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「南京大虐殺」と言われている事件で、その当時南京では20万人ほどしかいなかった...

mittytahさん

「南京大虐殺」と言われている事件で、その当時南京では20万人ほどしかいなかったのになぜ50万以上を殺せるのか?
次の中から選んで回答してください。

1.単なる数え間違い。

2.自国民同志の殺し合いの死者もどさくさに紛れてカウントアップしていた。

3.当時の中国人は攻撃をうけると、たまに分裂することができた。ドラクエ4に出てくるスモールグールのように。

4.その他。

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  • 質問日時:
    2013/9/29 00:53:39
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    2013/10/4 21:47:17
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回答

(12件中1〜5件)

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kouyouchinbutaiさん

答えは4.その他、です。ご質問の基本が間違っているので教えてあげましょう。

>その当時南京では20万人ほどしかいなかったのに

当時の南京の人口が20万だったという記録は存在ません。否定派がでっち上げた数字です。南京の人口は130万(135万という説もある)でした。残酷な日本軍が侵略してくると言うので80万が逃げ、残ったのが50万。これは当時の資料に明確に残されています。昭和12年11月23日に当時の南京市長が政府に出した報告書に「調査によれば現在の人口は約50余万。将来はおよそ20万人と予想される難民のための食糧送付が必要である」と。

当時の南京の人口に関連した唯一信頼出来るの記録ですね。南京攻略戦の前なので南京市長もウソをつく必要はない。20万は人口ではなく「難民」なのです。否定派はその20万を取り出して人口だ、人口だと騒ぐ。

と言う事で、当時の南京の人口50万、それに加えて南京守備の中国軍が9万~13万と言われています。合計59万~63万、、、30万殺そうと思えば殺せた。しかしそれを証明する事は出来ない。同時に日本サイドも30万ではなかったという証明も出来ない。実数は永久に分からないでしょう。南京戦後、日本軍は太平洋戦争終了まで8年間も南京を占領。証拠になりそうなものは廃却。もちろん中国サイドの調査を許すわけがない。しかしかろうじて残っている日本軍自体の記録や証言、メモだけから見ても少なくとも数万、あるいは数十万は殺されている事が分かります。否定派は日本軍の資料すら否定する。だから否定派といわれるのかな?(笑)

当時生まれてもいなかった「否定派」の方々が必死になって否定する南京大虐殺は、別に中国に教えてもらわなくても東京裁判の結果を読まなくても、当時の大日本帝国陸軍の将軍たちや実戦に参加した兵士たちの証言、報告書、従軍日誌があります。それだけでも少なく見積もって数万人の虐殺があり、略奪、強姦は数知れずあった事が分かります。少しですが紹介しましょう。

南京攻略軍総司令官・松井石根大将、東京裁判で死刑になる直前のコメント
「南京事件はお恥ずかしい限りです、私は皆を集めて軍総司令官として泣いて怒った、せっかく皇威を輝かしたのに、あの兵の暴行によって一挙にしてそれを落としてしまった」

日中戦争で軍司令官、師団長として戦った澄田中将の回想
「日本軍は事変の出だしから隠れもないあの南京虐殺事件は論外としても、残念ながら略奪、放火、殺人、強姦など、あらゆる悪行のし放題と言ってよい」

陸軍省人事局長・阿南少将(のち大将、陸軍大臣)南京視察メモ
「軍紀風紀の現状は皇軍の一大汚点なり。強姦、略奪たえず」「「婦人方面(注:強姦の事)、殺人、不軍紀行為は、国民的道義心の廃退、戦況悲惨より来るものにして言語に絶するものあり」

第11軍司令官・岡村寧次中将(のち大将)の回顧録
「派遣軍第一線は給養困難を名として俘虜の多くはこれを殺すの悪弊あり。南京攻略時において約四、五万に上がる大殺戮、市民にたいする掠奪強姦多数ありしことは事実なるがごとし」

