境治

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誰かをヘイトしていると、あなたがヘイトされる。

投稿日: 2013年10月03日 14時53分

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ヘイトスピーチという言葉を最初に聞いた時はびっくりした。ヘイトって、hate?嫌いだってことを大勢の前で喋ること?なんだそりゃ?


言葉とはよくできたものだと思う。「ヘイト」という語感にはどこか、つばを吐きかけながら口にするようなイメージがある。まあ意味を知っているからだろうけど。映画の中で「I hate you!」とそれこそつばを吐きかねない勢いで言うシーンをなんとなく憶えているからというのもあるのかもしれない。

とにかく「ヘイトスピーチ」という言葉の周りには口にするだけで、とても汚らしい、イヤ〜なイメージがぼわんと出現する。もう直感的、本能的に近づきたくないような、子供に見せたくないような、そんな感じがある。

そんな行為がコリアンタウン・新大久保で何度も行われているという。言葉に驚いた以上に、驚いた。そんなことをする日本人がいるのか。

偏狭なナショナリズムは次元の低い考え方だし、日本人はそういう次元はとうの昔に乗り越えたのだと勝手に思っていた。考えてみたらまったく根拠はなかったわけだけど、争いを好まない、おもてなしの国民は、攻撃的な差別なんかしないに決まっているものと思い込んでいた。だから日本人が新大久保に集まっては在日韓国人に対するヘイトスピーチを行うと知った時はもう信じられなかった。

日本人はどの民族とも仲良くする、などときれい事を言うつもりもない。ちがう文化を持つ違う民族が一緒にいたら摩擦も起こる。小学生のある時期を暮らした町には"朝鮮学校"があった。地元の高校生が、彼らにゆすられたとか、その仕返しに行ったとか、小競り合いがあった。日本人同士だって出身地が原因で喧嘩することもあるのだから、民族が違えばもっと対立はある。

一方で、友人に在日韓国人がいる。生まれた時から日本で暮らしているし、名前も言葉も丸きり同じだ。自分でも、日本人とまったく違いはなく生きてきたという。違いは全くないという。だったら日本国籍を取らないのかと聞いたら、理屈では言えないがそれは絶対にしないのだときっぱり言った。とても失礼なことを言ってしまったのかもしれないと反省した。

民族がちがうと、いろんなことがある。物語が生じる。美しい話ばかりではない。喧嘩だってありだと思う。

ただ、それは一緒に生活するから生まれる。

ヘイトスピーチに参加する人たちは、在日韓国人の人たちとほんとうに接したことがあるのだろうかと思う。ないんじゃないだろうか。接したことがあったら、同じ町に暮らしていたら、友だちがいたら、少なくとも"ヘイトスピーチ"はしないと思う。

もう一度言うけど、喧嘩はあるだろう。議論口論、罵り合いもするかもしれない。でもそれはそれでちゃんとした"対決"だ。相手の顔が見えている状態で、気にくわないことがあれば口に出して相手にぶつける。それはありだと思う。

ヘイトスピーチは、在日韓国人が多く居る新大久保にわざわざ行ってデモ行進するわけだが、顔の見える相手と対決はしてないんじゃないか。"多く住む町"というもやもやしたイメージみたいなものを対象に、抽象的な排斥を言葉にするのだ。だから時として「死」を含んだきつい言葉を言えてしまう。でも相手の顔がはっきりしていたら、ほんとうに言えるだろうか。言えるとしたら心底ひどい人間だと思う。相手の顔を見てないからこそ、酷いことが言えるのだ。

ヘイトスピーチをする人たちにも、それなりの主張があるらしい。なるほどと思える部分もある。日本の言論はあまりにサヨク的に傾きすぎていた。時によるとそれは極端に卑屈な姿勢になっていたと、ぼくも思う。

でもその主張を世の中に訴える手法として、新大久保で町を相手にもやもやとヘイトスピーチをしたところで、主張は誰にも届かない。訴える人たちのイメージが悪くなるだけだ。主張があるなら、顔が見える相手と、相対して議論すればいいのだ。そういう場をつくってはっきりした相手にものを言うなら、その議論は何かを生むはずだ。暴力を使わずに喧嘩すればいい。ヘイトスピーチは喧嘩にさえなってないから何も生まない。

ぼくは友だちがいるから、在日韓国人に酷いことは言えない。言う気にならない。友だちだから、自分が言われる側になったことを想像するのだ。想像してみると、それがどんなにイヤな気持ちかが分かる。同じ国で一緒に暮らしているはずの人びとに言われたら、さぞかし悲しいだろう。

ヘイトスピーチを行なう人たちはだから、友だちとは言わないまでも、顔と名前がわかってる相手に対し、ヘイトスピーチという形ではなく堂々と主張を言えばいいと思う。うっ屈をぶつけるのではなく、何かを生み出すために議論できれば、きっと何かにつながるはずだ。それができないなら、自分のヘイトスピーチが自分に返ってくるだけだろう。

