(No.1)
ああ...目を閉じれば思い出す。魂の独立記念日! 初めに。 法華講員の方と話してよく思うのは、平成3年に、多くの学会員は、まるで「日顕よりも池田先生の方を正しい
当時の学会員に池田先生がどうかなど全く論外であった。全く比較など無かったと言って良い。 ほとんどの学会員は、ただただ、日顕の行状に失望し、呆れ果て、挙げ句の果てに最後に自由になった事を ああ。だが、私は忘れない、あの魂の独立記念日の年。 しかしその年を説明するには、もう少し当時の学会員の実情を説明したほうがよいだろう。 最初にお断りしておきたいことは、ここでは教義でどうなっているかの説明ではなく、ただ当時の会員の実情 当時の学会員には、「法主は仏法で一番偉い人」であった。 学会員の意識に重きがあったのは、法主がどれだけ偉くて特別な人間なのかといったことではない。 実際にその人を幸せにすることが出来るのかといった「現実での格闘」に最大の重点が置かれていた。 その中で、実際に一人一人を激励し、困難な局面で具体的な指導をされていった池田先生に人望が集まる いったい他のどんな組織を比較にあげればこの実態を想像をしてもらえるだろうか。。。 実際に行動している部分に触れることで感化されて、初めて人望は築かれる。 では、法主についてはどうだったろう。 池田先生とどっちが偉いと聞かれれば、当時の学会員なら迷わず、「そりゃ猊下に決まってる」と答えただろう。「猊下は仏法上の師匠だ」とか、そういう風な解釈で理解していた。 だが。 しかし私はそういった教義上のドグマ(強迫的制約)は、人の意識をとどこおらせることはあっても、真に人を ところが。 確かに猊下の話を聞いてもなにか感銘するような話を聞くことは無かった。 学会員は表層的な理由ではなく、もっと深いところで、法主を尊い存在だと認識していたと思う。 つまり法主自身がなにもしなくても学会がその存在意義を持っていたからである。 これについては堀日亨・法主自身が「学会を取ったら日蓮正宗には価値的なものは何も残らない。(趣旨)」 繰り返すが、猊下の立場が尊いからその立場を尊敬していたのではない。
私達とは違うけど、法主はきっと厳しい修行をしていて、私達の知らない活動をされているのだろうと。
だから反面、誰でも宗門の指導層である僧侶たちには実際に不可解な思いをした事が多々あったものだ。 今から考えれば噴飯ものの話が多いのだが。 そう、思い出せば、葬式といえば学会員は車で迎えに行かなければならなかったのだ。 何故。。。今から考えれば僧侶の方々は吹き出しそうなお人柄だった。 はたまた折伏で苦労して入信する人を連れていくと、その人に向かって学会批判をとうとうと述べる無神経さ。 住職婦人など(そもそもなぜ威張っているのかよくわからないが)とにかく傲慢不遜であった。
ではどうしてそんな僧侶たちを許して、いや、頭を下げていたのだろうか。。。。? つまり、そういった僧侶の実態を多少は知ってはいても、そう簡単に変わらないのが日本人としての強烈な |
(No.2) 平成2年、12月のことだ。 それは、暮れも押し迫った時だった。世間では慌ただしい時である。
学会の池田先生が、法華講の役職を全面的に失ってしまった。 27日の宗門の宗会での決議だそうだが、学会に知らされたのは郵送であったのでさらに後日だ。 当初、これは単なる制度の改正による罷免であるなどと、あまりにふざけた発表がなされた。 (!) このような改正による罷免は、決定的におかしいし、フェアなやり方ではない。 いったい。 会社の社長が、社の掲示板に「制度変更のため一旦キミは社長の資格を失った」という会長命令の張り出
それが宗門のやりかただったのだ。誰しもそう感じざるを得なかった。 |
(No.3) 平成2年暮れから平成3年初頭にかけて そのことを末端の私たちが聞き及んだのは12月の30日頃だった。
ところで当時の学会のお寺に対する態度は、大変に礼節に満ちたものであった。 余談になるが、初っぱなから日顕が「お粥をすすっても..」と泣き出して学会攻撃の調子をあおったのに比べ
話を正月にお寺に行ったときのことに戻したい。 まず、誰よりもお寺の僧侶の口調が攻撃調になっていたのだ。
この間まで「池田先生..」と最大限に誉めたたえていたにもかかわらず、あまりにも手の裏を返しすぎだった。
しかし、それでもこのときはまだこの宗門の問題はトーンは低かった。 そういったわけのわからない正月を学会員は迎えさえられたのであった。 |
(No.4) 平成3年 1月 一方、学会の見解は、年が明けて最初の、つまり1月4日の聖教新聞で初めて公表された。
主に1面のほんの一部と5面に記事が載せられているだけだったが、それでおおよその経緯はつかめた。
1. 名誉会長以下12名の法華講での資格の突然の喪失したことと、 ことで、これは今までの経緯からいって、おかしいだろうと、それはまあ誰でも思うことなのだが。 無理に総講頭に就くようにさんざんお願いしておきながら、今さら首切りとはなんなのだと。 ただし、もちろん聖教ではそういった主観的なことはほとんど述べられていない。
簡単に経緯を説明すると、平成2年の11月にあった第
35会本部幹部会の席上での池田先生の発言が今回 これが有名な、いわゆる『「11.16」のスピーチ』である。 このスピーチについて宗門がひそかに怒り、秋谷会長に録音テープ(←実は改ざん品)の存在などをチラつかせていたようだが意味不明で相手にされなかったようだ。 これが有名な宗門のいわゆる『「お尋ね」文書』であった。 この「お尋ね」文書に対しての学会の対応が気に入らないためにさらに突如として為されたのが、要するに、 以下、その経緯についてもう少しだけ詳しく述べたいと思う。
