Q&A

0 何が問題か 「慰安婦」制度と公娼制

1 慰安婦問題の本質は何か?

問題は“強制連行”したかどうかにあるのか?

 

日本軍「慰安婦」を正当化しようとする人びとは、女性を連行するときに暴力あるいは強制が使われたかどうかだけを取り上げ、それを文書で証明できないから、そういう「事実」はなかった、日本軍「慰安婦」制度は悪くないのだ、という言い方をします。

 

こうした議論の仕方は、はたして妥当なのでしょうか。少し考えていただければすぐにわかるように、これは論点のすり替えであり、重大な問題から人びとの関心を逸らそうとするものです。

 

かつて日本軍「慰安婦」問題が取り上げられるようになったときに、一部には、問題を世論に訴えるために強制連行だという点を強く言う人たちがいました。しかし、日本軍や日本政府の資料が次々に明らかになり、また元慰安婦の方々の証言がなされるようになってくると、連行時に暴力が使われたかどうかが必ずしも重要なポイントではないことは、この問題に取り組んでいる研究者や市民にとって早い段階ではっきりとしていました。

 

吉見義明『従軍慰安婦(岩波新書、1995年4月)

吉見義明『従軍慰安婦(岩波新書、1995年4月)

たとえば、この問題の研究の第一人者である吉見義明氏が1995年に出版した『従軍慰安婦』(岩波新書、19954月)において、「従軍慰安婦」とは、「日本軍の管理下におかれ、無権利状態のまま一定の期間拘束され、将兵に性的奉仕をさせられた女性たちのことであり、『軍用性奴隷』とでもいうしかない境遇に追いこまれた人たちである」と定義しています(p11)。

 

同書の結論部分において、「従軍慰安婦問題の本質とは何か」として、

第一に「軍隊が女性を継続的に拘束し、軍人がそうと意識しないで輪姦するという、女性に対する暴力の組織化であり、女性に対する重大な人権侵害であった」こと、

第二に「人種差別・民族差別であった」こと、

第三に「経済的階層差別であった」こと、

第四に「国際法違反行為であり、戦争犯罪であった」とまとめています(p231-233)。

 

ここでも、連れて行く際に強制したことではなく、女性たちが―連れていかれた際の方法はさまざまであれ―、軍慰安所に連行されてから、そこで監禁拘束され、性奴隷状態にさせられていたことこそが最大の問題であることを明確に指摘しています。

 

なお念のために言っておきますと、連行の方法についても必ずしも暴力的な連行だけが問題ではなく、詐欺・甘言、人身売買など連行方法のほとんどが当時においても犯罪であったことが明らかにされています。

 

こうした認識は世界的に共通のものと言えます。たとえば、元外交官だった東郷和彦氏は、2007年の歴史問題シンポジウムでのあるアメリカ人の意見を紹介しながら次のように述べています。

 

「日本人の中で、<強制連行>があったか、なかったかについて繰り広げられている議論は、この問題の本質にとって、まったく無意味である。世界の大勢は誰も関心を持っていない。性、ジェンダー、女性の権利の問題について、アメリカ人はかってとは全く違った考えになっている。慰安婦の話を聞いた時彼等が考えるのは、自分の娘が慰安婦にされていたらどう考えるかと言う一点のみである。そしてゾっとする。これが問題の本質である。ましてや、慰安婦が<甘言をもって>つまり騙されて来たと言う事例があっただけで、完全にアウトである。<強制連行>と、<甘言で騙されて、気がつい時には逃げられない>のと、何処が違うのか? もしもそういう制度を、<昔は仕方がなかった>と言って肯定しようものなら、女性の権利の否定者denier)となり、同盟国の担い手として受け入れることなど問題外の国と言うことになる。」(『世界』2012.12

 

またブッシュ政権のときに国家安全保障会議上級アジア部長を務めたマイケル・グリーンは、「永田町の政治家達は、次の事を忘れている。<慰安婦>とされた女性達が、強制されたかどうかは関係ない。日本以外では誰もその点に関心がない。問題は、慰安婦たちが悲惨な目に遭ったと言うことだ」(『朝日新聞』2007.3.10)と語っています。

 

誘拐事件がおきたとき、暴力的に連れ去ったか、騙して連れ去ったか、そんなことは問題になりません。連れ去った先で監禁拘束すれば、最初の連れ去り方は誰も問題にしません。どちらの連れ去り方でも刑法上の犯罪としての重さは同じです。騙して連れて行っただけだから、悪くないのだ、などと言う者がいれば、みんなから何をバカなことを言うのだとブーイングを浴びるだけでしょう。

 

女性を慰安所に監禁し、「性的奉仕」を強制したこと、国家機関が、そうした制度を作り、女性を集め、運営し、それを公認したこと、そうしたことこそが大問題なのです。

 

2 「慰安婦」は「公娼」だったか?

「慰安婦」=「公娼」ではない

「慰安婦」被害の存在を否定する人たちの代表的な主張に、次のようなものがあります。

 

「日本軍に組み込まれた「慰安婦」は“セックス奴隷”ではない。世界中で認可されていたありふれた公娼制度の下で働いていた女性たちであった。慰安婦の多くは佐官どころか将校よりも遥かに高収入であり、慰安婦の待遇は良好であったという証言も多くある。」(“THE FACTS”『ワシントン・ポスト』2007年6月14日)

 

公娼制度というのは、特定の業者と女性たちが売春業を営むことを公認し、警察に登録させる制度のことです。戦前の日本はこの公娼制度を採用していました。つまり、上記の主張は、「慰安婦」は当時公認されていた「売春婦」であったと言っているのです。

 

しかしこの主張は間違っています。「慰安婦」=「公娼」ではありません。なぜなら「慰安婦」にさせられてしまった被害者たちの多くが公娼制度や売買春とは何の関係もない女性たちだったからです。「慰安婦」被害者たちは日本軍や日本軍に命令された業者たちによって、暴力や詐欺・人身売買などの方法で徴集され、慰安所で軍の管理下で性奴隷状態を強いられたことが明らかだからです。「慰安婦」にさせられた女性たちは、軍の許可なく「慰安婦」をやめたり、自由に行動することはできませんでした。このように、後述する公娼とは異なり、軍や軍の命令によって徴集され、軍の管理下で軍の許可なくやめる自由もなく「性奴隷」状態を強いられた点に、日本軍「慰安婦」の特徴があります。

 

公娼制度とは何か

 では、戦前日本の公娼制度とはどのような制度なのでしょうか。戦前日本の公娼制度は、近世以来遊廓や宿場だった地域をはじめとし、特定の地域における特定の業者と女性に売春営業を公認するというものでした。性病蔓延防止という目的で女性たちには性病検査が義務付けられており、この性病防止と強かん防止というのが公娼制度を正当化する論理でした。戦前日本社会では、こうした制度の下で多くの貧困な女性たちが売春をしていたのです。

 

そこで重要な点は、娼妓(公娼制度下で売春を公認されていた)をはじめ、芸妓(歌舞音曲を本業とするが、しばしば売春を強いられた)・酌婦(売春を黙認されていた)などはその稼業につく際,年期を定めて店と契約を結びますが,親が契約の当事者、ないしは連帯保証人となり,実質上親が受け取る前借金と呼ばれる借金をすることです。そしてその借金を返済するまで、娘は廃業する自由がほとんどなかったということです。つまり,彼女たちは親に売られたに等しかったのです。

 

親孝行や「家」のために尽くすことが美徳とされた戦前日本社会の道徳を利用され、彼女たちはこのような状態を強いられていました。しかも彼女たちの売春に対して客が支払った代金のかなりの部分は店の収入となり,その残りの彼女の取り分から借金を返済するので,返済には長期間かかり,途中で借金が増額して返済が不可能になることがしばしばありました。きわめて困難な借金の返済が終わるまで、人身の自由なく売春を強要される制度,それが日本の公娼制度でした。その結果,多くの娼妓が重度の性病などの病気にかかって死亡したり,自殺したりしました。

 

1900年に制定された「娼妓取締規則」では,前借金完済以前にも廃業の自由があることが明記されました(自由廃業)が、前借金契約は芸娼妓契約とは別の金銭貸借であるとみなされ、その返済義務自体は否定されなかったので,その他の手段で借金を返せる見込みのない娼妓・芸妓・酌婦は、ほとんど廃業の自由なく売春を強要され続けたのです。前借金の貸与は、娘を廃業の自由なく娼妓・芸妓・酌婦として働かせることを目的としていることは明白だったので、身売りの慣習を禁止するには、こうした前借金契約を違法化すべきだったのに、裁判所は遊郭主に有利な判断を下したのです。しかも以上のような非人道的公娼制度は,当時においても人々から「奴隷制度」と呼ばれており,婦女売買禁止の国際的基準からすると,当然廃止しなければならない制度となっていました。

 

娼妓契約_s

娼妓契約

 

 

以上からわかるように、公娼制度も「性奴隷」制度と言っても過言ではない非人道的な制度でした。そして、「慰安婦」問題を考えるにあたって重要なことは、廃業の自由のない売春生活につけこまれて「慰安婦」に徴集された女性たちがいたということです。

 

娼妓・芸妓・酌婦などから「慰安婦」に徴集された事例

実は、娼妓・芸妓・酌婦などの女性たちが、前借金の慣習を利用されて、軍や軍の命令を受けた業者たちに、「慰安婦」として徴集された事例があります。こうしたケースは今のところ日本人の「慰安婦」にしばしばみられたことが分かっています。つまり、「慰安婦」は公娼ではないけれども、もともと売春をしていた女性たちのなかから、「慰安婦」に徴集された人たちもいたのです。

 

たとえば、警察庁関係史料のなかに、1938年初頭、群馬、山形、高知、和歌山、茨城、宮城などの各県内で、神戸や大阪などの貸席業者たちが、上海の陸軍特務機関から依頼されて、酌婦の女性たちを上海派遣軍内陸軍慰安所で働く「慰安婦」として集めていたことがわかる史料があります。彼らは前借金を支払って女性を集めていました(女性のためのアジア平和国民基金編『政府調査「従軍慰安婦」関係資料集成』第1巻,龍渓書舎,1997年,3~112頁)。永井和「陸軍慰安所の創設と慰安婦募集に関する一考察」『20世紀研究』1号,2000年も参照)。

 

警察庁公表資料(和歌山)

警察庁関係資料から。和歌山県のもの。

 

また、かつて慰安所担当軍医や慰安所係であった人々の手記からも、公娼制度下の業者たちが慰安所設置や女性の徴集に協力していたことがわかります。たとえば、長沢健一『漢口慰安所』(図書出版社,1983年)、吉田清吉『武漢兵站―支那派遣軍慰安係長の手記』(図書出版社,1978年)などでは、大阪や神戸の遊郭の業者やその関係者たちが、軍の命令を受けて漢口の慰安所に女性を連れて出店したことが明記されています。そして,慰安所経営者の経営方法に対して軍部が管理・監督をしていたことが明確に証言されています。

 

2-1-11c 千田夏光『従軍慰安婦』(講談社文庫版、1984年) 「慰安婦」被害者の女性たちの残した証言からも、娼妓・芸妓・酌婦などの女性たちが軍によって「慰安婦」に徴集された事例が明らかです(代表的なものとして,千田夏光『従軍慰安婦』,『従軍慰安婦・慶子』,城田すず子『マリヤの賛歌』かにた出版部,1971年)。たとえば、1925年に生まれ、貧困のため子供のころ東京の芸者置屋に300円の前借金で売られ、「菊丸」という名で芸者をしていた山内馨子さんは、置屋の借金を軍が肩代わりしてくれると聞いて「慰安婦」になることを決め、1942年3月、「トラック島」に渡っています(広田和子『証言記録 従軍慰安婦・看護婦 戦場に生きた女の慟哭』新人物往来社,1975年など)。彼女の借金は4000円に上っており、返済の見込みがなかったからです。「死んだら靖国神社に入れてもらえる」「お国のために役立てる」と考えたことも「慰安婦」徴集に応じた理由でした。

 

このように、芸妓・娼妓・酌婦だった女性たちが「慰安婦」になるケースがあったのです。ただしここで強調しておきたいことは,もともと売春婦だった女性が「慰安婦」になったからといって,「性奴隷」でないことにはならないということです。なぜなら、すでに述べたように、戦前日本で売春をしていた女性たち、つまり娼妓・芸妓・酌婦自体が、本来ならば許されないはずである,廃業の自由のほとんどない「性奴隷」状態に置かれていたからです。廃業できる見込みのない状態に置かれ、世間からさげすまれていた彼女たちから見れば、その状態から抜け出すために、軍が借金を肩代わりしてくれる、「お国のために役立てる」という条件は魅力的に映ったことでしょう。実際には彼女たちは死んでも靖国神社には入れてもらえず、生きて帰って来ることができても「慰安婦」だった過去がわかると世間からさげすまれ、苦難の戦後を送らざるを得ませんでした。つまり、日本軍やその命令を受けた業者たちは、彼女たちの苦しい境遇につけこんで「慰安婦」に動員し、いいように利用したあげくに捨てたのです。

 

このように、「慰安婦」制度は公娼制度とは別物ではありますが、「性奴隷」制度という点で関係があったのです。したがって、私たちは「「慰安婦」=「公娼」だから性奴隷ではない」と言っている人々の無知と人権意識の低さを問題にしてゆかなければなりません。

 

3 公娼制度は当たり前だったか?

