「慰安婦と戦場の性」秦郁彦著(新潮選書1999年)から
409-410ページ
南方戦線で人気が高かったのは、ユーラシアンと呼ばれた白人と現地人の混血児であった。マニラの慰安所を経験した日本兵捕虜に対する連合軍の尋問記録によると、「女性は、通常、スペイン人とフィリピン人の混血で利用料金は10円ないし20円・・・・日本人及び朝鮮人女性については2円ないし3円であった」(吉見義明編『従軍慰安婦資料集』大月書店1992年、487ページ)
価格は一般に需要と供給によって決まるものだが、中国大陸では、内地人(2円)、朝鮮人(1.5円)、中国人(1円)の順に安くなる例があった。南方では現地人の価格がもっとも安かったが、混血や白人は例外で、内地人より高価だったようである。
パダン(西スマトラ)では、インド人業者の下で20人の白人女性が働く慰安所があり、プカロンガン(中部ジャワ)では華人業者の下で23人の欧州人女性が働いていた。
392ページ
文玉珠の場合、3年足らずで2万5千円貯金し、うち5千円を家族に送金している(文玉珠『ビルマ戦線 楯師団の「慰安婦」だった私』(梨の木舎1996年)138ページ)。今なら1億円前後の大金である。
ベテランの日本人慰安婦も負けていない。吉原で10年暮らした高安やえは、「戦地へ行けば10倍稼げるし・・・・稼いだら内地に帰って商売を始めようと考えてラバウルへ・・・・一人5分と限り、一晩に200円や300円稼ぐのはわけがなかった」と回想している(高安やえ「女のラバウル小唄」(『続戦中派の遺言女性版』(櫂書房1979年))。
394ページ
兵士たちの生活条件と比較してみる必要もあろう。「大東亜戦争陸軍給与令」(昭和18年7月28日勅令625号)によると、二等兵の月給は7円50銭、軍曹が23-30円、戦地手当を入れても約倍額にすぎず、慰安婦たちの1/10ないし1/100である。中将の年俸でも5,800円だから、文玉珠クラスになると在ビルマ日本軍最高指揮官より多く稼いでいたことになる。
226ページ(中国徐州の料理屋「松竹」で仲居をしていた柴岡トシオさんの証言)
秦「なぜ日本人慰安婦は名乗りでないのでしょうね」
柴岡「200万円じゃだめでしょう。2,000万円ならいるかもしれんが」
(おわり)