なにしろ出所不明の事実とは違う文章をもとにした非難であったので、もともと誤解であるから、学会はこれに対し、最初から書面による回答といったものではなくて、直接の話し合いを要望した。 誤解だと思えば誰だってそうするだろう。それこそが普通の人間的な優しさなのだ。 しかし、宗門はこれを一切拒否(なぜだ?!)し、まるで用意していたかのように、次にいきなり取った処置が と、ここまでなら、「11.16」のスピーチこそが宗門問題の論点なのかと思えるが、その後、宗門の主張は大きく崩れさり、宗門はこれを中途半端に撤回してしまうのであった。 つまり宗門は最初から大きくつまづいた。 もし、名誉会長にぬれぎぬを着せるのなら何かもっと、「一般の信徒にはわからない」とか、あるいは「当事者だけしか知り得ない」ようなそういった高度な問題で罪状をあげれば、もっとみんなを騙せたのだ。 なにしろ当時の宗門は、今からは考えれないような驕った権威をもっていたのだから。 しかし、この「11.16」のスピーチはなんと同時中継で全国の会館に流れたものなのだ。 宗門側の主張では、たとえ、どれだけ録音状態が悪かったとしても、前後の意味からも到底、取り違えないよ 一例をあげれば、折伏についての具体的なスピーチで、先生の、 『工夫して折伏する以外ないでしょう。ね。日淳上人が一番よくわかっていますよ。』 の発言が、「お尋ね文書」では、 『工夫して折伏するのがないでしょう。ね。日蓮正宗でいなかったんですよ。』 に改竄されていた。 また、同時中継で笑いがあった箇所なので私もよく憶えているが、先生の 『どうしたら折伏ができるか? ただ朝起きて、「真言亡国・禅天魔(笑)」、 法を下げるだけでしょう。』 『ただ…、真言亡国・禅天魔、法を下げるだけでしょう』 とだけ文を切り取って大聖人の四箇の格言を否定したと驚くべき曲解をしている。 また、あるいは先生が日達上人を賛嘆する意味で日達上人のメッセージを紹介した、 『私(日達上人)も人類の恒久平和のために、そして世界の信徒の幸福のために、猊下というものは信徒の、 とのセリフをどう曲解したらそうなるのか、「お尋ね文書」ではこの発言をもとに、 『名誉会長は御法主上人に対して「権力」と決め付けておりますが、創価学会でいう「悪しき権威・権力と戦 と御法主上人のことを悪く言ってるように文章を継げ足してまでしてすり替えている。
それでも宗門側の主張では、会員からの苦情の投書や電話が複数あったということであったし、また、テープは改ざんされていないことを複数の入手したテープから確認したということであった。 この宗門の主張にどれだけ正当性があったのだろうか。
これによって宗門は、当初の学会を非難した理由を事実上、完全に失ってしまった。 しかしそれでは困るらしく、この当初の非難内容が改ざんされた内容であることを全面的に認めてしまわずに つまりその後、1月13日に宗門はこの「お尋ね」文書の主要な池田先生の発言に関する質問15項目のうち4項 それを宗門は、半分だけ取り下げて撤回するという非常にぶざまで中途半端な態度に出たのだ。
特に11.16のスピーチの中で爆笑を誘った、「ただ朝起きて「真言亡国、禅天馬」..」の箇所など、印象的なため こうして今回の自体についてあれこれと幹部指導など聞かなくても、多くの同時中継に実際に参加した学会員 ♪ テープを改竄して反訳した悪意のある人はともかく、宗門はなんて幼稚な誤解をするんだろう♪ と思ってしまった。 つまり、宗門のいいがかりは、これで根底から崩れたと言ってよい。
なんて大人げない姿であったろうか。 しかし、しかしだ。 ところで、この宗門の主張の一部を撤回し、一部謝罪した文書の中には、驚くべき表現が為されていた。 つまり「僧俗」が「本質的に皆平等である」と思うのがそもそも「慢心の表れ」だというのである。
藤本氏(宗門の総監)は「仏法に即した本来的な差別が存して当然であります」と言ってはばからなのだ。
読んだ学会員はここでも誰でも正論が宗門にないことを思い知っただろう。 ♪ やっぱり、僧侶と信徒は本質的に不平等。そんなものじゃないかなあ。♪ と、理屈で理解はしていても日本人的習慣に引きづられる意識は根強く存在していたと思う。 多くの学会員も、この時点では、ただただ、 ♪ 猊下はどうしたんだろう?♪ と思っていたのではないかと思う。 |
(No.5) -おことわり- 文中では、煩瑣になるのでやむなく省略しましたが、実際にはここに挙げたやりとりの他にも、各種のやり取りがある旨をおことわりさせてください。
ここでは、学会員の破門に至るまでの「心の動き」がテーマなので、各種のやりとりのつながりの複合性を説明するのが趣旨ではないためです。 抗議書に至る経緯も、抗議書の種類も省略してわかりやすいように1本化しています。
お願いします。 |
(No.6) 一方、聖教新聞で個々の末寺住職の名が取り上げられるようになったのは1月20日からだった。 このような宗門批判が聖教新聞に掲載されるのは、多くの会員にっては、初めて目にするものだったろう。 最初は、群馬県、法勤寺の岸本住職だった。この頃、いきなり風聞と憶測だけを元に、信徒(学会員)の参
今回の問題のあおりを受けて、末端の会員がいきなり処分されてしまったのであった。 その会員さんは寝耳に水だったようであるが、ある日、お寺から一葉のはがきが届いたのだ。
また驚くことに、この寺の門には、除名にしたことなどをその信徒の実名を上げて張り出したのだ。
しかし、根拠もない勝手な憶測で信徒をいきなり処分したりして良いはずがなく、学会の抗議は熾烈を極めた。もちろん礼儀正しく「お伺い」という形でだ。
その後、この岸本住職は、宗門側によりこの信徒の処分を取り止めるように言い渡される。 |
(No.7) 平成3年 2月 2月になっても聖教新聞では宗門問題はやはりごく一部の取り扱いでしかなかったが、末寺住職の名前が次 まず「これでいいのか正宗のお講」というコラムのシリーズだった。
最初は、岐阜県、経行寺の中尾住職であった。(以下、名前とかは重要でないので略すことにする。) 今回の問題を通して、大変に興奮したようすで机をバンバン叩きながら、信徒に対して何度も「馬鹿」 また別の住職は、さも学会員が大謗法を犯したかのように大声を張り上げ、「どうなってもいいんだね。
また別の住職は、学会員に対して「御法主が無理難題な事を言ってもすべて受け入れるのが正宗の信徒
これ以上は煩雑になるだけなので省略するが、「以下同様」の一言である。
その後の聖教新聞の連載は、確か、「これでいいのか塔婆供養」だったと思う。
とある寺では、塔婆を四十九日に7本かける7回で49本立てることを強く勧めらるとか、
