― この残虐行為を信じる日本人学者 ―
膨大な殺傷数もさることながら、殺傷の過程で起こったとされる「加害の質」 は、われわれ日本人はもとより、とくに欧米人の日本観に決定的ダメージを与えたものと思います。
これら加害の質は時代を考慮してなお、まともな人間の行為とは思えない残忍性、残虐性を帯びていて、こうした所業は当時の日本人が遅れた民族であったという解釈を踏み越えて、本来持つ特性として日本人の残虐性が認知されていると思うからです。
ですが、これらのほとんどあるいは多くが根も葉もない作り話であると思いますし、このことは証明されているはずなのですが、一向に改まる気配はなく、むしろ固定化されつつあるのが現状でしょう。
なぜこうなったのか。一言で言えば、根も葉もない話を事実であるとしてメディアは競うように報じ、またこれに歴史学者、教育界が飛びついたからです。彼らの目がいかに曇っているか、また日本(軍)を断罪することで、自らが良識ある人間だと位置づけることによって、そこに密かな快感を持つからなのでしょうか。
以下、日本人の所業とされた残虐行為をご覧ください。
(1) 高校歴史教科書の「指導資料」より
まず、歴史授業の教材にどのようなものが取り上げられているかお見せしましょう。
授業を進めやすくするため、教師用に編まれた「指導書」というものがあります。「虎の巻」 と呼ぶ方がわかりやすいかもしれません。教科書の3倍もあろうかという分厚いものです。教科書出版社が個々の教科書にかならず付けるもので、「指導資料」と名づけたものが多いように思います。
口の悪い人に言わせれば、この「指導資料」がなければ教師は教壇に立てないというほど、授業の進め方、時間割、使用資料などがこと細かく説明されています。
まず、「指導資料」に書かれている次の文章をお読みください。「南京虐殺」に関する中国側説明員のものですが、常軌を逸したというか、異常さも極まれりというか、日本軍のケタ外れの残忍さに授業を受けた生徒は声も出なかったことでしょう。おそらくこの驚きは生涯ついて回わるはずです。
《 南京大虐殺の証言 》
〈 (前略)姜さんの説明はつづく。・・・虐殺は大規模なものから1人〜2人の単位まで、
南京周辺のあらゆる場所で行なわれ、日本兵に見つかった婦女子は片端から強姦をうけた 。
紫金山でも2000人が生き埋めにされている。こうした歴史上まれに見る惨劇が翌年2月上旬まで2ヵ月ほどつづけられ、約30万人 が殺された 。
最も普通の殺し方は小銃による銃殺と銃剣による刺殺である。(中略)ときにはまた、
逮捕した青年たちの両手足首を針金で一つにしばり高圧線の電線にコウモリのように何人もぶらさげた。
電気は停電している。こうしておいて下で火をたき、火あぶりにして殺した。
集めておいて工業用硝酸をぶっかけることもある。苦しさに七転八倒した死体の群は、
他人の皮膚と自分の皮膚が入れかわったり、骨と肉が離れたりしていた。「永利亜化学工場」では、
日本軍の強制連行に反対した労働者が、その場で腹を断ち割られ、心臓と肝臓を抜きとられた。日本兵はあとで煮て食ったという 。・・・
「鬼子」たち2〜3人がアシ原の中を捜しに来た。赤ん坊を抱いた母を見つけると、ひきずり出してその場で強姦しようとした。
母は末子を抱きしめて抵抗した。怒った日本兵は、赤ん坊を母親の手からむしりとると、
その面前で地面に力いっぱいにたたきつけた。末子は声も出ずに即死した。
半狂乱になった母親が、わが子を地面から抱き上げよう腰をかがめた瞬間、日本兵は母をうしろから撃った。
・・・鮮血をほとばしらせて、母は死んだ。・・・ 〉(・・・部分は私が省略したところ)
この日本軍の蛮行、おおむね事実と信じましたか。
もう一度、確認しておきますが、この引用文は三省堂の高校用教科書「日本史」 の「指導資料」からのもので、「追加資料」 として提示されているものです。
この文は、本多 勝一・元朝日新聞記者の『 中国の旅 』 (朝日文庫および単行本)からそのまま引用したものなのです。
また、上記引用文とほぼ同じ所を、「高校日本史」(実教出版)の「指導資料」にも引用され、「授業のヒント」 として、
〈 中国での日本軍の残虐行為は本多勝一著 『中国の旅』 『中国の日本軍』が必読文献 。
とくに後者の写真は良い教材となる。 〉
として、推奨しています。
この『中国の旅』の「南京」の項では、本多記者は次のようにも書いています。
〈 「日本兵にみつかった婦女子は片端から強姦を受けた」ことについては、多くの写真が残っている。
強姦された相手が裸で泣いている横で、自分も並んで記念写真をとった例が最も多い。
強姦のあと腹を切り開いた写真。やはりそのあと局部に棒を突き立てた写真・・・。 〉
『中国の日本軍』(双樹社、1972年)は、本多記者がいうように『中国の旅』の写真版ですが、これらを 「必読文献」 だの、「 良い教材 」などといって推奨するのですから、とてもまともな人たちとは思えません。中学校の社会科教科書にも、『中国の旅』にある「三光政策の村」からの引用文が「指導資料」に載っている例がありました。
日本側のウラ付け調査のない『中国の旅』が、教育現場にあたえた影響がいかに大きかったか、わかろうというものです。執筆者らはこれらの残虐行為を事実と考えたからこそ引用したのでしょうが、左翼イデオロギーに毒されたにせよ、それ以前に一人の大人、一人の社会人と比較して、虚偽を見抜く力がいかに貧弱であるかを示していると思います。常識の欠如といってもよいでしょう。
なお、『中国の旅』については、こちら ⇒ 反日報道の原点 に詳述してありますので、ご参照ください。
(2) 中国側の資料より
もうひとつ南京がらみの例をご覧いただきます。
大虐殺派で知られる笠原 十九司 ・都留文化大学教授の『南京事件』(岩波新書、1997年)から引用しますが、引用部分は『江寧県誌』です。江寧県は南京城の四方を取り囲み、人口は約43万人だったと見積もられています(スマイス調査)。
1937(昭和12)年末から翌年の初めにかけて、日本軍は「敗残兵摘出」を行い、揚子江に面した下関(シャーカン)で多数を処刑したことがわかっています。
笠原教授は、〈 ・・・県城や村においても「敗残兵狩り」の名による虐殺、強姦、放火がおこなわれたのであった。その一端だけを簡単に記す。 〉 として、『江寧県誌』の以下の部分を記しています。
〈 (1937年)12月下旬、上坊で婦女10名が強姦され、陰部に鉄棒を刺して 殺害される。
38年1月18日、陸郎村で県城から避難していた市民が、「敗残兵狩り」で100余人殺害される。
そのとき婦女8人が輪姦され、腹を割かれて殺害される 。
岔路郷では南京城から近く、交通の便も良いため日本兵が「花姑娘探し(女性狩り)」のために頻繁に襲来、
婦女250余人が強姦され、多くは殺害された。石馬村だけでも女性20余人が凌辱され、殺害された。
曹村では3度にわたって日本軍部隊が襲来し、50人が殺戮された。 〉
ここでも「輪姦され、腹を割かれて殺害される」 「強姦のうえ、陰部に鉄棒を刺して」など、日本兵の残忍な行為が記されています。こうした日本兵の行為を信じたからこそ、笠原教授はためらうことなく引用したはずです。
でも、本当のことでしょうか。疑問すら起こらないのでしょうか。
(1) 中国戦犯 ・ 鈴木 啓久中将の「罪状」
「中国戦犯」と呼ばれる人がいます。敗戦とともに5年もの間、ソ連に抑留された日本軍将兵、満州国官吏らの中から969人が選ばれて中国に送られました。この人たちとは別に、中国山西省で共産党軍に投降、捕虜となった将兵140人と合わせて1109人が、いわゆる「中国戦犯」です。
この中国抑留者(=中国戦犯)については、 ⇒ 「検証・中国戦犯」 、および ⇒ 「洗脳について」 をお読みください。
この1千余人の戦犯のなかに4人の師団長(階級はいずれも中将)が含まれていました。その一人が鈴木 啓久中将 (すずき ひらく・第117師団師団長)です。
以下に引用するのは、中国最高人民検察院(日本でいえば最高検察庁)の起訴状の一部で、第27歩兵団長時代(少将)の「罪行」について告発したものです。
なお、鈴木師団長については、 ⇒ 「鈴木師団長」 を参照ください。
〈 1942年4月、被告人は所属部隊を指揮し『豊潤大討伐』を行なわしめ、河北省遵化県 魯家峪郷 において、