  戦前日本においても公娼制度は「奴隷制度」と批判されていた

「「慰安婦」は性奴隷ではなく、公娼制度下の女性たちだった」とする見解に反論して、「慰安婦」は「公娼」ではないとこと、その上で、娼妓・芸妓・酌婦などの女性たちのなかに、「慰安婦」に徴集された人たちが存在したことは別項目で説明しました。そして、娼妓・芸妓・酌婦自体が「性奴隷」に等しかったこと、そうした「性奴隷」状態に置かれていた女性たちの境遇につけこんで、軍や軍の命令を受けた業者たちが彼女たちを「慰安婦」に徴集したことを説明しました。つまり、公娼制度下の身売りの慣習が、「慰安婦」の大規模徴集を可能にした一因であり、こうした身売りの慣習がなぜ存在し続けたのかは、「慰安婦」問題を考えるにあたっても重要です。ただし、このように説明すると、「現在の感覚でみると非人道的な日本の公娼制度も、当時においては当たり前の慣習だったのだから、しかたがないのではないか」という人たちもいます。

 

しかし「公娼制度は日本では当たり前だった」とする見解は大きく間違っています。なぜなら、戦前日本の公娼制度とその下での女性の身売りの慣習については、戦前の日本社会においても本来はやってはならないこととなっており,多くの人々が「奴隷制度」との認識の下,その廃止が目指されていたからです。つまり、日本の公娼制度は戦前においても「当たり前の制度」ではなかったのです。

草間八十雄芸娼妓酌婦の実情

草間八十雄「芸娼妓酌婦の実状」

 

公娼制度とは何か

公娼制度下では身売りが行われていて、この慣習は近世から続くものでした。娼妓や芸妓になる契約の際、彼女たちの親が店から多額の借金をする慣習であり、その金を芸妓・娼妓稼業を通じて借金返済をするまで廃業の自由がほとんどなかったのです。しかも客が支払った代金のかなりの部分は店の収入となり、残りの自分の取り分から借金を返済するので、返済には長期間かかり、途中で借金が増額して返済が不可能になることがしばしばあったのです。ですから、親に売られたに等しかったのでした。当時の日本社会では、親孝行や「家」のために尽くすことが美徳とされていましたから、そうした道徳を利用されて身売りが正当化され、女性たちは廃業の自由のない売春生活を強いられてきたのです。

 

「芸娼妓解放令」

こうした身売りの慣習については、近代初頭から多くの人々が批判してきました。すでに1872年には、マリア・ルーズ号事件を直接的発端として、いわゆる「芸娼妓解放令」(太政官布告第295号,司法省令第22号)が発令され、芸娼妓の解放がうたわれました。これは、横浜港に停泊していたペルー船マリア・ルーズ号に乗せられ、売り飛ばされようとしていた清国人が逃亡したことに端を発しています。この事件を裁くこととなった日本の神奈川県令大江卓に対して、ペルー船船長側の弁護人は、日本の娼妓はもっと拘束的な契約を結ばされているではないか,と指摘したのです。こうした批判を回避して文明国の体裁を整える必要もあり、日本は奴隷に等しい娼妓を解放する布告を出したのです(太政官布告295号)。つまり、この時点で,娼妓や芸妓を借金で縛りつけ,廃業の自由なく働かせることはやってはいけないことになったはずなのです。しかしにもかかわらず、この慣習は現実にはなくなりませんでした。各県はその後,遊郭を貸座敷と改称させ、「自由意思」で売春をする娼妓に部屋を貸す貸座敷業というたてまえで、実際には従来通りの身売りの慣習を黙認したからです。

 

自由廃業運動と娼妓取締規則

しかし、1880年代になると、公娼制度の廃止を求める運動(廃娼運動)がおこり、同運動はこの後途切れることなく続きました。1886年に結成された日本キリスト教婦人矯風会は、「家」のために娘を犠牲にする慣習や,男性の性的放縦を認めて一夫一婦制に反する公娼制度を批判し、以後一貫して廃娼運動を続けました。1880代には、自由民権運動の影響もあって廃娼運動が高まり、各地の県議会で公娼廃止建議案が提出され、とくに群馬県では1889年に県会で公娼制度廃止を決議し、93年限りで公娼制度を廃止しました。

また、救世軍は、貸座敷業者の妨害に抗して、廃業したがっている娼妓たちを助けるという自由廃業運動を展開しました。廃業を要求して法廷闘争を繰り広げる娼妓とその支援をする弁護士も出現し、1900年には大審院で、「身体を拘束することを目的とする契約は無効」であるとの判決が下り、前借金を返済できていなくてもその女性の意思で廃業することができる(これを自由廃業と言います)とされました。

 

表紙 人身売買

牧英正『人身売買』

こうしたなかで、1900年には娼妓取締規則が制定されて、そこには、自由廃業できる権利が明記されました。しかし1902年には大審院で、前借金契約は芸娼妓契約とは別個の契約であるとする解釈に基づき、廃業した娼妓にも前借金の返済義務が残されることとなりました。その女性の人身を拘束して廃業の自由なく芸妓や娼妓稼業をさせることを目的として貸座敷業者は芸娼妓の親に金を貸しているのであり、前借金契約は芸娼妓稼業契約と一体であることは誰の目からも明らかでした。したがって、人身売買をなくすためには、廃業の自由を奪うことを目的とした前借金契約を違法にしないわけにはいかないはずでしたが、合法のまま残されてしまったのです(牧英正『人身売買』岩波新書,1971年,小野沢あかね『近代日本社会と公娼制度―民衆史と国際関係史の視点から』吉川弘文館,2010年)。

このことが、身売りの慣習が継続してしまった大きな要因でした。にもかかわらず、日本政府は「芸娼妓解放令」と娼妓取締規則を根拠に、日本では女性の売買は存在しないといううその弁明を以後言い続けたのです。

 

20世紀に入ると廃娼運動は一層高揚しました。1911年には、火災による吉原遊廓の全焼をきっかけとして、その再建反対を唱える廓清会という団体が発足し、日本基督教婦人矯風会とともに廃娼運動の中心を担うようになりました。1921年には欧米における婦女売買禁止運動を背景として、国際連盟で「婦人及児童の売買禁止に関する国際条約」が締結されました(日本政府は植民地を適用除外し、年齢を留保して批准。年齢留保についてはやがて撤回)。

表紙 小野沢本

小野沢あかね『近代日本社会と公娼制度―民衆史と国際関係史の視点から―』

この条約は、①21歳未満の女性をたとえ本人の承諾があっても売春に勧誘してはいけない,②21歳以上の女性を詐欺・強制的な手段で売春に勧誘してはいけないことを取り決めたものでした。日本の公娼制度は、未成年の女性を含む(18歳以上の)女性に娼妓になることを許可し、未成年・成年を問わず、前借金契約で廃業の自由のない売春が強要されていたので、この条約に違反することが明らかでした。

 

日本の廃娼運動は、こうした国際的動向に後押しされつつ、「日本の芸娼妓は廃業の自由が保障されており、自由意思で行っている」という日本政府のうその弁明を批判し、一層運動を強めました。1920年以降,帝国議会へ公娼制度廃止建議案を何度も提出し、また、地方にも廃娼運動を拡大して廃娼運動の地方支部を結成し、教育運動や、各県議会への公娼廃止建議案提出運動を幅広く行なったのです。廃娼運動の担い手は、キリスト教徒が多かったのですが、この時期になると、婦人参政権獲得運動をはじめとする女性運動をはじめ、無産運動などにおいても、公娼制度の廃止が追求されました。1910年代以降のいわゆる大正デモクラシー期には、社会運動が盛んでしたが、数ある社会問題の中でも、もっとも人権を否定されている人々、それが公娼制度下の娼妓と認識されていたからです。

その結果、表に示すように、多くの県会で公娼を廃止する決議を行っており、廃娼を実施する県も少なくありませんでした。1934年には内務省が近い将来公娼制度を廃止する方針であることを表明しました。しかし、公娼制度は戦前のうちにはついに廃止されなかったのです。

戦前県会 廃娼決議 一覧表

戦前県会廃娼決議一覧

 

日本政府や裁判所のうそや詭弁によって温存された日本の公娼制度

以上からわかるように、「公娼制度は日本では当たり前の制度だった」というのは間違っています。すでに近代初頭から「奴隷制度」と批判され続けた制度だったのです。そして、芸娼妓解放令や娼妓取締規則における自由廃業の規定により、本来ならば芸娼妓の人身の自由が守られねばならなかったにもかかわらず、裁判所や各県の詭弁や黙認によって身売りの慣習が継続、黙認され続けたのです。国際社会に対しては芸妓・娼妓・酌婦は「自由意思」で働いているという日本政府のうその弁明が行なわれ、かろうじて存続してしまったのが近代日本の公娼制度だったのです。

4 公娼制度は世界でも当たり前?

日本の公娼制度は「世界でも当たり前」ではなかった

「日本軍に組み込まれた「慰安婦」は“セックス奴隷”ではない。世界中で認可されていたありふれた公娼制度の下で働いていた女性たちであった。」とする見解に対して、「慰安婦」は「公娼」ではないし、公娼制度自体が当時の日本人の感覚からしても「性奴隷」制度であったこと、廃娼運動が展開され、1930年代半ばには公娼制度の廃止も検討されていたことは別項目で指摘しました。以上のように述べると、「公娼制度は日本以外の国にも存在していたのではないか、昔は貧しい女性の身売りはどの国にもあった商行為なのだからしかたがない」という感想がだされることがしばしばあります。

東洋に於ける婦人児童売買実地調査委員内務大臣官邸会議議事録要訳

「東洋に於ける婦人児童売買実地調査委員 1931年6月12・13・16日 東京内務大臣官邸に於ける調査会議事録要訳」『東洋に於ける婦女売買実地調査の件』3巻、1931年。

しかし、この見解は大きく間違っています。日本の公娼制度は「世界でも当たり前」の制度ではなかったのです。もちろん、公娼制度と呼ばれる制度を採用していた国は日本だけではなく、戦前にはヨーロッパにも存在しました。なかでもフランスは代表的な公娼国でした。しかし、警察が娼婦と娼家を登録するという点では似ていても,その下で行われていた慣習は各国で異なっていました。そして,日本の公娼制度下で行われていた慣習は、ヨーロッパの公娼制度とは異なり、ひときわ強く女性の自由と人権を侵害するものだったからです。これが日本の公娼制度が「世界でも当たり前」でなかった第一の理由です。

 

ヨーロッパの公娼制度との違い

戦前の日本では芸者や娼妓になる契約の際、彼女たち自身というよりはその親が遊郭や芸妓置屋から前借金と呼ばれる借金をし、娘に芸妓・娼妓稼業を通じて借金返済させるという契約を結び、したがって娘たちには借金返済まで廃業の自由がほとんどなかったと述べました。しかも客が支払った代金のかなりの部分は店の収入となり、その残りの自分の取り分から借金を返済するので、返済には長期間かかり、借金が増額して返済が不可能になることすらしばしばありました。そして、親孝行や「家」のために尽くすことが美徳とされた日本社会の道徳を利用されて、娼妓たちは廃業の自由のない売春を強いられ続けました。