聖教新聞は僧侶の日常の行状にどんどん言及していった。 何千万もするゴルフ会員権をもってゴルフばかり精を出している僧侶。(多かったな。) こういった末寺住職に対しては、学会員は実際に面識があるわけで、宗門トップに対するような期待感のよう しかし、従来の挙動だけで失望したのではなく、この1〜2月のお講や信徒に対する行いで、宗門は信用を取り返せないほどの失墜をさせたのである。 忍難弘通してきた学会員からは一目で、「なぜ。ちょっと批判されただけで、あの陰湿な怒りかた...。
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(No.8) 次にいよいよ一宗の中心者である日顕がいかにして信用を失墜させていったかを述べたいが、その前に、
学会員は、当時、どういった情報ソースを持っていて判断していたのだろうか。 まず、学会員の情報源として「地涌からの通信」に触れよう。
創価新報などとともに、聖教新聞よりも時に一歩踏み込んだ内容で学会側にとって非常に有益な情報源であった。 ただし、ただしである。 「地涌からの通信」が学会員に知られるのは、それはもうずっと後のことなのだ。
少なくても地方の普通の会員で「地涌からの通信」の存在を知る人は誰もいなかっただろう。
つまり、多くの学会員さんの思いを考える時、日顕が信用を『最初に』失墜させた時には「地涌からの通信」の情報は、まだ全然関係なかったのである。 それに近いことが、創価新報にも言える。 今では、日顕宗を破す新聞として右に出るものがないくらいその名を馳せているが、もともと創価新報は青年 宗門問題において、創価新報の情報が末端の会員にとって、当初からどれだけ大切な存在であったかは強 それに創価新報にも1月〜3月の頃はまだ宗門問題の記事も少なかった。 少し自分の周辺だけを見て一面すぎるかもしれないが、1月当初は創価新報が末端の会員にそれほど『普遍的に』読まれていたわけではないと思う。
そして創価新報が圧倒的な量で本格的に宗門を攻撃しだすのは4月以降であった。 壮年や婦人の注目しだす時期については異論があるかもしれないが、どちらにしても今の法華講員が想像して描くような聖教新聞以上の攻撃トーンの記事が創価新報の一面などで躍っていたわけではない。 また、各種のメディアよりも有効な、口コミが学会の伝統的な情報伝達手段であったが、こと、この宗門問題初期の猊下に関することは皆、慎重で、うわさ的なものは一切ながれなかったと思う。
だから法華講の人からは、日顕が信用を最初に失墜した時に、学会はいろんな特殊な情報で世論作りをした つまり、長くなったが、私の主張したいことは、特殊な情報ではなく、公開されている内容で、ごく一般的な常識 (筆者は末端会員であるから、なにも全国の津々浦々の事情を知っているわけではないが、おそらく他の地域でも普遍的にそうだろうと主観で述べていることは断わっておいたほうがいいだろう。)
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(No.9) 平成3年 2〜4月 「猊下はどうしてるんだろうか。」 と、多くの学会員は不審がっていた。 学会の末端では、猊下について、何かに基づいた噂が流れることは、全くなかった。 猊下に聖教新聞で「お伺い書」が送られたのが発表されたのは、2月28日になってからだった。
この「お伺い書」は、当時の猊下へ当てられたものであり、口調も当然ながら大変に礼儀正しい。
そもそも猊下は今回の問題が起こったこの1月の初頭から、公の場で学会を批判していたのである。
教義上のことで、従来の自分が言ってたことを一転させ、学会を一方的に非難しだしたのである。 正本堂の意義については、宗内では統制されてきたことである。
だいたい、自分が言ってたことを何の脈絡も無く急に反故(ほご)にして、ただ従って同調した学会を急に非難するなんてどう考えてもおかしい。
学会は当初、この批判に対して、抗議するかどうか躊躇していたようだ。(聖教にそう書かれていた。)
ところが、ところがである。 笑い話ではない。
つまり正本堂の意義について池田名誉会長が、一番最初に意義付けをする発言をしたのは慢心であるとして非難していたが、そのまえに日達上人がすでに同じ発言をしていたので訂正すると言うのだ。 これでは、そもそもの説法そのものがなりたたないと言える。
全く今から思えば良い証拠である。 これでは突然、先師の解釈を反故にし、また自分が以前にいってきたことも無視し、正本堂の意義を改変した事実だけを学会員に突き付けた責任はどうなるのだ。 ただ正本堂は本門の戒壇とするべきなんかじゃないという結論が、宙に浮いていることになる。 こういったいろんな宗義の変更と訂正について、学会はお伺い書を出したわけである。
この経緯を見て学会員はどう思ったのだろうか。 正本堂の意義についてそこで論じられていることに、教義上の論理展開にスムースに入っていけただろうか。 ごく客観的に捉えられただろうか。 冷静に、正本堂の戒壇の意義が、良いとか悪いとか猊下の心変わりで決まるように思えただろうか。 否!否!否! きっと凍りついたように衝撃的に、宗門の無慈悲を感じただろう。 まず、なによりも頭に走ったのは、「猊下は宗内を堕落させてしまった僧侶についての対応に悩まれてなんかいなかったんだなあ」という残念な気持ちだったろう。 「猊下は宗門の問題を放置している..。」 このような一連の宗門のいいがかりに決算して、謝罪し、まとめるべき立場なのに、すでにいっしょになって学会批判していたことが、この時に証明されてしまったのだ。 残念であった。なにより今の宗門は、このままでどうなるのかと思った。 ああ、なんという無理解。ああ、なんという誤解。 「これは誤解か、それとも学会を理解していなかったのか?」 あまりにも多くの学会員に、学会を理解していない無慈悲な態度を、悲しくも知られてしまった。 そしてその次に目を向けたのが、正本堂の意義の改変の事実そのものである。
だから、そこに書かれてあったような詳しい正本堂についての経緯にどれだけの学会員がすぐに教義上から判断できたかは疑問である。 しかし、正本堂の建設にいたる過程は歴史的事実である。 ここで多くの言葉を費やす必要もあるまい。
