井上源吉『戦地憲兵−中国派遣憲兵の10年間』(図書出版 1980年11月20日)−その2
〈遺書を書く(1937年4月)〉
四月上句のことだった。なぜか「今日は午後の演習を早じまいにする。初年兵は班内において待機せよ」という命令が出た。班室へ帰った私たちが待つほどもなくあらわれた中隊長は、
「君たちは軍人である以上すでに覚悟はできていろものと思うが、今やいつ不測の事態がおこらぬとも知れぬ情勢となった。死後に悔いの残らんよう、おのおの故郷の父母にたいして遺言を書け。また遺言を入れた封筒には頭髪または爪を切って入れておけ。戦場では必ず遺骨がひろえるとはかぎらんからな。諸君の遺書は中隊で一括して保管をする。各哲長はあとで遺言を集めて中隊事務室まで届けよ」
こういい渡して去っていった。
「おい、どうやら近いうちに戦争がはじまろらしいな。いつごろになるのかな」
「いや別に今すぐはじまるというわけじゃないだろう。万一のときの覚悟を決めておくためだよ」
「俺はまだすぐにはじまるとは思わないな。もしはじまるとしたら満州事変記念日の九月十八日じゃないかな」
「そうかも知れんな。いざとなれば仕方ないだろう。けど俺は長男だからちょっと困るなあ」
「お前は弟がいるからまだいいよ。俺は一人っ子だから年とった親たちが心配になるんだ」
以前から覚悟はしていても、いざ遺書を書けといわれると、急に死を身近に感じ、せっぱつまった気持をどうすることもできず、初年兵たちは小声でボソボソとささやいていた。誰もすきこのんで兵隊になったわけじゃない、軍国に生まれた男の宿命として徴兵され、好むと好まざるとにかかわらずやむを得ずして入営した者が多いのだ。誰がみずから死を望んでいるだろう。できることなら二年間を無事につとめ、晴れて除隊できる日を夢見ているのだが、こんなことは軍隊内で口に出せることではなかった。正直なところ心にもないことを格好つけて書くのだから、遺言を書くのはなかなかむつかしく、ペンの運びは遅々として進まなかった。
それでも書いているうちに次第にその気になり、胸がつまって父上さま母上さま、僕なきあともどうぞお体を大切にして長生きをして下さい、と書くころには思わず涙があふれて便箋の上ヘポトリと落ちた。はずかしい気がしてそっと見まわすと、みな深刻な顔をして考えこんでいたが、誰もがみな同じような心境になっていたのだろう。「こら、何をグズグズしとる、早く書かんか、日が暮れてしまうぞ!」という班長の声にハッとわれにかえった。(21-22頁)
〈通州事件について(1937年7月31日)〉
この日のわが方の犠牲者は、守備隊をのぞき二百九十二名で、その内訳は在留邦人百四名、朝鮮人百八名、冀東政府職員八十名であったが、そのほとんどが非戦闘員であった。軍人の戦死はやむを得ぬとしても悲惨だったのは在留邦人たちにたいする残虐行為であった。男は手あたり次第惨殺され、婦人たちにたいしては数十人がたらいまわしに乱暴したうえ、両足を二頭の馬の尾に結んで股ざきにし、乳幼児は屋根に投げあげて干乾しにされた、というような話が伝わってきたのである。
とりわけ料亭錦水楼における行為は、筆舌につくしがたいものだったという。ここに乱入した彼らは前記のような残虐行為をしたうえ、芸者、仲居をはじめとする女達を全裸にし、二、三名ずつ髪の毛を結びあわせ、馬の尾につないで市内を引きまわしたのち、皮膚が破れ血まみれになった体を西門外に運び、生き埋めしたというのである。いまから考えると、戦闘中のことであるから、事実関係を確かめるすべもなく、真疑のほどはわからないのだが、私はそれでもやはり深い悲しみを禁じえない。もちろんそれは、隣国を蹂躙(じゅうりん)した日本軍の数限りない残虐行為にも同じことがいえる。日本人であれ中国人であれ、戦争の最大の犠牲者は、非戦闘員である無辜(むこ)の人々だったのである。(43頁)
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2013/10/7(月) 午前 3:17
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