ヒーローたらしめるもの
スパイダーマン、ダークナイト、アベンジャーズなど、アメコミ攻勢がものすごい。その前には、X-MANもやっているので、この頻度は日本のヒーロー物と変わらないペースだ。
向こうの映画は、大人も観れると言うより、大人がメインターゲットだ。これは、原作のコミック(敢えて漫画と言う言葉が使わない)が、そのトーンで展開されるためだ。日本で言えば、劇画に近い。だが、この路線が決定的になったのは、、「バットマン ダークナイト リターンズ」と言う作品からと思われる。
この作品は、ティム・バートン版バットマンの作風に強い影響を与え、大人のロジックや支店、思想でヒーローを捉えることで、商業映画として広い年齢層に受け入れられるようになり、現在に続いている。それまでのヒーロー物で言えば、リーヴさんの「スーパーマン」がメインであったのだが、ヒーロー達の精神の内部、暗黒面や孤独にまで触れる所までは言っていない。非常にライトな雰囲気で事が進む。能力を捨てて人間になろうと、核から生まれた自分の分身が敵でも、悲壮感や鬱々とした空気がなく、良くも悪くもハッピーエンドのアメリカ映画のテンプレである。
「ダークナイト リターンズ」では、バットマンの異名である「ダークナイト」の部分に焦点が当たる。彼はヒーローなのだが、決して陽のあたる場所で華やかな活動をする事はないし、できない。そこがスーパーマンと違う。何故、彼は暗黒の騎士でなければいけないのか?それは、彼の本質が狂気だからである。
作品の中で、ブルース・ウエインはバットマンを引退している。戦いから解放されて悠々自適かと思いきや、もてあますエネルギーを発散しきれず、次第に自分の中で狂気が膨れ上がることに苦しみ出す。戦士は戦う事でアイデンティティを確立する。彼らから戦いを取り上げれば、存在意義を失ってしまうのだ。古今東西、この宿命からヒーローは逃れられない。
ブルースの中で狂気が芽生え、街の犯罪も多くなっていく。バットマンになるきっかけとなった、良心の殺害事件を思い起こさせるシーンまである。結果、とうとうバットマンに復帰するのだが、この復帰はゴッサムシティのためではなく、己の心を満たしたいがための行為だ。ヒーローの行為が高潔かどうかは受け取る側の問題であり、ヒーロー自身の心の中は実際は誰にもわからない暗部にある。日本のヒーローでもそうだ。登場人物や視聴者である我々は、彼らの行為が平和や自由、正義に繋がるものと信じる。だが、彼らの世界においてのヒーローの心の中が我々の思いと一致するかどうかは誰にもわからない。
バットマンの狂気に呼応するが如く復活するヴィラン達。廃人となっていたジョーカーは狂気を取り戻し、整形手術を受けていたトゥーフェイスは、移植された皮膚の下にあるあの顔をバットマンに見せつけることで、仮面の下に隠されている狂気はお前にもある事を、狂気に捕らわれたバットマンに示す。
世間も、バットマンの自警行為を昔の様には歓迎しない。守られる側がヒーローの存在を認めなければ、ヒーローはただの暴力の実行者であり破壊者に過ぎない。結果的にバットマンは、己の正義とアイデンティティをアメリカに委ねるスーパーマンと戦う事で自分の最期を飾る(一応、互角には戦えるんだよね)。
「ダークナイト ライジング」は、非常にこのコミックの影響が強く出ている。ヒーローはヒーローとして最初からあるのではなく、その行為を受け入れ認めてくれるものがいてこそヒーローたりえる。
スパイダーマンにしても、若き日の過ちによっておじを死なせてしまい、自らが獲得した力に伴う責任を果たすために戦う。それは、放っておけば自分の存在が暴力そのものになり、望まなくても誰かを傷つけ得るものになるからだ。そのせいか、彼の身の回りの人はかなりの確率でトラブルに巻き込まれ、不幸になる。世のために戦う事で責任を果たし、忌まわしい力と運命を振り払っているのだ。
X-MEN達はもっときつい。彼らは人でなくなってしまい、親兄弟からすらその存在を忌み嫌われている。その力と存在の意味を嫌でも問われ続けるのだ。結果、その力は能力を持たない人を守るためにあり、その行為によって存在意義が確立すると言う考えと、ミュータントは進化した存在であり、優生種は人類の場を奪う事で存在を確立すると言う考えに至る。人間社会で生きていくことが困難になったが故に、生きる道を模索すること自体にはどちらも筋が通っている。だが、その間で翻弄される人類にとっては……。
このように、アメコミヒーローは、己の中に潜む狂気、暗黒面、不安、存在意義の不安定さ、世間と自分の正義との差、こういった心の内面と戦う。敵となるヴィランは、それを具現化した合わせ鏡となる。アイデンティティの確立がテーマになるため、それを経験したある一定以上の年齢が要求されるのは当然である。
逆に、日本のヒーローは、自分でアイデンティティを探しているように見えるが、敵によってアイデンティティを規定されるように思える。怪獣や怪人、ロボットの存在と対になるのがヒーローのスタート地点になるため、既に相手から存在意義を固定される。だが、そのままでは永遠に敵の手の内にある。最終回に向けて戦いを繰り返し、積み重ねながら、どうやって与えられた存在意義に向き合い、己のものにしていくのかがテーマになる。
こうなると、ターゲットは親の保護の許で、完全にその影響を受ける反抗期前の年齢層になると言えよう。敵によって存在を規定されるヒーロー、親によって生き方を規定されざるを得ない子供。この立ち位置が子供をヒーローに引きつけるのだ。小学校にあがると卒業していくのは、反抗期から始まる親からの自立を本能的に察知し、ヒーローに学ぶ要素が希薄になるせいだろう。回帰していくのは、過去を振り返る余裕が、自己の確率でできるため。こう考えると、バイキンマンとループする戦いを永遠に続けるアンパンマンが、いつまでも子供から愛され、大人になっても馬鹿にされないのは、大人になるんだという圧力がないせいなのかもしれない。
こう考えると、日本で対象年齢が高めに設定されたヒーローものがうまく行かない理由がうっすらと見えてくる。
大人のヒーローは、自らの心の闇を敵にするのだ。決して、己のアイデンティティを敵に規定されない。大人だからアイデンティティがあるのは当たり前なのだ。現実と折り合わない自分の望みとの軋轢が敵なのだ。その軋轢が作れない限り、円谷さんも東映さんも、「大人を感動させるヒーロー」は生み出せないと思う。こんな作品を作りたいのに作れない、作らせてもらえない。その軋轢にこそ、新たなヒーローの生命の息吹があるはずだ。
小説家になろう 勝手にランキング
+注意+
・特に記載なき場合、掲載されている小説はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
・特に記載なき場合、掲載されている小説の著作権は作者にあります(一部作品除く)
・作者以外の方による小説の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。
この小説はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この小説はケータイ対応です。ケータイかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。
小説の読了時間は毎分500文字を読むと想定した場合の時間です。目安にして下さい。