引退してもすごかった!「東洋の魔女」の異名を世界にとどろかせ、1964年東京五輪で金メダルに輝いたバレーボール女子全日本の主将を務めた中村(旧姓河西)昌枝さんが3日、脳出血のため都内の病院で死去した。80歳だった。「鬼」と言われた故大松博文監督の下で先頭に立って猛練習に励んだ中村さん。そのリーダーぶりは有名だが、第一線を退いた後も各方面で存在感を見せたことはあまり知られていない。そんな魔女キャプテンの姿を、東京五輪を取材し、個人的にも親交が深かった本紙OBの小泉志津男氏(76)が振り返った。
「けがをしないことで有名だった。病気で寝込んだことも今までなかったのに…」
中村さんに対して“お姉さん”と呼んできた小泉氏は、突然の訃報に驚いた。
56年ぶりとなる東京での2020年五輪が決まった際、日本バレーボール協会を通じて「日本の多くの方が喜んでいる中で、私が一番喜んでいるのではないでしょうか。今度はオリンピックをこの目で見て、最大の声援を送るつもりです」とコメントした。それからわずか3週間余り。
「7年後の東京五輪が決まってから亡くなったのは、何かの因縁では」と小泉氏は感じた。
東京五輪決勝のソ連戦のテレビ放送がスポーツ中継史上最高の66・8%を記録するなど、まさに国民的な人気を呼んだ魔女たち。大会後、大松氏が全日本の母体をなす日紡貝塚を辞めると、主力選手も後を追う形で日紡を去る。その1人だった中村さんだが、やがて再びコートに立った。
「女優の淡島千景さんが選手のファンで、『フジクラブ』というクラブチームをつくって、オーナーになった。引退した日紡の主力5人を含む9人ぐらいの選手を集め、彼女の自宅に事務所を置いて、マネジャーが代表になった」(小泉氏)
当時は実業団の単独チームが全日本を構成し、ニチボー(日紡)貝塚、日立武蔵(後の日立)、ヤシカが“ポスト魔女争い”を繰り広げた。フジクラブも3チームと対戦する機会があり、「新旧魔女の対決と騒がれたけれど、フジクラブが出てくると3チームは勝てない」。その中心が、兼任監督のごとく「全部コートで指示をしていた」中村さんだった。
第一線を退いた選手たちだから、五輪を狙う野心はない。それでも、現役選手のチームに期待する協会にとっては面白くない事態。
「あれはアマチュアじゃないとかいって協会はいびり、我々新聞記者は『女優がオーナーをやっているだけで、選手はお金をもらっているわけじゃない』と応援に回った」
フジクラブは68年メキシコ五輪のころには終わっていたというが、改めて魔女の強さを見せつけた。十数年後、イトーヨーカドーの女子バレー部の顧問に招かれた小泉氏は、ママさんバレーを普及させるための講師として中村さんに白羽の矢を立てた。ママさんバレー教室は東京五輪後に魔女たちが始めたが、ヨーカドーはその店舗網を利用して全国をカバー。他チームの活動に先鞭をつけ、有力選手が育つ土壌をつくった。
体育会気質の東洋の魔女にあって中村さんは、とりわけファンへのあいさつも丁寧だった。
引退直後の65年、「日本のバレーに学べ」という中国・周恩来首相(当時)の招きで大松氏らと同国を訪問。周氏が練習を視察した際、場内アナウンスで個々の選手が紹介されると、中村さんらは手を挙げて応えた。ところが中国の選手は無反応。態度の違いに怒った周氏は、自らマイクを握って練習中止を命じた。
大松氏は教え子の結婚も気遣い、「ウマ(面長からついた中村さんの愛称)が結婚しなければ、ほかの連中も結婚できない」と婚活も後押し。当時の佐藤栄作首相に面会し、世話好きの寛子首相夫人の協力も得て、自衛隊員の中村和夫さん(故人)と65年に結ばれた。国民的ヒロインとの結婚に“恐れ多い”と腰が引けた和夫さんにアタックしたという。自ら「バレーボールの応援団長」を任じて、五輪は自費で現地応援。元気で凛としていたリーダーは、魔女の中で最初の物故者となった。
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