 

しかし、たとえばフランスの公認娼婦は警察に登録して公認売春婦となりますが、廃業は容易にできることが指摘されています。また、公認娼家に借金をすることもありましたが、親孝行や「家」に尽くすことを美徳とする道徳を利用されて人身の自由なく性奴隷状態を強要されるようなものではなかったようです。つまり、親があらかじめ店から借金をし、その借金を娘が売春をして返済する、返済が完了するまで廃業の自由なく売春を強要される、しかも客の支払った代金の大部分は店の収入となるため借金返済が極めて困難で、逆に借金が増額することがしばしばある――といったような日本の公娼制度下のシステムとは異なっていたのです。

 

また、19世紀後半の一時期に警察による売春婦登録制度が導入されていたイギリスの公認娼婦は、移動も自由でどこかちがう地方へ行ってしまうことも可能だし、売春は彼女たちの人生の一時期の経験にすぎなかったことが指摘されています。公認売春宿で性奴隷状態に置かれていたわけではなかったのです。つまり、日本の公娼制度下で行われていた身売りの慣習は「世界でも当たり前」ではなかったのです。

Abolition of Licensed Houses表紙

League of Nations Committee on Traffic in Women and Children, “Abolition of Licensed Houses”, Geneva, June 15th, 1934, Series of League of Nations Publications Ⅳ. Social, 1934. Ⅳ. 7, Official No.: C.221.M.88.1934.Ⅳ. 国立国会図書館所蔵)

 

公娼制度廃止がすすんでいた国際社会と日本の公娼制度

公娼制度が「世界で当たり前」ではなかった第二の理由は、同制度が女性の人権を侵害し、かつ性病予防にも役に立たないなどの理由で、19世紀末からすでにその廃止を求める運動がヨーロッパで活発化していたからです。たとえばイギリスでは、1864年に伝染病予防法が制定されて、軍隊駐屯地と軍港同法が施行されました。指定地域において売春婦とみなした女性を公認娼婦として登録して監視し、性病検査を義務付けることになったのです。しかしこのシステムは、ジョセフィン・バトラーをはじめとするフェミニストと労働者階級の強い批判のなかで廃止されました。男性の買春を認めて放任しておきながら、売春したとみなした女性の方についてはその市民的権利を制限して性病検査を強制するというのは、道徳の二重基準であり、性病検査は強かんに等しいと批判されたのです。こうした売春批判、公娼制度批判はヨーロッパ中に広がり、公娼制度を採用していたフランスなどでも公娼制度批判は強まりました。

 

本邦関係調査報告書表紙

外務省外交史料館所蔵史料 「国際連盟婦人児童問題一件 東洋に於ける婦女売買実地調査の件 本邦関係調査報告書並びに帝国意見書」

当時のヨーロッパでは、移民の増大とも関連して拡大していた女性の国際的人身売買――当時はInternational Traffic in Women(国際的婦女売買)と呼ばれた――が問題化されており、公娼制度下の売春業者たちが婦女売買の温床になっていることが指摘されたのです。国際連盟が設立されると、公娼制度廃止問題・婦女売買禁止問題は同連盟の管轄となり、各国における公娼廃止と婦女売買禁止のための国際条約の制定がすすめられました。その結果、1920年代には、ヨーロッパ本国のみならず、東南アジアの欧米植民地(インドネシア、フィリピン、シンガポールなど)でも公娼制度の廃止が行われました。しかし日本はこうした欧米諸国とは対照的に,1910年代以降,台湾,朝鮮などの植民地,関東州,満鉄付属地などの勢力圏都市に,公娼制度をむしろ導入・拡張していったのです。

 

公娼廃止の趨勢と並行して、国際連盟では婦女売買を禁ずる国際条約も整備されていきました。1921年には国際連盟によって「婦人及び児童の売買禁止に関する国際条約」が制定され、①21歳未満の女性を、たとえ本人の承諾があっても売春に勧誘してはならない、②21歳以上の女性を詐欺・強制的な手段で売春に勧誘してはならない、とされたのです。つまり、18歳以上の女性が娼妓になることと、彼女たちを遊郭へ斡旋する業種を公認している日本政府は、この国際条約で禁じられている行為①を禁止どころか国家公認していることになります。そして、前借金返済まで廃業の自由がないこと、前借金返済がきわめて困難なことを売春の強要とみなすならば、公娼制度全体が条約に違反していることになったのです。このように,植民地を含めて公娼制度を廃止し,かつ婦女売買禁止の国際条約を制定した欧米諸国の動向のなかで,日本の公娼制度はますます「あたりまえ」ではなくなっていたのです。

 

国際連盟「東洋婦女売買調査団」の訪日――公娼制度は婦女売買を促進している――

一方、国際連盟の婦人児童売買問題諮問委員会(Committee on Traffic in Women and Children)は、調査団を組織し、アメリカ大陸、北アフリカ、ヨーロッパ、そしてアジアにおける国際的婦女売買の実態を調査しました。そして、アメリカ大陸,北アフリカ、ヨーロッパを調査した後の1927年には、「公認売春宿は疑いなく人身売買(国内・国際両方)を促進しているのであり、公娼制度は悪徳の温床となっている」との結論を下しました。

本表紙 売春とヴィクトリア朝社会

ジュディス・ウォーコヴィッツ『売春とヴィクトリア朝社会』上智大学出版,2009年。

加えて、1931年になると、国際連盟は「東洋婦女売買調査団」を組織し、同調査団はアジア諸国を調査後日本を訪れ、日本人女性が日本から中国大陸へ向けてたくさん売買されている実態を問題にしました。その際、ヨーロッパにはみられない、前借金によって女性の廃業の自由を妨げる慣習を厳しく批判し、同時に芸娼妓酌婦周旋業を禁止どころか公認していることを批判したのです。日本政府の公式の立場は、前借金契約と芸娼妓酌婦稼業契約とは別物であり、前借金の返済が終わらなくても稼業をやめることが可能なので、女性たちは売春を強要されていない、「自由意思」で働いているにすぎない、とするものでした。つまり、現実には前借金返済義務が、芸者や娼妓の廃業の自由を奪っていることを隠ぺいし続けたのです。こうした日本の官僚たちの答弁に対しては、当然、調査会議の場で調査団の厳しい追及がなされ、前借金契約と芸娼妓酌婦周旋業を違法にすべきことが示唆されたのです。

 

そして、この東洋調査の後の1932年になると、国際連盟の婦女売買問題諮問委員会は以下の結論を下しました。

“the Commission holds that the principal factor in promotion of international traffic in women in the East is the brothel and,  in the chain of brothels which are at the disposal of the trafficker, particularly the brothel in the place of destination of the victim. The most effective remedy against the evil, therefore, is , in the Commission’s opinion, the abolition of licensed or recognized brothels in the countries concerned.”(「アジアにおける国際的婦女売買を促進している主要な要因は、人身売買業者が統制するところの売春宿のネットワーク,とくに犠牲者の行き先の地域での売春宿である。したがって、この種の悪徳に対するもっとも効果的な解決策は、公認売春宿もしくは黙認売春宿の廃止であるというのが委員会の意見である。」)

との結論に至ったのです。その後、同委員会は、公娼制度を持たない、ないしは公娼制度を廃止した15都市における実情の調査なども行っていますが(League of Nations Committee on Traffic in Women and Children, “Abolition of Licensed Houses”, Geneva, June 15th, 1934, Series of League of Nations Publications Ⅳ. Social, 1934. Ⅳ. 7, Official No.: C.221.M.88.1934.Ⅳ. 国立国会図書館所蔵)、世界50カ国が公娼をもともと持たないか、完全に、あるいは部分的に廃止したとしています(同上)。この時期には、公娼制度を維持していたフランス、そして、日本自身も地域によっては公娼制度を廃止していました。

 

表紙 小野沢本

小野沢あかね『近代日本社会と公娼制度―民衆史と国際関係史の視点から』吉川弘文館,2010年。

このように、1920~30年代の国際社会では、公娼制度、とくに日本の公娼制度は、女性の人身売買を促進する主要因として、廃止しなければならない制度と国際連盟にみなされていました。そして、こうした国際社会の趨勢を受けて、日本政府も1934年にいったん公娼制度廃止を表明することになるのです(廃止には至りませんでしたが)。

 

〈主要参考文献〉:

小野沢あかね『近代日本社会と公娼制度―民衆史と国際関係史の視点から』吉川弘文館,2010年。
ジュディス・ウォーコヴィッツ『売春とヴィクトリア朝社会』上智大学出版,2009年。
アラン・コルバン『娼婦』藤原書店,1991年。

5 他の国にもあった?

ほかの国の軍隊にも日本軍慰安所と同じようなものがあったので、日本だけが悪いわけではないという言い方をする人たちがいます。はたしてそうでしょうか。

 

第1に、一般に軍がそうした女性に性病検査などをおこない、統制するのは将兵の性病予防が理由です(効果があったかどうかは別です)。しかし日本軍の場合、「慰安婦」導入の大きな理由が、日本軍将兵による、中国の地元女性に対する強かん事件がひどかったことです。そして慰安所を作ったから強かん事件が減ったのかと言うと、逆でした。慰安所は前線まで十分には設置されなかったため、末端の部隊では女性を拉致してきて監禁強かんをする慰安所もどきが作られ、あるいは慰安所に行くとお金がかかるが強かんならタダだと強かんを促す要因にもなりました。

 

第2に、もっと大きな違いは、日本軍「慰安婦」制度の場合、慰安所設置計画の立案(設置場所や必要人数の算定など)、業者選定・依頼・資金斡旋(業者抜きに軍が直営する場合もある)、女性集め(朝鮮・台湾や日本本土では警察の協力・身分証明書の発行、占領地では軍が直接間接に実施または支援)、女性の輸送(軍の船やトラックを提供)、慰安所の管理(直接経営または軍が管理規則制定、その管理下で業者に経営委託)、建物・資材・物資の提供(軍の工兵隊が慰安所建物を建設することも)、などすべての過程において軍の管理下におかれ、あるいはしばしば軍が直接実施していることです。ここまで完全に軍の管理下におかれているケースは、ナチス・ドイツの例を除いて、ほかの国ではまずありえません。

 

米軍や他の軍隊の場合でも、軍の周辺に来た女性たちを集めて、いわゆる売春婦として管理するということはやってはいるのですが、その場合にも別に米軍が集めたわけでもないし、アメリカ兵が何人いるから、そのために女性が何人必要で、だからこれだけ女性を調達してこいなどということを軍がやっているわけではありません。アメリカ軍は物資が豊富で、そこに行けば食べ物は豊富にありますから、戦場の中で人が集まってくる。それを管理するということであって、日本軍と同じとはいえないでしょう。
2-2-5b 本 圧縮

*米軍と日本軍の比較は、林博史「5 軍隊と性暴力―「慰安婦」制度と米軍の性暴力」(林博史・中村桃子・細谷実編著『連続講義 暴力とジェンダー』白澤社、2009年)参照

 

第3に、米軍の場合、軍が売春宿の利用を認めていることが本国にわかると、教会や議員たちから抗議を受け、軍中央は直ちに閉鎖させる措置を取っています。本国世論が認めませんでした。米軍が現地で、たとえば売春宿を認めたりするようなことをやると、兵士が怒って、郷里の教会の牧師に手紙を書いて、その牧師が国会議員のところに手紙を持っていって、国会議員が軍を追及する。そうすると、軍では、そんなことはぜったい認めていないと言って、すぐ現地に、売春宿を閉鎖しろ、オフリミッツにしろという指令がとんでいく。あるいは、チャプレン(従軍牧師)が、けしからんと怒るのです。

 

ですから、米軍の政策を、かなりアメリカ社会がチェックをしているという側面があります。米軍の場合、本国の世論、国会議員や彼らの地元の支持者、それに教会などからの批判を意識せざるをえません。このあたりは、日本軍とはずいぶん違います。民主主義国と独裁国家との違いとも言えるでしょう。

 

他方、日本軍は公然と慰安所を設置運営しました。日中戦争が始まった直後に陸軍の「野戦酒保規程」が改正され、戦地において将兵のために日用品や飲食物を販売する酒保において、「必要なる慰安施設」を設置できるようになりました。つまり軍が公然と慰安所設置運営をおこなっていたのです。

 

これまで明らかにされているところでは、第二次世界大戦のときに、組織的に軍慰安所を開設し利用したのは、日本軍とドイツ軍(ナチス親衛隊SSを含む)だけと見られます。

 

なお朝鮮戦争のときに韓国軍は日本軍と同じような慰安所を設け、また韓国政府が米軍のために慰安所を提供したことがありました。当時の韓国軍の幹部は旧日本軍や、日本軍の指揮下にあった旧満州国軍の軍人たちが多く、日本軍のやり方を真似たと言えます。これも重大な人権侵害であり批判されるべきですが、だからといって日本軍「慰安婦」制度を弁護するのは筋違いでしょう。むしろ日本軍の悪習(犯罪)が、韓国軍にも受け継がれてしまったことを反省しなければならないのではないでしょうか。

2-2-5a 史料

【説明】海南島の海軍慰安所についての台湾拓殖会社の資料があります。海南島における慰安所の設置は、1939年に占領した後、陸軍・海軍・外務省の3省の連絡会議によって計画されました。そこでは、台湾総督府を通じて、海南島への進出をはかった台湾拓殖会社に慰安所設置、慰安婦の徴集を依頼しました。台湾拓殖会社は、台湾総督府、外務・大蔵・陸海軍などの各省の協力をえて設立された会社であり、半官半民の国策会社でした。この事例は、慰安所設置が、陸海軍だけでなく、外務省、台湾総督府さらには政府の支援を受けて設立された国策会社をも巻き込んでおこなわれたことを示しています。

6 朝鮮戦争とベトナム戦争でもあったのか?


