2013年9月30日月曜日

『あまちゃん』と歌、あるいは潮騒のメモリーズは宇多田ヒカルだった

先日は、『あまちゃん』が作られた構造的手法から私が一つの希望をメッセージとして受け取った、という話を書きました。

ただ、これは作品のメッセージというよりもメタメッセージという方が相応しいでしょう。

それでは、『あまちゃん』という作品内容からはどのようなメッセージが読み取れるのか。

言うまでもなく、それは見た人それぞれですね。

地方出身、在住の方であれば自分の地元の良さを見直すきっかけになったという方も多いでしょう。
また、震災の被災者の方であれば復興に向けて元気をもらった、という方もたくさんおられると思います。
あるいは、親子関係や夫婦関係、友人との関係を考える作品だったという方もいるでしょう。
いい歳をしてアイドルの追っかけをやっている人がヒビキ一郎を見て「四十肩に気をつけねば」と思うこともあれば、秋元康が太巻を見て「ゆうゆには悪いことをした」などと自らの過去を振り返ったりすることもあるでしょう。
それでいいのです。
このように見た人それぞれの多様な想いに響く作品だからこそ、国民的と言っていいようなドラマに成り得たのだし、それを、震災後人々はバラバラになってしまったと言われるような状況において可能にしたこと自体に私は希望を感じたのですから。

ところで、私自身は『あまちゃん』を見たことで何を伝えられたのか?

一言で言えば、「アイドルと歌はどうあるべきか?」ということです。


一昨日の『中森明夫×宇野常寛 『あまちゃん』を語りつくす!』というニコニコ生放送で、中森氏が『あまちゃん』とAKBの対立関係について考える必要がある、というようなことを言っていたと思います。
私も同感です。
宇野氏は、『あまちゃん』ではAKBが実践している新しいアイドルのあり方について描けていないのでこのドラマは過去を清算する役割しかないなどと言っておりましたが、それはAKBファンが些末な差異に過剰に現代性を見ているとしか思えません。

中森氏は雑誌のインタビューを引用してクドカンのAKBに対する無関心さを挙げ、さらに踏み込んで本当は嫌いなんじゃないかということを推測していましたが、私もそう思います。
宮藤官九郎という人は1970年生まれで、中心世代より若干年下になりますがおニャン子クラブに直接影響を受けたと世代と言えるでしょう。インタビューでも『夕焼けニャンニャン』を見ていた話をよくしています。
また、2年前にやっていた『シロウト名鑑』という番組で「割れたチョコレート」という素人アイドルグループを作ったりしていましたが、あれを見ても実に夕ニャン-おニャン子世代だということがよく分かります。
と、同時にこの人はパンクロックにも強い影響を受けています。
『あまちゃん』の音楽番組でわざわざ「スターリン」(という有名な日本のパンクバンドがあるわけですが)Tシャツを着て登場するちょっと痛いパンクおじさんです。
そして、これが重要なポイントですがパンクとおニャン子は共存するのです。
私自身がそうでしたからよく分かります。
理由はおニャン子クラブこそが日本におけるパンクだったからです。
「ビートルズもTレックスもなかった日本にパンクロックなど存在するはずがない。しかし、確かにそれは存在した。全く別のものとして」というのが宮藤官九郎が監督した大傑作映画、『少年メリケンサック』の教えるところですが、それでは日本で英国におけるパンクの役割を果たしたのは何かと考えると、それはおニャン子クラブ以外にはないのです。

そんなクドカンがパンク精神の欠片もないAKBなどを、小バカにしてネタにするのは当然なのですが、中森氏はその辺りのところを敏感に感じ取ったようです。


余談になりますが、私の記憶では83~84年当時、小泉今日子、というよりKyon2を時代の象徴として祭り上げた中森氏他2名の「新人類」によるニューアカサブカル言説の輝きが、85年以降のおニャン子の登場によって急速に失われていったという印象があります。
フランス現代思想風にイメージとして語られた資本主義の速度がおニャン子によって現実化した瞬間、その価値を失ったといいますか。
そして、あの当時中森氏のような「新人類」はそのことに為す術も無く傍観していたのです。
したがって、中森氏は宇野氏のような若い連中といっしょになってAKBなどにうつつを抜かしている場合ではないのです。
今度こそ抵抗しなければならないのです。
『あまちゃん』がそのきっかけを与えたとすれば素晴らしいことです。


さらに重要なことは、「新人類」の人達が小泉今日子=Kyon2を賞賛した最大の根拠として挙げられるのが、「何も考えていないこと」=「無意識の強度」とも言うべきものだったことです。
実際に当時の小泉が本当に何も考えていなかったかは分かるはずもありませんが、「ブリッ子」などと言われた松田聖子には自分をかわいく見せようとする自意識が多分に垣間見えたのに対し、小泉にはそれが感じられなかったことは確かで、同期の他のアイドルと比べても内面を感じさせないアイドルの表層性は際立っていました。

この「無意識の強度」という問題について、『あまちゃん』で決定的に重要なシーンがあります。

小泉演じる春子が、ウニが獲れないと悩んでいるアキに対して次のようにアドバイスするのです。

「長く深く潜るために必要なものって何だと思う?」
「(人間が一番酸素を使う器官は脳だと説明して)脳みそを使えば使うほど、考えれば考えるほど酸素を必要とするんだってよ」

それに対してアキが、「脳みそを使わなければ長く潜れるってことか。だったら得意中の得意だっぺ。楽勝だべ」などと気楽に言って春子を呆れさせるのですが、このやり取りには「無意識とバカ」、つまり「人はバカにならない限り真の無意識に達することはできない」という根源的な問題が提示されています。

