2010年05月28日
“死せる山友、生けるクロダイを…”!? ──日護会・黒田大輔君の役回り
5月、「政教分離を考える会」のホームページはリニューアルされ、トップページには「全国で行われているビラ配布」として、黒田大輔君、護国鬼十郎君、行本慎一郎君、村松淳一君、そして最近めっきり姿が見られなくなった埼玉支部長・卜部将重君らの“勇姿”が。
ニュースを見れば、
「全国初! 日護会主催の市民による創価学会解散要求の市民デモ行進が新宿区内において盛大に行われた」
「(デモが)3月に続き行われた」
「ビラ配布ボランティア募集中」
等々、まさに「一体」ぶりを示し始めている。
黒田大輔君と日蓮正宗・妙観講との繋がりについては、これまで見てきた通りである。その「触媒」として存在するのが小川頼宣氏。
本稿では改めて、小川頼宣氏と、その背後にある日蓮正宗・妙観講との連動性、一体性に絞って、事実に即して掘り起こしてみたい。
妙観講とは、日蓮正宗のなかでも、謀略性の高い汚れ仕事を一手に請け負う信徒集団。
小川氏の2人の娘は、共に妙観講本部に出入りしている。
親が善福寺(世田谷区)に所属するのに、娘たちは妙観講──この関係性自体が、小川氏と妙観講との関係を如実に物語っている。
小川頼宣氏と妙観講との距離感の変化は、妙観講が深く編集に関与する日蓮正宗の機関紙「慧妙」への登場具合が分かりやすい。
小川氏が最近に至って「慧妙」に登場したのは、2008年4月のこと。
創価学会員宅に上がり込み、無理やりはさみを持たせ、本尊を切断させたとして、3月、警視庁に逮捕された生田和子氏と伊藤奈津美氏。その緊急記者会見が4月3日に開かれ、小川頼宣氏が「支援する会」の世話人として、進行役を務めた。
伊藤氏と生田氏は、共に妙観講の幹部。ほかにも、妙観講幹部の佐貫修一氏、同じく幹部で渉外担当の中林由子氏らが同席していた。その様子は「慧妙」4月16日号で報じられた。
小川氏の発行する「政教分離を考える会」のビラが、名誉毀損で公明党から刑事告訴されると、「慧妙」が11月16日号で、「有志が学会・公明批判のビラを作成」と題する小川氏へのインタビュー記事を1面に掲載。小川氏擁護に努めた。
さらに、ビラで使われた写真が著作権を侵害するとして、ビラの配布等を禁じる仮処分命令が下ると、再び「慧妙」が12月16日号で、「“政教分離を考える会”代表に聞く」と題してインタビュー記事を1面に掲載。重ねて小川氏擁護に努めた。
ところで、いかにも、もっともらしい風体で「慧妙」紙に登場する小川氏だが、そもそも、小川頼宣氏とは、いかなる人物か。その人品骨柄を振り返っておこう。
小川頼宣氏は創価学会の元職員。広報室の元副部長、元九州青年部長を名乗っているが、この「元」というのが曲者である。
その立場に慢じたのであろうか、青年部長時代は、学会の会合でも、ろくな話はせず、壇上で足を組んだまま指導するなど傲慢そのもの。酒に溺れ、金銭感覚も狂った、だらしのない生活態度だったと指弾されている。
なかでも金銭の問題では、小川氏に騙された被害者が数多くおり、複数の裁判で被告になっていた。
例えば、いかがわしい団体を作り、学会の組織を利用して学会員を事務員にしていたが、給料を払っていなかったとして、小川氏は被害者から未払い賃金の支払いを求めて訴えられ、1986年11月、200万円の支払いが確定している。
また、別の男性には、言葉巧みに共同での輸出の仕事を持ちかけ、1200万円もの大金を拠出させ、騙し取ったこともある。
さらに、約700万円の借金を踏み倒した例もある。金銭問題のみならず、不倫話もあった。
要するに、「元」は「元」でも、いられなくなった「元」、というのが実態のようだ。
この小川氏、九州時代は、同じく後に学会を脱会した福島源次郎氏に従属していた。これまた元学会員の山崎正友氏などが、盟友の原島崇氏を第4代会長に仕立て上げようと画策していた時期、福島氏も次期会長を狙っていたという。
