「慰安婦と戦場の性」秦郁彦(インドネシア関連記述その1)

投稿者: シバタ (2002 年 02 月 14 日 21:14:56)
回答先: 自由主義史観研究会の主張 / 投稿者: シバタ (2002 年 02 月 14 日 21:12:50)

「慰安婦と戦場の性」秦郁彦著(新潮選書1999年)から

113-114ページ(第四章 太平洋戦線では)
 現地人女性を”妾”として囲う例はフィリピンでも見られたが、とくに、「ジャワは極楽」とうらやまれたジャワで、軍政監部の文官や企業派遣の民間人を中心に流行した。
 「チンタ」とか「白馬」と呼ばれたこの現地妻たちは、オランダ人の男とインドネシア人の女の間に生まれた混血児(ユーラシアン)が多く、旧主人が抑留所へ入れられたので、生活のため新しい主人に鞍替えしたのである。ジャワ派遣軍宣伝部に入った大宅壮一は、「白馬会」の主宰者と自称していた。
 オランダ政府の公式報告書も「日本軍の高級将校、会社重役、高級官吏なども売春宿を訪れるよりも妾を囲うことを好んだ」と述べ、さらに、「ヨーロッパ人売春婦の多くが一人の日本人男性の妾となる関係を好んだ」と記す。(季刊戦争責任研究No.4、50ページ)
 ジャワでは軍人は少なく(戦争中期は1万人前後)、占領行政に当たる文官や民間企業人、戦前からの在留邦人(サクラ組)が多かった。
 そのせいか、占領初期には軍専用の慰安所はほとんど見られず、民間の売春宿が主力だったが、1943年後半頃から軍専用も設置されるようになり、悪名高いスマラン慰安所事件をひきおこす。
 前記のオランダ政府報告書は、その理由について性病増加のためだろうと推察しているが、おそらくこの推察は正しい。
 『ジャワ新聞』(朝日新聞の経営)は、1943年2月の「熱地衛生」(軍医部執筆)と題したシリーズで、「共同便所は誰一人汚す心算で使用するものはなくとも汚れ勝ちなものです。・・・・慰安所を開くとき、どんなに厳選しても日が経てば殆ど全部が花柳病になってしまいますから健全な慰安婦を求めることは無理です」「慰安婦の半数以上は黴毒・・・・ジャカルタの軍指定慰安所の女を血清反応で検査したところ、驚くなかれ半数以上が・・・・」と警告している。
 また、「安い、サービスが良い、スリルがある等の理由から、禁を犯して私娼に走る不心得者が絶えないようで・・・・慄然」(ジャワ新聞1943年2月1-2日付け)とも書いているが、事態は一向に改善されなかったらしく、一年半後の記事では罹患率が「邦人の七割位」(ジャワ新聞1944年9月11日付け)とあるから、割引きしてもジャワは「性病天国」と呼んだ方が良いのかもしれない。

209ページ(第六章 慰安婦たちの身の上話 6 インドネシア(上)−マルディエムなど−)---川田文子(戦後補償実現市民会議基金代表)チームの面接結果(1995年秋から3回、合計10数人と面接)

<南ボルネオ組の証言(マルディエム;ジョグジャカルタ)>
・幼なじみの女性歌手レンチに「ボルネオに行って一緒に芝居をしよう」と誘われ、48人の仲間と船に乗って南ボルネオの首都バンジャルマシンへ行った。
・引率者は現地に数十年在住する日本人の歯科医で、バンジャルマシン市長の正源寺寛吾だった。
・全額を貯金して帰るときに戻すと説明されたが、払ってもらっていない。
・同行した48人のうち、8人は食堂で、16人は芝居小屋で働き、24人が慰安所へ行った。
・仲間の中で帰郷した者もいたが、追加の女性も来た。
・南ボルネオは海軍の軍政地域だった。陸軍の軍政下のジャワから、慰安婦を募集する仕事には、(戦前からジャワに住んでいた民間人が介在した可能性はあるが、)募集に当たったのはインドネシア人で、マルディエムは本人の知らぬ間に親が身売りしたケースではないか。


211ページ---ボゴール憲兵分隊長谷口武次大尉の書簡から
・兵舎には日イ双方の衛兵が立っているので、ひそかに女を連れ込んだり、長期にわたり監禁するのは不可能である。
・住民は性観念がきわめてルーズで、インドネシア人、華僑、混血(ユーラシアン)の売春婦が至るところにいた。ジャカルタの川べりには、立ちんぼの女たちが並んで客引きをしていた。事を荒立てなくても、いつ、どこででも用は足せたはず。
・このように(川田文子報告にあるように)悪質な事件が続発していたら、オランダから戦犯にされたろうし、その前に現地人の兵補が黙ってはいまい。

213ページ
 谷口の言う「性観念」の程度は、それこそ各人各説で地域、人種、階層、宗教がからみ一般論は困難だが、インドネシア人は概してルーズだったのは確かなようだ。
 スマトラ各地に勤務した大平文夫憲兵曹長は「全島で慰安婦は200人くらいと推定するが、他の島からの出稼ぎが多かった。農家の主婦も容易に売春婦に変身した。しかし、アチェ人は売春はやらなかった」と回想している。
 開戦前の1941年7月、ジャワに偵察飛行した深田陸軍軍医少佐は帰朝後、陸軍省の会議で「原住民は生活難のため売淫する者多し」(金原節三日誌摘録、1941年7月26日の項)と報告しているが、性観念と生活難は不即不離の要素だったのかもしれない。

(つづく)


このメッセージへのフォローアップ: