木村光明・憲兵大尉「供述書」

― 沈黙をまもったままの半生 ―



 1956(昭和31)年、約6年の収容所生活を経た後、中国共産党による軍事法廷が開かれ、45人が起訴されたことはすでに記したとおりです(残る約1000人は起訴猶予)。
 また最近(1998年)になって、45人分の「供述書」が、抑留者が組織する「中帰連」に近い報道写真家の手によって、朝日新聞社、共同通信社 に持ち込まれたことも記しました。
 鈴木啓久・第117師団長、古海忠之・満州国国務院総務庁次長ら8人の「供述書」が、岩波が発行する月刊誌「世界」に公表されましたが(後に単行本に)、残る37人の「供述書」を見る機会がありません。
 なにせ、中国のお眼鏡にかなった経路を通って日本国内に持ち込まれるのですから、私たちの目に入るのは「供述は信用できる」 などと注釈がついたものがほとんどになってしまいます。ですから、私のような立場の人間が、「供述書」の原文を読んで、検証する機会はごく限られてくるのです。
 もう検証は技術的に難しくなっていると思います。朝日新聞社や共同通信社がこれら45人分の「供述書」を握ったままで終わるのか、あるいは何かのキッカケでまたぞろ顔をだすのか分かりませんが、なんともおかしな話です。
 今回の木村 光明少佐 (終戦時、関東軍第3特別警備隊付き)はその37人の1人で、禁固15年の刑を言い渡されました。大分前のことですが、「供述書」の一部を知る機会があり、調べたことがあります。その結果を含めてここにお知らせいたします。



    1    木村光明憲兵大尉の「供述」

 木村大尉の供述は、『もうひとつの三光作戦』 (姫田 光義中央大学教授、陳 平共著、青木書店、1989年)によって知りました。この供述は「外国人に公開されていない」ものだそうですが、陳平が取りよせたといいます。
「もうひとつの三光作戦」  巻末の著者履歴によれば、陳 平は小学校教師、八路軍兵士、新華社(中国国営通信)の記者などを経て、退職後は「無人区」 の研究をライフワ−クにしているとのことです。たしか、どこかの大学の教授にもなったはずです。
 日中共同研究の成果だとするこの本の題名の「もうひとつの三光作戦」というのは、この「無人区」を指したものです。そして、「日本軍による中国人皆殺し作戦」 だとする「無人区」が、本の刊行とともに日本の歴史教科書(高校用)に記述が現われ、またこの本が生徒の「参考図書」として推薦されるという早業でした。
 この本の前半(第1部)は姫田教授が書き下ろし、後半(第2部)は陳平による「無人区」についての報告という構成になっています。
 第1部を検証すれば、おのずと第2部の評価は定まりますので、第1部を検討対象とすることにします。

    (1)    無辜の民14万人犠牲
 ここに書かれた日本軍の蛮行はおおむね次の2点に集約されます。
   @  承徳に駐留する憲兵隊の蛮行により、犠牲者4万6000人の万人坑ができた。
   A  熱河省興隆県では日本軍の「無人区化政策」により8万人の殺戮が行われ、県の人口が半減してしまった。

 上の結果、承徳および興隆県一帯で、

 〈 少なくとも12万人以上は確実に日本軍の手で殺されているという結論を出しても大過ないと考える。
この数字はほとんどが非戦闘員の無辜の民である。
そして半ば以上が「無人区」化の犠牲者である。この数字自体に私はショックを隠せなかったのである。 〉

 と著者、姫田教授は結論づけています。
 承徳、興隆県ともに熱河省(ねつかしょう)、つまり満州国 に入りますが、「無人区」問題については、北支(華北)側についても検証が必要です。このため、A の興隆県の「無人区」については、北支の分とあわせて別項の「無住地帯」(=無人区)で報告してありますので、ご参照ください。
 @の承徳憲兵隊による46000人の犠牲者について、その証拠資料として木村憲兵大尉の供述  「総合意見書」 が引き合いにでてきます。「総合意見書」というのは中国側検察官の取り調べ結果を文書化し(したがって中国語)、被告が認罪のうえ署名するもので、「供述書」は通常、被告自身が書いた自筆のものです(したがって日本語)。被告一人について「供述書」「総合意見書」の双方があることはそれほど珍しくないようです。

