南  京  虐  殺 (7−3)

― 殺害数の大枠を知っておくために(その3) ―

⇒ 「大虐殺派」の主張(その1)

  3  15万人という埋葬遺体数

 次に埋葬された遺体の数について考えます。
 先に記したように、「大虐殺」の内訳を、「集団虐殺」と「個別分散虐殺」の2つに分け、前者が28件・犠牲者19万人 、後者が犠牲者15万人 、合わせて34万人(あるいは30万人)とするのが中国の主張でした。
 とくに、後者の個別分散虐殺では、15万余体 という埋葬遺体数が「 30万人(34万、40万人等)大虐殺 」の最大の根拠だということでした。
 現に、東京裁判の判決はこうでした。
 〈 日本軍が占領してから最初の6週間に南京とその周辺で殺害された一般人と捕虜の総数は、20万以上であったことが示されている。これらの見積りが誇張でないことは、埋葬隊とその他の団体が埋葬した死骸が15万5千に及んだ事実によって証明されている。・・・これらの数字は日本軍によって死体を焼き捨てられたり、揚子江に投げこまれたり、またはその他の方法で処分されたりした人々を計算に入れていないのである。 〉

 埋葬された遺体のほかに、揚子江に流された遺体が多数あったことは間違いのないところです。ですから、ごく常識的に考えて、この埋葬数がおおむね正しいとすれば、10万人、あるいはそれ以上の大虐殺に一段と真実味がでてきます。  ですから「南京大虐殺」を考える場合、この膨大な数の埋葬数が事実かどうかが重要なカギとなります。

   (1)  東京裁判に提出された遺体埋葬の統計
 次の表をご覧ください。
 表が示すように、埋葬にあたったのは、 紅 卍 字 会 崇 善 堂 という2つの慈善団体です。
 とくに、後者の崇善堂は、15万5,389体 のうち、70%以上にあたる 11万2,266体 という大変な数を城外で埋葬したとしています。

紅 卍 字 会 ・ 崇 善 堂 の埋葬遺体数

   紅 卍 字 会   崇  善  堂 合  計
 城 内  城 外  計  城 内  城 外  計

1938年3月
 以前の埋葬
 1、793 36,985 38,778  7,548  ―   7,548 46,326

1938年4月
 以降の埋葬
 ―   4,345  4,345  ―  104,718 104,718 109,063
合 計  1,793 41,330 43、123  7,548 104,718 112,266 155,389

 この表の数字は、東京裁判に検察側証拠として提出されたものです。ここでは合計しか記してありませんが、提出資料は、日付別、埋葬場所、男・女・子供別人数など詳細なもので、とくに紅卍字会のものは細かく記載されています。
 とにかく目につくのは、崇善堂の11万余体という数の多さで、しかも、ほとんどが1938年4月以降 に埋葬されたということでしょう。

   (2)  洞 富雄・元早稲田大学教授の解釈
 この2団体の埋葬について、洞富雄の解釈が『決定版 南京大虐殺』に記されていますので、紅卍字会と崇善堂に分け紹介しますが、その前に1938年4月16日付け「大阪朝日新聞」の「北支版」をお読みください。林田特派員の報告の一部です。
 〈 戦いのあとの南京でまず整理しなければならないものは、敵の遺棄死体であった。濠を埋め、小川に山と重なっている幾万とも知れない死体、これを捨ておくことは、衛生的にいっても人心安定の上からいっても害悪が多い。
 そこで、紅卍会と自治委員会と日本山妙法寺に属するわが僧侶 らが手を握って片づけはじめた。腐敗したのをお題目とともにトラックに乗せ一定の場所に埋葬するのであるが、相当の費用と人力がかかる。
 人の忌む悪臭をついて日一日の作業はつづき、最近までに城内で1793体、城外で3万311体 を片づけた。約1万1千円の入費となっている。苦力も延5、6万人は動いている。しかしなお城外の山かげなどに相当数残っているので、さらに8千円ほど金を出して真夏に入るまでにはなんとか処置を終わる予定である。 〉