山田支隊山砲兵第19連隊第3大隊黒須忠信上等兵の陣中日記
「二、三日前捕虜せし支那兵の一部五千名を揚子江の沿岸に連れ出して機関銃をもって射殺す。その後銃剣にて思う存分突き刺す。ウーン、ウーンとうめく支那兵の声、年寄りも子供もいる。一人残らず殺す。刀を借りて首も切ってみた」

都城第23連隊兵士の日記
「今日もまた罪もないニーヤ(中国人をバカにした言葉)を突き倒したり打ったりして半殺しにしたのを壕の中に入れて頭から火をつけてなぶり殺しにする。退屈まぎれに皆おもしろがってやるのだが、まるで犬や猫を殺すくらいのものだ」

昭和天皇の弟・三笠宮(陸軍士官学校出身)の自伝
「一九四三年一月、私は支那派遣軍参謀に補せられ南京の総司令部に赴任しました。そして一年間在勤しましたが、その間に私は日本軍の残虐行為を知らされました。ここではごくわずかしか例をあげられませんが、それはまさに氷山の一角に過ぎないものとお考えください、、、」

↓中国人を生き埋めにする日本兵。日本軍サイドの撮影で所有者も特定されている。否定派は「うしろの建物は学校だ。南京では学校は難民保護区にしかなかった。そんなところに日本兵が行くわけがない」と。ウソか無知かそのどちらもかですね(笑)。 うしろの建物が学校だと誰が決めたのかな??そして南京には難民区以外には学校がなかった?冗談も休み休みにしましょう。当時の中国の首都・南京には沢山の学校があちらこちらにあった。そして日本軍は平気で難民区へも侵入した。日本軍自体の報告書にも書いてある。こんなウソはすぐばれますね。

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y1892aさん

4.意図的な水増しですね。水増しというより、彼らシナ人の頭の中では城が陥落したときは大虐殺が起こるのがあたりまえなのです。
http://nomorepropaganda.blog39.fc2.com/blog-entry-247.html


ちなみに、下の回答者shpfiveは「4万~20万人虐殺説」を支持する隠れ大虐殺派です。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1011380573...
彼は自分の立ち位置を隠そうと必死です。

10万人以上説を採るには、南京の人口が20万では困るのです。



★安全区の人口は20万~25万人だった。

『南京の陥落を前にして、中国軍と市民の脱出は引きも切らなかった。人口のおよそ5分の4が市を脱出し、主要な部隊は武器・装備もろとも撤退していった。南京市の防衛は、わずかに5万人の兵士に任されていた。住民の5分の4は逃げ去っていたが、残留した者の大部分は、南京安全区国際委員会が設定しようとした、いわゆる「安全区」に避難していた。南京の政治および経済状況市の人口、およそ100万人のうち、現在20万~25万人が残留し、そのほとんどが貧民階級の人たちである。』
(エスピー報告 12月10日後の主な報告)

※エスピー報告は、南京アメリカ大使館エスピー副領事が本国に送った、「南京事件」に関する報告書です。
http://1st.geocities.jp/nmwgip/nanking/SP.html

エスピー報告だけでなく、国際委員会公式文書その他(下の写真)には、20万~25万とはっきり述べられています。食糧の配給の関係もあり、おおむね正確、すこし多め、と見なして良いでしょう。


★安全区の外には一般市民はほとんど居なかった。

『城壁の外側は中国人に、市内はその大部分が日本軍によって、焼き払われてしまったからだ。そこはいま誰も住んでいない。およそ二十万人の難民はかつての住宅地である安全区に収容されている。家や庭の藁小屋に寄り集まって、人々はかつがつその日をおくっている。多い所には六百人もの難民が収容されており、彼らはここから出ていくことはできない。』(シャルフェンベルク(ドイツ大使館南京分室事務局長)の記録 38年1月13日)
http://www.geocities.jp/kk_nanking/mondai/jinkou/jinkou03.htm

『12月6日 AP特派員のマクダニエルがきょう話してくれたところでは、きのう句容へ行ってみたが、人が住んでいる村はただの一つもなかったそうだ。中国軍は村びとを一人残らず連れ出し、そのあと村を焼き払っているのだ。まったくの「焦土作戦」だ。農民たちは城内に連れてこられるか、そうでなければ浦口経由で北方に追いやられている。』(南京事件の日々―ミニー・ヴォートリンの日記)