    (2)    木村大尉の供述
 まず、木村大尉の「総合意見書」の見出し4項目すべてと、初めの2項目の内容を同書から引用することにします。

  @  わが抗日の志士および平和的な居民を大量に逮捕・虐殺することを計画し命令し、かつ直接指揮した罪
 〈 該犯は1941年8月から1944年10月までのあいだ、麾下の部下を指揮してわが熱河省の承徳県、青龍県、・・および河北省密雲県、遷安県等の地方の村や鎮において、幹部と平和的住民2881名を逮捕し、これらの人々に対してさまざまなファシスト的獣行を加えて訊問し、殴打、つるし上げ、水漬け、ガソリン漬け、電気ショックなど酷刑を使い、こうした拷問によって1100余人を殺害、・・・。・・承徳憲兵分隊が 承徳西郊の水 泉 溝 で1度に殺したのが100余人あり、さらに残忍なことに、・・捕らわれたその場で、日本侵略者により両眼と心臓とを抉り取られて死んだ。・・  〉

  A  無人地区会議に参与計画し、部下に命令して殺・焼・略奪の三光政策を遂行した罪
 〈 該犯は1943年6月、特高課長の身分をもって西南防衛軍の植山大佐が召集した無人区設置会議に参加、会議は熱河省の国境地地区に集家併村 を実施することに決定した。・・・
 青龍県九虎嶺の石桂子、・・・などの村の統計集家併村にさいして殺害されたり、病死・餓死した村の幹部・一般民衆は300余人にのぼる。そのうち、47戸は一家皆殺しになり、焼き払われた住居は600余間、破壊された住居200余間、300略奪された家畜は100余頭、羊300余匹、豚150匹にのぼった。・・ 〉 ⇒ 別項 「無住地帯」を参照ください。

  B  政治・軍事情報工作にたずさわり、日本侵略者が人民を鎮圧・虐殺するのに便を供した罪  ( 略 )
  C  わが国の平和的住民を奴隷的に使役し、朝鮮・日本の革命的志士を逮捕、鎮圧した罪  ( 略 )

 これとは別に、木村「供述書」のなかで、〈 承徳「2・1惨案」 〉による罪が告白されています。これについても日本側関係者から証言を得ておりますので、後述いたします。



    2    承徳憲兵隊と水泉溝万人坑

    (1)    承 徳 と 水 泉 溝
 承徳は熱河省の省都で人口約7万人の中都市でした。また清朝時代の離宮としても有名なところです。
承徳市地図  別天地の離宮内を除けば樹木は少なく、四周は赤茶け、荒涼とした山岳地帯だったといいます。中国は樹木を伐採し、禿山にしたのは日本人だというのですが。
 左地図は戦後の承徳市街図の一部ですが、ほぼ中央の卵形が離宮で、その東(右)側と南側に鉄道が敷かれています。
 また北側を東西に、西側を南北に道路(水泉溝道路)が走り、この道路の交差するあたり(地図では左上隅)が水 泉 溝で、ここに犠牲者4万6000人 の万人坑ができたというのです。
 もっとも水泉溝という地名を知っている日本人には出会えませんでしたので、あくまで地図上での話です。
 また、離宮の南側が日本人の多くが住む市街地で、東側の鉄道と離宮との間に流れているのが武烈川です。