刀剣を用い放火し毒ガスを発射するなど残酷な手段によって、平和的居住民、劉倹・・・、于長万ら220人余を虐殺した。・・・
18歳の娘は毒ガスにあてられながらも逃げ出したところを輪姦されて死亡、
于長合の妻の李氏は強姦を拒んで腹を裂かれ、妊娠中の胎児をえぐり出され 、
劉清隆の妻の何氏は強姦された後、火の中に放り込まれて焼死した。・・・
(1942年10月には)わが平和的居住民である・・・ら1280余人を惨殺した。
そのうち周樹恩の妻・高氏ら妊婦63人も惨殺され、多くの妊婦は胎児をえぐり出されたし、
・・19人の幼児もまた母親の懐から奪いとられ投げ殺された。 ・・・ 〉
― 『研究叢書10 日中戦争』 から姫田 光義・中央大学教授論考、中央大学出版部、1993年 ―
この残虐話し、信じるのですか。どういうわけでしょう、日本兵は妊婦を見ると腹を割いて胎児を取り出す趣味があるらしく、この例にとどまらず、ほかにも似た話は結構でてくるのです。
「魯家峪」における状況はかなり分かっています。すでに小生の本に詳述したのですが、このホームぺージまでは手が回りません。時間があれば要点だけでもと思っています。
(2) 「中国戦犯」の手記より
もう一例、中国戦犯の「手記」を、『新編三光 第一集 』(カッパブックス、1982年)から引用しておきます。この本は中国に書き残された戦犯の「手記」から15編を選んだものです。
「胎児 ― 妊婦の腹を裂く」 は第59師団に所属した第111大隊の指揮班長(曹長)・種村一男の「手記」ですが、種村一男は仮名のうえ、帰国後、行方不明ということで、調べようもありませんでした。
「手記」はこの種の話で溢れかえっていて、中国戦犯が帰国後に組織した「中帰連」(中国帰還者連絡会の略称)はすべてが事実だと主張 しています。
それらを朝日新聞、NHK など日本の報道機関が肩入れするのですから、「近代史上、例を見ない残虐民族・日本」 が誕生するのもまあ、必然なのでしょう。おそらく、広く教室にも入りこんだことでしょう。なにせ、中帰連会長職の長かった富永 正三(故人)は某有名高校(東京)の社会科教諭でしたし。とにかく次をお読みください。
〈 「オ、オッ! 隊長殿、腹の胎児(ガキ)が動いている!」と、私は眼を見張った。
大きな腹の中で胎児がこぶしをふるい足をふんばって母体を励まし、私に抗議をするかのようにググッと、小山のように突き上げている。
『フフウ! しめた! こいつだ!』と、心で叫んだ私は、「隊長殿、やっちゃいますか!」と、村越中尉の顔に眼を走らせた。と、その眼はニヤッと、うなずいた。
「ヨーシ! これから野戦でなくては、一生かかっても見ることができんものを見せてやる。この腹を切り開く者はおらんか! 」と顎で妊婦をしゃくりながら、村越中尉は、ニヤニヤ笑いながらとりまいている兵隊の顔をじろじろ見まわした。一瞬、兵隊の顔はサッと青ざめ、頬を強ばらせた。・・・誰一人俺がやろうと言うものがいない。・・・
「貴様らは戦地に来て一年にもなるのに、こんなものが切れんでどうするかッ!」と、かんかんに怒り出した。・・・
「ウー、意気地のない奴らだ」と真っ赤になって怒鳴り散らした村越中尉は「チェッ」と舌打ちし、「種村軍曹、切って見せてやれッ!」と、私のほうに顎をつき出し、しゃくった。
兵隊たちは、ホッとしたように私の顔を見つめている。
『ふん、だらしのない奴らだ。野戦仕込み俺の腕前をよく見ておくがよい!』と、下士官、将校の顔を内心嘲り笑いながら見まわした私は、「オイッ、剣を寄こせ!」と、側に立っていた吉田上等兵の帯剣を引ったくるように握りしめ、母胎の上腹が、下腹が、グーグーと突き出す胎児の胎動に見入った。
「畜生! 腹の胎児までが俺に刃向かおうとしてやがる。エーイ、こうしてくれる!」と、ゴクッと生つばを呑みこみ、カッーと血走った眼をつり上げ 、ずかずかと妊婦の死体に近づきざま、エイッとみぞおちめがけて突き刺した。・・・
その腹の中から血まみれになった胎児を引きずり出した 。とたんにググっと、小ちゃな手足が動いた。・・・
・・村越中尉は、・・ずかずかと、ちいちゃな手足を動かした胎児に近づきざま、「フン、これが人間の胎児だ! よく見ておけ! よいか! これが皇軍に刃向かう八路の卵だ!」と、怒鳴りながら、小さな頭をパッと蹴りつけた。
ザクッと鈍い音を立てて軟らかい頭はグザッと割れ、ふきだした血はあたり一面を真っ赤に染めた。「フフウ、どうじゃ、わしの手口は、・・」と将校のを見ながら、「ウワッハッハッ!」と眉をつり上げ、歯をむき出し、大口をあけて笑った村越中尉の仁王立ちに突立った姿は、沈みかけた夕陽をまともに受け、全身真っ赤に染まった。 〉(・・・は私が省略したところ)
またまた妊婦の腹を切り裂く話です。
著名な作家、野間 宏はこの話を頭から信じて、
〈 「胎児」は、妊婦を圧殺する記録である。
このようなものを抹殺したいものだと考えながら、
決して日本人、世界の人々の前から消してはならないという内なる声をきく。 〉
とした推薦文が本の帯に記されています。
でもねえ、腹を裂いた張本人が、「ゴクッと生つばを呑みこみ」というのは分かるにしても、「 カッーと血走った眼をつり上げ 」 なんて、書くものでしょうか。この一行を見ただけで、私は「怪しい」と思いますけど。文章のプロである作家が変だとも思わず、信じ込んでいることは驚きです。やはり、イデオロギーが目を曇らせるのでしょうか。
実はこれらの「手記」、本人だけで書いたものではなく、コーチ役(同じ日本人戦犯)がいたことがわかっています。そうならこの表現、納得がゆきます。本人以外の第3者の視点であれば、「カッーと血走った眼をつり上げ」と書いても不自然さはないでしょう。
(3) 「中国戦犯」の戦後証言
中国からの帰国後に、自分を含む日本兵の残虐を証言した人は少なくありません。その一人、「最後の戦犯」といわれた城野 宏 の証言がありますので、その一部を取り出して記しておきます。城野宏の証言については、⇒ 「中国戦犯」証言を検証する をご覧ください。
〈 ある民家にふみこんだら、妊娠中の若妻がいた。彼女を裸にして中庭でイスに縛りつけた。(略)
見ると腹の中で子どもがうごめいているのがみえる。”あっうごくぞ、うごくぞ” というわけですな。
”好奇心” にかられた1人が、女の陰部にとうがらしをつっこんだ。女は痛さに泣きさけぶ。
それにつれて腹の中の子どもも動く。ある下士官が”腹のなかでどうなっているかみよう” とばかりに、
銃剣を陰部にさしこんで、下から徐々に裂いていったんですな 。
ぴくぴく動く胎児をとり出して、しばらく観察して、”あっ汚い” とばかりに庭の石にたたきつけて殺してしまったんです。 〉
― 『 日本人は中国でなにをしたか』、潮出版社、1972年 ―
以上の5例を見ていえることは、どういうわけか日本兵は中国人とくに妊婦を見ると、腹を割きたくなる異常な性癖を持つようです。そして取り出した胎児を投げつけるというのですが、ひょっとすると日本兵は妊婦を見つけたら腹を割くように教育されていたのでしょうか。また、中国人労働者の心臓やら肝臓を取り出して煮て食ったというのですが。
まさか・・・。第一、妊婦の腹を割くなんて習慣、日本にはありません。また、肝臓を取り出して食うという話はほかにも出てくるのですが、内臓を食う話はほんの30年ほど前の文革期の中国で広範囲に起こったことが報告されています(後述)。日本人は人肉食の習慣を持ち合わせていません。
となれば、おおよその見当がついてもいいはずです。そこで、次の文をお読みください。
(1) そっくり描写 ・・・ その1
九州にお住まいの長田 泰治氏に教えていただいたのですが、『裏から見た支那民族性』 という本があります。発行は1935(昭和10)年、著者は笠井 孝、発行元は日本外事協会です。
支那人の民族的特性のひとつに「残忍と冷酷」をあげ、以下の記述があります。
〈 四平街東北方付近に逃げた王以哲軍は、付近の鮮人部落を焼払ひ、妊娠中の女の腹を断割って、
胎児を曳き出し、マダ動いて居るのに、銃剣を突き刺して、嬉々として笑って居た。
また、鮮人婦人を強姦しようとしたが、背中の子供が余り泣き叫ぶので、
イキナリその子供を玄翁(げんのう)で撲り殺し、その婦人を輪姦した上、
惨殺したのやら、輪姦の上、押切で、生きたまゝ、女を胴中から二つに切ったりしたのがあった。
これ等の惨状を見ると、彼等は如何にして、残虐行為を現はすべきかに、
努力苦心をしたのではあるまいかとさへ思はれる。 〉