『…貴国部隊が本市に入城した十三日、私どもは市民のほぼ全員を安全地帯という一地区に集合させていたが…』
第九号 日本大使館への手紙 一九三七年十二月十七日 ジョン・ラーベ

『このようにして安全地帯は設立され、憲兵と警察が一軒一軒安全地帯に移るように住民に勧告して回り、南京防衛軍司令官も12月8日に布告を出して、「非戦闘員の安全地帯への集結を求めた」ので住民も安全地帯へ転居するようになった』
12.8 ダーディン特電南京発 ニューヨークタイムズ

『南京安全地帯の記録(中国名:「南京安全区档案」徐淑希編纂)』の事例の編集に関与したベイツは、国民党中央宣伝部顧問ティンパーリーを通して『WHAT WAR MEANS(戦争とは何か)』のなかで次の重要なコメントを『南京安全地帯の記録』についてしている。

『…なお注意してほしいことは、ここに記録された事件はただ南京安全区内で起きたものだけであり、南京のこれ以外の場所は一月末まで事実上、無人地帯となっていたのであって、この期間中、ほとんど外国人の目撃者がなかったということである。…』
http://nanjinggenpatsu.com/timperleyjappendixa.html

以上、安全区の外には一般市民は殆どおらず、安全区の人口は20万~25万人だった。そりゃそうです。安全区に居れば食糧の配給が受けられるうえに、良民証をもらえて日本軍に守ってもらえるのですから。
http://nomorepropaganda.blog39.fc2.com/blog-entry-261.html


なお、国民党軍は南京に立てこもるまえに清野作戦を展開しており、周辺の民家など日本軍が利用しうるものは焼き尽くされています。そのような状況で安全区に避難しない人って、いったいどんなひとでしょうか?

『中国軍による焼き払いの狂宴(12月7日以降)…南京へ向けて15マイルにわたる農村地区では、ほとんどすべての建物に火がつけられた。村ぐるみ焼き払われたのである。中山陵園内の兵舎・邸宅や、近代化学戦学校、農業研究実験室、警察学校、その他多数の施設が灰塵に帰した。…この中国軍による焼き払いによる物質的損害を計算すれば、優に2000万ドルから3000万ドルにのぼった。これは、南京攻略に先立って何ヶ月間も行われた日本軍の空襲による損害よりも大きい』(ニューヨークタイムズ、ティルマン・ダーディン)。

安全区外に人が居ることが確認されたことが事実だとしても、それは国民党側の命令つまり軍律に違反した空き巣、コソ泥の類い、いわゆる剽盗(戦場をうろついて軍隊につきまとい、略奪、窃盗、負傷者の虐待・殺害、死者の所持品の剥奪などをする行為)です。

国際法学者佐藤和男氏は以下のように述べています。

『戦争犯罪を構成する行為としては、(1)軍隊構成員による一般的交戦法規の違反行為、(2)軍隊構成員ではない個人の武力による敵対行為、 (3)間諜(スパイ)と戦時反逆、(4)剽盗(戦場をうろついて軍隊につきまとい、略奪、窃盗、負傷者の虐待・殺害、死者の所持品の剥奪などをする行為)の四種類に伝統的に大別されてきた。 』
『各国軍隊は、軍律を制定して、戦争犯罪(一般的交戦法規違反とは特に区別して戦時反逆を取 り上げている場合もある)を処罰の対象として規定し、軍律違反者たる戦争犯罪人を、軍の審判機関(軍律法廷)を通じて処罰するのが慣例であった。(P313-P314)
軍律法廷は純然たる司法機関ではなく、統帥権に基づく機関であって、むしろ行政機関、あるいはせいぜい準司法機関というべきものである。その行う審判は、機能的には軍事行動と把えるのが正確であり、その本来の目的は、戦争犯罪を行った敵対者の処断を通ずる威嚇によって、究極的には(占領地・作戦地帯における)自国軍隊の安全を確保することにあった。そのため、審判の手続は簡易にされ、軍罰(たいてい死刑)の執行は迅速であった。 』
http://www21.atwiki.jp/nankin1937/pages/16.html

