中国でPM2.5関連の死者が120万人超
2013年3月31日、北京で開催された「大気汚染と健康への影響を討論する学術シンポジウム」においてショッキングなデータが発表された。発表によれば、2010年に中国で大気汚染の影響が疑われる症状で早死した人は、120万人を超え、同年の国内死者数の約15%に達しており、その内訳は、脳血管疾患が約60万人、肺疾患が約20万人、虚血性心疾患が約28万人、呼吸器感染症が約1万人、気管や肺などのがんが約14万人だったという(図1)。このデータは、「The Global Burden of Disease Study 2010(GBD 2010)」に基づくもので、近年のPM2.5による健康被害の深刻さを印象付けるものとして、中国や日本の新聞で報道された。
PM2.5とは何か
大気中を浮遊する粒子は、PM(Particulate Matter)と呼ばれ、大きさ、構成要素、発生源の異なるさまざまな粒子の混合物である。大気汚染分野においては、粒径が10μmより小さい粒子を浮遊粒子状物質(SPM:Suspended Particulate Matter)と呼び、従来から環境基準を定めて対策を行ってきた。SPMは、粒径が2.5〜10μmの粗大粒子と2.5μm以下の微小粒子に分けられる。この微小粒子がPM2.5である。さらに小さな0.1μm以下の超微粒子は、ナノ粒子と呼ばれる。
粒子状物質の直接の発生源としては、人為起源のもの(ボイラー・焼却炉等のばい煙、コークス炉・鉱物の堆積場等の粉じん、自動車・船舶・航空機等の排気ガス等)と自然起源のもの(土壌、海塩、火山灰等)がある。しかし、粒子状物質には、燃焼などで排出される硫黄酸化物(SOx)、窒素酸化物(NOx)、揮発性有機化合物(VOC)などや、ガス状大気汚染物質が大気中で化学反応を起こして二次的に生成されたものがあり、PM2.5などの微小粒子では化学反応によって生成されたものの割合が多いのが特徴である。大気中には、さまざまな浮遊物質(エアロゾル)が存在するが、PM2.5やナノ粒子は体内に沈着する確率が極めて高く、健康への重大な影響があると懸念されている。
PM2.5大量発生の理由
日本では、大気汚染防止法に基づく工場・事業場等のばい煙発生施設の規制や自動車排気ガス規制などにより、年間の平均的なPM2.5濃度は減少傾向にある(図3)※1。一方、中国では経済発展および都市化に伴い、過去十数年にわたり大気汚染が深刻化してきた。そのことを世界に認知させたのは、2009年から北京市内のPM2.5観測数値を公表し始めた在中米国大使館のツイッターであった。同サイトによると、2013年2月27日の大気中のPM2.5濃度は516μg/m3、3月7日にも510μg/m3を記録している。米国環境保護局(US EPA)が規定するAQI(大気質指数:単位μg/m3)によると、151〜200は「不健康」、201〜300は「非常に不健康」、301〜500は「危険」とされており、500を超える数値はリスク評価さえ存在しないレベルだ。
中国におけるPM2.5増加の主因は、発電所、工場の排煙、石炭暖房、自動車の排気ガスだと考えられている。中国政府は、以前から大気汚染問題を重視しており、「国家環境保護第11次5カ年計画」(2006〜2010年)において、SO2の10%削減を拘束性のある目標とするなどの対策を実施。この対策の成果により、2010年のSO2排出量は、2005年比で14.29%削減された。
「石炭発電所からのSOx排出が大気汚染の主原因だとする説がありますが、それは正しい情報ではありません。実際には、新設の工場や発電所には脱硫装置の設置が進んでおり、SOx排出量は減少してきました。しかし、石炭発電所や工場からのNOxの排出量は増え続けています(図4・5)。これに自動車保有台数の増加による排ガスなどが加わり、汚染物質の総量が増加したことが、大気環境の悪化に影響していると考えられます」と、アジア大気汚染研究センター/東アジア酸性雨モニタリングネットワーク(EANET)の秋元肇所長は推測する。