 この記事は南京陥落後、約4ヶ月経過した時点のものですので、戦闘も終わり城内はもとより、城外近郊とも落ち着きを取り戻していました。ですから、ここに書かれている遺体数や処置方法などは実態に近いと考えられそうです。
 そして、この埋葬作業は紅卍字会、自治委員会等によって行われたのであって、崇善堂による埋葬作業についてまったく触れられていない という点は注目すべき事柄です。

    ・    紅 卍 字 会
 まず、紅卍字会(こうまんじかい)に関する洞元教授の解釈です。
 〈 右の南京城内外に遺棄されていた死体の埋葬数を一表にまとめれば、次頁(注、上記の表とほぼ同じ)のようになる。
 わたくしは、『大阪朝日新聞』の「北支版」に載っている埋葬数と比較するために、こんどはじめて検察側書証の紅卍字会埋葬報告 を整理してみたのだが、その1793体という城内の埋葬数 が、前者の数字とピッタリ一致しているのにはおどろいた。
 また、城外の遺棄死体埋葬数も、前者が3万311体、後者が3万6985体で、両者の数字にはひどい開きはない。その差数6、674体は、南京市自治委員会や日本山妙法寺の僧侶が埋葬した死体とみてよいのではなかろうか。
 いずれにしても、日中両国資料の示す遺棄死体埋葬数が、このように奇しくも一致していることによって、極東国際軍事裁判に提出されたこの件にかんする書証の信憑性は確証された ものとみてよいであろう。 〉
 
 というわけで、城内の埋葬数1,793体が一致していることなどから、洞・元教授は中国の提出書証は確かなものだと判断しています。

    ・  崇 善 堂
 つづいて、崇善堂についての記述をご覧ください。
 〈 それにしても、崇善堂埋葬隊が、4月9日から5月1日までのわずか23日間に、南京城の南方および東方の近郊で、10万4718体もの遺棄死体を埋葬した件については、だれしもいちおう疑問符をつけたくなる(この埋葬隊が12月28日から4月8日までに城内で7548体を埋葬した件のほうは、じつに詳細な記録で、たしかな証拠といえる) 。
 しかし、数字にやや誇張があるかもしれぬが、これを虚構の資料と断じてはならない
 先に紹介したように、『大阪朝日新聞』の「北支版」の記事は、3月末ころまでに、のべ5、6万人の苦力をつかい、約1万1000円を費やして、3万2140体を埋葬したが(この期間中、別に崇善堂の埋葬隊は7548体を処理している。ほかにも埋葬されたものがあるはずである)、遺棄死体はまだ相当残っているので、さらに8000円ほど出して、「なんとか処置を終はる予定である」といっている。
 8000円といえば、これで、約2万4000の遺棄死体を処理することができる。埋葬ずみのものとあわせて、約5万6000体ということになる。だが、2万4000体といっても、これはおおよその見積りであって、実際に埋葬してみた結果は、10万以上という、おそるべき数字となってあらわれたかもしれないのである。 〉

 洞・元教授の結論は、多少の誇張があるにしても、崇善堂の記録もおおむね正しいということでしょう。毎度顔を出す持って回った表現ながらもです。
 何より、崇善堂が紅卍字会を上回る大規模な埋葬活動をしていたという証拠はもちろん、埋葬作業に従事していたとする証拠は、中国側が提出した埋葬記録がほとんど唯一のもので、ほかに埋葬活動をしていたとする確かな資料は見当たりません。
 にもかかわらず、信頼できるとする自らの結論を補強するためでしょう、予定されている8,000円という金額が2万4,000人分の遺体処理費用に相当し、しかもこの金額等はおおよその見積もりなのだから、10万人以上になるかもしれないとします。
 ですが、おおよその見積もりがゆえに、2万4000体どころか、実際はずっと少ないとも考えられますから、よほど中国側資料に傾斜しないかぎりこう言えるはずもありません。
 洞元教授がこの本を書いた当時(1982年)、崇善堂が埋葬作業に従事していたとする資料はありませんでした(今もです)。ただ、埋葬活動に従事していなかったとも証明されておりませんでした。証明されるのは、数年後のことです。
 ですから、中国提出の崇善堂の記録を「信憑性は確証されたものとみてよい」とは、歴史家なら口に出来るはずもないのです。ただただ、盲目的に中国にのめり込んだためなのでしょう。

