2007-06-26軍慰安所は日本軍の後方施設

注記:
すでに私の「日本軍の慰安所政策について」http://www.bun.kyoto-u.ac.jp/~knagai/works/guniansyo.html
をお読みになった方には申し訳ありませんが、以下はその一部の焼き直しです。ただ事実広告のこともあるので、主旨を短くまとめてみました。
【追記】
なお、この一文は、この日記の別のエントリ( http://ianhu.g.hatena.ne.jp/nagaikazu/20070414 )で述べた以下の説の資料的根拠を示したものでもあります。
3a:軍慰安所は軍が設置した性欲処理のための後方施設であると把握しており、軍はその経営を民間業者に請け負わせていた。それゆえ、実際に慰安婦の募集と慰安所の運営に直接従事していたのが、民間業者だったとしても、慰安所の設置主体が軍であり、しかも慰安所では「強制売春」が行われ、かつ軍がそれを容認していた以上、「強制売春」の「強制」の主体は軍であり、それについて軍の責任は免れないと考える。
また、念のために確認しておくと、この3a説および以下の本文は、軍慰安所をもって公娼制度の戦地版であるとする「戦地公娼制度」説(その主唱者は秦郁彦氏)への批判にほかなりません。
本文
アメリカ下院での慰安婦問題決議案をめぐって、安倍首相の発言が国際的に問題になった時、下村博文官房副長官が「慰安婦がいたことは事実。だが、日本軍が関与していたわけではない」と発言し、のちにその発言は「「(慰安婦の)強制連行について軍の関与はなかったということを述べたものだ」と修正したことがあった。
日本軍の慰安所が、軍の後方施設であったことは動かすことのできない事実なのだが、一部の研究者たとえば秦郁彦氏などはそのことを認めていない。1993年の「河野談話」見直しの動きが一部にあることを考えると、政界でもそうらしい。そこで、軍慰安所が軍の後方施設であったことを、いくつかの史料を用いて明確にしておきたい。
日中戦争がはじまってしばらくして(1937年9月)、陸軍大臣が「野戦酒保規程」という名の規則を改定した(1937年9月29日制定陸達第48号「野戦酒保規程改正」)。酒保というのは、軍隊内の物品販売所のことであり、天皇の定めた軍令である軍隊内務書にも規定されている、れっきとした軍の施設である。野戦酒保は、動員されて戦地におもむく部隊に付設される酒保で、これまた軍の後方施設の一種である。
「野戦酒保規程」はもともとは日露戦争の時に作られたのだが、この1937年9月の改正により、はじめて野戦酒保に「慰安施設」を付設することが許されるようになった。日中戦争時に生まれた陸軍の慰安所は、陸軍の編制上からいえば、この野戦酒保に付属する「慰安施設」なのである。そのことは以下の史料からわかる。
この改正がおこなわれてから3ヶ月ほどして(南京陥落の前後のことだが)、上海、南京方面に派遣された中支那方面軍司令部が、実際に軍慰安所を設置することを決定し、指揮下の各軍にその実施を命じた。上海派遣軍参謀長の飯沼守陸軍少将と同参謀副長の上村利通陸軍大佐は、当時の日記に次のように書いている。
「慰安施設の件方面軍より書類来り、実施を取計ふ」
「迅速に女郎屋を設ける件に就き長〔勇〕中佐に依頼す」
「南京慰安所の開設に就て第二課案を審議す」
この日記の記述から、この時上海派遣軍に設置された「慰安施設」は「女郎屋」であり、「南京慰安所」と呼ばれたことがわかる。逆に言えば、飯沼参謀長は「女郎屋」である「南京慰安所」を軍の「慰安施設」と見なしていたのである。この「慰安施設」とは「野戦酒保規程」に定める野戦酒保付設の「慰安施設」以外にはありえない。
また「野戦酒保規程」によれば、軍の認可する請負商人に酒保の経営を委託し、その商人を軍属とすることが認められている。これを適用すれば、軍慰安所の経営や軍慰安所従業婦(すなわち慰安婦)の募集を民間の売春業者に委託し、彼らに軍属の身分を与えることも可能となる。逆に言えば、軍慰安所の受託経営者は軍の請負商人だったことをこれは意味する。
これ以降、慰安所の設置および運営が陸軍の後方業務の一部となったことは、1941年に陸軍経理学校教官が経理将校教育のために執筆した『初級作戦給養百題』(陸軍主計団記事発行部刊行)において、「慰安所ノ設置」が「酒保ノ開設」と並んで経理将校の行うべき「作戦給養業務」のひとつとされていることからもわかる。