@ 妊婦の腹を断ち割り
どうですか。妊婦の腹を断ち割り、胎児を取り出し、銃剣で突き刺す、・・・そっくりでしょう。上記の中国戦犯・種村一男の「手記」、鈴木中将に対する中国側の起訴状、それに中国人の証言とほとんど違いがないことを。
王以哲軍といいますから、1931(昭和6)年の満州事変のすぐ後のことと思います。四平街(しへいがい)は満鉄線沿いの代表的な都市でした。
A 押し切りによる殺害、処刑
押し切りで生きた女の胴体を二つに切断する、考えただけでも気色の悪い話ですが、触れておくことにします。
左写真は連行した男の首を押し切りで切断処刑する日本軍の蛮行だとして韓国が非難したものです。
「押し切り」というのは馬や牛のエサにするワラなどを切る道具で、日本の農家でも普通に見られたものです。大きさは写真のものと違いがあるかもしれませんが。
植民地時代の「日帝の蛮行」として左写真を含む数枚の写真を掲載、「押し切りで反日韓国人の首をはねる日本兵」 との説明を加え、大々的に報道したのは新聞、テレビなど韓国のマスコミ群でした。1992(平成4)年3月1日の「三・一節」(1919=大正8年、抗日独立運動記念日)に合わせ、毎度のことながら日本非難の大合唱でした。
この写真の兵、日本軍の将兵にはとても見えません。兵の姿、物腰がどことなくおかしいですし、軍帽、銃弾を携帯する弾帯などは日本兵のものとは明らかに違います。こうした点などをあげ、産経新聞は「昭和初期の中国軍か」 と報じました(1992=平成4年3月6日付け)。
これに対し、韓国のマスコミは日本軍の指揮下にあった「満州国軍」の蛮行だとの見方に変え、だから「日本関与」に変わりはないと反論を加えてきたのでした。結局、もう一枚の写真に青龍刀を背負って行進する兵隊の一群が写っていたため、韓国マスコミも「誤報だった」と認めざるをえなくなったのです。この写真は朝鮮半島とは無関係のもので、満州事変前の地方軍閥のものといって間違いないと思います。
少し加えますとこの写真、1983(昭和58)年、中国・新華出版社が出した『日本侵華図片史料集』 に載っていて、説明文に「日本侵略軍用鍬刀惨殺我東北義勇軍官兵」とあり、自分たちの蛮行を日本軍のせいにするという臆面もない図々しさをここでも発揮しています。
さらに同年、日本の「ほるぷ出版社」が発行した写真記録『日本の侵略・中国/朝鮮 』にも同じ場面を写したと見られる8枚の写真が登場、〈 日時や場所が特定できないものだが、いずれも朝鮮の独立運動に対して日本が行った処刑。3・1独立運動とその前後にあたる時機、朝鮮各地や「満州」で行われたものと思われる 〉 と説明されているとのことです。
おそらく左がかった日本人学者、研究者が説明をつけたのでしょうが、韓国の日本非難の報道はこの本の写真と説明が元になった可能性が高いのかもしれません。
また、押し切りによる処刑場面はビデオになって日本の中学校で使われたとの報道もありました(1995=平成7年)。まったく恐ろしいほどの教育関係者の無知、邪心、偽善に唖然とさせられます。
B 局部に棒を突き刺す
次は、上記の引用文につづくもので、説明の都合上、分けて引用しました。
〈 広東でも、済南でもまた満州でも見たことであるが、支那兵は、婦人を惨殺したあと、
殊に婦人を強姦惨殺した際は、必ず長さ1尺ばかりの木片を局部に挿入する癖があることである。
済南事変の時でも、満州事変の時でも、生きながら、石油を掛けて惨殺をされたり (生きた者は水泡が出来るからすぐ分る)、
或は局部を切断して胸に載せられたり、局部を持ち去られたりしたものである。
これ等は、人を殺す場合に於る彼等の常習的習慣であるやうである。〉
まず、強姦惨殺した後、局部に棒を挿入するとした吐き気を催す所業についてですが、左写真がその一例でしょう。
この写真、アイリス・チャンの『レイプ オブ 南京』(次項で記述)からとったものです。
説明文に、〈 Nanking women were not only raped but tortured and mutilated (Modern China Publishing) 〉 とありますから、南京の女性は強姦だけでなく、拷問を受けたり、手足をバラバラにされたというのです。事実だとすれば、日本兵の行為はあまりに猟奇的であり、一片の人間性も感じられない異様な残忍行為ということになります。
ですが、上の記述からも分かるように、局部に棒を挿入するというのは明らかに中国人の習慣に属するものであり、日本人の所業とは無関係です。ですが、この事実を知らずに写真を見たほとんどの欧米人は、過去のこととはいえ、日本人が異常な残虐性を持つ民族だと受け取り、強く嫌悪したことでしょう。
この写真、1938(昭和13)年発行の『日冠暴行実録』 (中国国民政府軍事委員会政治部編、後述)に掲載されたのが多分、最初のものと思われます。
また、生きながら石油をかけて惨殺するという行為、教師の虎の巻である「指導書」に引用された「中国の旅」の記述とも符合していると思います。
(2) そっくり描写 ・・・ その2
さらに古い時代の残虐について描写した本がありますので、簡単に触れておきます。
1911(明治44)年といいますから今から100年前、辛亥革命 によって約300年つづいた最後の王朝である清朝が崩壊しました。この年の干支(えと)が辛亥(かのと・い)にあたっていましたので辛亥革命と呼んでいます。
翌年1月、アメリカから帰国した孫 文が臨時大総統に就任、中華民国 が発足しました。
この革命をつぶさに見た支那に詳しいフェルナン・ファルジュネルはその著作『辛亥革命見聞記』(平凡社、東洋文庫)に次のように記しています。
〈 住民の大部分は戦闘員ではなかったから、叛乱にはなんの役割も演じなかった。
夫や父親の目の前で妻や娘が強姦された。
また母親のなかにいる胎児を銃剣で刺し殺した。あらゆるものが放火され破壊された。〉
100年前、すでに妊婦の胎児を銃剣で刺し殺した話が出てくるのです。
となると、ここまで見てきたような残忍な行為が中国固有のものならば、逆に日本人が被害者となった場合、同じ手口の残虐に見舞われたはずです。そのような例があるのでしょうか。あるのです、それも大規模なものが。
代表例として、済南事件と通州事件があげられます。
(1) 済 南 事 件
1928(昭和3)年5月、日本人約2000人が住む山東省の省都・済南(さいなん)において、進撃した国民党軍(北伐軍)と居留民保護のため派兵された日本軍とが交戦状態に入りました。この間、日本人居留民が襲撃に遭い死者10余名、30余名が暴行 を受けるなどの被害を出した事件です。
事件直後、惨殺された死体を見た佐々木 到一中佐(南京駐在武官)は、手記「ある軍人の自伝」に次のように記しています。
〈 ところがこの日になって重大事件が惹起されていることが明かにされた。
これより先、居留民は総領事館の命令を以て老幼婦女は青島に、残留する者は限定せる警備線内引揚げを命じてあったが、
それを聞かずして居残った邦人に対して残虐の手を加え、その老壮男女16人が惨死体となってあらわれたのである。
予は病院において偶然その死体の験案を実見したのであるが、酸鼻の極だった。
手足を縛し、手斧様のもので頭部・面部に斬撃を加え、あるいは滅多切りとなし、婦女はすべて陰部に棒が挿入されてある 。
ある者は焼かれて半ば骸骨となっていた。焼残りの白足袋で日本婦人たることがわかったような始末である。・・・
もっとも、右の遭難者は、わが方から言えぱ引揚げの勧告を無視して現場に止ったものであって、
その多くがモヒ、ヘロインの密売者であり、惨殺は土民の手で行われたものと思われる節が多かったのである。
右の惨死体は直に写真に撮られ、予はこれを携えて東上することになったのである。 〉
日本人惨殺者が中国兵あるいは土民のどちらにしても、このような残忍な方法が広く行われていた、いわば「中国式」と断じて間違いありません。
田中 義一外相(= 田中義一首相、外相を兼任)にあてた西田総領事代理の公電にも、「腹部内臓全部露出せるもの、女の陰部に割木を挿込みたるもの、顔面上部を切落したるもの、右耳を切落され左頬より右後頭部に貫通突傷あり、全身腐乱し居れるもの各1、陰茎を切落したるもの2」 とあるそうですから、佐々木中佐の「手記」と合致しています。
(2) 通 州 事 件
