「中国の旅」について

― 「ウラづけなし」報道の原点 ―
( ⇒ 検証例目次へ直行 )

 朝日連載「中国の旅」の概要はすでに記しました( ⇒  朝日は何をどう報じてきたか )。一部重複しますが、要点を書きとめておきます。
「中国の旅」 「中国の日本軍」  1971(昭和46)年8月から12月まで、本多勝一記者の手になる「中国の旅」は、4部構成で通算約40日間にわたって朝日新聞に掲載されました。
 同時に、朝日新聞社は手持ちの活字媒体、「アサヒグラフ」「週刊朝日」「朝日ジャーナル」 を総動員、日本軍断罪の一大キャンペーンを始めたことはすでに記したとおりです。
山本 七平  朝日連載は「平 頂 山事件」 にはじまり、「万人坑」「南 京 事件」「三 光政策」 とつづきました。また、中国に本多記者と同行取材した古川万太郎記者が「週刊朝日」に「防疫惨殺事件」などを書いています。
 そのいずれもが、読んでいて気持が悪くなったと感想をもらす人もいるくらい、日本軍および民間人が行った残虐非道な行為であふれかえっていました。
 報道時を振り返って、山本 七平 は日本人の反応を「集団ヒステリ−状態」 と形容するほどのすさまじい衝撃だったのです。
 これらは後に単行本、文庫本となり、さらに『中国の旅』の写真版という『中国の日本軍』 (創樹社、1972年)が出版されます。


    1   「 ウラづけ取材ナシ」 報道のさきがけ

 これほど国民に衝撃をあたえた「中国の旅」連載は、まっとうな取材にもとづいた確かな報道だったのでしょうか。とんでもありません。とても報道と呼べるような代物ではなかったのです。ただ日本軍を叩くという1点で、朝日新聞社の目先の利益と中国の利益が合致していたからでしょう。
 私の言いがかりではありません。また、事実に反したことを記しているわけでもありません。当の本多本人が次のとおり書いていることからも判断できます。 「中国の旅」は、

   〈 第1に「中国の視点」を紹介することが目的の「旅」であり、
その意味では「取材」でさえもない。
  第2に事実関係については日本側の証言を求めています。 〉

 というのです。

   (1)   “ 「旅」であって「取材」でさえもない”
 上の記述は、私の「中国の旅」批判に対して本多記者が月刊誌「正論」(1990年9月号)に寄せた反論からの抜粋です。
 こんな読者を愚弄した話があるでしょうか。こんな論法が通用すれば、どんな報道だって是認されてしまいます。
 だからこそ、今や単なる能書きに成り下がってはいるものの、「新聞倫理綱領」(日本新聞協会)には、

〈  新聞は歴史の記録者であり、記者の任務は真実の追究である。
報道は正確かつ公正でなければならず、記者個人の立場や信条に左右されてはならない。・・・。
報道を誤ったときはすみやかに訂正し、正当な理由もなく相手の名誉を傷つけたと判断したときは、
反論の機会を提供するなど、適切な措置を講じる。 〉

 などとうたっているのです。
 「中国の旅」報道とその後にとった本多記者と朝日新聞社の対応は、ことごとくこの倫理綱領に反しています。
 まず、「旅」だから「取材」でさえもない、などというルポに、正確さ・公正さが担保されるわけがありません。書かれた個人はもちろん国家の名誉など、思考のラチ外なのです。
 念のために記しておきますと、単行本『中国の旅』のあとがきに、

〈 1971年の6月から7月にかけて約40日間、
私は中華人民共和国を取材しました 。 〉

 とハッキリ書いています。

   (2)   「 私は代弁しただけ、抗議するなら中国に 」
 次の「事実関係については日本側の証言を求めています」 という釈明ですが、本多記者が証言・反証を紙上で求めたことは確かです。
 ですが、本多記者がしたことといえば、「 事実と違う 」と名乗り出た「事 件」の関係者に、取材をしようとはしませんでした。まっとうな記者ならば、事実を確かめる絶好のチャンスと捉えるでしょう。
 ところが、本多記者は名乗り出た相手に、「 私は代弁しただけ、抗議をするのなら中国にやって」 と突き放したのですから、あきれ返った話です。これで報道の正確さだの、すみやかな訂正など期待すべくもありません。
 朝日新聞社の上層部は、「新聞倫理綱領」や「社内規範」に照らして、本多記者の言について、また記事についてどう判断しているのか国民、読者に向かって説明すべきなのです。