同じ頃陸軍経理学校で教育を受けた鹿内隆氏(元産経新聞社主)は、戦後になって「慰安所の開設」について自分が受けた教育を回想し、
「そのときに調弁する女の耐久度とか消耗度、それにどこの女がいいいとか悪いとか、それからムシロをくぐってから出て来るまでの、〝持ち時間〟が、将校は何分、下士官は何分……といったこと」(櫻田武・鹿内信隆『いま明かす戦後秘史』上巻、サンケイ出版、1983年)
を規定した「ピー屋設置要綱」なるものが存在していた事実を明らかにしている。
もちろん「ピー屋設置要綱」というのは隠語であって、「慰安所設置要綱」が正しいと思われる。この鹿内氏の回想は、陸軍経理学校において慰安所設置業務のためのマニュアルができていたことを明らかにするとともに、当時慰安所といえば、もっぱら将兵向けの性欲処理施設を指していたことをも同時に示している。慰安所が軍の後方施設であり、軍の編制に深くくみこまれていたことを如実に物語る証言といえよう。
このように軍慰安所が軍の後方施設であったことは動かしえない歴史的事実であり、そうである以上、「軍が関与していなかった」などとはとうていいえないであろう。また、軍慰安所が軍の後方施設である以上、そこでおこなわれた性欲処理労働の強制や就労詐欺や誘拐による慰安婦の調達についても、最終的な責任が軍に帰属するのは、これまた否定できない事実であろう。
なお、陸達第48号「野戦酒保規程改正」は、アジア歴史資料センターで閲覧可能である。レファレンスコードは、C01001469500
ちょっと前のことで恐縮なのですが、
http://d.hatena.ne.jp/noharra/comment?date=20070412#c
において
> 陸軍でいえば、大隊以上の部隊には慰安所を設置する権限がみとめられていました。
と書いておられたことについてお尋ねしたいと思います。これは経理将校と軍医が中隊以下の部隊にはいないこと(とりあえず歩兵部隊の編成を調べただけですが)と関係していると考えてよいのでしょうか? 参戦将兵の回想記を読んでも高度分散配置が軍紀に相当の悪影響を与えていることがうかがえたので調べていて考えたことなのですが。
私が、
> 陸軍でいえば、大隊以上の部隊には慰安所を設置する権限がみとめられていました。
と書いた根拠は、昭和12年陸達第48号「野戦酒保規程」第3条の以下の規程に根拠を置いています。
第三条 野戦酒保ハ所要ニ応ジ高等司令部、聯隊、大隊、病院及編制定員五百名以上ノ部隊ニ之ヲ設置ス
前項以外ノ部隊ニ在リテハ最寄部隊ノ野戦酒保ヨリ酒保品ノ供給ヲ受クルヲ本則トス 但シ必要アルトキハ所管長官ノ認可ヲ受ケ当該部隊ニ野戦酒保ヲ設置スルコトヲ得
陸軍の慰安所は編制上は野戦酒保付属の慰安施設ですので、その設置についても野戦酒保と同じだとみて、上記のように書いたわけです。さらに、秦郁彦『慰安婦と戦場の性』にも「慰安所、女については大隊長以上において申請許可を受けたる後、設置」というルールのあったことが紹介されていることも、根拠のひとつとしました。
陸軍省がなぜ、大隊以上としたのか、その理由までは考えていませんでしたが、野戦酒保ですので、その運営に関しては当然酒保資金や酒保品の管理・運用について経理業務が発生しますから、経理将校がいないと実際の運用は難しいでしょうし、さらに慰安所の場合、性病検査が不可欠ですので、ご指摘のように軍医が必要ですね。
私もすべての部隊の戦時編制をしっているわけではありませんが、経理将校と軍医の配属は、たしかにご指摘のとおり、大隊までですので、Apemanさんの推測は正しいと思われます。
しかし、現在みることのできる慰安所に関する軍令規則は、そのほとんどが慰安所を設置した部隊レベルでの利用規則および慰安所の受託業者が守らなければ行けない条項を定めたものです。おそらく陸軍省レベルで、内規のようなかたちで、慰安所の設置基準(どのレベルの団隊にどの程度の規模の慰安所の設置を認めるかを定めたもの)あったのではないかと推測されますが、残っていないので、確かなことはわりません。
ということで、申し訳ありませんが、Apemanさんの推測は、たぶんまちがってはいないけれども、それを裏付けるにたる軍の資料については、よくわかりませんというのが、現時点での私のお答えということになります。
一足飛びに結論を出してしまうことへの戒めとしても、たいへん勉強になりました。