山崎氏にとってみれば、福島氏は目の上のたんこぶ。福島氏は脱会後、日蓮正宗に出戻り、自身で「講」組織も結成したが、山崎氏は、かつて日蓮正宗の最高責任者だった阿部日顕氏に「私は、福島源次郎氏のように、講を作る意図もなければ、法華講の中で名聞名利を求める意図もありません」と手紙で綴るなど、福島氏には拭いがたい敵愾心を抱き続けていたようである。
当然、“福島派”の小川氏にしてみれば、そうした山崎氏への“遠慮”があった──といえば聞こえがよいが、要するに邪魔だったにちがいない。
その小川氏にとって、大きな転機となったのが、2008年12月29日、山崎正友氏が世を去ったことであろう。
2009年7月の発刊に向けて、古谷博氏(自称・小多仁伯)との共著の発刊準備が進んでいく。
また、それまで小川氏が「慧妙」紙に登場するといっても、それは、あくまで“ニュースの登場人物”の域を出なかった。
それが「慧妙」7月1日号からは、紙上での連載座談会がスタートし、小川頼宣氏が登場。パートナーは古谷氏。やがて、この座談会は小川氏の単独連載となっていき、今なお続いている。
ちょうど2009年7月といえば、7月5日、黒田君が「時局政治セミナー」に、小川氏とともに参加したのと符節を合わせる。
小川氏が「荒川区は定数2。ここが『政教分離を考える会』が狙っている最大のターゲット。やりようによっては、ここは落とせる。ビラ攻勢をかけようと準備をしている」と快気炎を吐けば、黒田君は「私は反創価学会の妙観講や法華講の方々から情報をいただいたら、それに、できる限り応えてまいりたいと思う」と小川氏に呼応してみせた。
そして、7月8日から9日にかけて、当時、東京都議選で公明党候補が激戦を演じていた目黒区内では妙観講員が、同じく荒川区内では黒田君らが、まったく同時に、この「政教分離を考える会」第4弾ビラの配布を開始した。これが、黒田君が「政教分離を考える会」と共闘を開始した最初である。
日蓮正宗内で「対創価学会」をテコに一定の地歩を築いた小川氏。その「手土産」と考えれば、黒田大輔君らとの共同戦線はうなずける。
ところで、こうした流れに、一つの役割を果たしたと見られるのが、妙観講幹部の佐貫修一氏。その動きは、どうも各所に物議を醸しているようだ。関係者から、いくつか情報が寄せられている。
さかのぼる2008年秋、佐貫氏と小川氏が中心となって謀議が重ねられたという。
とりわけ注目すべきは11月15日。この日も小川氏は佐貫氏と密会したというのである。この舞台裏が物語る意味は大きい。
というのも、翌日に何があったかといえば、それは瀬戸弘幸氏が主催する第3回「政治と宗教を考えるシンポジウム」。乙骨正生氏らとともに参加したのが、小川頼宣氏だった。
マイクを握った小川氏は「今日は小多仁伯さんに連れられてきました」と語ったが、実態にそぐわないのは先述の通り。むしろ「隠そうとしている」と見たほうが自然である。
「今回の特徴はこれまでのメンバーと違った人達が3分の1を占めていたということでしょう」「小川さんは創価学会と対立する日蓮正宗関係者とは協力関係にあるようです」等と瀬戸氏がブログに綴った一文が、何とも意味深長に感じられてしまう。
小川氏と佐貫氏らは、このシンポジウム当日も、午後から都内某所へ。シンポジウムは18時30分、そこからもさほど遠くはない文京区内の会場で開催された。
ほかにも「一体ぶり」を示す証言が各方面から多く寄せられているが、これを綴るのは他日を期したい。
ともあれ、佐貫氏は長年、あの山崎正友氏の手下として動いてきた人物。10数件の裁判を抱えて青息吐息の山崎氏に、佐貫氏が鞄持ちのごとく付き従う姿が、たびたび目撃されていた。
山崎正友が世を去ったことで、世に出てきた小川頼宣氏。それをお膳立てした佐貫修一氏。
山崎正友──通称・山友。「死せる山友、生けるクロダイを走らす」といったところか。