何しろ末法の戒壇の意義を含む建設である。 ある女性は結婚資金として溜めていた金額を全部、この御供養に変えてしまった。 ある壮年は、自分のかわいい家族のためには残さず、なけなしの財産をはたいてしまった。 しかし、何をいたわる言葉もなく、一瞬にしてその意義を改変してしまった。 そう。何の信徒を思いやる言葉もなく、単に教義上の問題として、しゃあしゃあと言い出したのだ。 日顕が先師日達上人の「本門寺の戒壇たるべき」という発言を未確定の意味を含むと弁舌したことに対して、 何しろ日顕が主張の根拠とした、その辞典を書いた国語学者らが言うのだからこれ以上に明確なことはない。 1. 勝手に辞書を引いてるが、猊下のいうような用法を説いている辞書など世の中に一つも無く、
という痛烈なものであった。 日顕猊下の面目は、この時、音を立てて総崩れたといってよいだろう。 辞書など引いて得意がって言ってることが、ただの「いいがかり」だったのだ。
誰しも思っただろう。 附記しておくと、後々の創価新報の漫画では、登場人物に、宗門に対して『微妙な感情が走った』のは、この が、それは温厚な人も含めて出来るだけ大勢の学会員の意見を含めようとした配慮からだと思う。
4月には、多くの真面目に宗門のことを心配する会員にもすっかり不審がられている始末であった。 しかし、それでも学会員は宗門を「敵」などとは捉えていなかった。 しかし一方、宗門の方は学会員を憎み罵り、より陰湿な方向へと向かうことになる。 |
(No.10) また、この3月に宗門側では、池田名誉会長への各寺院の謝罪要求書運動も始まった。 各寺院からと言っても、本山で一括して決まったことで、とにかく懺悔しろというだけの無内容なものであった。 それなのに宗門は恫喝すれば恐れ入って、事が収束するとでも思ったのだろうか? 「何故、これまでの経緯で学会が謝らなければならないのか?」 いや、おそらくは単に苦し紛れで、恫喝したかっただけなのだろう。
信徒の心がわからない。。。。 まったく宗門の打つ手はこれ以降もずっとまずかった。
改めて言うまでもないが、この間、善導などといったものは一切、無かった。
そして日顕は、学会員の心配を他所に、学会員の切り崩しを法華講に命令する。 学会員の切り崩し、つまり直属信徒にして檀徒を増やそうという行為は、日顕自らが恥ずべきとして禁じきた行為であった。
私もたまたまその出陣式に席を隣りにしたことがあるが、ごく主観的に言わせてもらえれば、悠長なサークル活動の気分的なものにしか見えなかった。
「学会員の切り崩しよりも、自分たちに、先に勤行折伏ができるようにちゃんと指導すればいいのに。」
と思うばかりである。 |
(No.11) 今現在、一部の法華講員には、宗門は学会の破門まで1年も善導し、「破門まで様子を見た」との誤謬の憶 仮に皮相的に一連の経緯を学会と宗門の喧噪と捉えたとすると、宗門側の行動はあまりにせっかちである。 このように当初から「11.16スピーチ」を機に喧嘩を吹っかけてきたのも宗門であり、その後も僧侶の公式の場所での感情的な信徒への罵倒、そして重要な、正本堂の意義のいきなりの訂正など、いつもこと切れずに新しいネタで吹っかけ続け自滅したのは宗門の方からであった。 初期には学会側はいつもその問題を追求するという形で応戦していたに過ぎない。 ♪ なのに宗門側では、すでに初期の間に学会の切り崩しを法華講に命令していた。 さらに数カ月後には学会員は多くの寺院の前に、「学会員は参詣禁止。入るな!」といった趣旨の異様に感情的な立て看板を見ることになる。
確かにあの時を知らない法華講員の方から見れば驚くべきことであるが、すでに学会は事実上、破門に近い ここでは、宗門側の謀略ろするC作戦云々は述べる必要は無い。 それについては後に述べる。 途中ながら、もう一つ付け加えておきたい。 猊下も総監も、学会側が事実上抗戦を表明する以前から一貫して誰とも会わなかった。 また実は1月の登山会に行かれた池田名誉会長にも例年あった面談は一切拒否された。 以後、学会の主要幹部は、宗門側の発表によると「お目通りかなわぬ身」という身分になったのである。
ところで、もう一つ誤解を解いておこう。 彼らの社会性の無さが悪い面で出てしまったのだと思う。 僧侶と言えども、学会員と同じ風に家族を持ち、子供を育て、生活している。
彼ら僧侶も社会人だったのだ。 この年の4月には、統一地方選挙もあった。 通常では対話がやりにくい状況ではあった。 聖教新聞の恒常的な啓蒙運動、折伏活動その他にみんな走っていた。 学会の中で弘教をしていない人にはわからないが、そんなに簡単な話ではないのだ。 始めた動機はこちらの都合だったかもしれないが、唱題し、思いを重ねるごとにそうでは無くなってくる。
今にして思えば、たとえ一時でも、自分の人生を投げ捨てでも、一人の相手の幸せのためを思えるほど、純粋に昇華した思いを抱いて行動できた事は、返って、今は私自身のかけがえのない財産
になっていることに驚きつつも認めざるをえない。
そして、そういった弘教の真剣さが、宗門問題に取り組む姿勢の明暗を分けたのである。 信仰者としての学会員の振る舞いは、宗教的組織的な動機と同時に、弘教で社会から理解されようという強 普通のレベルの学会の活動家であれば、どれほど良識ある振る舞いにと心を配っているかは知れない。 今も思い出す、あの多くの寺の前に置かれた学会員の参詣禁止の大きな立て看板や掲示。
今現在、多くの寺院の方で学会員が入るのを拒んでいるだろうか。 |
(No.12) この5〜7月の頃について述べるべき大きな事実は、1つだけである。
長く噂にはあったし、そうするだろうとも思っていた。
これがどれだけ大きな問題であったかはとても一言では書き尽くせない。 そもそもこの登山は戸田先生が貧窮する大石寺が生き残りの為に観光場所として解放するのに反対して始められたものである。 登山会は多くの学会員が命を懸けて運営していた。 当然、大石寺へ行く参加者は激減してしまった。 学会の登山は、観光旅行の運営とはまるで違う。 それをたった3ヶ月余で、一方的に変更することに決めてうまくいくと思っていたのだ。 そして、また宗門がここでとった一つの行動が、学会員の神経をまた逆撫でした。 これがどれだけ恥ずかしいことか。 これは登山に行きたい信徒が、学会幹部に邪魔されて登山に行けないのではと心配したからなのだろう。
またいきなり第三者のメディアを使うことが、お互いの問題を不可避にし、軽蔑されるだけの効果しか持たないことが何故わからなかったのだろう。