   (3)  埋葬統計はデッチ上げ
 崇善堂の上表の数字に補足しておきますと、
  城内の7,548体 は、12月26日から翌年4月8日までの104日間に埋葬され、
  城外の10万4,718体 は、4月9日から5月1日まで、つまり23日間 に埋葬されたという点です。
 1938年4月以降の紅卍字会の埋葬数は城外の4,345体のみですから(城内はナシ)、4月以降のほぼ全部が崇善堂の手によって行われたことになります。しかも23日間という短期日ですから、現地労働者を多数動員したにちがいなく、少なくとも紅卍字会と同等以上の資料が残っていておかしくありません。
 ところが、崇善堂の埋葬作業に関する資料といえば、中国側提出の資料(「崇善堂埋葬隊埋葬死体数統計表」など)にほぼ限られています。そして埋葬隊の規模について、第1隊〜第4隊の4個分隊、1分隊に主任1人、隊員1人、人夫が10人とありますから、合わせて50人程度となります。これだけの人数で、23日の間に10万体以上の死体を埋葬したというのもおかしな話です。
 ( こう書きますと、人夫を大量に雇っていたかもしれないではないか、などという“反論”が出てきます。雇っていたという証拠があれば別ですが、証拠もないのにこうも考えれれるというのでは、際限がありません。)
 崇善堂が、事実これだけの活動をしていたのならば、南京在住の欧米人の書いた日記類、あるいは日本側の資料(新聞、手記類、証言等)があるはずです。紅卍字会については、ヴォートリン日記、あるいはラーベの記録などいろいろとあるのですから。
 となれば、日本側の証言なり資料なりで事実関係を確認したくなりますが、日本側は埋葬作業にタッチしていなかったのでしょうか。そんなことはありませんでした。

   (4)  丸山 進・南京特務機関員の証言

  @  南京特務機関と紅卍字会
 日本側は南京特務機関を通して埋葬作業に深く関わっていたのです。埋葬事情にもっとも通暁している一人 と考えられる丸山 進 ・元南京特務機関員の証言があります。
南京特務機関・丸山 進   丸山進は満鉄まんてつ(日本の国策会社であった南満州鉄道の略称)の上海事務所で中支(華中)の農業調査を担当していましたが、南京陥落ほぼ半月後の1937年12月28日、南京特務機関の要請によって南京入りしました。
 この時の機関長は佐方繁樹少佐、丸山ら満鉄からの派遣組6人が補佐役、総勢約30人、機関長以外は全員民間人だったといいます。
 特務機関というと、よからぬ謀略を専らとする軍人集団と思いがちですが、このように民間人が主体でしたし、南京市政の復興を目的にしていました。南京到着後、城内をくまなく見て回ったが、死体はゆう江門のあたりで少し見た程度であったといいます。
 1938(昭和13)年1月中旬ころになると、遺棄死体は環境衛生面から最大の問題となり、その解決は特務機関にゆだねられることになりました。しかし、埋葬するためには膨大な人手と経費がかかります。ですが、日本軍は1個師団の警備隊を残し、他はほとんど他方面に移動していたため、力にはなり得ませんでした。
 そこで、特務機関長は一種の行政機構の役割を持つ自治委員会の役員を招集し、協議の結果、大きな組織を持つ紅卍字会が埋葬作業を行うことになりました。というのも、自治委員会は埋葬作業にあたれるような人員を持ち合わせていなかったこと、また自治委員会長・陶 錫山は同時に紅卍字会の南京支部長であったこと、国際委員会からの援助で一部、埋葬作業が紅卍字会の手で始まっていたことなどが理由と丸山進は説明しています。
 作業にかかる費用は日本側が負担、国際委員会とは違って出来高払いとし、一体につき3角 (30銭)支払うこととしました。丸山進は埋葬場所を指定、3月15日頃の終了をメドに2月初めから作業を本格化させたのでした。
 なお、国際委員会の方はといえば、人夫127名を常雇い、50日間分の費用として4,250元(円)を紅卍字会に支払いましたが、延べ6,000人程度では、とうてい遺体処理のできる人員ではなかったとしています。