※この記事は、新しい形式を目指した。ビジュアルがついているが、ただの挿し絵ではなく、書こうとする原稿に沿ったコピーとビジュアルで構成したものだ。いま居候しているデザイン事務所BeeStaffCompanyのボス兼アートディレクター・上田豪氏にコピーからイメージするビジュアルを考えてもらった上で完成させてもらった。思い返せば、昔は新聞広告をそういう風に作っていた。

つまり広告制作で培ってきたノウハウをデジタルとソーシャルの世界で生かすための実験だ。これから週に一本程度、この形式の記事を書いていく。そこにはコピーとデザインの可能性と、ひょっとしたら新しい表現形態の広告が見いだせるのかもしれない。七転八倒の試行錯誤になると思うけど、まあ見守ってくださいな。

コミュニケーションディレクター/コピーライター/メディア戦略家
境 治
What can I do for you?
sakaiosamu62@gmail.com


(※この記事は、2013年10月3日の「クリエイティブビジネス論!~焼け跡に光を灯そう~」から転載しました)

 
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人気コメント
19分前 (20時53分)
それがどんな理由であれ「殺せ」とか「死ね」みたいなコトバを使って他人を攻撃することが良いことであるとは誰も思えないでしょう。「ヘイトスピーチ」と、カタカナにし、「抽象化」することによって、そういう泥臭く人として許されないものを肯定するときに使う、ということがやはりおかしいのだと思います。

そうは言っても、ある人は感情的になるとそういうコトバを使いたがる。酔っぱらいの喧嘩がそうです。そこで自分の中に抑圧された「おどろおどろしい欲望」を直接表現することで、その人のストレス解消をする。でも、そういうことでしかストレス解消ができない人は、社会性を失って疎外されていく。それは本人の絶望の表現であり、また正しい表現の方法を知らないという知性の欠如とも言えます。そして、昔からそういう人はいました。それは負のスパイラルの中に彼がいる、ということの証左でもあるのではないでしょうか?

だから、「死ね」などのコトバを聞くとき、私は反発するとかよりも、むしろ悲しくなります。表現手段を持たず社会から疎外される人間の悲哀が、そこに漂っている。その人はそう長くは生きられないし、社会的地位も低いまま一生を終えるだろう、と、思うからです。残酷かも知れませんが、それがこの世のありようではないか、と思うのです。
36分前 (20時35分)
誰かをヘイトしていると、あなたがヘイトされる。....韓国は政府・メディアがディスカウント・ジャパン運動を展開しているというじゃないですか。「日本をヘイトしているから、韓国(在日含め)がヘイトされている」んじゃないですか?そういう基本的な発想が、境治氏に無いことが、この国のメディア関係者の問題じゃないか?
19時間前 (01時43分)
ヘイトスピーチをすることで、
ヘイトスピーチされる。
これを利用して名を上げて成功するのが、
民主主義国家の政治家である。
現在の民主主義は大きな欠点を抱えている。
制度の改善が必要だ。
21時間前 (00時08分)
在特会のデモは合法的であり、言論の自由の中で行われている限り問題はありません。むしろヘイトスピーチとかカタカナ使って批判することの方が大問題です。

ところで、境氏は、ヘイトスピーチが何故「在日韓国人・朝鮮人」にだけ向けられるのかと考えたことは無いのだろうか?それとも考えたくないのか?
2013年10月04日 11時53分
状況の改善は、何故このような状況になっているのかという理由に目を向けない限り望めません。在特会のデモに批判的な人は、その部分をまったく見ていません。デモまで行ってあれだけ主張しているのに、そんなもの何もないかのように目を背けています。これは無視であり、人をより一層怒らせる行為です。怒りを煽る行為です。このような対応をする限り、事態はますますエスカレートするでしょう。

頭ごなしに抑え込むことで有耶無耶に出来るレベルはもう越えてます。非難や罵倒では抑え込むません。その方法で抑え込もうとしている人は、アプローチの方法を考え直して頂きたいと思います。口を出すなら、もっと基本的なところから、怒っている人をどうすれば諌められるのか、対立する人をどうすれば和解させられるのか、そういうところから考えてもらいたいと思います。人の感情を軽く考えないことが大事だとも言っておきたいと思います。これは人の感情の問題です。人の感情を抑え込むことは容易ではありません。
2013年10月04日 11時35分
このコピーを向ける相手として、日本人は適当なんでしょうか。
顔のない日本人全体を差別してきた集団(この集団には「サヨク」とカタカナで呼ばれる日本人も含むわけですが)が、
今まさにヘイトスピーチをくらっているということ。
問題は認識する前から連続的に存在しますし、新大久保以外の場所でも起きています。
2013年10月04日 09時52分
▼この記事は、ヘイトスピーチを撒き散らす人間にも歓迎されないだろうし、それを止めようとしている人々にも支持はされないでしょう。というのも、日本のヘイトスピーチは・・・というか差別脅迫は、とっくに個人に対する攻撃にまでなっているからです。そもそも韓国や朝鮮の政府の政策、あるいは「在日社会」についてなどの漠然とした不満だか疑問だかを、「議論」と称して個々の在日コリアンにぶつけるのは、単なる嫌がらせにしかなりません。「知らんがな」と言われてしかるべきでしょう。
「日本の言論はあまりにサヨク的~時に極端に卑屈」というのも、まさに在特会的な思考です。なぜ「サヨク」とカタカナで書くのか、なぜ在日韓国人への差別を批判しても在日朝鮮人への言及はないのか。なんのことはない、在特会などの差別脅迫集団は、わたしやあなたの中にある偏見を増幅しているだけです。かれらをのさばらせるような社会が「サヨク」なわけがないのです。
ではどうすればよいのか。妙案はありませんが、ACみたいな広告では埒があきません。差別脅迫集団の現場写真を告発ポスターにしたほうが、事態の異常さは伝わるんじゃないでしょうか。
2013年10月04日 06時49分
境さんの主張に全面的に賛同いたします。
あのデモ行進に何かしらの建設的な意義があるとはこれっぽっちも思えない。
デモの主張(そもそも主張なんてあるのか?ということ自体疑問ですが)も幼稚なら、手法も幼稚。