また一般の読者を考えても所詮、喧騒とは第三者からは軽蔑的にしか見られないものなのである。
さらにこのような登山の変更の決定を、短期間で自分たちの気紛れだけで決めてよい問題ではなかったのだ。
大石寺を信じて先祖伝来の土地を無料で提供して自分たちはただこじんまりと土産売りの店をしていた人々へも、本山は彼らには何の社会的配慮も無かった。 そして、各末寺の池田名誉会長への謝罪要求書、そして次に来たこの従来の登山方式の中止で宗門との
なにより。 平成3年当初からその後、何年たっても宗門や法華講員にはこれがわからない。
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(No.13) 平成3年 8月〜9月 8月に触れる前に少しまとめて説明しておきたい。 ここまで読まれた方で、「何故、日顕の芸者写真やシアトルとかの生々しい事件が出てこないのか」と不思議 思い出してほしい。それはこれから後の事だったのだ。
そして日顕の、禅寺墓問題や芸者写真問題や、かます発言、はてはシアトル問題などが次々と話題と
この8〜9月にはすっかり日顕の信用も落ちていたわけであるが、それまで日顕の日常の振る舞いについて またC作戦も早くから質問として登場していた。が、それらは「お伺い」の域を出ていなかったし、学会は聞いていただけであるから、それだけで事実とは到底言えなかった。 またそれを読んだ学会員も単なる疑問の域を出ず、それがどういう意味を持つかまでは判断しかねるところで また、9月より前に創価新報で登場した唯一の事件は、「20億円の豪邸事件」であったろう。
他には筆者には思い出せない。 しかし多くの学会員は日顕法主が、どんな性格で、どんな生活をしているのか、人柄的な面がいかに法主らしからぬ人かは実際には知らなかった。
まとめると、学会員は何も日顕にまつわるスキャンダラスな一連の事件などに驚いて、日顕への信用を落としめたのではないのだ。
すでにころがり落ちていった石が、砕けてさらに加速度を増していったようなものだったのだ。 (以上注釈終わり) 8月に話を戻そう。
8月に重要なことも1点だけである。8月の最初のことであった。 ♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ついに、ここで初めて日顕に関して宗門が「絶対性」を打ち出したのだ。 これは今までにないことであった。突然の暴論である。 法主の絶対性とは、宗門の歴史をみても特異な時代背景で支配のために使われたことがあるだけの詭弁である。 ♪ 法主が「戒壇の大御本尊と不二の尊体」♪ これである。藤本総監が学会の返答に困ってこう主張し出したのであるが明らかな邪義である。
これを見た学会員はどう思っただだろうか。 法主の権威は現実の事実をもって失墜していたのあるが、それを無視して、たとえ宗門側の苦しい立場にたったとしても、率直に「おかしい」疑問に思わざるを得なかった。 確かに法主は誰よりも偉いとも思ってきたので、大御本尊を大切にするように、それを護持する猊下を尊敬し大事にしなさいという意味あいなら飲み込めただろう。 しかし、よく見ると、大御本尊と同じように尊敬して、しかも間違いがないと言う主張である。
♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪ もちろんこんな発言は信徒支配の為に言ってるわけで、宗門の僧侶にだって猊下を大御本尊と同じに思 もしそう信じているのであれば、それがどれだけおかしな新興宗教であることか。
ただ筆者の知る限りでは、法華講員でも心底そう信じて心から尊敬している人はいなかった。
しかしその教義がいかに底の浅いものであることか。 こうやって在家団体の学会のほうが教義に詳しく律儀であったが、宗門は教義をはずれてすぐに邪義を作り出す始末であった。 ちなみにこれより前の大日蓮の6月号にも、日顕のことを「現代における大聖人さま」などと邪義で呼称している記述が何回も見られた。
こうして御法主への絶対的な信伏随従が宗門独自の見解としてスタートする。 そしてこの法主の絶対性はこの後、エスカレートしていくのだ。 この後の11月には、ついに、なんと、百六箇抄で全てのことに「勝劣」を決めていくことになぞらえて、大聖人より今の法主が優先するという発言がなされたことが広く知られるに至るのである。 大聖人より偉いと言う。これ以降、これをもって日顕宗と呼ぶようになる。
まず日比野住職(徳島市敬台寺)の学会員宅への「盗聴事件」が発覚したことが報道された。(発覚は7月)
次には、道祖神ちゃんと呼ばれた理境坊の小川只道住職が登場する。
また、末寺での御本尊の取り扱いの実態にも多く耳にした。(何月頃の話かは失念した。) 法道院のそばで刷り損じの御本尊が大量に道に落ちていたので驚いて拾い集めて届けに行ったとか。
宗門の僧侶は信徒には御本尊の大切さを強調したが、その実は、いかに信仰心が無く無神経 な扱いをして こうして9月も過ぎたころ、もう学会員から見た宗門の信用は壊滅的であった。 それでも宗門側の僧侶らは学会員が「怒っている」ことに気付かなかった。 そして、いよいよ、日顕の実態シリーズが始まったのだ。 まず9月30日に、禅寺墓事件が発覚したことを記したい。 この禅寺墓事件とは、これより2年前の平成1年に日顕が禅宗の寺(曹洞宗、白山寺)に自分の家の墓を立て 笑止なのは、日蓮正宗の寺がすぐ近くにあるにもかかわらず、禅寺に墓を建てたことである。
そして、その事実を糊塗(こと)しようとして、宗門側はさまざまに言い訳をした。
「その墓は猊下が頼まれて好意で費用を出したにすぎない」etc、と。 そして、この事件は後々まで続く論争となったが、事実はすでに最初の報道で明白であった。
それに対し、事実を知らない宗門側の僧侶たちは、その禅寺に近い日蓮正宗の住職(広布寺)に、写真などを公表するなどしてどんどん反論をするように期待したが、現地の住職はただ黙したままであったようだ。
学会員の心情としては、特段、日顕の墓の所在に興味があったわけではない。 いったいどれだけの学会員がこの論争の行方の結末にまで興味を持っただろう。 |
(No.14) そして平成3年 9月〜10月(おそらく10月)には、それまでの日顕への印象を凌駕する出来事があった。 大半の学会員にとっては日顕に対しての最低の印象をさらに確定的に確信させる事件であり、また、何も知