  A  埋 葬 作 業
 ともあれ、こうして埋葬作業が始まりました。実際の作業は周辺の農民が当たったといいます。というのも、城内の安全区にいる人は食うや食わずの食糧事情のため重労働ができず、また穴を掘る作業は鍬(くわ)などが必要で、これらの道具を持つ農民に向いていたからです。
 紅卍字会は2月1日から作業を始め、作業の進みぐあいは、紅卍字会が日報を作成、自治委員会に報告します。1日の処理数は多くても200体、平均すれば180体位が紅卍字会の能力で、2月末までに約5,000体を埋葬した と丸山は説明します。2月1日の作業開始日、1日の遺体処理能力が200体というのは、前述のラーベ日記の記述と一致しています。
   しかし、こんなペースではだめではないかということで、3月から人夫を増員、昼夜なしの作業を紅卍字会に勧め、成績があがれば1体あたり3角(30銭)の割り増し を支払うことにしたといいます。
 その結果、作業のメドをつけるとした目標の3月15日までに、3万1,791体を埋葬したとの報告を紅卍字会から受けたのでした。
朝日新聞「南京特務機関資料」発見  丸山は紅卍字会から得た埋葬実績等の日報を作成、これを月報にしたうえで特務機関の上部に上げ、出身元である満鉄上海事務所に送っていました。この報告書のことでしょう、朝日新聞(1994年5月10日付け、左写真)は、「南京特務機関報告」 が遼寧省資料館で発見され、歴史研究誌「民国档案」に掲載されたと報じました。
 この「南京特務機関報告」によれば、2月末までの埋葬数は5,000体、3月15日までが城内1,793体、城外2万9,998体、合計3万1,791体となっています。
 この埋葬数には、「明らかに水増しがある」 と丸山は言います。
 というのは、2月末で5,000体、3月15日に3万1,000余体というのですから、15日間の間に2万6,000余体を埋葬したことになります。ですから、1日あたり1,700余体を処理した勘定になるわけです。
 ところが、「私が知るかぎり、1日当たりの埋葬数はどう多く見ても600から800。それが、マキシマムであった」と丸山は言い、かなりの水増しがあるとしています。
 この数字がほぼ正確なものとして換算すれば、1日800体、15日間ですからマキシマム1万2,000体(1日600体なら9,000体)、したがって水増し分は1万4,000体(同1万7,000体)以上になりますから、倍以上に膨れ上がった わけです。
 丸山は「当時から、このことに気づいていました」とし、水増しに文句を言えばその後の埋葬作業がだめになるので、この数字にもとづいて、1万1,000円を自治委員会を通して紅卍字会に支払ったとしています。
   出来高払いのもと、作業量の水増しが相当あったであろうことは、ごく常識的に理解できることです。
 自治委員会に支払ったという1万1,000円は、先に引用した朝日新聞「北支版」の数字と一致しています。となると、一体当たり約60銭〜80銭〈 ⇒ 11,000円 ÷(5,000体+12,000体または5,000+9,000体)〉にあたり、洞富雄元教授の3角(30銭)で埋葬数を推算するのは、この点からだけでも成立しないことが分かります。
 また、東京裁判に提出された紅卍字会の埋葬数合計(上表の4万3,123体)についても、提出段階でも数字の作り替えがあったと自らの経験を通して丸山進は説明しています。