つまり剽盗などは死刑になってもおかしくない戦争犯罪なのです。
仮に彼らが殺害されたとしても、軍律違反を犯した命知らずの戦争犯罪人に対する処罰に過ぎません。

shpfive
>また言うまでもなく、周辺農村部分が無人であるなら、大規模な虐殺が存在した事を意味する。

バカでしょ?(笑



写真)安全区の人口に関する史料一覧表--本当はこうだった南京事件(板倉由明著)より

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  • 編集日時:2013/9/29 09:30:27
  • 回答日時:2013/9/29 08:01:21

joker12209280さん

1です
南京大虐殺は確実にありました。

本当は1万ぐらいしか殺してないと思いますけどね

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shpfiveさん

↑上の方々へ。

20万人というのは安全区の避難人口であり、後にラーベ達国際委員会をはじめとする当時の南京にいた外国人達は、安全区外の難民の存在を確認してから、認識を訂正していますよ。

また当初の20万人という推計人口も、上方修正しています。

ゆえに「数え間違い」があったのは確実です。

で、郷区や周辺農村部の人々はどうなったんですか?

1です。

これは史実として確定しています。

当時の南京の人口が20万人、というのは、実際には南京市内の一部にすぎない「安全区」にいた人々の「推定人口」にすぎません。

そもそも南京市の範囲自体、周辺六県を含む「南京特別市」を指すのか、あるいは郷区(農村部)を含む範囲を指すのかによっても、話は全然違ってくるのですが、仮に「南京城区」に限定するとしても、大規模な難民キャンプが存在した事が、明らかとなっています。
http://www.geocities.jp/yu77799/anzentitaigai.html

さて、事件当時の南京の人口が20万人だった、という話の起源は、極東国際軍事裁判におけるロヴィン弁護人の発言、と思われます。

「極東軍事裁判」速記録第58号によると

ロヴィン弁護人
更に外の部分に注意を喚起致しますが、南京に於て殺害された数は三十万となって居りますが、私の承知している範囲に於きましては南京の人口は二十万であります。
「南京大残虐事件資料集 第1巻」P147より)

この弁駁書は最終段階で提出されたもので、検察側からの反論はなかったようです。

弁護側があげた資料としては当時のアメリカ大使館による「エスピー報告」と、安全区国際委員会の委員長だったジョン・ラーベが上海ドイツ総領事宛書簡で「安全区内に20万人の市民が生活している」と述べたものです。

これについては以下の反論が考えられるでしょう。

1 エスピー報告は、日本軍占領下の南京に残留した20万から25万人の市民が、主として難民収容所で避難生活を行っている、という内容であり、ラーベの書簡も「安全区内に20万人の市民が生活している」としているだけで、南京市内の他地域が無人であった、とはしていない。

逆に、安全区以外の住民の存在についての証拠ならある。

http://wiki.livedoor.jp/nankingfaq/d/%b4%d9%cd%ee%bb%fe%a4%ce%c6%ee...

マギー牧師の解説書
http://www.geocities.jp/yu77799/anzentitaigai2.html

なおエスピー報告の都合のよい箇所だけを切り取って「デマ情報」を流す方も見かけるので
http://www.geocities.jp/yu77799/siryoushuu/espi.html

を引用しておきます。

2 南京市の戦前人口は100万人であり、戦局の悪化にともない人口流出はあったものの、1937年11月23日の時点で南京市政府(馬市長)が国民政府軍事委員会に送付した書簡にも「現在の人口は約50余万である」と記されており、いわゆる大虐殺があった後の20万人から25万人という数字と比較しても意味はない。

むしろ約50余万人−20万人から25万人という数字なら、仮に若干の数字の変動があったとしても、市内だけで30万人近い犠牲者が短期間で発生した、という解釈も成立する。

