引き続きイタリアの地域精神保健を紹介した大熊一夫氏の「精神病院を捨てたイタリア 捨てない日本」から
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じつは、バザーリアやその弟子たちの実践する精神医療と、私たち日本人の知っている精神医療とでは大きな違いがある。仮に日本で、私が統合失調症になったとする。おそらく医師は、病的な言動がいつ始まって、どんな振る舞いがあって、周囲がいかに困惑したか、を根堀り歯掘り聴きだして、病名や病状をカルテに記載し、抗精神病薬を処方し、ことによると精神病棟へ送り込んだり、強制治療をしたり、といった作業をするはずである。
バザーリア派は、このような診断・治療プロセスを嫌う。彼らは、反精神医学の旗手と言われた英国のレインや米国のサスのように「精神病など存在しない」とは言わない。抗精神病薬も使わないわけではない。だが、診断や投薬は主役ではない。
その理由はこうだ。「生殺与奪の権を振りかざす」医師と、医師の「ご宣託」に振り回される「無知・無能な」患者という図式の人間関係は治療に有害無益である。医師の診断は、患者の社会的評価を失墜させたり、一般社会からの排除を助長したりするおそれが十分にある。だから診断することを躊躇するし、権威の象徴である白衣を着ないし、電気ショック療法は捨てたし、強制治療を極力避けるし、とにかく、患者の心身をねじ伏せる恐れのある処置を回避しようとするのである。
「強制」もなくはないが、人手と説得技術、濃厚なコミュニケ―ション、信頼感、連帯感、対等な人間関係、で乗り切る。それらが徒労に終わっていない証拠に、トリエステでは強制治療が極めて少ない。バザーリアが赴任した1971年は150件だった。2001年は23件、2004年は16件。その後はもっと減った。強制治療の3分の2はセンターで行われ、あとの3分の1がSPDCである。
トリエステ住民で司法精神病院に送られた人は、1971年は20人だったが、2001年はたったの1人だ。以後、ゼロの年もある。地域の支えが充実すれば、司法病院送りは確実に減るのである。
トリエステの地域精神保健センターの原則は明快である。
「受け持ち地区六万弱の市民から上がってくる精神保健上の要求は全て受け止める」「重症度に関係なくすべての患者を受け入れる」
この体制には、イタリア全体の平均より1、7倍ほど厚い人手をかけている。トリエステの精神保健関係予算は全国医療保険予算の4.9%。国内最高水準だ。
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日本はというと、200億円以上の精神医療関係予算の内のほとんどは、医療観察法関連予算に充てられている。
地域の精神保健関係予算はほんのわずか。訪問支援も治療を受けることが前提となり、いわゆるケアにだけ特化した試みは、各地の保健所まかせというところがほとんどではないだろうか。