  B  崇 善 堂 に つ い て
 崇善堂というのは小さな団体で、当時はほとんど活動していなかった とし、活動を始めたのは「たぶん6月頃」からだと思うと丸山は言います。
 その活動の内容はというと、粥を施す(施粥)といった慈善活動であって、独自に埋葬作業をする力はなかったとしています。紅卍字会の下請けとして2,3やったかもしれないがとしています。
〈 本多勝一の『南京への道』 のなかで、崇善堂の連中が3人1組で埋葬作業をやったと言っています。しかし、3人1組で何ができま」すか。 〉と言い、人夫1人が1日に埋葬できる目安は1.2〜1.3体。作業は1つの場所で100人といった人数が共同作業をし、その結果が120体とか130体になるのだと説明しています。
 だから、崇善堂の11万余体の埋葬作業には延べ9万人が必要となり、3人1組でやったとすれば3万組。「崇善堂にそんな力があるとはとても思えません」と強調します。  この丸山証言と崇善堂が埋葬作業に加わったとする他資料がないことを合わせ考えれば、結論は自明と思います。つまり、崇善堂の埋葬に関するものはデッチ上げであったことを。
 
  C  丸山特務機関員のその後
 丸山は1938年12月、南京で徴兵検査を受け、翌1月、久留米48連隊に入営するため故郷に帰ります。つまり、南京に1年いたことになります。
 この間、「私は宣撫班員として南京市政復興のために陰の人となって知力の限りを盡して南京市民と共に歩いたつもりである。だから、南京市に関する限り裏の裏まで知悉(ちしつ)していたつもりである。」と語っています。


  「 補 記 」
 この項は、月刊誌「明日への選択」(1998年12月号)の掲載記事、〈 特務機関員が見た陥落後の「南京」 〉ほかを参照いたしました。
 この掲載記事は、中村 粲・元独協大学教授が丸山進にインタビューした4時間のビデオテープから、同誌編集部が活字に起こしたものを中心としています。また、中村元教授主宰の昭和史研究所発行の「昭和史研究所會報」第17,18号(1998年発行)にも、〈 特務機関員の見た「南京」〉として報告されています。


  4  「南京暴行報告」を集計すると( 一 部 再 掲 )

 既述( ⇒ 6−1) したとおり、「南京暴行報告」は安全区国際委員会が安全区(難民区)における日本軍の暴行を日本大使館、日本軍に抗議した公式文書です。現存する文書は444件のうち405件(39件欠)で、下表が冨澤繁信による集計です。
 参考のため、ラーベ日記、ヴォートリン日記の集計も冨澤の著作『南京事件の核心』より加えました。

事 件 別 集 計
出典 殺 人  強 姦  拉 致  掠 奪  放 火  傷 害 侵入ほか

暴 行
報 告 
52人
(26件)
175件43件131件5件39件98件

ラーベ
日 記
23件11件8件17件15件9件17件

ヴォート
リン
日 記
14件10件28件24件5件5件24件

 城内の住民のほとんどは、日本軍の入城前に安全区内に避難していました。ですから、殺人26件52人強姦175件 等の数値は、ほぼ城内のものと考えられます。それにこの1件1件の報告(抗議)は、現地住民の申し立てるままに記録した事情がありますので、これら殺人、強姦等の数字は各々の上限を示していることになるでしょう。

  5  誇大な “ 戦 果 ”

