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【社会】

1964年の「お・も・て・な・し」 東京五輪苦心のレシピ

1964年東京五輪で作られた料理のレシピ=福岡市中央区で

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 シタビラメのチーズ焼きや牛肉の煮込み、牛肉パイ包み焼き…。一九六四年東京五輪の際に作られた各国料理のレシピが、今も福岡市の中村調理製菓専門学校で大切に保管されている。海外の選手らを精いっぱいもてなそうとした料理人の努力の結晶だ。

 レシピは、選手村の総料理長馬場久(ひさし)さんと、村内の「富士食堂」の料理長で後に帝国ホテルの総料理長を務めた村上信夫さん(共に故人)らが制作に関わった。二人が同校の特別講師を務めていた縁で遺品を譲り受けた。

 生前の村上さんを知る校長の中村哲(てつ)さん(60)は、時を経て変色したレシピに目をやりながら「当時、海外の国々からは日本でまともな料理が出せるはずがないと不安がられていた」と話す。

 そんな見方に対し、海外の選手らをがっかりさせてはいけないと、村上さんらは各国の在日大使館を訪ね、職員の妻らから自国料理の作り方を聞き出した。「はるばる来る選手らのために、何とか世界の味を再現しようと考えたのでしょう」と中村さん。

 選手役員は七千人に上り、一日二万食もの食事を提供した選手村では、食材調達も課題となった。一度に仕入れると、価格が高騰するため、大会前から肉や魚、野菜を買いだめ冷凍保存した。

 ただ、冷凍設備も不十分で「生臭くてまずい」というイメージが定着していた冷凍食材。どうすれば味や質が落ちないか、村上さんらは試行錯誤を重ねた。そのかいあって、大会前の試食会で冷凍食材を使った料理をこっそりと出したが誰も気付かなかったという。

 宗教上の習慣の違いにも悩んだ。イスラム教徒の選手らに牛や羊、鶏の料理を出すためには、戒律に従って処理した食材が必要だが、扱う店がなかった。東京都内に住むイスラム教の導師の男性を何とか探し当て、正しく処理してもらった。

 外国人選手らを第一級の「おもてなし」の心で迎えた料理人たち。一方で、日本人選手がメダルを取ると赤飯を炊いて祝ったという。

 二〇二〇年の東京五輪開催が決まり、中村さんは先輩たちの奮闘ぶりをあらためて生徒に伝えている。「二〇年には卒業生が料理人として活躍しているかもしれませんね」。遺志は伝わるだろうか。競技とは別の楽しみを胸に七年後を待つ。

 

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