同じ日本人として、恥ずかしいのひとことです。おそらく彼ら彼女らは、具体的な名前を持たない「韓国人というもの」「朝鮮人というもの」と闘っているのでしょう。そしてそれは「韓国人社会」「朝鮮人社会」とは全く別の何かです。

僕の一番の疑問は、端から見ていて彼らの行為がこんなに幼稚で稚拙なことが一目瞭然なのに、なぜそのことが彼ら自身気付けないのか、というその一点ですね。本当に不思議だ。
2013年10月04日 00時09分
この議論が常に不毛になってしまうのは、「へイトスピーチ」の意味が人によって異なるからだ。

へイトスピーチとは「個人や集団を、人種(民族)・国籍・性といった先天的な属性、あるいは民族的文化などの準先天的な属性(中略)で分類し、それを有することを理由に、差別・排除の意図をもって、貶めたり、暴力や誹謗中傷、差別的行為を煽動したりするような言動のことを指す」(wiki)

だから、「在日朝鮮人にのみ認められている〇〇を廃止せよ」といった政策的な主張をしたり、特定の考え方や政策を批判したりすることはへイトスピーチとは言わない。

へイトスピーチとは、「いい朝鮮人も悪い朝鮮人も殺せ」「在日は日本から出ていけ」というものだ。その言葉をシュプレヒコールし、プラカードを持つデモ隊を私は新大久保で見た。信じられない気がした。「殺せ」という言葉が同じ日本人の口から出ているのを聞いて耳をふさぎたくなった。筆者が異論を唱えているのはこちらのことだ。

へイトスピーチなどという外来語はやめて「憎悪表現」という訳語を使用したほうが混乱を招かないと思う。
2013年10月03日 21時40分
ヘイトスピーチという言葉自体、在日朝鮮・韓国人が記事主が感じたようないや~なイメージを
植え付けるための広告では?

現実を見ればわかると思いますが、「おかしいものはおかしい」と言っているだけに過ぎません。
念の為に書きますが、対象となっているのは在日朝鮮・韓国人社会であって個人ではないのです。
2013年10月03日 19時25分
日本人だって、怒らせるようなことされたら怒りますし、怒らせることを繰り返ししてくる相手は嫌います。

そして今伝えたいのは、怒っているのだということ。たったこれだけの事がまったく伝わらない。これが伝わらないのだから議論になりません。実際、多くの人々により何度も議論が試みられてますが、一つとして噛み合った議論になったという話を聞きません。こんな状況では議論はまったく期待出来ません。
この問題の主題は怒りです。怒りという感情です。これに正面から向き合わない限り、改善は望めません。ヘイトスピーチという言葉で括って誤魔化さず、日本人の怒りを正面から見据えて考えて下さい。お願いします。
2013年10月03日 15時22分
”広告は私たちに微笑みかける死体”

という本がありました。

オリビエーロ・トスカーニの著書です。

広告屋さんですから、この本をお読みになったことがあるかもしれませんが、広告屋とはこういう”微笑む死体売り”的な面もあるものです。大久保あたりで起きているヘイトスピーチは、韓国人らによる日本人への無差別な「ヘイト・クライム」がその根底にあるという認識です。なので、ヘイト・クライムが土壌だとすれば、ヘイト・スピーチは、土壌から生える雑草のようなものでしょうか。

なので、ヘイト・スピーチを広告によって問題提起することそのものは結構ですが、ことの本質に向き合わず、ただ”ヘイトスピーチはやめよう!”って、日本人向けに表彰的なメッセージを投げかけることが、一体なんになるのだろうかとは思います。ようは、投げかけているテーゼそのもの自体がすでに死んでいるということです。それもにこやかに微笑みながら。

こうしたメッセージはあまり、世に出したとしても効果的に働くことはなく、かえって反発が生まれる広告だと思いますよ。プロの広告屋さんの成果物としては、あまり褒められたものではないと思います。