中国の排気ガス規制は、北京市ではEUの現行基準「ユーロ5」と同様の「京5」が2013年2月から施行された。これにより排気ガス中のNOxが約40%削減されると見込まれている。一方、上海市、珠江デルタ地域、江蘇省では、硫黄含有量を50ppm以下に抑える1ランク下の「国4」規制、それ以外の地域では硫黄含有量を150ppmまで許容する「国3」規制が実施されている。しかし、これらの基準は新車の規制であり、中古車の販売時には適用されていない。その結果、今も国内の自動車保有台数の約75%は「国3」基準を満たしていない車が占めている(図6)。「中国自動車汚染防止対策年報(2010年度)」によれば、「国1」基準適合車が排出する主要汚染物質が、排気ガス由来の大気汚染物質総量の約50%を占めていることがわかっている。一方、「国3」以上の排気ガス基準適合車からの汚染物質は総排出量の5%未満にすぎない。このことから、旧基準の自動車からの排気ガスが大気汚染の大きな要因となっていることがわかる。
また、大気汚染のもう1つの要因といわれているのが石炭暖房による粉じんだ。中国では、今も多くの地域で石炭燃焼による暖房が行われており、冬場になると粉じんに含まれる粒子状物質が飛散する。国立環境研究所と中国医科大学が瀋陽市、撫順市、鉄嶺市の3都市における共同研究を行った結果、石炭暖房を行う冬場になると大気汚染濃度が高くなり、それに応じて児童の肺機能が低下する実態が明らかにされている※2。
ほかにも、旧式の発電所における脱硫・脱硝装置の不備、ガソリンの品質、工場の排煙、建設現場のほこりなどが大気汚染の原因ではないかと推測されている。
中国政府は「国家環境保護第12次5カ年計画」(2011〜2015年)において、2000年比でSO2排出量の8%削減、NOx排出量の10%削減を拘束性のある主要目標として定め、対策に乗り出しているが、在中米国大使館のPM2.5観測数値を見る限り、まだ、その成果が発揮されたとはいえないようだ。
越境汚染の実態
日本では2012年末から2013年にかけて、熊本県で70μg/m3、福岡県および山口県で50μg/m3など、環境基準の35μg/m3 を上回るPM2.5濃度が観測され、中国からの越境汚染が疑われた。
千葉大学環境リモートセンシング研究センター特任准教授の入江仁士氏は、「ユーラシア大陸で発生したエアロゾルが気流の影響で日本まで飛来することは、衛星の観測データにより裏づけられています(図7)。ただし、衛星からの観測では、エアロゾルの性状を特定できないため、それが黄砂なのかPM2.5なのか、判別は困難です」と解説する。また、アジア上空を定点観測する静止衛星がなく、24時間のモニタリングができないため、衛星からの観測だけでは、日本で発生したPM2.5濃度の上昇が、国内の発生源によるのか、越境汚染との複合であるのか、客観的に証明することはできないという。
一方、地上における定点観測データをもとに、越境汚染の確率が極めて高いと指摘する研究報告もある。海洋研究開発機構は、長崎県五島列島の福江島に設置した大気環境観測施設で大気中の微小粒子物質の濃度を通年測定したデータを解析した結果、福江島は人為起源の汚染による影響が少ないこと、微小粒子物質が高濃度で観測された日は黄砂測定日とは合致しない場合が多いこと、同時に高いブラックカーボン粒子濃度が記録されたことから、大陸からの越境汚染の関与が示唆されたと発表している。
PM2.5による健康被害
1993年にハーバード大学のドッケリー博士のグループが実施した「6都市の研究」という疫学調査によれば、大気中のPM2.5濃度と死亡率との間には高い相関関係があることが実証されている※3。この結果を踏まえ、米国ではPM2.5の健康や環境影響の科学的知見を充実させるため、多額の資金が投じられ研究が推進されてきた。欧州でも、PM2.5やディーゼル排気粒子(DEP:Diesel Exhaust Particles)についてドイツ、オランダ、フランス、イギリスなどを中心に研究が進められてきた。日本国内では、国立環境研究所や大学などの研究施設で研究が行われている。