どんなにお人好しでも、いっぺんに目が覚めてしまったというものである。 それが、8月29日に総本山で行われた全国教師指導会での日顕の指導であった。 ♪ いわゆる、一世を風靡した有名な「カマシ発言」である。♪
全国教師指導会の席上、各僧侶に持って帰ってよく聞いて使えと配付されたものである。 この「カマシ発言」は、平成3年以前に学会員が心の奥底に抱き、期待していた、「法主の権威」を 完膚なき 日顕を知ってる人には懐かしい、あの闊達(かったつ)な喋り口調である。
以下、紹介する。 さあ、みんなで、この質問者のどこが日顕の逆鱗に触れたかを考えてみよう。 ♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪ 質問者:『私の所では、いま、脱会者はおりませんが、今この宗門問題に対しまして、きちんとこの掌握をして、お寺のほうについておられる方が、約百三十世帯おります。』 と、まず自分のところの現状を報告した。 『 その中において、この宗務院なり、きちんとした、この方針というか、公式文書といったら申し訳ないんですけれども、そういうものがない故に、そういうこの御理解をいただいておる、また、自分の信心をきちんともっておる方々が、この学会の幹部のミニ座談会というんでしょうか、そういう方々の集中攻撃を受けて、反対に信心がだんだん嫌になってくる。
両方、この悪口を聞いてるのが嫌だから、「もとの信心にもどろうかな」というようなことが、往々にしてあるわけでございます。 そういう意味で、できれば、こういう御理解をいただいている、また、そうやってこの大聖人様の信心をきちっと守っていこうという者を、守っていく指導をしていきたいと思うわけでございます。 そういうわけで、やはり宗務院のきちんとした、この、そういう方々を教導していける方針なりを、この指示していただけるとありがたいなと思っておるんですが、その点、御理解をいただきたいと思いまして、ちょっと余計なことではございますが、御質問させていただきました。』
弱々しい信徒の中には、悪口を言われっぱなしで嫌気がさして、信仰に影響までしているので、学会からの しかしそこで日顕みずからが早々と口をはさんだ。
日顕:『なあ、おいおい、あのなあ、そこに立ってなさい。』 日顕の語調はいきなりであるが、かなり厳しかった。 ああ、初めて日顕のこの口調を聞いた信徒は、いったいどんなに驚き、どう思ったことだろうか。 前回の会話の続きである。後半、日顕はほとんど、♪罵声になっていた。♪ 日顕:『あのー、さっきから聞いてるとなぁ、あのー、そのー、信者がなんだって。だんだん学会からいろんな 質問者:『いえ、そういうことじゃなくてですね、信心がイヤになってきておる...。』 日顕:『信心自体がイヤになったの?』 質問者:『はい。結局、悪口をもう聞くのがイヤなんだという方が増えてきておるんです。』 日顕:『何人くらい出てんの?』 質問者『いちおう、今現状で私のところに名簿があるのが約百六十世帯ございまして...。』 日顕:『百六十人脱会者がいるのか。』 質問者『いや、脱会はしてはおりません。』 日顕:『えっ?』 質問者:『学会におりながら、お寺に、この...。』 日顕:『脱会者じゃないんだね、それは。なんだ、脱会させなさいよ!脱会を君がさせるのが、君の、君の一 質問者『はい。』 日顕 『いいか!そしてその人が、二人でも三人でも脱会させていく。それが君の責務の方針なんだ。
この口調。思いっきり悪いイメージで読んでいただくと、そのままが事実である。
日顕の罵声は続く。ひどく興奮していて、とても話には正義などない。 質問者『はい。ただわかっておるんですが...。』 日顕 『うん?そのなぁ、いつまでたっても学会にいるから、籍を置かしておいて、どうのこうの君がブーブー 学会を脱会させて、君のところのお寺の信者にして、きちっとして、君がその指導教師として指導してい まだ、法華講の結成はないにしてもだな。そういうことにおいて問題があるといことなら、あれだけど、 信心が嫌になろうが、何しようがそんなことは関係ないんだ!君にとっては! そんなこと、そんなくだらないことを言っておってはだめだってことを、頭から少しかましてやればいい そんなことを君がいちいち心配するのは、「他人のせん気を頭痛に病む」っていうんだ、そういうの。 だから方針は決まってるじゃないか、さっきから、宗務院で何回も何回も、ここへ二人、さっき出たのは これで学会員を「お慈悲より導こうとされているんだ」などと法華講員に言われても。「なあ(笑)」という感じで 何より軽蔑と焦りに満ちた、この声の調子。
さらに、この可哀相な質問者はどうなっただろう。その続きである。 質問者:『ただ、あのー、すいません...、あのー..。』 日顕:『一人の脱会者もいないで、何が「ただ、あのー」だ!何だ、言ってみろ!ほら!』 質問者:『あー、ただ、...やめときます。結構です。』 日顕:『何!』 質問者:『あのー...、まー、あのー...、愚痴でございますので結構でございます。』 と、言いくるめられてしまうのである。
この「頭から少しかましてやればいいんだ」の発言は、学会員、というか常識的な信仰者たちの胸奥を十二分に揺さぶったのだ。 ♪ 「な〜んだ。猊下って、こんな人だったのか。」っと。♪ センセーショナルなインパクトであった。 もうこの頃になると、宗門も破門などをチラつかせてこようが、もうただの物笑いでしかなかったし、誰も宗門のある方には見向きもしなかった。
だが、そう思ってなかったのは、ただ宗門ばかりなのだが。 あまりにも信徒の実情と、僧侶の高慢ちきな意識との間の溝が底が見えないくらいに深かった。 10月には、『天魔がゆく』という大変ヒットしたビデオも学会内で出回った。 これは日顕宗の謗法について映像で訴えていて実に分かりやすかった。
「提供 皆様の食卓に新鮮な カマス ホウボウをお届けする 無限会社 阿倍漁業」、 と、さっそく「かます」発言にふれて笑わしてくれている。阿部とは日顕の名前である。 そして数々の日顕宗の嘘とその実態を映像で紹介してくれた。 日顕に本山でかまされた人など、数々の証言。 そしてこのビデオの中でも衝撃的なのが、大石寺周辺に黙認されてきた謗法の実態である。