橋下氏などがこういう理屈を持ち出して、日本軍だけではなかった、だから日本だけが批判されるのはおかしいという論拠にしようとしています。

 

朝鮮戦争のときに韓国軍は日本軍と同じような慰安所を設け、また韓国政府が米軍のために慰安所を提供したことがありました。これは韓国において、韓国軍の資料などを使った研究が出ています。これ自身、たいへん大きな問題で人権蹂躙行為です。

 

ただなぜ1950年代において韓国軍がこうした慰安婦制度を作ったのかを考えると、当時の韓国軍の幹部は旧日本軍や、日本軍の指揮下にあった旧満州国軍の軍人たちが多数いました。いわゆる対日協力者たちが韓国軍を握っていたのです。

 

その代表的な人物で、後に軍事クーデターをおこして政権を奪い、長期軍事独裁政権を指導した朴正熙を見ると、彼は満州国の軍官学校を出て、さらに日本の陸軍士官学校も卒業しています。そして戦時中は、満州国軍の将校です。満州国軍とは日本軍の指導下で、満州の抗日ゲリラの討伐をやっていた軍隊です。日本への抵抗派、独立派を弾圧していた人物であり、典型的な親日派です。朴正熙は、陸軍士官学校では、陸士第57期ですが、このときの陸軍士官学校校長は後に沖縄の第三二軍司令官になる牛島満です。第三二軍は組織的に大規模に沖縄各地に慰安所を設置したことは有名です。

 

つまり旧日本軍出身者が握っていた韓国軍は、日本軍のやり方を真似たのです。

 

朝鮮戦争の例を持ち出して、日本軍「慰安婦」制度を弁護するのは筋違いでしょう。むしろ日本軍の悪習(犯罪)が、韓国軍にも受け継がれてしまったことを反省しなければならないのではないでしょうか。

 

ベトナム戦争については、橋下氏はどの軍隊のことを言っているのか、はっきりしませんが、米軍のことのようです。南ベトナムに派遣された米軍の前線基地では事実上、売春婦を囲い込むようにした事例がわかっています。

 

これは米軍が侵略者だったことと関連があり、周囲を住民に囲まれて外出も自由にできない状況でのことです。中国などの前線に慰安所を設置した日本軍も侵略者であり、周囲の住民に取り囲まれていました。うかつに外出できない状況下では軍陣地のそば(あるいはその中の一角)に慰安所を設けるというのは日本軍もそうでした。

 

日本軍やナチスドイツ、さらにベトナム戦争の米軍の事例から言えることは、いずれも侵略者だったことです。侵略者から郷土を守る防衛のための戦いであれば、慰安所などなくても、郷土の人びとを守ろうと将兵たちの士気が高く、かつモラルも高い軍隊だったでしょう。何のために戦争をやっているのか、なぜ郷里を遠く離れて外国で戦争をやらなければならないのか、つまり戦争をおこなう理由がわからないからこそ、士気や軍紀が乱れてくるのです。

 

侵略者だったことの認識も反省もない橋下氏は、侵略者の例を出してきて、ごまかそうとしているにすぎません。

朝鮮戦争時の韓国軍の慰安所について記している文書

朝鮮戦争時の韓国軍の慰安所について記している文書

 

7 公娼制は犯罪を減らすのか?

この問題は、女性の人権という観点を抜きにして考えると(それは大問題なのですが)、かんたんには結論は出しにくい問題ですが、性売買を認めない米国の考え方を紹介しておきましょう。

 

英文の資料はたくさんあるのですが、幸い、日本の労働省婦人少年局が1952年に翻訳したものがあるので、それを紹介しましょう。これは米国社会衛生協会が1941年に出した『米国に残っている紅燈街―組織的売春街―の撲滅のために』というパンフレットです(『性暴力問題資料集成』第三巻、不二出版、2004年、所収)。ここでいう「紅燈街」というのは、日本の「赤線」、つまり売春公認地区のことを指します(米国の場合は、ほとんどの州で売春を公認していないので、黙認されている売春地区を指すと言えますが)。米国社会衛生協会は米国政府と共同して売春撲滅のキャンペーンを展開していた組織です。

 

このパンフレットでは、10項目をあげて売春公認を否定する議論をしています(括弧内は引用、ほかは要約です)。

 

① 「隔離区域は隔離されていない」

売春婦を隔離区域内の閉じ込めていると思っても、実際にはそうではなく、隔離区域内に売春婦が1人いるとすると、区域外には5人がいるのが事実である。

 

② 「隔離地域は売春婦を増加させる」

「集娼区域は、売春婦の仲介を業とする人のために、あくことない市場を提供し、売春婦のかすりをとって生活している者にとって、理想的な商売の地盤となっています。」 業界は需要拡大しようとし、その結果、「そういうものがなければ決してこの道を歩まなくてもよかった少女を売春婦におちいらせ、又青年たちを娼家の客にしたてているのです。」

 

③ 「集娼区域は性病培養所」

区域内の売春婦の多くが性病に犯され、客としてくる男たちも感染する。「男女を性病から守る方法として商業化した売春は妥当ではない。」

 

④ 「検診制度は謝った安全感を与える」

検診で性病が見つからなかったとしても安全だということにはならない。かえって健康証明書が安心感を与えてしまい、性病が広がることになってしまう。

 

⑤ 「売春は廃止することができる」

(説明省略)

 

⑥「集娼地区の廃止は娼婦を「拡散」させるという説の誤り」

黙認または公認区域があることによって、逆に「市のいたる所に内緒で売春行為を行っている利口な女達を増やすことになります。」「厳正な法の執行によってこの営業は拡散する代りに廃止されます。」

 

⑦ 「強姦に対する意見と実際」

「業者はよく、特殊区域をおくことは、良家の子女を困惑や、侮蔑や、強姦から防ぐ方法であるといいます。しかし紅燈街を撲滅した市の実例をよくみてみると、殆んどすべての場合、強姦の数は廃止以前より減少しています。どの場合をみても売春に対する圧迫の結果が、“犯罪の巷”を作り出すようなことはなかったのです。紅燈街は犯罪を少なくすることはありません。それどころか、性的犯罪のみならず、ゆすり、たかり、その他の犯罪や搾取を培養するものです。」

*パンフレットの巻末の表には「性的犯罪を防ぐ」という「売春業者の言い分」に対して、「真相」として、「性的乱交をまし、性的残忍性と堕落を培うことによって性的犯罪を促す」としています。

 

⑧ 「乱交の問題」

紅燈街を閉鎖し、営利的売春を圧迫すると乱交が増えるという証拠はどこにもない。

 

⑨ 「諸外国における売春対策」

「事情によく通じていないものや、偏見をもったものによって」フランスの事情がよく引用される(注:売春を公認したい者はフランスを例を挙げるという皮肉ですね)が、「これは大きな誤りです。」「諸国における認可検診制度は大きな失敗であることが、国際連盟の世界的調査によって明らかにされ、ヨーロッパの多くの国の当局筋もこれを認めました。即ち、10~30年前からチェコ、オランダ、スカンジナヴィア諸国、イギリス、スイス等のヨーロッパ諸国は、売春の認可検診の制度を全くやめてしまい、ドイツ、オーストリア、ポーランド、ダンツィヒ、エストニア、フィンランド、ラトビィア、インド、ハンガリーでは、第二次世界大戦前、事実上、これを廃止しました。売春認可、及び検診制度を一度ももったことのない国、あるいはそうした制度の一部又は全部を正式に廃止した国は、アメリカ合衆国、カナダ、ニュージーランド、オーストラリア、南アフリカ、キューバ、ウルガイです。これらのすべての国々に於いて、そういう対策によってとりしまり得るのは一部の売春婦だけであること、また検診に対する誤信は性病を防ぐより、拡げることになることが判明したのです。」

 

⑩ 「組織的売春を擁護する者」

「以上のように、隔離区域、公認売春宿及びその他組織的売春は、性病を拡げ、犯罪を生むものです。それにも拘らずそうした組織的売春業の存続を望むものは、どういう人たちでしょうか。」

パーシング将軍の言葉「この年来の悪と戦う唯一の道はその撤廃である。」

 

以上がこのパンフレットの要約紹介です。米国の政策の問題もいろいろありますが、売春を公認する方法が世界で当然のこととして考えられていたわけではないことは、はっきりしています。

林博史「アメリカ軍の性対策の歴史―1950年代まで」『女性・戦争・人権』(「女性・戦争・人権」学会)7号、行路社、2005年、

林博史「アメリカ軍の性対策の歴史―1950年代まで」『女性・戦争・人権』(「女性・戦争・人権」学会)7号、行路社、2005年

 

米軍の性管理政策の歴史的な分析としては、林博史「アメリカ軍の性対策の歴史―1950年代まで」『女性・戦争・人権』(「女性・戦争・人権」学会)7号、行路社、2005年、を挙げておきます。 http://www.geocities.jp/hhhirofumi/paper71.htm

 

この論文のなかで、米国の陸軍省が1917年に出したSmash The Lineというパンフレットの内容が紹介されています。このパンフレットでは、娼婦を隔離登録し性病検査をおこなう赤線地区方式はかえって売春を拡大すること、医学検査をおこなっているから性病にかかっていないという偽りの安心感をあたえて予防策をとらなくなりかえって性病が拡大すること、定期的な性病検査では性病を見つけることは不十分であり、かりにそこでチェックできてもその後すぐに感染すれば次回の検診まで感染させることを阻めないこと、見境のない性交渉を刺激することにより女性への犯罪を増加させること、地域社会のモラルを悪化させ青少年を誘惑すること、警察の収賄を増加させることなど、問題点を列挙しています。

 

1917年8月に米国の陸軍長官は、軍施設のある市長や郡長に送った手紙のなかで「基地周辺での赤線地区の存在を陸軍省は容認することはできない。(中略)この問題について唯一の実際的な政策は断固とした禁圧策である」と述べていることも紹介されています。

 

ここで紹介した米国社会衛生協会のパンフレットの考え方も米軍と同じ考えのものと言えます。

8 占領軍は慰安所を要求した?