    (2)    承 徳 憲 兵 隊
 憲兵隊について略記しますと、満州国の首都・新京にある憲兵隊司令部の下に18の本部が設置されていて、承徳にはそのうちの一つ、承徳憲兵隊本部 とその配下である分隊が武烈川沿いに置かれていました。
承徳憲兵隊  左写真は1943(昭和18)年8月撮影の「承徳憲兵隊本部・分隊」で、前列中央が安藤隊長、左隣りが(向かって左から5人目)が木村光明大尉です。木村大尉は東京帝大出身で温厚な性格だったと聞いています。
 前から2列目、右から2人目の女性(黒メガネ)は、確認できていませんが、後述する「2・1工作」のために日本側が送り込んだ密偵(現地人)という話でした。
 人員は本部、分隊合わせて数十人規模、分隊は15、6名程度でした。終戦の10日ほど前から憲兵隊、特務機関を主力に特別警備隊の編成が開始され、承徳にも第6特別警備隊が置かれましたが、形ばかりで終戦を迎えることになったのです。
 承徳憲兵隊の在籍者で「承憲会」が組織され、私が調べはじめた平成3年当時で、会員は夫人を含め100人程度でした。それでも年に数回のペースで機関紙「承憲会だより」を発行していました。
 『もうひとつの三光作戦』は会で問題となり、その概要が機関紙に掲載されていたこともあって、多くの会員はその内容を知っていました。承徳憲兵隊を肌で知る西澤 稔(故人。終戦時、憲兵准尉)は事態を憂慮し、調査にあたって惜しみのない援助をいただきましたので、お名前を記して感謝の意を表します。
 西澤は死体放置場など見たことはなく、水泉溝という地名も初めて知ったというのです。
 「承憲会」の年次会合にでるなどして、話を直接聞き、あるいは電話、手紙を通して30人以上から回答を得ました。もちろん、資料にもあたりました。



    3    日本側の反論

    (1)   憲兵隊員の反論から
 木村大尉の部下として、夫人とともに承徳で終戦を迎え、ウランバートルで抑留生活を送った野崎 展弘 (承徳憲兵隊、憲兵曹長)は、
     「水泉溝万人坑事件は全くの事実無根、何の根拠もありません。私は約3年位憲兵隊本部に在隊し、八路軍関係の業務に携わりましたが、それに類似する事実はありません」 

 と回答。1942(昭和17)年1月から終戦直前まで在隊した宮原 二郎(同、憲兵准尉)は、

 〈 中国旅行をして中国人から根も葉も無い事を聞き出して、
又何か小さな事を針小棒大に取り扱って印刷物を作製して、状況を知らない人達、
特に経験の乏しい子供に悪い印象を与えている事に、憤懣やる方ないものがあります 〉
 〈 憲兵隊在任中に中国人に対する殺傷事件等、一件たりとも起きた事も聴いた事もない 〉

 

 と回答を寄せてきました。
 また、柴田 富士雄 (同、憲兵曹長)も、「承徳隊に8年居りましたが、憲兵隊の現地人虐殺など聞いたことがありません」と同様の回答でした。
 そして、回答者は水泉溝という地名を知らないし、この付近は乾河のあったところで、人家や樹木はほとんどなく、憲兵も通り道としてたまに利用する程度だったといいます。そして、遺体の集積現場など見たことがないといいます。
 ただ、次の証言がありました。
 1934(昭和9)年4月から終戦の年の7月まで、つまり11年以上にわたって承徳憲兵隊に在隊した山田 恒雄 (同、憲兵准尉)は、1934年頃、乗馬巡察中に風雨にさらされて散らばっている程度の「人骨のあったのを現認」したといいます。近くの古老に通訳を通じて聞いたところ、「洪水の度に土が流され、白骨体が残った」 と聞かされたというのです。そして、水泉溝の話を聞いたとき、ここの話ではないかと思ったと回答を寄せてきました。

 次の資料が参考になるかもしれません。
「赤い夕日の果てに」  満州電電の承徳管理局長で終戦を迎えた久保 昇 は、『赤い夕日の果てに』(出版東京、1965年)の中で次のように書いています。
  〈 熱河の乾河は晴天の時は道路と変わりはないが、また、広場の役もするが、大雨があると濁流の大河に一変する。荒地と禿山の水は一気に乾河に流れ込むから、上流地方に降雨があると、下流は晴天でも不意の洪水に襲われるのである。だから、乾河を歩いている人も牛馬も、アッという間に流されてしまうことがある。路を歩くにも、しじゅうビクビクしながら歩かなければならない。 〉