こうした研究の結果、PM2.5による健康影響が明らかになってきた。PM2.5は非常に小さな粒子であるため、鼻毛のような防御機能をすり抜けて肺胞領域まで到達して沈着する可能性が高い。肺胞とは体内に入った酸素を血液中に取り込む器官で、肺胞に沈着したPM2.5はマクロファージ(体内の異物を認識して貪食する作用を持つ白血球の一種)に捕食されたり、血管を通過し血液中に入り血液とともに全身へ運ばれる。これにより種々の健康影響が起きる。以下に挙げたような影響があるが未解明な部分も多い。
呼吸器系への影響
気道や肺に炎症反応が起き、気管支炎や肺炎などを誘発する可能性がある。また、気道のアレルギー反応を強め、ぜんそくやアレルギー性鼻炎などの症状を悪化させる。呼吸器感染症のリスクが高まる。
循環器系・免疫系への影響
肺組織を透過した微小粒子が、血管や循環器に損傷を直接与えたり、血小板や血液凝固系の活性化、血栓形成の誘導により、血管狭窄性の病変である心筋梗塞や脳梗塞などを発症させる恐れがある。また、呼吸器系における炎症などの生体反応により生じる活性酸素やサイトカイン類などが循環器系に影響を及ぼしたり、呼吸器内に存在する知覚神経を刺激して自律神経に変調をきたし不整脈や心機能の変化を起きやすくしたりするなどの間接的な影響を及ぼすことがある。免疫系に影響を及ぼした場合、アレルギー症状を悪化させることや、マクロファージの持つ殺菌能力を低下させ感染抵抗性を落とすことがある。
がんへの影響
肺組織内に沈着したPM2.5をマクロファージなどが攻撃する際、DNAを損傷し、がん発生に寄与する可能性が指摘されている。しかし、動物実験などの毒性学知見の検証結果は不足しており、発がんへの関与は立証されていない。
粒子状物質の健康影響を長年研究してきた、国際環境研究協会の環境研究総合推進費プログラムオフィサーの小林隆弘氏は、「PM2.5による健康被害の報告は近年増加していますが、そのメカニズムや化学的性状は、完全には解明されていません。PM2.5は、粒子状物質を粒径で区分したにすぎず、その化学的組成は地域や発生源によって異なります。また、発生源から出る1次生成物質は特定できても、大気中で他の物質と化学反応を起こして変異する2次生成物質の性状は、地域や気象条件により異なるため特定できません。PM2.5に起因する健康被害を防止するには、現地におけるPM2.5の化学的性状およびメカニズムに関する詳細な研究と健康影響評価、さらに長期的な疫学調査を実施し、原因を特定する取り組みが必要です」と話す。
目に見えない脅威を防ぐには
健康な成人を対象としたPM2.5の急性暴露試験を行った結果、平均濃度72.2μg/m3に2時間暴露した場合、血液生化学的指標に変化が認められた一方で、平均濃度190μg/m3に2時間暴露を受けても血圧、心拍等に変動は認められなかったとの調査結果もあり、暴露濃度と健康被害との間に一貫した関係は見いだされていない。しかし、呼吸器系や循環器系疾患のある子どもや免疫機能が弱っている人、高齢者等の高感受性者を含む集団では、PM2.5の日平均濃度が69μg/m3以下の環境でも何らかの健康影響が発生した例が確認されている。つまり、日本で観測された最大70μg/m3程度の濃度の場合、健康な成人への健康影響は低いが、ぜんそく持ちの子どもや病気を患っている人、高齢者などの高感受性者は外出を避け、マスクを着用するなどの防御策を講じる必要があるということだ。なお、PM2.5は非常に小さな粒子なので、従来の花粉対策用マスクでは効果を発揮しない。PM2.5対策には、PFEという微粒子を遮断する試験をクリアした米国規格「N95」や日本規格「DS2」に準じたマスクが必要である。