1937(昭和12)年7月29日、つまり盧溝橋事件(7月7日)の直後、北京の東約30キロ弱に位置する通州で起きた日本人惨殺事件(一部朝鮮人を含む)、通州事件です。
380人といわれる居留民のうち、殺害された者が実に260名 にものぼるという大惨事でした。
1935(昭和10)年11月、殷 汝耕 (いん・じょこう)は、蒋介石の南京政府から独立のため自治宣言を発表、通州を自治政府の首都とする日本寄りの冀東防共自治政府を誕生させました。
北京には宋 哲元 の冀察政務委員会という政権がありましたが、隣り合わせた両者の地理的境界がはっきりせず、複雑な関係にあったのです。自治政府は軍事力として1万人を超える冀東保安隊(前身は河北保安隊)を有していました。なお、冀東(きとう)の「冀」は河北省の古称、冀察(きさつ)の「察」はチャハル省です。
こうしたなか、北京郊外の盧溝橋で日本軍(支那駐屯歩兵1連隊)と宋哲元の支那軍(第29軍)が衝突、盧溝橋事件が起こりました。はじめに攻撃したのは中国側とするのがいまや定説といってよいでしょう。
この事件のため、通州の日本軍守備隊主力は北平(=北京)付近に出動、通州には100人程度(自動車中隊、通信兵など)の兵力で留守を守ることになったのです。
7月29日午前2時頃、突如として通州保安隊1000余人(第1、第2総隊)が反乱を起こし、殷 汝耕を拉致すると日本軍民に奇襲攻撃をかけてきました。守備隊は重火器の備えがなく軽機関銃、小銃などで立ち向かいます。
しかし10倍の優勢な敵を相手に居留民を保護することは不可能でした。保安隊は放火、略奪、殺害をほしいままにします。北京に住む日本人も通州方面に立ちのぼる煙を見て異状の発生を察知したといいます。出動していた守備隊主力が奇襲を知って通州城に戻ったのは、丸1日を経過した30日、すでに城内は惨状を呈していたのでした。
@ 目撃者の供述
「男は縄を引かれ、女はそのあとについて」最大の殺害場所となった北門に近い城壁へと、「はしゃぎ切った叛乱兵が銃を荒々しく振りまわしたり、監視の目が鋭かった。時々、嘲るものもいた」という兵隊に連行される約100名の男女。城壁に着くと、周囲に40、50名の兵隊が列をつくり、射撃体勢に入りました。
〈 瞬間、サッと殺気が走って、アッその時、裂帛の女の叫び「逃げましょうッ」 と
その声は冀東政府で見たことのあるタイピストの、あの人の声ではなかったろうか。
一瞬、この叫びと筆者の跳躍と、どちらが先かあとかのとっさの事だった。
そして城壁のふちに手をかけると、壁面に腹ばって、むこう側3丈余り(約5〜6メートル)をすべり落ちていった。 〉
通州事件の渦中にあり、なんとか逃げ切った安藤 利男は当時をこう回想します(文藝春秋、1955=昭和30年8月号)。
また、城壁に連行される途中、安藤は女中さんの惨殺死体が3人、4人と転がっているのを目撃しますが、そのむごたらしさは「書くのは忍びない」として記述していません。
話は飛びますが、戦後の東京裁判において、弁護団はこの通州事件を持ち出しました。しかし、どういうわけかウェッブ裁判長は却下してしまいました。ただ、事件の目撃者の口述書は受理されましたので、これらを読めばそのときの様子、その「むごたらしさ」がわかります。
急をきいて(天津?から)通州に急行した支那駐屯歩兵第2連隊小隊長・桜井 文雄少尉が目にした光景は次のとおりです。
〈 守備隊の東門を出ると、殆ど数間間隔(1間は約1.8メートル)に居留民男女の惨殺死体が横たわって居り、一同悲憤の極に達した。
「日本人は居ないか」と連呼しながら各戸毎に調査してゆくと、鼻に牛の如く針金を通された子供や、片腕を切られた老婆、
腹部を銃剣で刺された妊婦等の屍体がそこここの埃箱の中や壕の中などから続々這い出してきた。
ある飲食店では一家ことごとく首と両手を切断 され惨殺されていた。
婦人という婦人は14、5歳以上はことごとく強姦されて居り、全く見るに忍びなかった。
旭軒では7、8名の女は全部裸体にされ強姦刺殺されて居り、陰部に箒を押し込んである者 、
口中に土砂をつめてある者、腹を縦に断ち割ってある者等、見るに耐えなかつた。
東門近くの池には、首を縄で縛り、両手を合わせてそれに8番鉄線を貫き通し、
一家6名数珠つなぎにして引き回された形跡歴然たる死体があつた。池の水は血で赤く染まつていたのを目撃した 〉
他の目撃者も凄惨な現場を、
〈 1年前に行つたことのあるカフェーでは、縄で絞殺された素つ裸の女の屍体があつた。その裏の日本人の家では親子2人が惨殺されていた。子供は手の指を揃えて切断 されていた。南城門近くの日本人商店では、主人らしき人の屍体が路上に放置されてあつたが、胸腹の骨が露出し、内臓が散乱していた」 (桂 鎮雄・第2連隊)
などと供述しています。
これらの目撃証言からも日本では考えられない凄惨な殺害方法がとられていたことがよくわかります。
A 保安隊の反乱はなぜ
いわば親日政府下にあった通州保安隊がなぜ日本軍、日本人居留民を突如として襲ったのでしょう。
通州の宝通寺に常駐していた宋哲元軍と日本軍の間でしばしば小競り合いが生じていました。このため、日本側は部隊の撤退を要求したものの回答がなかったため、事件発生の前々日(27日)、日本軍は攻撃を開始しました。
こう書きますと、日本軍が一方的に軍事行動に出たように受け取るかもしれませんが、宋哲元軍の駐屯そのものが協定違反だったと、事件後に冀東自治政府と折衝した北京日本大使館の森島守人参事官は、その著『陰謀、暗殺、軍刀 』(岩波新書、1950年)で次のように指摘しています。
「冀東23県は塘沽(タンクー)協定によって、非武装地帯になっており、中国軍隊の駐屯を認めていなかったにもかかわらず、わが現地軍が宋哲元〇下(きか)の一小部隊の駐屯を黙認していたのが、そもそもの原因だった」
この攻撃時、支援にきた爆撃機1機が宋哲元軍の兵舎ではなく、誤って冀東保安隊の幹部訓練所を爆撃、数名の保安隊員が死亡するという事態が生じてしまいます。
誤爆とわかるや細木中佐(特務機関長)は殷汝耕長官を訪れ、事情の説明、謝罪するとともに夜を徹して善後策をこうじます。ですが、この間、保安隊の反乱が起き、細木中佐は宿舎への帰路途中に戦死、特務機関副官の甲斐少佐も多数の反乱兵の襲撃をうけて倒れ、通州特務機関は全滅してしまいました。ちなみに殷汝耕は戦後、戦犯容疑で南京で銃殺されています。
この誤爆が冀東保安隊反乱の直接原因とする説が長い間多かったように思われます。ですが、誤爆から反乱までわずか1日半程度、憤激したうえでの反乱にしては規模が大きく、組織だった行動であることへの説明がつきません。
通州保安隊は宋哲元の29軍、あるいは共産党と早くからつながり、冀東攻撃計画のあったことが、今では中国側資料から分かっているとのことで、誤爆はあまり関係ないようです。それより、盧溝橋事件が起こると南京放送(国民政府の放送局)が「日本軍が盧溝橋で29軍に惨敗、29軍は冀東を攻撃する」などと流したため、通州保安隊にチャンス到来とばかりに決起を促したとする方が実態をよく説明していると思います。この間の事情は中村 粲・独協大名誉教授(故人)の『大東亜戦争への道』(転展社、1990年)に詳述されていますので、興味のある方は参考になさってください。
ここで人肉食を抜き出して検討しておきます。
(1) 『食 人 宴 席』 より
日本兵が中国人を殺害、肝臓や心臓を取り出して煮て食ったという話は少なからず存在します。それも日本兵の口から出たものも結構あるのです。そしてそれらが事実となり、教室に持ち込まれるのですから問題視しなければなりません。
ここに『食人宴席』 (後述)という本があります。中国・広西省で広い範囲で起こった人肉食についての著者による調査報告です。その中の一章、〈 「広西大虐殺」の現場報告 〉にでてくる次の文をお読みください。昔話ではなく、40年ほど前の文化大革命期(1966〜1976)の出来事であることにご留意下さい。著者は1986年から調査には入りました。
〈 彼の腹を切り裂いたのは、王春栄である。
心臓と肝臓を5寸の刃で刺し、腹を切り開いて、足で力いっぱい踏むと、
心臓と肝臓がたちまち飛び出してきて 、切り取って持って行かれた。
続いて、人々はどっと襲い、あっと言う間に人肉がすっかり削ぎ取られたのである。
屍骨はその後、小さな船で川の真ん中まで運ばれて捨てられた。
周石安は、王春栄が手を下したとき、まだ息が絶えてはいなかった。