日本の敗戦後に進駐してきた占領軍(連合軍だが主に米軍)がRAA(特殊慰安施設協会)と呼ばれる慰安施設を利用したことはよく知られています。これを占領軍が日本政府に要求して作らせたということを主張している人びとがいます。こういうウソを持ち出すことによって、慰安所を作ったのは日本軍だけではないと言って、責任逃れをしようとしているのでしょう。本当にそうなのか、検証しましょう。

 

日本政府が慰安施設提供を指示

経過をたどってみると、まず敗戦2日後の1945年8月17日に東久邇内閣が成立します。この内閣に国務大臣として入閣した元首相近衛文麿のところに、警視総監になる坂信弥が呼び出され(17日か18日と思われる)、婦女子の問題について対策を頼まれます。

 

全国の警察の元締めである内務省警保局長は、18日に各府県長官(知事や警視総監)に対して、「外国軍駐留地における慰安施設」について通牒を発しています。これは警察署長に「性的慰安施設」などを設置させることを指示したものです。ですから東京だけでなく全国の知事、警察への指示です。

 

近衛の指示を受けた坂警視総監は、警視庁の経済警察部に担当させ、部内の保安課が担当になります。18日(または19日か?)、東京料理飲食業組合の幹部らが突然、警視庁保安課から呼び出されて出頭しました。そこで保安課長から、「近く進駐してくる連合国軍の将兵を慰安する為に、各種施設を作ることを閣議で決定したのである。政府は出来るだけ応援するから、是非民間でやってもらいたい」と頼まれました。

 

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細川護貞『細川日記』

警察が業者に依頼、資金も政府が斡旋

それを受けて21日に接客業のいくつもの組合幹部計15人が警視庁に呼ばれて、正式に要請を受けました。そして23日に保安課長ら警視庁関係者の列席の下に、特殊慰安施設協会を発足させたのです。28日には協会の役員一同で宮城(皇居)前に集合し宣誓式をおこなって事業の実施を誓ったのです。そのための資金は日本勧業銀行から借り受けましたが、内務省(警察)と大蔵省がその斡旋をおこないました。

 

この特殊慰安施設協会が提供したものには、食堂やキャバレー、遊技(ゴルフやテニスなど)などもありましたが、大きかったのが「慰安部」で、芸妓や娼妓、酌婦という性売買に関わる女性たちを集めて、慰安所を開設しました。8月末から9月にかけて各地に慰安所を開設して、進駐してきた米兵を受け入れたのです。RAAというのは、Recreation and Amusement Associationの頭文字をとったものです。

 

占領軍進駐の経過

連合軍の日本本土進駐の経過をかんたんに見ておくと、8月19日、進駐についての打ち合わせのために、参謀次長河辺虎四郎中将ら日本政府の代表団がマニラに赴き、20日にマッカーサー司令部と協議をおこないました(21日帰京)。占領軍の先遣隊厚木進駐が26日、本隊の進駐日は28日に決まりました。この河辺虎四郎中将が帰国後すぐに近衛文麿の側近でもあった細川護貞に報告をしたようですが、そのときの話によると、「娯楽設備につき、仏当局が米軍に申出たる所、キッパリ断りたる例あれば、我方も斯の如きことを為すべからず、等々語れり」(細川護貞『細川日記』8月21日の項)ということでした。つまり「娯楽設備」を提供しようとしても米軍は受け入れなさそうだから、日本側はそういうことはしない方がいいという話だったようです。

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その後、台風のために先遣隊の厚木入りは28日になります。そして本格的な進駐は8月30日におこなわれました。この日午後2時マッカーサーが厚木に到着し、ただちに横浜の司令部に入りました。海軍は第3艦隊が29日に東京湾に入り、30日から海兵隊らが横須賀に上陸しました。9月2日には東京湾の戦艦ミズーリ号艦上で降伏調印式がおこなわれ、日本は正式に降伏しました。

 

この経過を見ると明らかですが、占領軍(米軍)が慰安所設置を申し入れたのではなく、米軍と接触する前に、すでに日本政府(内務省)は、占領軍向けの慰安所設置に動き出していたのです。

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なお米軍の中には、慰安所設置あるいは公娼制復活を積極的に支持した幹部もいました。GHQの公衆衛生福祉局長に就任したサムス大佐(のち准将)や、米陸軍の第8軍や第6軍の関係者の中には、売春を禁圧すべしという陸軍省の政策に従わず、公娼制の再確立を主張し、日本側にもそれを求めた人たちがいました。サムス局長は、1945年10月に、売春宿をオフリミッツにしている司令官たちを批判し、オフリミッツにしても私娼が散在するだけであるから日本の現存する売春統制の法と手続きを拡張し厳密に実施することが実際的で緊急な対応として求められると提言していました。同月、第8軍軍医ライス准将は、ホステスと性交渉できる「アミューズメント・ハウス」を日本側が設置してくれないかと示唆していました。ですから軍の幹部の中には、そうした慰安施設を求めるものがいたことは確かで、日本側の関係者の証言にもそうした例が出てきます。

しかし、そうした要望は、すでにRAAが開設されてから後の時期のことでした。ですから、米軍の要請によってRAAが作られたのではありません。

ところで、1945年8月22日付で内務省警保局が「連合軍進駐経緯に関する件」という通牒を出しており、その中の最後に「連合軍進駐に伴ひ宿舎輸送設備(自動車、トラック等)慰安所等斡旋を要求し居り」とあります。

この史料について検討すると、マニラで日本政府の代表団が連合国最高司令官から渡された要求事項の中には、宿舎や輸送に関することは含まれていますが、「慰安所」(あるいはそれに相当すると見られる施設)に関する事項は含まれていません。内務省警保局は米軍(連合軍)と直接交渉する部署ではないので、直接、米軍から要求されたわけではないでしょう。どこからかそうした話があったのかもわかりませんが、確認できません。

先に紹介した細川日記の記述から推測するに、そのような慰安施設(あるいはそれに類する施設)についての話が日本政府代表団と連合国司令部との間であったのかもしれませんが、米軍側は否定的な反応をしたと解釈する方が、筋が通るでしょう。すでに警保局は占領軍向けの慰安所設置を指示し動き始めていたので、日本側(警保局)が勝手に推察して入れたという可能性もなくはないと思われます。

仮に、米軍がそうした要求をしていたと仮定しても、すでに日本政府は慰安施設設置に動き始めていたわけですから、米軍が要求したから慰安施設を作ったということにはなりません。この点については、次のブログが参考になります。
http://tarari1036.hatenablog.com/entry/2013/05/23/160941

 

RAAをめぐる顛末

また米軍が軍として慰安所開設を要請したとは言えません。陸軍も海軍も軍としての正式の政策は売春を禁圧するというもので、米軍将兵が売春宿(あるいは慰安所)に通うことを正式に認めることは許されませんでした。

 

たとえば、第5空軍司令部は、すでに1945年11月5日の時点では、基地周辺5マイル以内の地域から娼婦を排除するように日本政府に要請することを太平洋陸軍司令部に訴えています。そこでは売春禁圧こそが唯一効果的な性病管理方法であるという陸軍省の政策を強調していました。空軍(正確にはまだ陸軍の一部の陸軍航空隊)としては売春宿をオフリミッツにしたいが陸軍がオフリミッツにしないので困っているとも訴えています。極東空軍司令部もこの要望に賛成しました。

 

日本に来ていた軍のチャプレン(従軍牧師)たちもさまざまな方法で売春公認策を非難しました。米歩兵第41師団のチャプレンは、師団長に注意を喚起したが改善されないのでワシントンの陸軍省チャプレン部長に訴えました。チャプレン部長はこれを陸軍省人事部長に伝えていています。日本に来ていた兵士が家族に手紙を書き、上院議員を通じて陸軍長官に実態を訴える者もいました。

 

米本国でも雑誌Newsweekがこの問題をレポートしました。1945年10月22日付には、米兵たちが「ゲイシャ・ガールズ」たちとダンスしている写真が一挙に5枚も掲載され、29日付には「娯楽協会」としてRAAのことを取り上げ、東京の米兵たちはまもなく5000人の新しいゲイシャ・ガールズから歓待を受けるだろうという記事を掲載しました。そこではまだ売春については言及されていませんでしたが、11月12日付では「水兵とセックス―日本で売春がはびこる:海軍の政策が非難」と題して1ページ全部を使った記事が掲載されました。記事の材料は、日本に来ていた海軍のチャプレンからNewsweekに送られた手紙だったようです。つまり米軍が日本で、売春を公認していることを問題視するチャプレンたちが、米国メディアを使って本国に訴えたと言えます。

 

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これらのNewsweekの記事は議会でも取り上げられて米軍が批判されたため、海軍長官フォレスタルは、売春禁圧が海軍省の一貫した政策であることを強調する見解を発表し、さらに売春を認めるようなことはならないと売春禁圧を強調する通達を出しています。

 

日本においては、陸海軍チャプレン協会東京横浜支部がこの問題を取り上げて議論し、1946年1月8日には88名が参加した会議で、全員一致でこうした売春宿の利用をやめ売春を禁圧するようにとの決議を採択し、11日付で連合軍最高司令官マッカーサー宛に書簡を送っています。

 

こうした動きを受けて、1946年3月4日付で、陸軍省から太平洋陸軍司令官マッカーサーに対して、売春禁圧の陸軍省の政策を厳格に遵守すること、陸軍次官を派遣するので協議し状況を報告せよと通達がなされました。その直後に陸軍次官が日本を訪問してマッカーサーと会談し、そのなかで、売春禁圧という陸軍省の政策に従うことをマッカーサーに約束させました。

 

これを受けて、3月18日、米第八軍(日本全体の占領を担当)は、売春宿はすべてオフリミッツにするように指揮下の部隊に通達しました。この通達を受けて25日に米軍の東京憲兵隊司令官が内務省にその旨通告し、RAAにはオフリミッツが実施されたのです。

 

米軍がRAAの慰安所をオフリミッツにしたことによって、米軍将兵がRAAの慰安所に来なくなり、慰安所は閉鎖せざるをえなくなりました。特殊慰安施設協会は、慰安所閉鎖後も、ほかの娯楽を提供して1949年5月までは活動を続けました。

 

このようにRAAの利用は、日本に駐留していた米軍内部からの批判と陸軍省からの批判をうけて取り消されることになりました。米陸軍省では、1946年4月5日付で参謀総長アイゼンハワーが全軍に通達を出し、その中で、売春の組織化は、性病予防策としては完全に非効果的であり逆に性病が増えてしまい、医学的にも不健全であるということ(医学的理由)、社会的に批判を受け、道徳を破壊し、さらに米国市民の希望に反すること(社会的理由)などの理由を列挙して売春公認策を強く否定しました。そしてすべての売春宿をオフリミッツにし、売春禁圧策をとるように指示しています(同じ趣旨の通達は1945年2月4日にも出されています)。

 

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以上、林博史前掲論文の他に、ドウス昌代『敗者の贈物』(講談社)、いのうえせつこ『敗戦秘史 占領軍慰安所―国家のよる売春施設』(新評論)、小林大治郎、村瀬明『みんな知らない国家売春命令』(雄山閣)、などを参照。

なお占領軍が慰安所設置を日本政府に要請したというウソを言っている人たちは、「米兵によるレイプを防ぐため」に、そういう要請をしたと言っていますが、米軍にとっては将兵の性病予防が関心事であり、米軍文書を見ても、「レイプを防ぐため」という理由は出てきません。もしそうであるならば、根拠となる文書を示すべきですが、何も示されていません。また仮にそういう文書が出てきたとしても、圧倒的に多いのは性病予防という理由ですから、「レイプを防ぐため」という理由だけをあげるのは、正確ではありません。

 

このように占領軍のための慰安施設は、米軍の要求によって日本政府が提供したものではなく、日本政府自らが準備提供したものです。

 

日本軍慰安婦を正当化しようとしている人たちは、事あるごとに文書を出せ、文書がないから信用できないなどと攻撃していますが、自分たちの主張は、裏づけになる文書がなくても、勝手に虚構を創作して言いふらしているようですね。

 

なお警視庁の経済警察部長が、保安課長や係長を呼んで、占領軍用の慰安施設を作るように命じたとき、部長は、「すべて口頭の命令でやること」「書面を残すな」と強く念を押したということです。官僚組織が、都合の悪いことをやるときには文書を残さないようにする、というのはよくあることですが、ウソを言う人たちは、どうしてそこまで官僚組織を弁護したいのでしょうか。

 

2-2-6g 史料

 

9 特殊慰安施設協会は米軍の国営だった?

