昨日は『あまちゃん』の最終回。
これで全156回が終了しました。
『あまちゃん』については101話まで見たときに一度書いたのですが、そのときも宮藤官九郎がいかに優秀な作家であるかを述べました。
その後、特に9月以降の震災後の展開はやや厳しい部分もありましたが、最終回に近づくにつれてこの作品が本当に凄いドラマであり、宮藤官九郎という人がやはり作家としてとてつもない存在であることが分かりました。
このドラマは普通のテレビドラマとは全く違います。
何人かの方が指摘していますが、関橋英作さんというマーケッターの方が日経ビジネスで書かれているように、『あまちゃん』という作品は典型的な神話パターンで構成されている、ということです。
もちろん、大抵の物語には神話パターンが内包されているのは当然なのですが、『あまちゃん』においては通常のドラマの完成度を放棄してでも強い神話性を有していると言うことができます。
私は、途中の段階で「ドラマとしての構築性は甘いな」と思ったのですが、決してそうではありませんでした。神話構造を重視したがゆえに、物語のリアリズムが後退したのです。
それが明確に顕れているのが、ヒロインの天野アキという存在でしょう。
そもそも、今「ヒロインの」と言いましたが、彼女はヒロインなのでしょうか?
違いますね。
少なくとも普通のヒロイン、ましてや連続テレビ小説のヒロインではないのです。
あれは典型的なトリックスターというやつです。
トリックスターとは何か?
先ほど、『中森明夫×宇野常寛 『あまちゃん』を語りつくす!』というニコニコ生放送を見たのですが、その中で中森氏がアキを子供のままの存在のように言っていましたが、それは半分しか当たっていないということです。
確かに、アキはいつまでたっても子供です。しかし、一方でアイドルを夢見たり母親が失踪してグレてしまうユイよりも大人なのです。
また、北三陸に来ると誰よりも訛りすぎている田舎者です。しかし、東京のアメ横女学園では誰よりも醒めている都会人なのです。
象徴的なのはグレてしまったユイとアキが海女カフェで喧嘩するシーンで、「ダサいくらいなんだよ、我慢しろよ」という台詞はアキの一方的な大人としての言葉であり、「東京へ来ない?」などと突然標準語になって田舎のヤンキーに成り果てたユイを追い詰める様は、残酷なトリックスターそのものだったと思います。
あるいは、海女さんから男くさい南部ダイバーに(対照的にいっそんがオカマっぽくなるのが面白い)、さらにまたアイドルへと男女の境界を往来します。
そして、アメ女の中では最下位の地位にありながら、大女優鈴鹿ひろ美とタメ口で話し、最後は水口に「変わったのは鈴鹿さんの方だ」などと言わせるほど上位に立ってしまうのです。
この相反する両極端の特性を同時に備えている者、wikipediaによれば「神話や物語の中で、神や自然界の秩序を破り、物語を引っかき回すいたずら好きとして描かれる人物のこと。善と悪、破壊と生産、賢者と愚者など、全く異なる二面性を併せ持つのが特徴」とする者がトリックスターということです。
このトリックスターである天野アキをリアリズムの観点から見ると、かなりの無理が生じてしまいます。
田舎に行ったら突然訛る女子高生なんていないし、いくらバカでも大女優にあんな風に接する奴もいないでしょう。
また、海女になってアイドルになって東京に行ったと思ったら田舎に戻ってというストーリーの基盤となるアキの支離滅裂な行動もさすがにあり得ないでしょう。
実際、『あまちゃん』を評価しない人の多くが、このようなリアリズムの欠如を設定の稚拙さと考えたようです。
「アキはアスペルガーか」などと言っている人もいました。
しかし、アキがトリックスターであることを理解すれば、このドラマの本質的構造が理解できます。
例えば宇野氏は「このドラマは天野春子の物語だ」などと言っていましたが、トリックスターであるアキの存在を前提にすると実は誰の物語でもいいのです。