腹を切り裂くとき、絶叫し、また、肝を切り取るとき、両手で肝を胸に抱きしめたので、下手人は驚愕したそうだ。 〉(72ページ)
〈 つぎも王春栄についてである。(1968年)6月17日。
彼はこの日のデモ中、新華書店の前で、まだ生きている製米所の臨時工を殺害した。
王春栄は手持ちの刀で腹を裂き、心臓と肝臓を取り出した。
まわりでとり囲んで見ている群衆も競って人肉を切りとった。臨時工はその場で絶命したことは言うまでもない。
その後、王春栄は得意満面で人間の心臓と肝臓を下げ、
食品会社の豚肉販売部に行って、人肉と豚肉と調理して、一緒に酒のさかなにしたのである。 〉(78ページ)
お読みになって、にわかに信じられないかもしれません。調査した著者自身が、「目撃しなかった人は、ほとんどそのことを信じなかった。われわれの文革処理事務省でさえ、最初は懐疑的な態度でこの事件に臨んだ。しかし、後から調べるにつれて、大量の証人と物的証拠が出てきた。われわれはやっと信じるようになった。最初、そのことは文革に対する不満から出てきた噂ではないかと疑ったが、それは事実であったのだ」と書いているくらいですから。
これらを読んで、人間の心臓や肝臓を取り出すのはこうするのかと妙に感心した覚えがあります。この「取り出し手法」はほかの記述から考えて、「確立された手法」として古くから行なわれていたことが分かるでしょう。
・ 広西省大虐殺
「広西大虐殺」とあるように、人肉食事件の舞台は中国南部に位置する広西省の各県で起こりました。ときは文化大革命時代、広西自治区・武宜県 の革命委員会が内部対立し、主流派が反主流を攻撃、血なまぐさい闘争が始まったのでした。
上記の人肉食の場面はこの武闘のさなかに起こった出来事の一例で、武宜県の人肉食事件 がもっとも有名というか、公然の秘密というのか、よく知られていたようです。このほかにも教師(複数人)が副校長の肉を豚肉と煮て食ったなど、数多くの実例が出てきます。それもアッケラカンとした「人肉食宴会」で、罪悪感はあまり感じられないのです。
〈 食人事件は武宜1県だけのことではない。食人の気風は広西全域に広がっていた。半狂乱的な食人の嵐も武宜1県にとどまらなかった。私は各級の政府関係者及び各地方幹部、民衆から、食人が流行した県の名前を一つ一つ確実に確認している。・・・
私の手元の資料だけでも、食人事件は霊山県の2つの人民公社で22例、合浦県のある公社の18例、浦北県のある人民公社の19例、欽州県の3例がある。
いずれにせよ、食人事件は広西省全域に広がっていたことを証明できる。 〉
文革期、武宜県で殺され、迫害によって死んだ人間は524人、うち食われた人間は百数十人だったとしています。そして、食べる側に回った人間は、推定で「1万人以上」にのぼるはずだと著者は結論づけています。なお、広西省における文革犠牲者は9万人と推定しています。
・ 著者について
ここで『食人宴席』(カッパブックス、1993年)の著者・鄭 義 について簡単に触れておきます。
大向こうを狙ったような書名、あるいはカッパブックスの本であることから、なにやら際物(きわもの)の類ではないかと思った方もおいででしょう。でもこの本は違います。
著者の鄭 義は1947(昭和22)年、重慶生まれ。文化大革命では紅衛兵運動に参加。紅衛兵の武闘を描いた小説「楓」で文壇にデビュー、長編小説の「古井戸」は映画化されました。
映画「古井戸」 は1987(昭和62)年の東京国際映画祭でグランプリを受賞、テレビでも放送されましたので、ご覧になった方もおいででしょう。その後、民主化運動にかかわった鄭 義は天安門事件(1989)に参加したとして指名手配され、3年間の地下逃亡生活に入りました。この原稿はこの間に書いたとのことです。そして、香港を経由してアメリカに亡命しました。
1993年、『紅色記念碑』と題した700ページに近い大著となって台湾で出版され、日本の『食人宴席』は新書版のため、全部ではなく第1、第2、第3、第13章のみを訳出したものです。
・ 「宴席」の現場
食人現場を集約した記述がありますので、紹介しておきます。
著者は「食人事件」の展開状況は3段階に分けられるとし、第2段階の様子を次のように説明(一部抜粋)しています。
〈 第2段階は、高潮期。騒々しく賑やかな殺人現場で行なわれる。
このとき、心臓と肝臓を取り出す技術は、もう相当な経験を積み重ねてきていて 、
そのうえ、かつて人肉を食べたことのある古いゲリラ隊員からの伝授もあり、完璧になった。
例えば、生きている人間の胸を切り裂くときは、まず肋骨の下に鋭い刃を入れ、
「人」字型のように切り裂き、力強く足を踏めば、肝臓と心臓がたちまち飛び出してくることを知っていた。
もし被害者が木の上に縛られているなら、ひざで腹を押せば、すぐ心臓と肝臓が飛び出してくることも知っていた。
指導者は最初に心臓、肝臓、性器を切り取っていく権利を持ち、
残りを周囲の人間が自由に切り取っていくことがならわしである。
紅旗がはためいて、スローガンが響き渡っている糾弾大会の食人現場は、じつにきわめて盛大にして壮観である。
《人肉宴会 》は、村々によってそれぞれ特色を持っていた。 〉
・ 中国人の所業を反映
中国は日本兵の野蛮な行為を非難するため、心臓、肝臓など内臓を取り出して食した例をしばしばあげます。それらは中国の政府関係者や一般中国人の証言であったり、最高検察庁の起訴状であったりします。
また、日本兵自身が認めたものもあります。ただこの場合、証言者が中国戦犯にほぼ限られているという事実 は知っておくべきでしょう。
昭和が去り平成に入ってからですが、日本人戦犯が収容されていた撫順戦犯管理所の金 源 所長は、戦犯が告白した「罪行」について、日本人の取材に対してこう話しています。
〈 あるひどい者は、吸血鬼のように、中国人を惨殺した後、その肝と脳味噌を食べたのである。
このような人間性の一かけらもないような野獣のごとき実例は枚挙にいとまがない。 〉
この発言、撫順戦犯管理所の1職員の言ではありません。金 源は日本人が入所以来、日本語通訳として撫順管理所に務め、管理教育科科長などを経て、所長にのぼりつめています。つまり、管理所の最高責任者の話なのです。
このように、人肉食にはじまり妊婦を強姦し胎児を取り出す話、惨殺後に局部に棒を突き刺しておくなど、人間性のかけらもない「野獣のごとき実例」が、日本兵の行為であるはずがありません。いずれも中国人の伝統としての行為であるがゆえに、日本兵も同じ所業に及んだはずと勝手に思ったか、あるいは日本兵の行為ではないことを承知の上で、組織的に「ウソ八百」を並べたのか、そのどちらかだろうと思います。
にもかかわらず、このような馬鹿げた話が日本を代表する新聞や学術書に堂々と載り、あげくに「日本軍の残虐行為の良い教材になる」などと書く類の日本人学者が少なくないのですから、もはやつける薬がないと思わざるをえません。しかも、他の歴史学者の批判を受けることもなく、良心的学者然として存在していられるのですから。
(2) 『餓 鬼』 より
次は、イギリス人ジャーナリストのジャスパー・ベッカーの著した『餓 鬼』の記述です。
1958(昭和33)年、この年は第2次5ヵ年計画の初年にあたりますが、国家主席であった毛沢東は工業(主に鉄)、農業(米など)の飛躍的発展を目指し、有名な「大躍進」 政策を推し進めました。
杜撰というか無謀(非科学的)な計画のうえに自然災害という不運なども重なったため、約3年間、中国全土は大飢饉に見舞われます。この間の餓死者は3000万人以上 といわれました。
当初、3000万人という数はいくらなんでも多すぎると考え、私はまともに信じませんでした。ですが、最近では中国筋から4000万人台という物凄い数も出てきていますし、やはり当初の私の見方は間違いで、これらの数は事実なのだと思うようになりました。日本人の私の「常識」などは中国に当てはまらないのだと用心深くなっています。
ベッカーは中国各地を歩き、多くの人にインタビューしてまとめたのがこの書物です。以下、一部を引用しますと、
〈 光山県華樹店人民公社では、13人の孤児が水に入れられたまま外に放置され、凍死した。幹部たちの共通したやりかたは、髪をつかんで、引きずることだった。・・・農民たちはこの難から逃れるため、あらゆる毛を剃ったが、幹部たちは、次に、耳を切り落すのだった。