Q&A「占領軍は慰安所を要求した?」で取り上げたRAAについて、ウィキペディアでは、「池田信夫から、米軍が日本で経営した特殊慰安施設協会などを例に、国営売春施設はどこの国にも存在する制度であるのに……」と書き、その根拠として、池田信夫のブログがあげられています。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E8%A6%8B%E7%BE%A9%E6%98%8E#cite_note-8 ならびにhttp://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51860114.html ともに2013.7.30アクセス)

まずウィキペディアの書き込みですが、「米軍が日本で経営した特殊慰安施設協会」というのが明白な間違い(というよりウソ)であることは、Q&A 「占領軍は慰安所を要求した?」の説明を読んでいただければ明らかでしょう。いったい何を根拠に「米軍が経営した」と言うのでしょうか?その証拠を出してほしいものです。

 

また「国営売春施設はどこの国にも存在する制度」というのならば、「国営」であることを示す証拠を、各国ごとに挙げてほしいものです。秦郁彦でも、ここまで露骨なウソは恥ずかしくて言えないでしょう。

 

ウィキに書き込んだ人物は、上記の記述の根拠に池田信夫のブログを挙げていますが、読み比べてみると、根拠になっていません。単純に日本語の読解力がないのかもしれませんが、念のために池田信夫氏のブログを取り上げてみましょう。

 

池田氏は、吉見義明氏が「軍の施設として組織的に慰安所を作った国はほかにない。日本の慰安婦制度は特異だった」と2013年6月4日の大阪市役所でも記者会見で話したことを取り上げて、ウソだと言っています。まず抑えておきたいのは、この括弧でくくられた表現は、共同通信の配信記事の表現であることです。こうした報道は、記者会見での話のすべてを正確に伝えるものではなく、記者が要約していることは常識です。たとえば、テレビでのインタビューでも、何十分も話したのに、実際に放映されるのは数十秒、ときには数秒ということが少なくありません。重要だと思って話したことが切り取られて、ある部分だけが流されるのが普通です。

 

吉見氏本人がこれまで書いてきたことを見ても、『従軍慰安婦』(岩波新書、1995年)において、各国の軍隊のケースを取り上げ、ドイツ軍・親衛隊の慰安所についても紹介していますし(202頁以下)、『日本軍「慰安婦」制度とは何か』(岩波ブックレット、2010年)の中でも「軍が率先してこのような制度をつくり、維持・管理していったのは、確認される限り、日本軍とドイツ軍しかありません」(53頁)と述べています。

 

従軍慰安婦 (吉見義明) 日本軍「慰安婦」制度とは何か (吉見義明)

 

また吉見氏が共同代表を務めている日本の戦争責任資料センターが2013年6月9日に発表した「日本軍「慰安婦」問題に関する声明」においても、次のように述べています。
日本軍「慰安婦」制度と同じような制度が世界の各国にもすべてあったかのような主張がなされているが、その根拠を示す資料はまったく提示されていない。これまでの研究では、第二次世界大戦時において日本軍「慰安婦」制度のような国家による組織的な性奴隷制を有していたのは、日本とナチス・ドイツだけであった。当時、当初から公娼制のなかったアメリカや、イギリスなどのように公娼制を廃止していた国が多く、将兵が民間の売春宿を利用することはあったとしても、軍が組織的に管理運営することは許されなかった国々が多かった。諸外国の軍人による性暴力もあったが、それは「慰安婦」制度とは別のものであり、それらを混同させて、日本軍「慰安婦」制度を免罪することはできない。何よりも日本自らが犯した深刻な性犯罪である「慰安婦」制度とさまざまな性犯罪を真剣に受け止め、事実を認め謝罪と個人補償をおこなったうえで、他国の問題を提起すべきである。

http://space.geocities.jp/japanwarres/

 

このように吉見氏は、ドイツのケースや、ほかの国々のケースも自分の著作で取り上げてきているのであって、記者会見における短い報道記事だけを基に「偽造」とか「嘘」と罵倒するのは、意図的ものを感じます。

また池田は「ドイツのやった国営売春」と言っていますが、「国営」というのはどのような史料を根拠に言っているのでしょうか。またドイツでは「日本の慰安婦と違って強制連行をともなう国家犯罪」と言っていますが、その違いを示す、根拠となる史料は何か、示すべきでしょう。ドイツの場合も日本と同様に、強制的に女性が慰安婦にさせられたことはその通りでしょうが、日本とは違うというのならば、その根拠を示すのが当然のことでしょう。他の国を批判するときは、根拠となる史料を示さなくてもかまわないというのはアンフェアな姿勢です(なお秦郁彦『慰安婦と戦場の性』新潮社、1999年、には、ザイトラーの本の短い要約が紹介されているだけで、根拠となる史料は載っていません)。

 

ついでに秦郁彦の、池田が根拠としている箇所についてですが、「強いて差異をあげれば、ドイツ軍の場合は最高レベルでの命令で律し」ていたのに対して、「日本軍は出先のかなり低いレベル、それも輸送関係を除くと業者との非公式な談合に委ね、運用もかなりルーズだったらしい点である」と述べています(151頁)。しかしながら、陸軍大臣による、1937年9月の「野戦酒保規定」改正によって、軍の正式の施設の一つとして「慰安施設」が位置づけられたことを見ても、あるいはそのほかの数多くの日本軍の陸軍省や外務省、内務省などの史料を見ても、「出先のかなり低いレベル」などとはとうてい言えないことは明らかでしょう(本ウェブサイト「資料庫」参照)。

 

池田のごまかしは、さらに「そもそも公式の施設があったかどうかなんて大した問題ではなく」と言っています。この理屈でいれば、現在の自衛隊が、防衛大臣が慰安所を作れと指示し、売春業者に詐欺や人身売買で女性を集めさせて、自衛隊駐屯地のそばに慰安所を作り(その建物は自衛隊の施設隊が建設し)、自衛隊が慰安所の管理規則を作り、女性たちの外出の認めず、隊員に曜日で割り当てて、慰安所に行かせる、ということをやっても、「大した問題ではない」、それは、隊員が休日に勝手に風俗に通うのと同じだ、という理屈になるでしょう。この程度のものがネット上では堂々と流されているのが、日本の知的レベルの現状でしょうか。

 

 

 

1 「慰安婦」の徴集と連行

1 朝鮮で強制連行は?

安倍晋三首相は、「官憲が家に押し入っていって人を人さらいのごとく連れて行く」という「強制性」はなかった、といっています(2007年3月5日参議院予算委員会)。また、橋下徹大阪市長も、「慰安婦」が「軍に暴行脅迫を受けて」連れてこられたという証拠はないといっています(2012年8月21日記者会見)。

 

安倍首相も橋下市長も、①軍・官憲による、②暴行・脅迫を用いた連行(法律用語では略取)という、二つが重なっていなければ、強制連行ではないといっています。ここに大きなごまかしがあります。

 

日本軍は、朝鮮・台湾で女性たちを集める時には、業者を選定し、この業者に集めさせました(軍に依頼された総督府が業者を選定する場合もあります)。この業者は、人身売買や誘拐(だましたり、甘言を用いて連行すること)を日常的に行っている女衒(ぜげん)とよばれる人たちだったので、彼らは「慰安婦」を集める場合もしばしば同様の方法を用いました。

 

これは刑法第226条に違反する犯罪です。また、強制とは本人の意思に反してあることを行わせることですから、誘拐は強制連行になります。人身売買も本人にとっては経済的強制ですから、強制連行というべきでしょう。誘拐や人身売買で連行された女性たちが軍の施設である慰安所に入れられて、軍人の性の相手をさせられたら、強制使役になります。軍の責任は極めて重大だということになります。この単純・明白なことを安倍さんも橋下さんも見ようとしていないのです。

 

朝鮮・台湾から女性たちが誘拐や人身売買で海外に連れて行かれたという証拠は、被害者の証言以外はないのでしょうか。そんなことはありません。たくさんあるのです。いくつか挙げてみましょう。

第1にアメリカ軍の資料があります。アメリカ戦時情報局心理作戦班が作成した、今では有名な「日本人捕虜尋問報告」第49号(1944年10月1日)です。誘拐や人身売買で多数の朝鮮人女性がビルマに連れて来られた、とつぎのように記録しています。

一九四二年五月初旬、日本の周旋業者たちが、日本軍によって新たに征服された東南アジア諸地域における「慰安役務」に就く朝鮮人女性たちを徴集するため、朝鮮に到着した。この「役務」の性格は明示されなかったが、それは病院にいる負傷兵を見舞い、包帯を巻いてやり、そして一般的に言えば、将兵を喜ばせることにかかわる仕事であると考えられていた。これらの周旋業者が用いる誘いのことばは、多額の金銭と、家族の負債を返済する好機、それに、楽な仕事と新天地――シンガポール――における新生活という将来性であった。このような偽りの説明を信じて、多くの女性が海外勤務に応募し、二、三百円の前渡し金を受け取った。(吉見義明編『従軍慰安婦資料集』資料99、大月書店)

これは国外移送目的誘拐罪に該当します。また、200-300円程度の前借金を渡していることから、国外移送目的人身売買罪にも該当します。この米軍の記録では、約700名の朝鮮人女性が騙されて応募し、6ヵ月から1年間、軍の規則と業者のための役務に拘束された、この期間満了後もこの契約は更新された、と記されています。軍を主とし、業者を従とする犯罪だというほかないでしょう。これを強制連行といわなければ何というのでしょうか。

 

朝鮮人女性が誘拐されてビルマのラングーンの慰安所に連れてこられたという記録をみてみましょう。小俣行男元読売新聞記者の回想です(小俣『戦場と記者』冬樹社)。1942年にラングーンに朝鮮から40~50名の女性が上陸します。慰安所を開設したので、新聞記者たちには特別サービスをするから、というので大喜びで彼は慰安所に行きます。ところが実際に小俣さんの相手になった女性は23、24歳の女性で、「公学校」で〔正確には1941年以降は初等学校は朝鮮でも国民学校とよばれていた〕先生をしていたというのです。「学校の先生がどうしてこんなところにやってきたのか」と聞くと、彼女はだまされて連れてこられたと語っているのです。これは誘拐です。

その女性の話によると16、7歳の娘が8名いて、「この商売は嫌だと泣いています。助かる方法はありませんか」とこの読売新聞記者に相談します。考えた末に、「憲兵隊に逃げ込んで訴えなさい」「これらの少女たちが駆け込めば何か対策を講じてくれるかも知れない。或はその反対に処罰されるかもしれない。しかし、今のビルマでは他に方法はあるだろうか」と彼は答えます。

この少女たちは憲兵隊に逃げ込んで救いを求め、憲兵隊でも始末に困ったが、抱え主と話し合って結局8名の少女が将校クラブに勤務することになったというのです。その後少女たちがどうなったのか。この少女たちは朝鮮に送り帰されていないようです。国民学校の元先生はどうなったのでしょうか。そのまま慰安所に入れられており、解放されていません。連れて行った業者も逮捕されていません。こういう状況がまかり通っていたのです。

第3航空群燃料補給廠の通訳としてシンガポールにいた永瀬隆さんは、次のように語っています。

私は朝鮮人の慰安婦に日本語を三回くらい教えましたが、彼女たちは私が兵隊ではないのを知っていたので、本当のことを話してくれました。

「通訳さん、実は私たちは国を出るとき、シンガポールの食堂でウェイトレスをやれと言われました。そのときにもらった百円は、家族にやって出てきました。そして、シンガポールに着いたら、慰安婦になれと言われたのです。」

    彼女たちは私に取りすがるように言いました。しかし、私は一介の通訳として軍の権力に反することは何もできません。彼女たちが気の毒で、なにもそんな嘘までついて連れてこなくてもいいのにと思いました。(青山学院大学プロジェクト95編『青山学院と出陣学徒』私家版、東京都)

  これは、誘拐と人身売買が重なっているケースですね。

畑谷好治元憲兵伍長は、中国東北の琿春の慰安所に入れられた朝鮮人女性たちの身上調査をしていますが、その時のことを次のように回想しています。

私は少し横道に逸れた質問であったが、「どんな仕事をするのか知っているのか」と聞いてみたところ、ほとんどが、「兵隊さんを慰問するため」「私は歌が上手だから兵隊さんに喜んでもらえる」云々と答え、兵隊に抱かれるのだということをはっきり認識している女は少なかった。……女たちは、慰安所の主人となる者か、あるいは女衒から貰った前借金を親に渡し、また、親が直接受取り、家族承知の上で渡満してきたもので、正当な契約書があったか、否かは定かではなかったが、誰もが例外なく、「早く前借金を返し、お金を貯めて親兄弟に送金するのだ」と語ってくれた。(畑中好治『遥かなる山河茫々と』私家版、京都市)

