤に切腹を
命じられて死給う は、石田三成の策謀と
我は、みており、いまこそ師の仇を討てりと
相応しいカブトを用意した次第と答えた。
黒田官兵衛もカブトに茶道の茶碗を のせて
おり黒田も千は石田三成に、はめられて
切腹したと憎んでいたようだ。

yaikomaeさん

>>石田三成が悪い奴だというの話は殆どが
>>江戸時代に書かれた書物から来ているって聞きましたが本当ですか?

いえウソです。

「生前時」に「大名、公家の書簡」に悪く書かれていますし
「襲撃」された際に「糾弾書」も書かれています。

ですので「生前」から悪く書かれています。

逆に「良い評伝」などは「死後」「江戸時代」に成され
「忠臣・島左近との美談」「義将・大谷吉継との友情」などが
創作もまじえられ描かれました。

d7301qeさん

「人物の評伝」と言うのは原則としてその人物が亡くなってからでないと成立しません。

従って石田三成の良い評伝も悪い評伝も成立したのは江戸時代になってからです。

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  • ケータイからの投稿
  • 回答日時:2013/10/5 20:49:18

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