息県防湖人民公社の生産大隊では、17人が耳を切り落とされた。人民公社婦人部長だった20歳の黄秀蓮は、4人の耳を切り落とし、そのうちの1人は死亡した。女性たちは、陰部に棒を差しこまれるなど の辱めを受けた。長時間座ったまま、立ったまま、あるいは長距離を走るなどの拷問もあった。
党の記録には、さらに恐ろしく、おぞましい拷問も記録されている。固始県七司人民公社の党書記江学中は、人肉をゆでて肥料にする方法を考案し、100人もの子供をゆでたと風聞がたった。その後の調査で、彼は、少なくとも20人の遺体をゆでたことが明らかになった。同様に厳しい懲罰は、貯水池や灌漑施設などの巨大建設工事に送り込むことだった。固始県だけでも6万人が送られ、1万700人が疲労、飢餓、寒さ、殴打などで亡くなった。
この恐怖を前にしては、農民には自分の身を守る方法がまったくないも同然だった。共同食堂に穀物がなくなると、農民は残った家畜を殺した。路文憲は、この事態を「生産の放棄」と決めつけ、「生産放棄」した人々には、さまざまな報復が待ちうけていた。
・・・何人かは、鼻に穴をあけられて針金をとおされ 、牛のように田畑で鋤を引かされた。また何人かは、裸にされてぶたれ、その体の上に、剥いだばかりでまだ血のしたたる牛の皮を巻きつけられた。皮は乾燥するにつれて破れ、体の皮膚も一緒に引き裂かれた。
・・・その冬には、人間の肉を食べることがあちこちでおこなわれた。通常は遺体の肉、とくに子供の遺体である。・・・ 固始県では、1960年だけで人肉食の事件200件あった。 〉
「陰部に棒」はすでに出てきました。「鼻に穴をあけられて針金をとおされ」 というのですが、具体的にどうするのか今ひとつイメージがわきません。ただ何人もの手の平に針金を通して連行したという話はありますし(台湾の蒋介石軍)、さらに古いところでは文永年間(13世紀)の「元寇」で、蒙古人、漢人など日本を襲った元軍は、生き残った日本人の女の手のひらに穴をあけ、革ひもを通したという記録が残っているそうです。
ノーベル文学賞候補といわれる村上 春樹はノモンハン事件(満州国とモンゴルの国境付近で起こった日・ソ両軍の衝突事件、1939=昭和14年)の取材で中国を訪れました。そこで、日本軍が要塞工事に使った現地人を口封じのために殺したという中国側説明員の話「日本の兵隊は工人たちの首に針金を通してそこに連れていって殺したんです。・・・」を記して、殺害は日本軍の行為と推定できるとしています。
これらのことから、手のひら、首、鼻などに穴を開けて針金、紐を通す行為は、中国古来の手法と判断がつくはずです。それらが、日本軍の行為にされているのは明白でしょう。
『 酷 刑』という1997年発行の比較的新しい本(徳間書店)があります。
中国歴史上にでてくる酷刑と残忍な行為をまとめた本で、著者・王 永寛は1946年、河南省の生まれ。北京師範大学を卒業後、河南省社会科学院の研究員になったとありますから、生粋の中国人なのでしょう。
この書を一読すれば、私たち日本人の想像を越えた残忍な刑罰に驚愕することでしょう。この書を著した動機について、中世ヨーロッパの宗教裁判官らが行った刑罰は中国唐代の刑罰に比較して優るとも劣らないものであり、それぞれの国家や民族が現代文明に至る過程において、「人類史が避けえなかった共通の恥辱」だとし、このような残虐な行為を「全地球上から徹底的に根絶されなければならない」という気持ちで書いたのだと著者は記しています。
凌遅(りょうち、切り刻み)、斬首、剖腹(ほうふく、腹さき)など約30に分類して説明を加えています。
「人食」の項を見ると、魯 迅が 『狂人日記』のなかで〈 (中国の)封建時代の歴史には1ページごとに“人を食う”という文字が書かれている、と看破している 〉と著者は指摘し、人肉食の歴史は古くかつ継続されていたことを示します。
そして、明時代におきた山東の大飢饉では「人肉市」が開かれ、清の時代の同治3〜4(1864〜1865)年、皖南ではいたるところで人が食いあった結果、人肉は貴重品になり、価格も急騰したといいます。
この2例は餓死の恐怖にさらされた状況下にあり、「理解でききる範囲のうちにあるのではなかろうか」として、さらに違う原因で起こった例を何例もあげて説明します。1例をあげれば清の順治9(1652)年、明の残兵に新会の県城が包囲され、守備する官軍は食べ物がなくなると、居住民を殺して食料にあてたといいます。また、病気の治療法として食した例なども加えられています。
魯迅の短編小説にたしか「薬」だったでしょうか、処刑の場に行って生き血を持ち帰る老婆(?)の姿を描いたものがありました。上に記した「広西大虐殺」でも、処刑時に入れ物を持って流れる血に群がる人たちがいたことを描いています。
また、未遂に終わったものの妊婦の腹を割かせて胎児の性別をし調べようとした宰相、舌を切り取る刑罰などなど、日本兵に負わせられた残虐行為を想起させられる事例が多くでてきます。
もちろん、日本にも刑罰はありました。『江戸時代・刑罰事例集』(柏書房、1982年)という大著があります。このなかに拷問実記として各種の拷問が説明されていて、「幕府四種の拷問は、第一笞打、第二石抱(いしだき)、第三海老責、第四釣責(つるしぜめ)是なり」としています。足利時代には水責め、火責め、水牢、中には糞責めなどというのもあったようですが、徳川幕府時代における拷問は、この4種に限定されていたとしています。また、処刑には打ち首、獄門(さらし首)などもありましたが、読みくらべれば、残虐の質 が明らかに異なります。
すでに紹介したごとく、アイリス・チャン(中国系アメリカ人)が書いたこの書は、アメリカをはじめ英国、オ−ストラリア、カナダなど英語を母国語とする人たち、ドイツなど非英語圏でも英語を読める知識層を中心に、日本および日本人がどのような民族なのかを印象づけたという点で「決定的一冊」 になったと思います。
ここに描かれた日本兵は文明とはおよそ縁遠い残忍な殺人集団であり、女性と見れば子供だろうと老人だろうと見境なく襲う野蛮な姿でした。
こうした日本兵の蛮行は過去のことだから現在のわれわれと関係ないのだと見過ごすのは大間違いだと思います。
こうした「吐き気をもよおす」具体例が、アメリカを例にとれば、NYタイムズ、ワシントン・ポストなど有力メディアを通じて流され、政治家や知識層を中心に認知され、日本に対するイメージが出来あがっていきます。そして、間違いを正そうすれば、「事実を認めようとしない卑怯な国民」、「謝罪が不十分」などと書かれるのですから。
(1) 描かれた日本軍の残虐
以下は、すでに「1 忍び寄る安全への脅威 」で引用したものですが、もう一度、原文とあわせてご覧ください。便宜上、訳文に番号をつけてあります。
〈 南京の暴虐は虐殺された人数だけではなく、その多くが死にあたった際の残酷な方法も記憶されるべきである。 @ 中国人の男は銃剣の訓練と首切り競争に使われた。 A 推計で2万人から8万人の中国人女性が強姦された。 B 多くの兵隊は強姦だけではなく、女性の内臓を取り出し、胸を切り刻み、生きたままで壁に釘で打ちつけた。 C 父親は娘を、息子は母親を家族の目の前で強姦するように強制された。
D 生き埋め、去勢、内臓を切り刻み、人々を焼くことなどが通常のこととなっただけでなく、もっと悪魔的な拷問、たとえば舌を鉄のカギに吊るしたり、人を腰まで埋めてドイツセパードがバラバラにするのを眺めることもした。その様は吐き気を催すもので、街にいたナチスも恐怖に陥れ、一人はその虐殺を"野獣の所業"と公言した 〉
〈 The Rape of Nanking should be remembered not for only the number of people slaughtered but for the cruel manner in which many met thier death.Chinese men were used for bayonet practice and in decapitation contests. An estimated 20,000-80,000 Chinese women were raped. Many soldiers went beyond rape to disembowel women,slice off their breasts,nail them alive to walls.