むしろ安全区以外の住民の存在を認めないと、数字上は大虐殺を肯定する事にしかならない。

3 極東国際軍事裁判においても事件の範囲は南京市とその周辺となっており、周辺農村部分も含めての人口が「20万人から25万人」である、もしくは周辺農村部分は無人である、としない限り、こうした論は成り立たない。

また言うまでもなく、周辺農村部分が無人であるなら、大規模な虐殺が存在した事を意味する。

なお南京市の人口100万人というのは、周辺農村部分は含まない数字です。

と言っても範囲の取り方によっても違ってきますが、スマイス報告による南京特別市の近郊六県の県域と農村の人口について言うと、日本軍による南京攻略以前には調査対象の4県半に120万人から135万人の住民人口があったと推定されており、市の人口とあわせて200万人以上の住民がいたのは、ほぼ確実です。

犠牲者の数についてなら、それこそ「神のみぞ知る」という事になりますが…

あと南京の人口が増えた、というのも「俗説」です。
詳しくはこちらをご覧ください。
http://www.geocities.jp/yu77799/jinkou2.html

なお日本側研究者で、そもそも「30万人虐殺説」を支持する人は基本的にいませんので、その数字にこだわる事自体、あまり意味はありません。

実数が数万だから、事件が存在しないという論にはならないでしょう。

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  • 違反報告
  • 編集日時:2013/9/29 15:38:44
  • 回答日時:2013/9/29 07:04:55

aliadaa2007さん

もちろん、デッチあげに決まっていますよ。

そもそも日本兵は、ヘタレが多く、

中国兵からバカにされるくらいだったんです。

日本兵は人の殺し方も知らないバカばかりで実戦には使い物にならなかった。

虐殺というのも真っ赤な嘘で、最後に日本政府の公式見解をのせておきますが、

これは民主党から自民党へ政権交代したことにより改正され、

自虐史観からの脱却が十分できています。

日本兵は中国へ渡る船が途中で自沈したり、

中国へ渡っても、鉄砲のタマが3センチほどしか飛ばせなかったり、

タマを飛ばせたとしても、味方をよく撃ち殺したり、

女をやろうとしても、たたなかったり、

たっても性病もらって、すぐ全軍に蔓延したり、

赤ちゃんを銃剣の先で串刺しにしようとしても、

そもそも剣先の手入れもできなくて錆びて折れていたりして、

錆びて折れていなかったとしても、

その銃剣で誤って自分をさしてしまうマヌケが多くいました。

道を歩けばすぐ転んだり、迷子になったり、

ノドが渇いたために動物の尿をおいしく飲んだりしていたのです。

そんな奴らだから戦争もできなかったのです。

中国兵からもよく笑いものにされたヘタレ皇軍が

20万も立派な数字を出せるわけないのです。

最低でもそれほど華々しい戦果をあげられる強い軍隊であれば、

中国を制圧し、日中戦争にさっさと片をつけて勝利できていましたよ。

ヘタレ軟弱軍隊の笑われ集団だったから、戦争は長期化し、敗北し、

戦後も蔑みを受けているだけです。

世界から批判をされ、隣国からもバカにされるのは、

皇軍が子どもからみてもだらしのない成ってない軍隊だったためです。

猿回しの猿軍団以下ですよ、皇軍は。

そんな皇軍がすばらしい戦果を出せるわけないじゃないですか。

日本政府が戦闘行為を認めること自体、おかしな話です。





http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/taisen/qa/08.html

「南京大虐殺」に対して、日本政府はどのように考えていますか。

1.日本政府としては、日本軍の南京入城(1937年)後、

非戦闘員の殺害や略奪行為等があったことは否定できないと考えています。

2.しかしながら、被害者の具体的な人数については諸説あり、
政府としてどれが正しい数かを認定することは困難であると考えています。

3.日本は、過去の一時期、植民地支配と侵略により、多くの国々、
とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えたことを率直に認識し、
痛切な反省と心からのお詫びの気持ちを常に心に刻みつつ、
戦争を二度と繰り返さず、平和国家としての道を歩んでいく決意です。

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