  これも、誘拐と人身売買がかさなったケースといえるでしょう。

朝鮮の女性たちが、誘拐か人身売買で連行されたことは秦郁彦さんも認めています。秦さんの著書『慰安婦と戦場の性』(新潮社・1999年)では、彼が「信頼性が高いと判断してえらんだ」元軍人などの証言が9例あげられています。4例が朝鮮人女性のケースですが、3例が誘拐、1例が人身売買です(ほかに日本人女性の誘拐が2例、略取が1例、ビルマでの未遂が1例、シンガポールでの募集が1例)。

そのうち、ひとつを紹介しますと、鈴木卓四郎元憲兵曹長は、南寧の慰安所の若い朝鮮人業者(地主の次男坊だった)から「契約は陸軍直轄の喫茶店、食堂」と聞いて地元の小作人の娘を連れて来たと聞いています。この青年は「<兄さん>としたう若い子に売春を強いねばならぬ責任を深く感じているようだった」と述べていますので、業者もだまされたというケースです。これは軍がだました誘拐ということになります。

なお、朝鮮で軍・官憲による暴行・脅迫をもちいた連行(略取)があったかどうかですが、被害者の証言はかなりの数あります。これを裏づける他の文書・記録や証言はいまのところ、見つかっていません。しかし、1件もなかったということを証明する証拠もありません。

1941年、対ソ戦準備のために関東軍特種演習(関特演)という名目で、陸軍の大動員が行われます。この時、2万人の「慰安婦」を徴募するという計画がたてられ、多数の女性が朝鮮から動員されます。この時集められた人数は、千田夏光さんが原善四郎関東軍参謀から聞いたところでは8千人、関東軍参謀部第3課兵站班にいた村上貞夫さんの証言では3千人くらいだったということです(村上さんから千田夏光氏への手紙、VAWW-NET Japan編『日本軍性奴隷制を裁く 2000年女性国際戦犯法廷の記録』3巻、緑風出版、所収)。

そうだとすれば、かつて秦郁彦さんがいっていたように、「結果的には娼婦をふくめ八千人しか集まらなかったが、これだけの数を短期間に調達するのは在来方式では無理だったから、道知事→郡守→面長(村長)のルートで割り当てを下へおろしたという。……実状はまさに「半ば勧誘、半ば強制」(金一勉『天皇の軍隊と朝鮮人慰安婦』)になったと思われる」(秦『昭和史の謎を追う』下巻、文藝春秋、1993年)という事態があった可能性があります。関東軍・朝鮮軍・朝鮮総督府の資料は多くが焼却され、ほとんど残っていませんが、関係者の資料が出れば、はっきりするかもしれません。これは今後の究明をまたなければなりません。

2-1-1a 史料 戦時情報局資料 誘拐

戦時情報局資料

2 暴行・脅迫による連行はなかった?

安倍晋三首相は、「官憲が家に押し入っていって人を人さらいのごとく連れて行く」という「強制性」はなかった、といっています(200735日参議院予算委員会)。また、橋下徹大阪市長も、「慰安婦」が「軍に暴行脅迫を受けて」連れてこられたという証拠はないといっています(2012821日記者会見)。ほんとうにそうでしょうか?

 

日本の植民地であった朝鮮・台湾のついては別のQ&Aをみてください。中国・東南アジア・太平洋地域では、軍・官憲が暴行・脅迫により連行した事例が数多く確認されています。代表的なケースを見てみましょう。

 

1 中国については、山西省の盂県でのケースが裁判になり、その具体的な様相は岡山大学の石田米子名誉教授と内田知行大東文化大学教授により、『黄土の村の性暴力』(創土社)の中で実態が解明されています。これは現地にいた日本軍の小部隊が地元の住民を連行してきて、一定期間監禁・レイプするというものですが、被害女性からの聞取りだけでなく、現地の住民の証言も数多く集め、被害の実態を深く解明することに成功しています。

 

これは3件の裁判になりました。請求は棄却されましたが、裁判所で事実認定がなされています。その概要をみるとつぎのようになります。まず、中国人「慰安婦」損害賠償請求事件の第1次訴訟の東京高裁判決(2004728日)です。東京高裁は、つぎのように認定しています。

 

八路軍が一九四〇年八月に行った大規模な反撃作戦により、日本軍北支那方面軍は大損害を被ったが、これに対し、北支那方面軍は、同年から一九四二年にかけて徹底した掃討、破壊、封鎖作戦を実施し(いわゆる三光作戦)、日本軍構成員による中国人に対する残虐行為も行われることがあった。このような中で、日本軍構成員らによって、駐屯地近くに住む中国人女性(少女も含む。)を強制的に拉致・連行して強姦し、監禁状態にして連日強姦を繰り返す行為、いわゆる慰安婦状態にする事件があった。

このように、中国山西省の李秀梅さんら4名の女性が日本軍部隊に連行され、監禁・強姦されたことを明確に認定しているのです。

 

つぎは、第2次訴訟の東京地裁判決(2002329日)・東京高裁判決(2005318日)です。東京地裁は、1942年、日本兵と清郷隊(日本軍に協力した中国人武装組織)が集落を襲撃し、山西省の原告郭喜翠さんと侯巧蓮さんを、暴力的に拉致し、監禁・輪姦した(郭さんはその後2回拉致・監禁・輪姦された)と認定しています。また、東京高裁は、この認定を踏襲しています。2007427日、最高裁判所は原告による上告を棄却しましたが、日本兵と清郷隊による暴力的な拉致と監禁・輪姦の事実は認定しています。

 

3番目は、山西省性暴力被害賠償等請求事件の東京地裁判決(2003424日)と東京高裁判決(2005331日)です。東京地裁は、山西省の万愛花さんら10名の女性の被害事実について、1940年末から1944年初めにかけての性暴力被害の状況をほぼ原告の主張通りに認定しました。また、東京高裁は、この認定を踏襲しています。

 

海南島戦時性暴力被害賠償請求事件の東京高裁判決(2009326日)も、8名の女性が日本軍に監禁・強姦された事件について「軍の力により威圧しあるいは脅迫して自己の性欲を満足させるために凌辱の限りを尽くした」と認定しています。

 

軍による略取ではありませんが、軍による誘拐のケースについては、東京裁判の判決があります。これは中国の事例について、つぎのように述べています。

 

桂林を占領している間、日本軍は強姦と掠奪のようなあらゆる種類の残虐行為を犯した。工場を設立するという口実で、かれらは女工を募集した。こうして募集された婦女子に、日本軍隊のために醜業を強制した。

これは、軍による誘拐ということになります。

 

2 インドネシアでは、多くの事例があげられます(以下、「日本占領下オランダ領東印度におけるオランダ人女性に対する強制売春に関するオランダ政府所蔵文書報告書」によります。その翻訳は梶村太一郎ほか編『「慰安婦」強制連行』株式会社金曜日に収録されています)。

 

まず、第一は、スマラン慰安所事件です。この事件は19442月、スマラン近郊の三つの抑留所から、すくなくとも24名の女性たちがスマランに連行され、売春を強制されたというものです。その後、逃げだした2名は警官につかまり、連れ戻されます。1名は精神病院に入院させられ、1名は自殺を企てるところまで追い込まれます。1名は妊娠し、中絶手術を受けています。

 

2は、マゲランのケースです。19441月、ムンチラン抑留所から、日本軍と警察が女性たちを選別し、反対する抑留所住民の暴動を抑圧して連行したというものです。その一部は送り帰され、替わりに「志願者」が送られます。残りの13名の女性は、マゲランに連行され、売春を強制されたと書かれています。

 

3は、19444月、憲兵と警察がスマランで数百人の女性を逮捕し、スマランクラブ(軍慰安所)で選定を行い、20名の女性をスラバヤに移送したというケースです。そのうち17名がフローレス島の軍慰安所に移送され、売春を強制された、と記されています。

 

4は、19438月、シトボンドの憲兵将校と警察が4人のヨーロッパ人女性に出頭を命じたというケースです。女性たちはボンドウオソのホテルにつれて行かれて2日間強姦され、そのうち、2名は自殺を図った、と記されています。

 

5は、194310月、憲兵将校が上記2名の少女と他の4名の女性をボンドウオソのホテルに連行したというケースです。他に8名が連行された、と記されています。

 

6は、マランのケースです。ある女性の証言によると、マランの憲兵が3名のヨーロッパ人女性を監禁して、売春を強いた、と記されています。

 

7は、未遂事件ですが、194312月、ジャワ島のソロ抑留所から日本軍が女性たちを連行しようとしたが、抑留所のリーダーたちによって阻止された、と記されています。

 

第8は、パダンのケースで、1943年11月頃から、日本軍はパダンの抑留所から25名の女性をフォートデコックに連行しようとしたが、抑留所のリーダーたちが断固拒否したというものです。しかし、11名が抑留所よりはましだと考えて「説得」に応じた、と記されています。この最後のケースも、食料の極端な不足など、抑留所の劣悪で絶望的な環境を考えると、「自由意志」によるとはいいがたいものがあります。

 

第9は、ジャワ島プロラのケースで、少なくとも15人の女性たちが2軒の家に監禁され、日本軍人により強姦された、というものです。

 

本表紙 慰安婦強制連行 オランダ軍法会議資料

本表紙 慰安婦強制連行 オランダ軍法会議資料

以上は、オランダ政府が、自らが持っている資料に基づいて、少なくともこういうケースがあったと述べているものです。白人の被害を中心に記述し、また、強制の範囲を非常に狭く取って解釈をしているようですが、それでも、軍が直接手を下した略取に限っても、これだけの事例を実際に挙げているのです。

 

つぎに、インドネシア人の被害のケースを見てみましょう。1945年3月以降、海軍第25特別根拠地隊がアンボン島で地元の女性たちを強制連行・強制使役したことを、同隊附の主計将校だった坂部康正氏は、つぎのように回想しています。

 

M参謀は……アンボンに東西南北四つのクラブ(慰安所)を設け約一〇〇名の慰安婦を現地調達する案を出された。その案とは、マレー語で、「日本軍将兵と姦を通じたるものは厳罰に処する」という布告を各町村に張り出させ、密告を奨励し、その情報に基づいて現住民警察官を使って日本将兵とよい仲になっているものを探し出し、決められた建物に収容する。その中から美人で病気のないものを慰安婦としてそれぞれのクラブで働かせるという計画で、我々の様に現住民婦女子と恋仲になっている者には大恐慌で、この慰安婦狩りの間は夜歩きも出来なかった。

 

本表紙 黄土の村の性暴力

本表紙 黄土の村の性暴力

日本の兵隊さんとチンタ(恋人)になるのは彼等も喜ぶが、不特定多数の兵隊さんと、強制収容された処で、いくら金や物がもらえるからと言って男をとらされるのは喜ぶ筈がない。クラブで泣き叫ぶインドネシヤの若い女性の声を私も何度か聞いて暗い気持になったものだ。(海軍経理学校補修学生第十期文集刊行委員会編『滄溟』同会)

 

アンボン島で軍による略取があったことは明らかでしょう。

 

もうひとつあげると、極東国際軍事裁判の証拠資料があります。その中から一例を挙げますと、インドネシアのモア島で指揮官だったある日本陸軍中尉は、住民が憲兵隊を襲ったとして住民を処刑し、その娘たち5名を強制的に「娼家」に入れたことを認めています。以下は陳述書の一部です(Doc. No.5591、内海愛子ほか編『東京裁判――性暴力関係資料』現代史料出版)。

 

問 或る証人は貴方が婦女達を強姦し、その婦人達は兵営へ連れて行かれ日本人達の用に供せられたと言ひましたが、それは本当ですか。

答 私は兵隊達の為に娼家を一軒設け、私自身も之を利用しました。

問 婦女達はその娼家に行くことを快諾しましたか。

答 或者は快諾し、或る者は快諾しませんでした。

問 幾人女がそこに居ましたか。

答 六人です。

問 その女達の中幾人が娼家に入る様強いられましたか。

答 五人です。

問 どうしてそれ等の婦女達は娼家に入る様強ひられたのですか。

答 彼等は憲兵隊を攻撃した者の娘達でありました。

3 フィリピンで名乗り出た女性たちの圧倒的多数は軍による略取(監禁・レイプ)のケースでした。代表的な例は、マリア・ロサ・ルナ・ヘンソンさんの証言です。大阪大学の藤目ゆき准教授が丁寧な聞き書きをして、『ある日本軍「慰安婦」の回想』(岩波書店)という本にまとめています。これによればヘンソンさんは、道路を歩いていて日本軍に略取され、一定期間監禁・レイプされています。フィリピンでは、こういうケースが非常に多くあります。

4 北朝鮮への拉致とどう違うか?

