「慰安婦と戦場の性」秦郁彦著(新潮選書1999年)から
214-216ページ(第六章 慰安婦たちの身の上話 7 インドネシア(下)−兵補協会のアンケート−)---高木健一弁護士の指示で行われたもの(1995年11月)
・質問項目が誘導尋問的になっている。
(1)問5「従軍慰安婦になった理由は何か」という設問に対し、a看護婦になれる、学校に行かしてやる、職を紹介するなどと言われてだまされた(45%)、b逆らうと家族を殺すと日本兵に脅迫され、強制された(45%)、cおだてられ誘われて自分でその気になって(1%)、d帰宅途中、あるいは路上で拉致・誘拐されて(9%)、の四通りの答えしか用意されていない。最もありそうな「親に売られたから」「高収入だったから」の選択肢がない。
(2)問11「性的奉仕を求めてきたのは誰か」という設問に対し、a日本人の兵隊(95%)、b朝鮮人の兵隊(1%)、台湾人の兵隊(1%)、インドネシア人(1%)の四通りしかない。当時のジャワには軍人を上回るぐらいのサクラ組と呼ばれた一般邦人(売春業者を含む)がいたのに、日本人なら全員が兵隊にされてしまう設問になっている。
・上記川田文子チーム面接には、このアンケートで誘導されたとおりに身の上話を語った可能性が高い。
216-221ページ(第六章 慰安婦たちの身の上話 8 オランダ−蘭人抑留女性の受難−)
・15万人を超えるオランダ人が日本軍捕虜収容所及び民間人収容所に収容され、うち2万人が女性であった。(1994年オランダ政府報告書)
・占領の前半期(1943年中期頃)まで、女性たちの多くは抑留所外の居住を許されていたが、働き手を失った貧困な女性の中には、民間の売春宿や風俗産業で働く者も少なくなかった。白人女性が経営する売春宿もあり、マダムたちの中には日本軍幹部や民間人の妾になる者もいた。(1994年オランダ政府報告書)
・しかし、戦局の悪化により、日本の陸軍省は「軍抑留者取扱規定」(1943年11月7日陸亜密第7391号)を出先各軍に通達し、オランダ人を含む敵国人の全員を、捕虜収容所に併設された軍抑留所に移すよう指示した(蘭イ混血のユーラシアンは原則として対象外)。
・その結果、指定居住区域に住んでいたオランダ人女性は、売春婦も含めて軍抑留所へ入ることになるが、給養条件は悪く不満が高まっていた。
・こうした状況に目を付けたのが、軍の担当者と慰安所の業者で、好条件を約束すれば相当数の慰安婦が集まるだろうと見当を付けたようだ。この種の勧誘や説得に強制性がどこまで働いていたかは微妙なところである。
・抑留所を管理していた第16軍軍政監部は、強制しないこと、自由意思で応募したことを証するサイン入り同意書を取るように指示していたが、なかには違反する出先部隊もあった。のちに「白馬事件」と呼ばれたスマラン慰安所の強制売春事件は、女性たちの告発により戦後のB,C級法廷で裁かれ、死刑を含む10数人の有罪者を出す。
・死刑になった岡田慶治少佐は獄中日記を残している。「将校クラブの婦人たちをよく可愛がってやったつもり・・・・その彼女たちが告訴している。それも嘘八百並べて・・・・時勢が変わったので我々に協力していたことになって彼女たちの立場がないのかと想像・・・・起訴状を見ると首謀者にされている・・・・『そうか飼い犬に手を咬まれたのだ。もう何も言うことはない』と覚悟した・・・・敵の銃口の前に立って、日本人の死に態を見せてやることではなかろうか」
・いずれにせよ、スマランの慰安所は長くても二ヶ月しか営業していない。ジャカルタの第16軍司令部から閉鎖命令が届いたからである。
・軍政監部本部に勤務していた鈴木博史大尉は「慰安所でひどい悲鳴が聞こえるとの話を聞き込み、山本軍政監へ伝えると、山本は”まずい、すぐやめさせろ”と怒り、翌日に閉鎖命令が出た・・・・後に彼女たちを集め、申し訳ないことだったと謝罪した」と記憶している。
・被害者がオランダ人女性以外で戦犯として裁かれたのが、1,000人以上の現地住民(華人ゲリラ)を抗日分子として大量処刑したポンティアナック事件(1944年初期)の副産物として明るみに出た強制売春事件で、主として日本人の現地妻となっていたインドネシア人女性を強制的に慰安婦にしたかどで、13人の海軍特警隊員らが有罪(うち3人は死刑)となった。
直接インドネシアと関係する記述は以上。その他以下の記述あり。(つづく)