Fatheres were forced to rape their daughters, and sons their mothers,as other family members watched.Not only
did live burials,castration,the carving of organs,and the roasting of people become routine,but more diabolical tortures were practiced,such as hanging people by their tongues on iron hooks or burying people to their waists and
watching them get torn apart by German shepherds.
So sickening was the spectacle that even the Nazis in the city were horrified,one proclaiming the massacre to be the work of "bestial machinery," 〉
・ 話の出所は
@の「首切り競争」ついて、
度胸をつけるなどという理由で、捕虜を銃剣で刺殺する例は少なくありませんでした。「100人斬り競争」と重ねた結果、出てきたものかと思われますが。
Aの強姦について、
東京裁判の判決に次のように書かれています。
〈 幼い少女と老女さえも、全市で多数に強姦された。そしてこれらの強姦に関連して、変態的と嗜虐的な行為の事例が多数あった。多数の婦女は、強姦されたのちに殺され、その死体は切断 された。占領後の1ヵ月の間に、約2万の強姦事件 が市内に発生した。〉
アイリス・チャンの記述は、この判決を参考にしたのかもしれません。「8万人」ついての根拠は記憶にありません。案外、1事件あたり平均4人とした結果なのかもしれませんが。この「2万人」という強姦事件数が事実に即したものかどうかは、 ⇒ 南 京 虐 殺 をご覧ください。
Bについて、
強姦の上、女性の内臓を取り出し・・・とあるのは、著者自身が中国の伝統的な「殺害方法」についての知識が、ほとんど皆無であったことを証明しています。「生きたまま壁に釘で打ちつけた」といった話は、中国に似た事例が存在するのではないかと思っています。
Cについて、
親に強制して娘を犯させるとったいった話は、日本人戦犯の「手記」「証言」などに何例かあったと思います。これらが逆輸出されて、日本兵の行為として書かれたものと思います。
Dについて、
「生き埋め、去勢 、内臓を切り刻み、人々を焼くことなどが通常のこととなった」というのですが、生き埋めにした例は1件(1人)だけ、日本兵の聞き取り調査中に聞いたことがありますので皆無とはいえませんが、「通常」というのは事実とかけ離れています。生き埋めは中国で多用された処刑法の一つで「活埋」(かつまい)というのだそうです。
また、「去勢」に該当するものとして「宮刑」(性器切除)が有名です。舌を裂く刑(せつ舌)もありましたし、「懸背」(けんせき)と称して「背骨をカギに吊るす」刑もあったといいます(以上は『酷刑』より)。となれば、推測ですが「舌を鉄のカギに吊るす」という刑罰がでてきてもおかしくないと思います。
(2) 25枚の写真より
この本には41枚の写真が収められています。このうちジョン・ラーベ(南京安全区国際委員会委員長)を含む顔写真が10枚余、松井 石根大将の南京入城式を撮った写真なども含まれていますので、残虐行為に関係ある写真は25枚程度と思われます。下記写真は25枚のうちの4枚です。
@ 左端の写真
まず、左端の写真ですが、キャプションには「日本軍は何千人もの女性を狩り集めた。大部分は強姦されたリ軍用売春婦にされた(軍事委員会 台北) 」と書いてあります。原文は以下の通りです。
The Japanese rounded up thousands of women. Most of them were gang raped or forced into military prostitution (Politbro of Military Commitee Taipei )
・ 『日寇暴行実録』 と 『外人目睹中之日軍暴行』
この写真と同じものが、1938(昭和13)年8月発行の『日寇暴行実録』 ( 国民政府軍事委員会政治部編) に掲載されていて、おそらく初出と思われます。
南京攻略戦後、最も早く出版されたものだっただけに、掲載されている数多くの写真は多くの本に転載されることになり、日本軍の残虐行為の証拠として、今日も影響力を持ちつづけています。その意味で、『日寇暴行実録』の存在は大きいものがあったのです。
もうひとつ、『日寇暴行実録』 と同様の役割を果たした『外人目睹中之日軍暴行』 (国民出版社、1938年8月) について触れておきます。
この本はオーストラリア人のハロルド・ティンパーリ(中国名、田 伯烈)が書いた『戦争とは何か』 (原著は英文、原題は WHAT WAR MEANS ) の漢訳版で、漢口と香港で出版されました。また、『外国人の見た日本軍の暴行』と題して日本語版も出ています。
掲載されている残虐写真は約30枚、『日寇暴行実録』掲載と同じ写真も含まれます。そもそも英語版に写真掲載はなかったのですが、漢訳版で写真がつけ加えらたのです。ちなみに日本語版は漢訳版の写真が不鮮明との理由で、別の残虐写真に置きかえられています。
この2書は「南京大虐殺」を世界に広めたという点で大きな役割を果たしましが、問題の多い書(宣伝本)であることも事実なのです。 ⇒ 「南京虐殺」5−3 を参照ください。
・ 慰安婦、強制連行と無関係
この写真は女性を無理やり連行のうえ強姦、輪姦した証拠写真としてしばしば利用されました。
朝日新聞の花形記者・本多勝一の『中国の日本軍』 (前出、上に写真)を例にとれば、同じ写真に「婦女子を狩り集めて連れて行く日本兵たち。強姦や輪姦は7、8歳の幼女から、70歳を越えた老女にまで及んだ 」 との説明をつけています。『中国の旅』の写真版だというこの本には、日本軍の残忍さを強調した写真が多用され、『 レイプ オブ 南京 』の写真と同一のものが何枚も載っています。
しかも上述したように、〈 中国での日本軍の残虐行為は本多勝一著 『中国の旅』 『中国の日本軍』が必読文献 。とくに後者の写真は良い教材となる 〉として、「指導書」は生徒に読ませるようにと推奨するのですから、教えられる生徒はまともな歴史観など持ちようもありません。
この連行写真の出所が秦 郁彦教授の手で明らかになりました。
1937(昭和12)年11月10日発行の『アサヒグラフ』に掲載された写真で、「我が兵士に護られて野良仕事より部落へかへる日の丸部落の女子供の群(10月14日熊崎特派員撮影)」と説明がついていました。写真を(拡大して)よく見れば笑顔の子供の姿もあり、連行とは何の関係もない写真であることは明白でした。
この写真は上に引用した笠原 十九司教授の『南京事件』(岩波新書)にも載りました。間違いとの指摘に対し笠原教授は「日本軍は平和な中国を印象づけるやらせ写真を数多く撮っており、この写真も軍と朝日のカメラマンによるやらせの光景である可能性もある」として、ニセ写真であることを当初は認めませんでした。
ですがこの解釈、中国の言い分ならばほぼ全面的に理解を示し、日本側の言い分にはあれこれ理屈をつけては否定する一例といっていいでしょう。結局、ニセ写真であることを笠原教授、岩波書店が認めざるを得ず、写真差し替えのうえで販売を継続することになったのでした。
A 左2枚目の写真
次に左から2番目の写真を見ておきます。キャプションは次のとおりです。
「日本兵はポルノ写真を撮るためにレイプした犠牲者に無理矢理ポーズをとらせ、強姦の土産にした (フィッチ家の好意による)
」
原文は〈 Japanese soldiers sometimes forced thier victims to pose in pornographic pictures ,which were kept as souvenirs of rape.(courtesy of the Fitch family ) 〉となっています。
この写真、どう思いますか。写っている男の写真、日本兵に見えますか。どことなく不自然に思うのですが。
出所の違う写真(左写真)がありますので、上の写真と比較してご覧ください。
左の写真は秦教授が台湾で入手した『鉄証如山』という写真集に載っていたものです。
写真の男の顔立ち、とても日本人には見えません。服装を見ても軍服でないことは明らかで、民間人の服装でしょう。それに鉄帽らしきものをかぶっています。また、上の写真では腕しか写っていなかった右側の男、中国人(現地人)のように見えます。