 当時の新聞記事に出てくる「戦果」はいうまでもないことですが、日本軍の公式記録である「戦闘詳報」などは、しばしば実態とかけ離れた誇大なものであったことは、今日よく知られているところです。しかも、誇大な戦果は1部隊の1時期にたまたま起こったというものではなく、いわば慣例化したものでした。
 また、従軍した将兵の記した個人の日記、証言等に出てくる「戦果」もまた、故意ではないものの誇大になる傾向は確かにありました。
     (1)  誇大な戦果の例
 では、どの程度、戦果は誇大になるのでしょう。ここに好例がありますので、ご覧にいれます。
 すでに記した「上河鎮、新河鎮一帯」 ⇒ 4 )の戦闘がこの例で、共産中国が「1937年12月、南京の陥落後、国民党の敗残兵と各方面から逃げて来た難民が、上新河地区で日本軍の追撃にあって虐殺された」とし、「上新河一帯の大虐殺」として非難しているものです。
 国民政府の機関・南京地方法院が調査した報告書「敵人罪行調査報告」が、2,873人 の犠牲者としていたものが、中国共産党傘下の政治協商会議・南京市委員会の報告になると、文字どおり10倍増の28,730人 となっていたあの「大虐殺」です。

    上河鎮、新河鎮付近の略図 「上河鎮、新河鎮付近略図」
 この戦闘は、城内を脱出し、下関(シャーカン)方面から南下してきた中国軍(左図の朱線)と、脱出を見越し、退路を遮断するために進軍した日本軍(第6師団・鹿児島45連隊第3大隊)とが、上河鎮、新河鎮付近でぶつかり、戦いとなったものです。
 「4万程の敵 に包囲された」(第11中隊・福元続上等兵の「陣中日記」)という数の上で圧倒する中国軍に対し、日本軍は第3大隊の2個中隊(第11、12中隊)という少ない兵力を中心に戦うこと4時間、中隊長以下16名が戦死するなど大きな損害を出しながら敵を敗走させました。
 敵の死者は、「 6,000人余は有り との事だったから、足の踏み場もなかった」と福元上等兵は日記に記し、この光景を目撃した高橋義彦中尉(独立山砲2連隊)は、「死体は枕木を敷きつめたように泥濘地帯を埋め」 と表現します。
 谷 寿夫 第6師団長はこの模様を「河岸一面死体を以て覆われたる状況」と記し、報告を受けた遺棄死体数(6000人余り?)は過小と判断したのでしょう、遺棄死体数の調査を命じます。そこで、1個小隊が現場に行って数えたところ、2,377人 (福元日記ほか)だったというのです。
 遺棄死体数(戦果)がもっと多いはずとの判断のもとで再調査をしたわけですが、実数は多いどころかずっと少なかったわけです。このように実数を確かめたという例は大変に珍しいといってよいでしょう。6千人余りと見られたものが、実際には2,377人であったのですから、3倍近い戦果に膨らんでいたことになります。
 それも、意図的に水増しした報告というより、戦った将兵が見た遺棄死体数は、実数よりはるかに多く見えるということを現わしているのでしょう。

   (2)  3倍程度と「慣例化」 ?
 1941(昭和16)年、第11軍司令官(支那派遣軍)であった阿南惟幾中将の日記に「戦果に関する数字は慣例に従って3倍に計上した」(『南京戦史』)との記述があるとのことです。
 私も何人かから、『戦闘詳報』に現れる数字の水増しは、将兵の間では常識であったと聞いていますし、「3倍くらいかな」と功績担当の下士官から聞いたことがあります。
 戦場での手柄争いは洋の東西を問わず見られる現象です。勝ち戦であった南京攻略戦ではその傾向がより顕著といってよいはずです。
 各師団、連隊の地元からは地元紙の記者が郷土部隊の活躍ぶりを追って従軍、武勇伝、手柄話を求めて競って報じました。
 進級者の割り当て数は、結局、手柄を多く立てた部隊が有利に扱われるのはまあ、当然のことでしょう。また、金鵄勲章はあこがれの的だったし、感状の授与も小中隊長、大隊長、連隊長、さらにその上級者にとっても、出世を望む以上、例え水増しされた戦果であっても、拒む理由はなかったに違いありません。
 ですから、「3倍に膨れた戦果」は、日本軍の暗黙の了解のもとに、末端まで慣例化していたに違いありません。


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