大吉でも鈴鹿ひろ美でもユイでも夏ばっぱでも、アキに踊らされるようにそれぞれの物語が展開され、逆にアキの物語は種市との関係など中途半端な終わり方でしたが、それでいいのです。
また、この天野アキ=トリックスター説を指摘している方は検索すると二人くらいいましたが、一人の方がツイッターで「ミズタクは世の中とつなぐ執事、ドンキホーテに仕えるサンチョ・パンサ役か」と書かれていて、確かにそうだと思いました。
以上のように『あまちゃん』は強い神話性を有していますが、終わってみれば見事に収束していった構成を考えると、宮藤はそのことを意識して作品を書いたと思います。
また、能年玲奈の天然ボケ的なキャラクターが激しいシーンになると突然覚醒してしまうような、上手いんだか下手なんだかよく分からない演技が、アキという役に大当たりだったことは、この作品の最大の成功要因と言えるでしょう。
ただ、この作品が凄いのは神話的だからではありません。
神話的な作品というのはテレビドラマでは少ないでしょうが、演劇などではそれなりにあります。
そこで、このドラマのもう一つの側面について考えたいのですが、テレビを通した80年代の日本の共通体験を小泉今日子のような当事者を起用しつつ、小ネタを頻繁に織り交ぜて面白おかしく見せるという手法がいつものクドカン以上に徹底して行われたわけです。
ドラマとリアルの境界を見ている人のメディアの受容経験を通して揺さぶるという通常のリアリズムとは全く異なるリアルの追求、言わば再帰的リアリズムとでも称するべき手法は宮藤作品において様々な形で行われるわけですが、今回はアイドルの話ということで際立っていました。
もちろん、このことは多くの人が分かっていますし、ネタ解説などでいろいろ言及されています。これこそがクドカン作品の醍醐味だと思われているかもしれません。
しかし、『あまちゃん』の本当に凄いところはこの部分だけでもないのです。
そうではなく、前者の神話性と後者の再帰的リアリズムを同時にやっているところにあるのです。
もし、再帰的リアリズムだけならば『カーネーション』や前作の『純と愛』にも見受けられました。
これを強調したところで、「さすがクドカン、一枚上手」程度に評価されるに過ぎません。
極端な神話性と極端な再帰的リアリズムは、伝統的な連続テレビ小説からそれぞれ全く反対方向にかけ離れたものです。
本来なら同時にやるなんて考えられないことで、余程の才覚と幸運な偶然がなければ必ず破綻してしまうはずです。
それが成功したのは、神話的でありながら大震災を迎えても人が死んだり現実にあった破局をあえて描かずに日常性の延長に徹することで、再帰的リアリズムとのバランスを保てたからでしょう。
それにより今の日本のど真ん中に連続テレビ小説という古いフォーマットを再配置したことこそが、『あまちゃん』の本質的な凄さだと思います。
そして私は、作品それ自体よりも宮藤官九郎のこのやり方にこそ、希望を見い出すのです。
これはドラマ制作だけに限らないことです。
宇野氏はニコニコ生放送で、「『あまちゃん』は過去の清算であって未来のあり方を語る作品ではない」というようなことを言っておりましたが、私は全くそうは思いませんね。
両極端なものを無謀にも同時にやることで古いものを乗り越えること。
言わば、それ自体が上で述べたトリックスター的であるのですが、私はこれこそが今必要なことだと思うのです。
トリックスターという言葉は、たんに「場をかき乱す奴」みたいな意味で使われることが多いですが、元々はかつての構造主義というか文化人類学の用語なので古い概念と思われるかも知れません。
しかし、人々がネットで「意見」などを言い合ってバカげた対立が先鋭化している今こそ重要な概念ではないでしょうか。
それが、『あまちゃん』を書いた宮藤官九郎、そして見事にトリックスターを演じた能年玲奈から私が受け取ったメッセージです。
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