つぎつぎ、つぎつぎと、これでもか、と言うほど謗法とごっちゃが写し出される。 そこの富士宮市半野地区は住民の9割りが大石寺の檀家である。
そして最後にこのビデオは歴史的謀略、C作戦に触れている。(これについては後に述べる。) これはもう一目瞭然である。
10月の31日には、静岡県下で「日顕『猊下』の広布妨害の責任を明らかにするように請求する」署名運動が始められた。 そう言えば、この時でも聖教を見るとちゃんと日顕には(まだ)上人が付いていた。
こうしてクライマックス前夜の10月は終わった。 |
(No.15) まず11月初頭に、先にも触れたが宗門では「法主本仏論」の決定版となる発言がなされたのが公表された。 ♪「顕本仏迹論」♪ である。 福田元書記が本山の行学講習会で講議したものである。しかもすごい邪義である。
♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪ なんと、百六箇抄の勝劣を引いて、大聖人より今の法主が優先するという発言に至るのである。 勝劣を決めるなら「大聖人が迹」で、その時々の「法主が本」であると。 ♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ♪ ここで、「本」とは本体の意味で、「迹」とはその本体の影の意味である。 日顕宗と呼び捨てになったのは感情的な揶揄ではなく、教義的な必然でもあった。 (それでもこの時はまだ「日顕法主」と敬称が付いていた。) これでは、もう、大聖人より今の法主が優先すると主張するのでは「日顕宗」が妥当だろう。 もっとも宗門では、聞かれると今でも全てを無視して法主信仰の教義は無いとあわてて否定する。 察するに、僧侶達が法主を本当に尊敬しているわけではなく、信徒に威圧的に出る時にマヤカシのように使うためだけに存在する教義のようである。
何と呼ぶかは個々人の考え方の問題であるから基本的には自由なので、その時期には非常に幅があったよ 筆者は、青年部の一部では、早くは5月にはもう呼び捨てにしていたのを耳にした。 多くの人の口から公然と「日顕」と呼ばれるようになるのは、5〜9月ぐらいの時期ではなかったか。 ただ、聖教や創価新報などでそう呼ぶのは少なくても12月の破門よりずっと後であり、
それを思えば、それよりずっと早くから個々の会員には呼び捨てにされていたこと、そしてその時期が非常に幅のあることから、強制でもなんでもなく、個々の会員の意志が強くありのままに反映されてのことであったことを述べておきたいのである。
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(No.16) 宗門はついに、 ♪「創価学会解散勧告書」♪ を創価学会に送付した。 先に述べた「顕本仏迹論」を学会が聖教に掲載した同じ日のことであった。 宗門は即日、それを一般紙には連絡しているのに、学会には黙って送付しただけである。
内容は、要は学会を解散しろということである。 「創価学会解散勧告書」の内容は、全文が学会でも報道された。長文である。 誰しもどんなものか興味をもつだろうが、読んでみて「なあんだ」という程度のものである。
創価新報では、わかりやすく整理して解説してくれている。わかりやすく言うと、 1. 法主根本にしなかった。(するわけがない。) である。全く中身がない。 みんなの心に留まったのは、「ついに宗門がやりおったか...。」「ほー。」「そうか、解散勧告を出したのか」「宗門はどうなるんだろうなあ。」etc..
この「解散勧告」で、ようやく誰の目にも学会と宗門とが決別していくことが予想されるようになった。 この頃から破門が通告されるまで、緊張感は確かにあったが、それは神経質なものではなかった。 ナーバスなど程遠いという点で、当時、世間からも誤解されていた面があったようだ。 筆者の周辺では、どのような経歴の方か分からぬが、さぞかし神経質になっているだろうと、ここぞとばかり会館などに来て、見知らぬ会員を罵倒する人々もいたが、およそおかど違いも甚だしかった。 酔っ払いのような振る舞いで非社会的な行為に及ぶ人はいつの時代にもいるのであって、その人がどの団体の所属であるのかなど意味の無い話だろう。 こっちは余裕いっぱいで笑い合っていた。怒ってはいたが。 何しろ第一に、こちらには何も問題はなかったのだから。 学会は大きな安心感で包まれていた。 先のことは誰にもわからなかったが。 これに、署名したくない学会員はまずいなかっただろう。 全世界からとはいえ、あまりに多い数で圧倒されてしまう。 驚くことではあるが、宗門が軽蔑されいったのは学会からだけではなかったのだ。 そしてその年の12月には日顕の下に送り届けられてしまったのである。
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(No.17)
「なぜ宗門はこんなに突然で、そしてその後も1つ1つがこんなに性急で強引であったのだろう。」 「なぜ、あんなに急いだのか。」「何の説明もなく。」「何の話し合いもなく。」 事ここに至るまで、宗門のやり方はまるで、始めに事ありきのようにしか思えなかった。
この年の1〜3月をもう一度思い出してみよう。よく見て考えてほしい。 12月暮れに、名誉会長の罷免。 1月初旬に、正本堂の意義の変更。及びすでに罵詈雑言。 3月半ばに、登山変更の通知(実行は7月)。そして学会員を退会させ直属信徒にする切り崩し開始。 その間、たった3ヶ月もない...。そして夏には「学会員お断りの立て看板」が立った...。 これをリアルタイムで見てきた人間には、宗門が何かを意図的にやったとしか他に思えないのだ。 しかもである。驚くべきことにだ。解散の勧告に至っのに何の正当な理由1つ、存在しないのである。 どんな法華講員に聞いても、解散、破門を通告した正確な理由を述べれる人はいなかった。 破門に至るまで、♪ 誰も知らない理由♪ なのである。