   (3)   「楽な取材だった、 レールは敷かれているし、・・・ 」
 では中国取材の実態はどうだったのでしょう。これについても当人は以下のように書いています。

   〈 本舞台での取材そのものは、ある意味では楽な取材だと言えるでしょう。
 レールは敷かれているし、取材相手はこちらから探さなくてもむこうからそろえてくれる。
 だから問題は、短時間に相手からいかに大量に聞き出すか、しかも正確に聞き出すかと、そういう問題になる 〉

 「中国の旅」はこうしてできあがったのでした。何もつけたす必要はないでしょう。そして、誤りだとする抗議に対し朝日新聞社も本多記者もともに玄関払いをもって応じたのです。このことに間違いはありません。
 ある新聞記者から聞いた話なのですが、「ルポとはこういう風に書くのか」と多くの新聞記者をうならせ、「中国の旅」は「ルポルタージュの手本 」 と考えられていたということでした。


    2   教育現場に深刻な影響が

 「中国の旅」が歴史授業にあたえた影響について、簡単に見ておきます。
 平頂山事件、万人坑、南京虐殺、三光政策の4つとも、「中国の旅」連載後に教科書に登場しました。登場時期はまちまちですが、例の「近隣諸国条項」 (1982年) が検定基準に加えられたことで、いっそう弾みがついたのです。
 教師が生徒指導のために使ういわゆる「虎の巻」があります。分厚いもので、『指導資料』 としたものが多いようです。この『指導資料』をとおして、教師から生徒へと教え込まれるわけです。
 以前、『中国の旅』がどの程度、学校教育に浸透しているのか、中学・高校用の「虎の巻」を調べたことがあります。高校用には多数が顔を出し、中学校用にも何例かが見られました。
 一例をあげますと、三省堂・高校教科書の『指導資料』には、

〈 中国での日本軍の残虐行為は本多勝一著『中国の旅』『中国の日本軍』が必読文献。
とくに後者の写真は良い教材となる 〉

 と書いてあります。
 いかに、教室に入り込んでいるか、わかろうというものです。また、残虐さの際立ったヵ所を引用した『指導資料』は多数あり、日本軍の悪逆さを強調した授業づくりの役割を果たしています。
   一例をあげますと、
 〈・・・ ときにはまた、逮捕した青年たちの両手足首を針金で一つにしばり、高圧線の電線にコウモリのように何人もぶらさげた。電気は停電している。こうしておいて下で火をたき、火あぶりにして殺した。集めておいて工業用の硝酸をぶっかけることもある。
 苦しさに七転八倒した死体の群れは、他人の皮膚と自分の皮膚が入れかわったり、骨と肉が離れたりしていた。『永利亜化学工業』では、日本軍の強制連行に反対した労働者が、その場で腹を断ち割られ、心臓と肝臓を抜きとられた。日本兵はあとで煮て食ったという。 ・・・  〉

 この引用文(上記は一部を抜粋 )は「南京大虐殺」にでてくるのですが、こんなアホな話が事実として教育界では通るのですから、まったく怖ろしい話です。『指導資料』を書いた大学教授ら執筆人、これを真に受ける中学・高校教師、それに異論を出せなかった文部省(文部科学省)、これで生徒の歴史に対するイメージが歪まないわけがありません。こうした教育を受けた生徒もいまや40、50、60代。どんな歴史観、国家観を持っているのか、あるいは関心を示さないのか、気にかかります。
     ( 注 )  教科書には検定がありますが、その「虎の巻」である「指導資料」は、検定の対象外とのことです。ですから、書き放題なのでしょう。

 「三光作戦」など、他の「事 件」の引用例はそれぞれの検証のなかで触れることにしますが、中学校のある社会科教師が次のように報告しています。いかに広範に朝日連載が取り入れられたかが、想像できるというものです。

〈 南京虐殺を教えるとき、教師は本多勝一氏の『中国の旅』のもっとも悲惨な個所を読み上げ、
日本の過去の暗部を「これでもか、これでもか」 とさらしてきた。
そうすることが、2度と過ちを繰り返さない唯一の方法であるかのように 〉


― 2005年 4月 1日より掲載 ―
(2009年 11月29日加筆)

⇒ 検証例目次へ  ⇒ 総目次にもどる