 前述の西澤 稔もほぼ同じ話をしてくれ、承徳市街を流れる武烈川にロバが流されているのを見たことがあると聞かせてくれました。ですから、掘って人骨が出たからといって、また中国側にそう説明されたからといって、日本軍の殺害現場だと思う方がおかしいのです。
 あれもこれも原因は一つ、日本側から話を聞こうとしない、裏づけを取ろうとしないから 、こういう類の話まで信じてしまうのです。
  
    (2)   民間人の反論から
 終戦時、承徳には独歩第13大隊を基幹に編成された第240連隊(連隊長、中村赳大佐)が駐留していました。独歩13大隊および240連隊第1大隊の戦友会に出席し、承徳在住経験のある民間人からも話を聞くことができました。
 細部は省きますが、240連隊第1大隊 は興隆に駐留、終戦直前に承徳に集結せよとの連隊本部の命に背き、民間人とともに約1000人が北京に脱出した経緯があり(第2、第3大隊、本部などは外蒙古に抑留)、このため女性を中心とする民間人多数が戦友会に集うのです。
 民間人の幾人かは憲兵が威張っていたといい、批判的な言葉を投げかけましたが、こと「虐殺」の話になると、「噂にも聞いたことはないし、そのようなことはなかった」 というのです。そして、水泉溝なる地名は聞いた事がないと異口同音に答えます。
 武田 澄子、横淵 静江 のご両人は終戦直前の1945(昭和20)年8月13日、子供を連れて承徳を列車で脱出しました。武田は教員であったご主人と2年、横淵は国際運輸に務めていた夫と5年、承徳に在住していました。
 「承徳は平穏な街でした」 と2人は話し、現地住民を憲兵や日本軍が殺害したような話を耳にしたことはない、と言い切りました。

    (3)   さらに関係者の反論から

    ・  春日 行雄軍医
 私が東京の春日の自宅でお目にかかったとき、春日は現役の医師として活躍中で、また「日本モンゴル協会」の理事長でもありました。
 春日はハルビンにある満州国軍の軍医学校を卒業。1945(昭和20)年4月、承徳の満州国軍病院に赴任しています。春日宅で私の質問に答えてくれた後、「私は信用を重んじるので」 と言い、承徳に関連する部分を原稿段階で見せるように要求してきました。後日、私の送った原稿を見て、「完膚なきまで反論されています」と感想を書いたうえ、

 〈 私は短期間ながら20年4月から8月まで、
満州国軍の軍事部病院の中で現地人(漢人)の軍医、司薬官、衛生軍官(将校)、衛生兵
および患者と起居を共にしていながら、その事実を見聞しておりません 〉

 と書き、水泉溝万人坑の存在にあらためて否定的な見解を表明してきました。

    ・  小林 多美男特命少佐
 数奇な運命をたどった小林多美男について書き加えておきます。
 小林多美雄は東満州の牡丹江(ぼたんこう)憲兵隊から、終戦のわずか1週間前に承徳特別警備隊に転属してきました。階級はといえば憲兵曹長 でした。終戦のただ中にあって、小林は終始、戦後処理に主導的な役割を果たさなければならない運命に置かれたのです。常識的には階級が曹長、承徳在住わずか1週間では、佐官クラスの将校を尻目に、馬上で指揮をとるなど考えられないことです。
「忘れられた墓標」  しかし、ロシア語に堪能だったことなどから、中村連隊長(240連隊)からの要請をうけ、特命少佐 としてソ連側と交渉することになったのです。軍関係者、男性居留民は強制労働への道を歩むのですが、小林特命少佐の粘り強い交渉で、女性、子供は故国へと向かうことができました。
 承徳から、いわゆる「中国残留孤児」が出なかったというのも、ひとえに小林の身を挺した努力に負うところが多いと、同じ抑留者として苦労を共にした春日行雄軍医も話していました。
 物語風に自らの半生を描いた著作『忘れられた墓標』 (人間の科学社、1985)に詳しく記されています。
「文藝春秋」  小林多美男特命少佐を引き合いに出したのは、中村大佐以下、佐官クラスの将校は武装解除の後、ソ連軍によって承徳監獄に収容されるのですが、現地人虐殺の容疑で処刑されたり、逮捕された例はなかったことを言いたかったためです。収容者の中には、稲見 定一憲兵少佐 小林 元彦憲兵少佐 も含まれていたにもかかわらずにです。
 「46000人殺害」 に少しの真実でも含まれていれば、収容者が無事にすむわけがありません。
 現に、この監獄に収監されていた元八路軍の捕虜がソ連軍将校と首実検に来る場面が描かれていますが、「看守」を連行するためだったのです。水泉溝だの万人坑といった言葉はもちろん、それらしきことはどこにもでてきません。
 左の写真は1988年4月号の「文藝春秋」ですが、ソ連軍によって取り上げられた小林多美男の軍刀が、ある日、ソ連大使館から返還したいとの連絡があり、軍刀にまつわる思い出を小林自身が記したものです。ご参考までに。