中森氏は、クドカンが能年がグループ魂に加入したときの名前を「空洞」にするというラジオでの話を引用し、宮藤が能年を「空っぽの存在」(「心がない」などと言っておりましたが)と見てアキというキャラクターを作ったのではないか、という指摘をしておりましたが私もそう思います。

中森氏は『午前32時の能年玲奈』などという本を出すほど能年玲奈を評価しているようでしたが、80年代の「無意識のKyon2」から「空洞の能年」に一つの可能性を見いだしているのかも知れません。


ここで本題に戻りますが、アイドルが本来あるべき姿は春子の発する言葉に込められていると思います。

「普通にやって普通に売れるもん作りなさいよ」

AKB的な仕掛けで売るようなアイドルはダメだってことです。

また、春子のこの台詞は太巻が『地元に帰ろう』のボーカルにピッチコレクトを掛け、「ロボットみたいな宇宙人みたいな声」に変更したことに怒鳴り込んで来たときのものであって、直接的にはPerfume批判であることも見逃せません(合同結婚式の余興ではPerfumeでヒビキ一郎が怪我をするという始末です)。

ようするに、仕掛けのAKBと声いじりのPerfumeという現代アイドルの二つの主要な方向性を同時に批判しているわけです。


一方で、春子と鈴鹿ひろ美の『潮騒のメモリー』を巡る関係も極めて重要な問題を孕んでいます。

おさらいしますと、鈴鹿ひろ美があまりにも音痴だったために春子が影武者として代わりにレコーディングをし、歌番組で吹き替えで歌ったのですね。
春子はそのせいでデビュー出来ず、ずっとわだかまりを持っていたのですが、『潮騒のメモリー』を歌うアキを通して鈴鹿と一応和解します。
その後、鈴鹿が復興イベントで自らの声で歌いたいと言い出して、春子が特訓するのですが、その成果がよくわからないまま本番で鈴鹿は見事な歌を聴かせるというわけです。
ところがこのときに春子が考えるのです、実はわざとだったのではないかと。
つまり、本当は上手く歌えるのに今までわざと下手に歌っていたのではないかと思うわけです。
その真相はあきらにされないまま、二人は春子の84年部屋で真の和解を遂げるのです。

この奇妙に入り組んだストーリーには歌についての真実が込められていると思います。

まず、歌は自分の声で歌わねばならない。
そして、その上手下手については実は誰にも分からないということです。
分からないからこそ面白いのであって、機械的に一つの方向に矯正されればそれはつまらないのです。

例えば、甲斐さんに「4番より春ちゃんのほうがうまいしさ」と指摘された新田恵利が下手かどうかは実は分からないのです。
本人は放送後、ブログで不満を述べていましたが、私は実は上手いと思っています。
あの音程の動きはマイ・ブラッディ・ヴァレンタインに通じるものがあります。

また、実際の小泉今日子と薬師丸ひろ子を考えても面白いですね。

二人の歌い方は対照的で小泉は話し声ベースの子供的男性的声、薬師丸はファルセットベースの大人的女性的声。
この二つの声が最後に交差し和解するというのも、歌が持つ本来的な両義性を伝えています。


ところで、最終回にはこの二人は出てきませんでした。
歌はアキとユイの潮騒のメモリーズに託されたのでしょうか?

私は上で述べたように、おニャン子世代としてのクドカンを考えていたので、当初はAKB的なものに対しておニャン子的なものを対峙する構図を考えていました。
実際に、雑多な者の寄せ集めであるGMTはおニャン子的ではあります。
その中から潮騒のメモリーズが、おニャン子クラブのコアであったうしろ指さされ組のように真のアイドルとして描かれることを想像していましたが、違いましたね。
潮騒のメモリーズはアキとユイの友情の象徴ではあるものの、歌はアイドルであるための一つの手段に過ぎないのです。
その意味では今流行っているアイドル的であると言えるでしょう。


一方で私はドラマを見ていて、能年玲奈が演じる天野アキは誰かに似ていると思っていました。
途中で気がついたのですが、それは宇多田ヒカルです。

ニューヨークに生まれ日本でブレイクした後、アメリカ進出したもののパッとせず再び日本に戻って活躍した宇多田ヒカルは、東京に生まれ北三陸でブレイクした後、東京に行きアイドルになったもののパッとせず再び北三陸に戻って活躍した天野アキと重なります。
そして、曲は売れても結局は自分の望むような歌手になれなかった藤圭子と、影武者としての自分の声がヒットしても自身としてはデビューできなかった春子。両者が同じ相手と結婚、離婚を繰り返し、娘に夢を託すところも同じです。
また、宇多田の「U3MUSIC」のように家族で立ち上げた芸能事務所の名前が「スリーJプロダクション」ということを考えても、宇多田ヒカルとアキの類似性はある程度考えられていたのかもしれません。

私は宇多田はアイドルだと思います。
いや、宇多田ヒカルこそが最後のアイドル歌手なのです。

天野アキ=宇多田ヒカル説は、『あまちゃん』におけるアイドルと歌の問題を考えるとき、一つのキーになるでしょう。

ただ、この主張には一つ問題があります。

ユイの立場がないのです。これではいくらなんでもユイが不憫です。
と思っていたところ、週刊誌に母親が亡くなってグレてしまい、ブティック今野で買ったような豹柄ドレス姿でタバコをふかす宇多田の写真が掲載されてしまいました。

ユイです。宇多田のユイ化が地球の裏側で『あまちゃん』と同時進行で進んでいたのです!

潮騒のメモリーズの本質は真のアイドルとしての宇多田ヒカルだったのです。

0 件のコメント: