水俣条約:「終わらない水俣」の実情を訴え
毎日新聞 2013年10月09日 20時49分(最終更新 10月09日 22時28分)
9日、公害の原点とされる水俣病の発生地、熊本県水俣市で開幕した「水俣条約」外交会議。会議に先立ち、市内各地では各国代表らと水俣病患者の交流会や犠牲者追悼式、開会記念式典が相次いで開かれた。水俣病の公式確認から57年。患者らは今なお心身に痛みや苦しみを抱えており「終わらない水俣」の実情を訴えた。
「次の時代に生きる人たちのため再び水銀被害が起きないよう土台作りをしなければなりません」−−。記念式典で、市立水俣病資料館語り部の会会長、緒方正実さん(55)は壇上に立つと、水俣病被害者だけでなく、差別や偏見を受けてきた市民たちの思いも代弁するように言葉を選び語りかけた。
緒方さんは熊本県芦北町女島(めしま)の漁師一家に生まれた。網元の祖父が急性劇症型水俣病を発症したのは1959年9月。もがき苦しみ、3カ月後、息を引き取った。町で最初の水俣病犠牲者とされた。後を継いだ父親は公害健康被害補償法に基づく認定申請を準備中の71年、38歳の若さで亡くなった。水俣病だったかどうかは今も分からない。
「伝染病だ」「汚い」。当時、患者らは陰口を言われ、不知火海で取った魚は市場が買い上げないなど差別を受けた。緒方さんは水俣病のレッテルを張られないよう必死で水俣病から逃げた。手足のしびれなどの特有の症状があっても隠した。
未認定患者を救済する政治決着(95年)の際には「誰にも気づかれないようビクビクしながら申請した」。が棄却された。絶望し、将来を悲観しながらも「この時、水俣病から逃げずに正面から向きあう決意をした」という。10年間にわたって認定申請と棄却を4回繰り返した。2007年、認定を勝ち取り思った。「水銀被害を隠し続けた人生を、行政や世の中が許してくれるのに10年かかった」
緒方さんは記念式典で会場内を見渡しながら話した。「工場排水を止めることで被害を最小限度に食い止めることができたにもかかわらず、止めようとしなかったチッソや政府に聞きたい。もし目の前で苦しんでいた人が自分の子供や家族だったらどうしましたか」。数秒間の沈黙後、緒方さんは言葉を継いだ。「私たちの失敗を皆さんが教訓として役立ててほしい。経験と苦しみが世界の幸せにつながるよう、水俣病の真実を伝えていきたい」