全国各地のPM2.5濃度は、各都道府県のホームページおよび環境省の大気汚染物質広域監視システム「そらまめ君」(http://soramame.taiki.go.jp/)にアクセスすれば知ることができる。なお、環境省では、これまでの知見に基づき、従来の環境基準とは別に、PM2.5による健康影響が出現する可能性が高い日平均値70μg/m3、1時間値85μg/m3を「暫定的な指針となる値」と定め、注意喚起を行うとしている。この「暫定的な指針となる値」は、法令等に基づかないので注意報が発令されることはないが、ホームページ等を通じて注意喚起を行っていくという。
越境汚染対策に欠かせない国際協力
2013年3月、北京で全国人民代表大会(全人代)が開催され、習近平国家主席、李克強首相を中心とする新政権が発足した。李克強首相は、記者会見で「ここ最近は北京だけでなく、中国東部の広い範囲で空がかすんでいる。(中略)第1に、新たな問題を生じさせるべきではなく、われわれは環境基準を引き上げる必要がある。第2に、遅れた生産設備の段階的廃止を含め、持ち越された問題の解決に向けた努力を速める必要がある。われわれは状況に立ち向かい、容赦なく環境破壊者を処罰し、厳格に法律を適用する必要がある」(ロイター)と発言、環境破壊への対策費を前年比12%増の3,286億元(約5兆円)にすると発表した。
しかし、越境汚染は国境を越えて広がる環境問題であるがゆえに、当事者国だけで解決できる問題ではない。2013年5月5〜6日に「日中韓環境大臣会合」が開催され、その席でPM2.5など越境汚染対策に関する共同声明が採択された。また、4月6日に日本政府は、PM2.5など大気汚染対策に関する技術協力を東アジア地域で強化する方針を打ち出している。技術支援では、中国本土や周辺国に対する観測機器の提供、技術・研究者の派遣を検討。その実施に当たり、ロシア、韓国、中国、モンゴルをはじめ13カ国が参加し、日本が主導するEANETを活用する方針を掲げている。
「EANETは、2001年に活動を開始し、東アジアの各地に観測装置を設置して10年以上酸性雨の監視・評価を続けてきました。PM2.5は酸性雨の原因物質の一種ですから、この枠組みを拡張してPM2.5の測定・監視・評価を行うことは理にかなっています。ただし、実効性を伴う活動とするには、政府間の合意が極めて重要です」と秋元所長は話す。
越境汚染問題は、技術供与だけでは解決できず、政府間の協力関係が欠かせない。しかし、日中関係が必ずしも良好とはいえない中、どこまで踏み込んだ協議ができるのかは未知数だ。日本には、四日市ぜんそくや川崎公害訴訟など公害問題で蓄積されたノウハウ、技術、そして人的リソースが豊富に揃っている。こうしたリソースを活かすことが、大気汚染問題の早期解決につながると考えられるが、そのためには日中関係の修復が欠かせないと多くの専門家は指摘する。
今号では、PM2.5の実態と越境汚染の実情、そして健康影響などを特集した。次号では、これに続けて「日中韓環境大臣会合」で採択された共同声明や今後の協力体制に関する詳細と併せて、PM2.5による大気汚染問題を解決するための技術や規制、国際協力の在り方などについて考察を深めていきたいと考えている。
※1:環境省「微小粒子状物質等曝露影響実測調査」
※2:国立環境研究所「中国の都市大気汚染と健康影響」
http://www.nies.go.jp/kanko/kankyogi/21/02-03.html
※3:「Epidemiology of Chronic Health Effects:Cross-Sectional Studies 」Douglas Dockery and Arden Pope
取材協力:
●アジア大気汚染研究センター
●東アジア酸性雨モニタリングネットワーク(EANET)
●独立行政法人国際協力機構
●一般社団法人国際環境研究協会
●千葉大学 環境リモートセンシング研究センター
この情報は環境情報誌『SAFE』Vol.101(2013年7月号)の記事より引用しております。
内容については記事作成時のものとなりますので、ご了承ください。