ヘイトスピーチという言葉を最初に聞いた時はびっくりした。ヘイトって、hate?嫌いだってことを大勢の前で喋ること?なんだそりゃ?
言葉とはよくできたものだと思う。「ヘイト」という語感にはどこか、つばを吐きかけながら口にするようなイメージがある。まあ意味を知っているからだろうけど。映画の中で「I hate you!」とそれこそつばを吐きかねない勢いで言うシーンをなんとなく憶えているからというのもあるのかもしれない。
とにかく「ヘイトスピーチ」という言葉の周りには口にするだけで、とても汚らしい、イヤ〜なイメージがぼわんと出現する。もう直感的、本能的に近づきたくないような、子供に見せたくないような、そんな感じがある。
そんな行為がコリアンタウン・新大久保で何度も行われているという。言葉に驚いた以上に、驚いた。そんなことをする日本人がいるのか。
偏狭なナショナリズムは次元の低い考え方だし、日本人はそういう次元はとうの昔に乗り越えたのだと勝手に思っていた。考えてみたらまったく根拠はなかったわけだけど、争いを好まない、おもてなしの国民は、攻撃的な差別なんかしないに決まっているものと思い込んでいた。だから日本人が新大久保に集まっては在日韓国人に対するヘイトスピーチを行うと知った時はもう信じられなかった。
日本人はどの民族とも仲良くする、などときれい事を言うつもりもない。ちがう文化を持つ違う民族が一緒にいたら摩擦も起こる。小学生のある時期を暮らした町には"朝鮮学校"があった。地元の高校生が、彼らにゆすられたとか、その仕返しに行ったとか、小競り合いがあった。日本人同士だって出身地が原因で喧嘩することもあるのだから、民族が違えばもっと対立はある。
一方で、友人に在日韓国人がいる。生まれた時から日本で暮らしているし、名前も言葉も丸きり同じだ。自分でも、日本人とまったく違いはなく生きてきたという。違いは全くないという。だったら日本国籍を取らないのかと聞いたら、理屈では言えないがそれは絶対にしないのだときっぱり言った。とても失礼なことを言ってしまったのかもしれないと反省した。
民族がちがうと、いろんなことがある。物語が生じる。美しい話ばかりではない。喧嘩だってありだと思う。
ただ、それは一緒に生活するから生まれる。
ヘイトスピーチに参加する人たちは、在日韓国人の人たちとほんとうに接したことがあるのだろうかと思う。ないんじゃないだろうか。接したことがあったら、同じ町に暮らしていたら、友だちがいたら、少なくとも"ヘイトスピーチ"はしないと思う。
もう一度言うけど、喧嘩はあるだろう。議論口論、罵り合いもするかもしれない。でもそれはそれでちゃんとした"対決"だ。相手の顔が見えている状態で、気にくわないことがあれば口に出して相手にぶつける。それはありだと思う。
ヘイトスピーチは、在日韓国人が多く居る新大久保にわざわざ行ってデモ行進するわけだが、顔の見える相手と対決はしてないんじゃないか。"多く住む町"というもやもやしたイメージみたいなものを対象に、抽象的な排斥を言葉にするのだ。だから時として「死」を含んだきつい言葉を言えてしまう。でも相手の顔がはっきりしていたら、ほんとうに言えるだろうか。言えるとしたら心底ひどい人間だと思う。相手の顔を見てないからこそ、酷いことが言えるのだ。
ヘイトスピーチをする人たちにも、それなりの主張があるらしい。なるほどと思える部分もある。日本の言論はあまりにサヨク的に傾きすぎていた。時によるとそれは極端に卑屈な姿勢になっていたと、ぼくも思う。
でもその主張を世の中に訴える手法として、新大久保で町を相手にもやもやとヘイトスピーチをしたところで、主張は誰にも届かない。訴える人たちのイメージが悪くなるだけだ。主張があるなら、顔が見える相手と、相対して議論すればいいのだ。そういう場をつくってはっきりした相手にものを言うなら、その議論は何かを生むはずだ。暴力を使わずに喧嘩すればいい。ヘイトスピーチは喧嘩にさえなってないから何も生まない。
ぼくは友だちがいるから、在日韓国人に酷いことは言えない。言う気にならない。友だちだから、自分が言われる側になったことを想像するのだ。想像してみると、それがどんなにイヤな気持ちかが分かる。同じ国で一緒に暮らしているはずの人びとに言われたら、さぞかし悲しいだろう。
ヘイトスピーチを行なう人たちはだから、友だちとは言わないまでも、顔と名前がわかってる相手に対し、ヘイトスピーチという形ではなく堂々と主張を言えばいいと思う。うっ屈をぶつけるのではなく、何かを生み出すために議論できれば、きっと何かにつながるはずだ。それができないなら、自分のヘイトスピーチが自分に返ってくるだけだろう。
※この記事は、新しい形式を目指した。ビジュアルがついているが、ただの挿し絵ではなく、書こうとする原稿に沿ったコピーとビジュアルで構成したものだ。いま居候しているデザイン事務所BeeStaffCompanyのボス兼アートディレクター・上田豪氏にコピーからイメージするビジュアルを考えてもらった上で完成させてもらった。思い返せば、昔は新聞広告をそういう風に作っていた。
つまり広告制作で培ってきたノウハウをデジタルとソーシャルの世界で生かすための実験だ。これから週に一本程度、この形式の記事を書いていく。そこにはコピーとデザインの可能性と、ひょっとしたら新しい表現形態の広告が見いだせるのかもしれない。七転八倒の試行錯誤になると思うけど、まあ見守ってくださいな。
コミュニケーションディレクター/コピーライター/メディア戦略家
境 治
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(※この記事は、2013年10月3日の「クリエイティブビジネス論!~焼け跡に光を灯そう~」から転載しました)