   承徳憲兵隊が長かった佐藤 謙吉(終戦時、軍曹)の書く次の回答がほぼ実態を表しているのでしょう。

 〈 満州国はまがりなりにも法治国家であって、逮捕者を勝手に処分することは許されていなかった。逮捕者を取り調べ、犯罪者と認定した場合は、すべて法院(注、裁判所)に送致する決まりになっていて、そのように教育も受けていた。
 取り調べの後、罪状軽微の者は釈放し、罪状明白な者でも改悛の情があり憲兵に協力を誓う者は釈放するようにしていた。だから、大物のみを送致していた。治安維持対策、宣撫工作による民心安定が職務であって、虐殺などすれば住民を敵に回してしまい逆効果である。中には血気にはやるなど、取り調べ中に拷問を加える隊員もいたことまで否定し得ない。〉



    4    「 2 ・ 1 惨 案 」

 要点のみ記述します。
 1943(昭和18)年2月1日、木村憲兵大尉率いる憲兵隊、警察隊などが、県下11ヵ村の一斉手入れを行います。
 結果は、243人殺害、376人が監獄送りとなり、そのうち28人が「万人坑のある水泉溝」で処刑された・・・というのが、「木村供述書」に書かれている「2・1惨案」です。
 この件について、日本側に「2・1工作」として短いながら記録があります。書き残したのは、木村大尉の部下としてこの工作に参加した月野 俊雄 (同、憲兵曹長)でした。
 月野の記述によれば、「特高課長木村大尉は、誘致した中共工作員、呉某の自白と文献の解明により、・・抗日救国会の全貌を把握」 して検挙計画を立て、検挙日を2月1日とします。
 補助憲兵など50人の応援を得て、

 〈 武装工作員、救国幹部等数百名を検挙した。応援憲兵を動員し、取調べを開始、
1ヶ月余りを費やして主要人物数十名を暫行懲治叛徒法で事件送致し他は釈放した 〉

 というのが記述内容です。
 この記録は1985年発行の『思い出の記 熱河』にでてきますので、姫田教授の『もうひとつの三光作戦』の発行より前ということになりますから、教授への反論のために書いたものではありません。
 幸い、月野元曹長は健在でしたので連絡がとれ、次の回答を得ております。
 検挙地区は八路軍の遊動地区だが、
 「その日は(八路軍と)遭遇することなく、戦闘せず、死傷者もありませでした」「住民を殺害すれば住民に恐れられて民心は離反し、任務の遂行は不可能であります」「私は三光作戦がいかなるものか知りません。・・木村課長は集家併村の実施を命令したと書いてありますが、私はそんな命令を受けた事もなければ、聞いた事もないし、また、国境地帯の集家併村はいつの間にか私共の知らない内に出来上がって居りました。・・・」
 等々、書き送ってくれました。
 日にちが特定されていないので断言はできないのですが、山浦 重三 (承徳分院の審判官)の記録によれば、昭和18年頃、承徳県下で76人が検挙されたことが書かれています。その要旨を記した『満洲国史』は、厳重処分を要求する軍と満州国政府、協和会との間で意見が分かれるものの、結局、暫行懲治叛徒法の宣告猶予制度(13条)を適用し、全員釈放したとあります。

 この項は、小著『[朝日に貶められた現代史』に詳述してあります。


― 2005年 6月 8日より掲載 ―
(2008年4月18日、写真等追加)



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