また、中央にある黒の長方形、上の写真にはありません。何が原因でなのでしょう。おそらく、壁には写っていると具合が悪いもの、例えば場所が特定できるような何かが書いてあったのではないでしょうか。そのため、両写真とも細工をしたのだろうと思います。この写真、土産用のエロ写真の可能性が高いと思います(当時、エロ写真やヤラセ写真は出回っていましたので)。
B 3枚目、4枚目の写真
3枚目の写真のキャプションは長いので省略しますが、「写真の信頼性について、この写真は漢口のファーマーがアメリカの雑誌『ルック』に送ったもの で、ファーマーによれば日本兵が撮ったもの。フィルムは上海に送られ、日本人経営の店で現像、そこの支那人従業員が余分に印刷、密かに持ち出したもの」(要約)とあります。
このような写真は、軍の検閲で「極秘」扱いされ、外部には出ないのが普通なのですが。ですから日本人経営の店で焼き増し、というのも合点のいかない話です。
右の端に立っている民間人風の男の服装にご注意ください。明らかに白の服装をしています。つまり夏姿です。となれば、これが真冬に起こった「南京虐殺」の現場写真だとはとてもいえないでしょう。この写真では小さく分かりにくいのですが、ほかにも夏の服装をした兵が何人も写っています。ですから、写真がかりに本物だとしても、南京には無関係だとは言えます。
4枚目の写真には「揚子江の土手に流れついたり、揚子江に投げ入れられた南京市民の死骸」〈 Corpses of Nanking Citizens were dragged to the banks of the Yangtze and thrown into the river(Moriyasa Murase). 〉との説明がついています。
写真の撮影者、村瀬 守保 (Moriyasa は間違い)について、1983(昭和58)年8月16日付け毎日新聞は「南京大虐殺は事実だ 証拠写真を元日本兵が撮影していた」 として大きく報じたことがありました。
村瀬は輜重第1連隊(東京)の2等兵として南京戦に参加、帰国(1940=昭和15年1月)するまでに3000枚もの写真を撮ったとのことです。これだけ多くの写真が撮れるということは、第1線の戦闘に参加していなかったと受け取れます。とにかく、100余枚の写真が選ばれ、写真集『私の従軍 中国戦線』 (日本機関紙出版センター、1987年)が出版されました。その1枚が上の写真です。
この写真が大量の遺体が揚子江沿岸にあったことを証明していますが、即「大虐殺」の証拠とはとてもいえません。現に、村瀬はこの現場を「下関埠頭」と説明していますが、殺害現場を目撃したわけではありません。
「第1線に近づくにつれて、部落を通過するたびに、虐殺死体 が目立ち始めました」などといとも簡単に「虐殺死体」と断定します。が、何を根拠に「虐殺死体」としたのでしょう。
南京に近いところでは、多くの死体があった部落も存在したことは事実でしょう。ですが、激しい戦闘が行われていたのですから、兵士の死者が多数でておかしくありません。遺棄死体が多かったことは兵士の記録などから明らかですから。なお、部落民は逃げて残っていないのが普通でした。
ではこの多数の死体はどうしてできたのか、また、下関(シャーカン)で虐殺があったとする証言もあります。これについても、別項 ⇒ 南 京 虐 殺 をご覧ください。
(3) ヤラセ写真について
国民党政府内に「国民党中央宣伝本部」という、簡単にいえば対敵宣伝を目的にした組織がありました。
この組織が作成、「極機密」とした『中央宣伝部国際宣伝処工作概要』 という文書が東中野 修道・亜細亜大学教授の手で発見されました。同教授の著作『南京事件 国民党極秘文書から読み解く』(草思社、2006年)に詳述されています。
この『工作概要』 に以下の一文があります。
〈 撮影した宣伝用写真を常に送って、
国内外の大新聞、雑誌、グラビア版に採用されただけでも、600社余りある。
宣伝用映画は、記録映画7部が製作され、すでにアメリカへ送られ上映された 〉
これだけでも大方の見当はつくでしょう。宣伝戦に関して彼らがいかに秀れ、我ら日本人がいかにボンヤリしているか、今日の状況も合わせ考えると、嘆かわしい話です。 ⇒ 南 京 虐 殺(5−3) をご覧ください。
(1) 南京城内での日本兵の蛮行
1937(昭和12)年12月、南京城内で中国人相手に残虐行為をはたらいたと、『一召集兵の体験した南京大虐殺 わが南京プラトーン』(東史郎著、青木書店、1987年)などで告発された第20連隊(京都・福知山)所属の下士官がいました。
著者・東 史郎 上等兵(当時)によって告発された直属上官・橋本分隊長(伍長)は、1993(平成5)年4月、記述は事実無根であり名誉を棄損されたとして、損害賠償を求めて裁判に訴えたのです。
裁判は最高裁判決で確定するまで約5年かかりましたが、原告側の訴えがほぼ完全に認められました。
とにかく、橋本分隊長が犯したとする「残虐」をお読みください。
〈 (1937年)12月21日
・・・中山通りにある最高法院は、灰色に塗られた大きな建物である。日本の司法省にあたろうか。
法院の前にぐしゃりとつぶれた自家用車が横倒しになっていた。道路の向こう側に沼があった。
どこからか、一人の支那人が引っぱられてきた。戦友たちは、仔犬をつかまえた子供のように彼をなぶっていたが、西本 は惨酷な一つの提案を出した。
つまり、彼を袋の中へ入れ、自動車のガソリンをかけ火をつけようというのである。
泣き叫ぶ支那人は、郵便袋の中へ入れられ、袋の口はしっかり締められた。彼は袋の中で暴れ、泣き、怒鳴った。袋はフッボールのようにけられ、野菜のように小便をかけられた。ぐしゃりとつぶれた自動車の中からガソリンを出した西本は、袋にぶっかけ、袋に長い紐をつけて引きずり回せるようにした。
心ある者は眉をひそめてこの惨酷な処置を見守っている。心なき者は面白がって声援する。
西本は火をつけた。ガソリンは一気に燃えあがった。と思うと、袋の中で言い知れぬ恐怖のわめきがあがって、こん身の力で袋が飛びあがった。袋はみずから飛びあがり、みずから転げた。
戦友のある者たちは、この残虐な火遊びに打ち興じて面白がった。袋は地獄の悲鳴をあげ、火玉のようにころげまわった。
袋の紐を持っていた西本は、
「オイ、そんなに熱ければ冷たくしてやろうか」
というと、手榴弾を二発袋の紐に結びつけて沼の中へ放り込んだ。火が消え袋が沈み、波紋のうねりが静まろうとしている時、手榴弾が水中で炸裂した。
水がごぼっと盛りあがって静まり、遊びが終わった。
こんな事は、戦場では何の罪悪でもない。ただ西本の残忍性に私たちがあきれただけである。
次の時にはこのようなことは少しの記憶も残さず、鼻唄を唄って歩いている一隊であった。 〉
(2) 原告側の完勝
文中では「西本」 とあり、これも争点のひとつになったのですが、西本が橋本分隊長を指していることは、他の著作物から明らかなことでした。
東京地裁は東側に50万円の支払いを命じて原告(橋本)の勝訴。つづく東京高裁も1審を不服とする東側の控訴を棄却、つづく2000年2月29日に、最高裁は1審、2審の判決を支持して裁判は終了します。判決文を読めばわかることですが、とくに東京高裁は橋本側の主張をほぼ全面的に認めています。
東は、「 元伍長(橋本氏のこと)は南京事件を虚構にしたい旧職業軍人たちに操られているだけ。絶対に負けない。中国もこの裁判に注目しており、わたしが負ければ国際問題になる」 と発言していたように、中国が東側に肩入れしたのはいうまでもありません。
その裁判に完敗したとあって、「日本の司法判断は不当」 と中国のマスコミは一斉に非難、また、中国外務省も判決を「不当」とし、「歴史の事実を顧みない」(左写真、1998年12月26日付け産経、高裁判決時) などとさかんに裁判の非を鳴らしました。
そういえば、原告側、被告側の記者会見の場に中国のメディアが取材にきていましたが、傍若無人というかルール無視の彼らの振る舞いには不愉快な思いをさせられました(日本人記者はおとなしく、たしなめるでもなかった)。
もちろん、この残虐行為が事実であるわけがありません。
ですが、たったこれだけのことを虚偽と証明するために、約5年の歳月と多大な労力、それに費用を原告側が負ったのです。
この裁判中、原告の橋本氏、この裁判で中心的役割を果たした板倉由明(故人)、それに傍聴役程度の私、ときには橋本分隊長の戦友も加わって、裁判の帰路、有楽町駅近くの「ニュー東京」でよく食事をともにしたものです。
何度か中国を訪れていた橋本は、「あんなことを実際にやっていたなら、怖くて中国にいけるわけがありませんよ」 と話していたことを思い出します。橋本氏はまれにみる誠実なお人柄だったと私は思っています。幸いにもお元気で、今年(2011年)も年賀状がとどきました。
― 2006年 9月22日より掲載 ―
(2011年11月 4日、大幅に加筆)