今も宗門側の誰かが学会の破門の理由を述べてくれるのだろうか! そう言えば、解散勧告書にある事実の指摘も、すべて平成2年よりずっと以前の事件ばかりが列挙されて 要するにただ難クセをつけられただけである。 先に挙げた1〜3月の項目の性急さをよく見て考えてほしい。 法華講員らが、意図的ではなく成りゆきの経緯であるとか、善導し尽くしての解散勧告だったとか、事態を またこれをもって見れば、もしかしたら学会が誘導的にやったのかわからないとの外部からの非難をも全く 学会員は馬鹿ではない。 自分の身近な人に理解を求めて社会の中で積極的に話していく学会員は、カルト団体がよくするように、組織外部の意見から閉鎖的状況を生み出し、よく知らない人だけに布教しようとするなどという世間知らずとはわけが違うのだ。 この断片的な1〜3月だけを見ても十分に結論にできる。 その間、学会側がやったことと言えば、 1. 丁寧にただしはっきりと質問を出したことと、 2. そして疑問点などを聖教等に掲載したこと、 3. あとは話し合いを申し込んだこと、 のたった3つだけではないか。 それをまるで学会に陰謀があるかの意見には、まったく、「学会員を馬鹿にするなー!」としか言い様がない。 こんなもの誰がどう見たって、一連のことは宗門が積極的にやってるとしか議論の余地はない。 あまりに決定的であるというか他に議論の余地があれば聞いてみたいものだ。
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ここでC作戦について触れたい。 始めから宗門の意志で何かを始めようとしたことは、揺るがしがたい実感である。 その宗門が当初から仕組んだとされる謀略の作戦名がC作戦である。 聖教にも早くからそれについての問いただしや部分的な情報が開示されていた。
半信半疑のような常識的な認識ではなかったかと思う。
もちろん聖教などの学会側も、数々の耳にした傍証を宗門側に問いただしただけであるから、なんらその報道の姿勢に問題は無い。
日顕が「C作戦は、あの野郎の首をCUTするという意味だよ。」と複数の僧侶に語ったと事や、
そういった疑問を宗門に質問したのであったが、なしのつぶてであった。 そして宗門僧侶である福田毅道らが一晩泣き続けての予想によると、学会員は悲惨な地獄絵図を描くはずだったそうである。(笑) 1/3が退転し、1/3が本山に付き、1/3が学会に残るとか。 そして1月中にはすっかりカタがついて、僧侶らは温泉にゆっくり入れるだろうと言ってたのだ から実に馬鹿馬鹿しい。 C作戦に至る概要についても、ごく簡単に話しておきたい。 そもそも平成2年の7月に、宗門と学会との定例の話し合いの場で、学会側は、最近の末寺僧侶のあまりの これを宗門は認め、表面上は宗内に綱紀自粛を打ち出すが、同時にもう学会を切り捨てようと思い立ったら それで、その12月に11.16の先生のスピーチにあらぬ言いがかりを付けて来た。
...そして学会員は大いに動揺し、学会は謝罪をしてくる...予定だったのだ(笑)。 そして学会の事実上の支配まで、当初は1ヶ月ですべて終わるはずだったのだ。 C作戦が絶対にあったとされる背景には、C作戦という名前でなくても何かの謀略が存在しなければ、宗門の行動はまったく説明がつかなかったからである。 C作戦は、宗門のあまりの酷さへの実感であった。 |
(No.19) これもまた御書による根拠すらも示していない「破門通告書」であった。 最初から最後まで何の話し合いもぜず、ついに一片の通知を送りつけて破門に処したのだ。 個々の多くの会員は、それが報道されるよりも早く口伝えで聞いたことだろう。 「ああ、そう。」「とうとうやりおったか。」としか思えなかった。 学会は全体がずっと大きな安心感に包まれ、そして歓喜があった。 破門になって明るく喜んでた団体は他に無いだろうから、外部の人には想像しにくいかもしれない。 長い長い間、無意味に苦しめられていた重い鉄鎖から学会はようやく解き放たれたのだから。 どう見ても変な宗教が、自分から所を辞して去っていってくれたのだから。 こんなに安心できることはない。 またこの頃、誰が作ったともなくやたら色んな替え歌とかが流行ってた。楽しいものであった。 ♪ 大好きだったけど〜学会いじめなんて、大好きだったけど〜悲しいプレゼント〜バイバイお寺〜♪ 笑い飛ばされていたのである。 この時、宗門から永久に離れるのかどうか、個々の会員の中にはさまざまな憶測もあったようである。
青年部にとっては全くもうどうでもいい問題であったと思うが、年配者にとっては、毎月欠かさず大石寺に登山をするのを楽しみにしていた人までいたのだから関心が無いはずはなかっただろう。 しかしそれは、どの会員にもわからないことであった。
ただ筆者の印象としては、池田先生が破門直前に、宗門と学会の歴史の長さの違いが、数千年単位の時の経過で見れば、どちらもあまり変わらないようになると譬喩的にスピーチをされたことを記しておきたい。 結局、昭和50年代からの宗門問題をただ一言で説明するなら、 1、当初は学会がいじめられていた。 2、そして平成3年から宗教改革の運動に変わった。 本質的には宗門問題は、単に宗門による、宗門のほうの問題であったと理解している。 しかしそれを機に学会は古い鉄鎖から解き放たれ、大きく世界的な民衆救済の視野にたった行動を取れるようになった。 こうして。 やがてこの11月28日は「魂の独立記念日」と名付けられることになった。 その日以降の聖教の紙面や会合では、取り立てて騒いでるわけではないのに、押さえようもない歓喜が溢れ出ているのがひしひしと感じられた。
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(No.20)(終了) 今から思えば、私には胸がすくような歓喜の思い出に包まれる一年だった。
人の心ゆえ離別して宗門が衰亡の一途をたどるのを思うと少しさみしいけど。 そういえば発端の宗門からの批判(11.16スピーチ)の1つがベートーベンの「歓喜の歌」を悪しきものとすることで始まったこともあまりに象徴的だった。(しみじみ) 法華講の諸氏は、今も日顕が来ると土下座して手を合わせているのだろうか? 土下座する者の前を悠然と歩ける者を不思議に思う日はいつなのだろうか。。。。 ♪ 終わり ♪ 読んでいただいた全ての方に。ありがとうございました。
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