安倍首相は2006年から翌年にかけての首相時代に、「官憲が家に押し入っていって人さらいのごとく連れていくという強制性はなかった」(2007.3.5参議院予算委員会)、「この狭義の強制性については事実を裏づけるものは出てきていなかったのではないか」(2006.10.6衆議院予算委員会)などと、「狭義の強制」がなかったと言い張ることによって日本軍「慰安婦」制度を弁護してきました。安倍首相の発言は何重にも問題を歪曲するものでしかありませんが、この理屈で言うと、北朝鮮による拉致はどのようになるでしょうか。

 

安倍首相の定義を北朝鮮の拉致問題にあてはめると、「官憲が家に押し入っていって人さらいのごとく連れて」行った例は確認されていませんので、拉致された人で強制された人はいなかったという結論になってしまいます。横田めぐみさんの場合も、「家に押し入って」連れ去られたわけではありません。

 

また日本軍の公文書で裏付けられていないという理屈を適用すると、北朝鮮の公文書で拉致を裏付けるものが出ていないのですから、それが明らかになるまでは拉致が事実かどうかは認定できないということにもなってしまいます。

 

北朝鮮によって拉致されたと日本政府によって認定された人のなかには、横田めぐみさんのように、直接の暴力によって力ずくで連行された人もいれば、神戸市の飲食店店員だった田中実さんのように、「甘言により海外へ連れ出された」(警察庁発表)ケースの人もいます。この田中実さんの件について、警察は、「複数の証人等から、同人が甘言に乗せられて北朝鮮へ送り込まれたことを強く示唆する供述証拠等」が入手できたとしてそれらを根拠に拉致されたと認定しています。

 

2-1-4a  史料 警察庁発表-1 2-1-4a  史料 警察庁発表-2

 

 

ここでは、北朝鮮の公文書によって裏付けられていませんし、供述証拠という証言によって拉致が認定されています。また力づくで連行されたとは認定されておらず、「甘言」、つまりうまい言葉で騙されたということですが、それでも拉致に変わりはありません。この警察の認定の仕方は当然のことです。

 

もし安倍首相が、拉致被害者の家族に対して、北朝鮮の公文書で裏付けられないので拉致されたとは認定できないとか、あなたの家族が北朝鮮にいるのは「狭義の強制」によるものではないと言ったとすれば、どうなるでしょうか。

 

これだけでも安倍首相の認識はとんでもないことがわかると思います。力ずくで連れて行っても、甘言で騙して連れて行っても、ともに拉致であり、犯罪です。安倍首相らの理屈は、単なるダブルスタンダード=二枚舌でしかないでしょう。

5 強制を裏付ける文書はないのか?

ビルマ・マンダレーの日本軍文書(ビルマでイギリス軍に押収されてイギリスに持ち帰って保存しているのを、関東学院大学林博史教授が見つけて紹介したもの)

「日本軍によって女性がその意思に反して売春を強制されたことをはっきり示した歴史文書」はない」 (「THE FACTS」2007.6.14)などという言い方をする人たちがいます。はたしてそうでしょうか。

 

強制をめぐる問題については別の項目で取り上げますが、ここでは資料としての文書、という問題に限定して考えてみましょう。

 

まず事実を証明する資料という場合、公文書だけが資料ではありません。個人の文書や証言も立派な資料であって公文書が特に重要な資料であるということはありません。どのような資料であれ資料批判が必要です。たとえばその資料は、誰が、いつ、誰に対して、何の目的で作ったものか、などを吟味してから利用します。たとえば公文書の場合、国家(あるいはその問題を担当している政治家や官僚自ら)を正当化するために都合の悪いことは隠し、美辞麗句を使って、もっともらしく書いていることがしばしばあります。
「慰安婦」にされた女性たちがどのように集められ、慰安所でどのような扱いを受けたのか、当の元「慰安婦」の女性たちの証言や元兵士の証言がたくさんあります。

 

かりに公文書に限定してみた場合ですが、「慰安婦」にするために女性を無理矢理でもいいから連れて来いというような文書は出てきていません。その理由の一つは、あとで問題になるような文書は作らないということがあります。命令や指示の文書は抽象的なことが多く(お役所の文書は今でもそうですが)、具体的なことあるいは大事なことは口頭で説明されることがよくあります。公文書という性格から慰安所制度の汚い本質はなかなか出てこないということが指摘できるでしょう。

 

ビルマ・マンダレーの日本軍文書(ビルマでイギリス軍に押収されてイギリスに持ち帰って保存しているのを、関東学院大学林博史教授が見つけて紹介したもの)

官房長官として河野談話を出した河野洋平氏は朝日新聞のインタビューに答えて、(朝日1997年3月31日)、「本人の意思に反して集められたことを強制性と定義すれば、強制性のケースが数多くあったことは明らかだった」。「こうした問題で、そもそも「強制的に連れてこい」と命令して、「強制的に連れてきました」と報告するだろうか」。「当時の状況を考えてほしい。政治も社会も経済も軍の影響下にあり、今日とは全く違う。国会が抵抗しても、軍の決定を押し戻すことはできないぐらい軍は強かった。そういう状況下で女性がその大きな力を拒否することができただろうか」と語っています。非常にまっとうな、良識ある理解でしょう(良識というよりも、常識的であるだけなのですが、常識的であることが、いまの日本では良識があると思われるほど、日本社会が異常なのかもしれません)。

 

もう一つは日本軍や政府の重要な資料は敗戦直後に大量に処分されてしまったということです。陸軍の場合、1945年8月14日から文書の焼却が始まり、すべての部隊にも焼却命令が出されました。警察を管轄していた内務省も同じように文書を焼却するように各府県に指示しています。
たとえば「慰安婦は商行為」だと言っていた奥野誠亮元法務大臣は、敗戦の時に内務省の事務官でしたが、戦後におこなわれた座談会で次のように語っています。

 

 「公文書は焼却するとかいった事項が決定になり、これらの趣旨を陸軍は陸軍の系統を通じて下部に通知する、海軍は海軍の系統を通じて下部に通知する、内政関係は地方統監、府県知事、市町村の系統で通知するということになりました。これは表向きには出せない事項だから、それとこれとは別ですが、とにかく総務局長会議で内容をきめて、陸海軍にいって、さらに陸海軍と最後の打ち合わせをして、それをまとめて地方総監に指示することにした。十五日以降は、いつ米軍が上陸してくるかもわからないので、その際にそういう文書を見られてもまづいから、一部は文書に記載しておくがその他は口頭連絡にしようということで、小林さんと原文兵衛さん、三輪良雄さん、それに私の四人が地域を分担して出かけたのです。」(自治大学校史料編集室『山崎内務大臣時代を語る座談会』1960年)

 

つまり、公文書の焼却をおこなうために地方をまわったこと、しかもそういう指示を文書で出すと「まずい」ので、口頭でおこなったことを座談会でしゃべっています。

 

2-1-5c 戦後、日本政府は米軍向けの慰安施設を設けますが、そのときに東京でのRAA開設を担当した警視庁経済警察部長は、実際に慰安施設作りを部下の保安課長や係長に命令した際に、「これは警察本来の職務とは違うので、すべて口頭の命令でやること」「書面を残すな」と強く念を押しました。その係長は、この問題にかぎらず、「売春関係はほとんど口頭の命だった」と語っています(ドウス昌代『敗者の贈物』)。

 

官僚組織が―軍隊というのは典型的な官僚組織ですが―、あまり表沙汰にしたくないことをやるときには、文書を残さずに口頭で処理するというのは、ごく普通のことです。
いわば証拠隠滅の実行犯が、「強制」を示す文書がないといって開き直っているのが現状です。

 

こうした組織的な文書廃棄のためにたくさんの公文書が失われました。日本軍関係の文書で現在私たちが見ることができるものは、一部の軍人が焼かずに密かに隠して取っておいたものか、米軍や英軍が戦場などで没収したものであって、全体のごく一部にすぎません。
公文書は重要な資料ではありますが、あくまでも資料の一部にすぎず、現実の一側面を示すにすぎません。それだけでなく国家あるいは官僚や軍幹部にとって都合の悪い、あるいは見たくない問題は隠されています。

 

と同時に都合の悪いことが書いてある場合には、文書があっても公表しないということがあります。特に日本の場合、情報公開法ができたので現用文書(現在、官庁で使用している文書)についてはある程度、わかるようになりましたが、歴史文書についてはよくわからない状況があります(以前よりはかなり改善されてきていますが)。たとえば、当初の政府の調査では関係資料がないといっていた警察庁でしたが、1996年12月に警察大学校から重要な資料で出てきました。こうした史料はまだまだあるはずです。
民主主義国では30年、あるいは一定の年数をすぎた公文書は公開するのが原則となっています。当然日本でも戦前戦中ならびに戦後処理に関わる文書はもうすべて公開すべきです。

6 自発的に「慰安婦」になったのか?


「慰安婦」被害者の女性たちは、自発的に「慰安婦」になったのではありません。日本軍に直接連行されたケース、日本軍が占領した村の代表者に女性を差し出すよう命令した結果、差し出されて「慰安婦」にさせられてしまったケース、「工場で働かないか」などという,うその勧誘にだまされて「慰安婦」にさせられてしまったケース、貧乏だったため、親に売られて「慰安婦」にさせられてしまったケースなどがほとんどです。そして、いずれのケースにしても、慰安所では軍の許可なく慰安所を抜け出すことはできず、本人の意思に反して性奴隷状態を強いられました。

 

城田すず子『マリヤの賛歌』

城田すず子『マリヤの賛歌』

貧乏のため、親に売られて芸妓や娼妓や芸妓となり、その後、借金が増額してしまったところを、店主や、軍の命令を受けた業者たちの勧誘を受けて日本軍「慰安婦」になった女性たちもいます。 つまり、もともと売春をしていた女性たちが、「慰安婦」になるとわかっていて日本軍「慰安婦」になったケースです。日本人の「慰安婦」被害者にしばしばみられることがわかっています。しかし、このケースの場合も、「自発的に「慰安婦」になった」と言うことはできません。なぜならば、当時の売春する女性たち、つまり娼妓や芸妓、酌婦たちは皆、前借金にしばられて廃業の自由のない状態で売春を強要され続けていたからです。もともと奴隷的状態にいた女性たちが、他に借金を返済する道がなく、しかたなく「慰安婦」になる道を選んだに過ぎないからです。

 

いくつかの事例を見てみましょう。

①1925年に夕張に生まれた山内馨子(菊丸)さんは父の仕事の失敗による貧困のなか、10歳で東京の芸妓置屋に300円の前借金で売られました。借金は増え続け、1942年、「慰安婦」になれば軍が前借金の肩代わりをしてくれると聞き、4000円の借金返済目的と「死ねば靖国神社に入れてもらえる」との思いの中「慰安婦」に応募、「トラック島」で将校専用の「慰安婦」にさせられました(『週刊アサヒ芸能』1971年8月12日、1973年8月2日、『別冊歴史読本 戦記シリーズ 第25巻 女性たちの太平洋戦争』新人物往来社、広田和子『証言記録 従軍慰安婦・看護婦 戦場に生きた女の慟哭』同上、1975年)。

 

②鈴本文さんは1924年に志摩半島の村で生まれ、7歳で身売りされて芸者として働きましたが、2000円の借金を解消するため、18歳のとき1年契約で「トラック島」の慰安所に行きました(「告白!戦争慰安婦が生きてきた忍従の28年 長く暑い夏に放つ三代ドキュメント いまだ“後遺症”を背負い報われることのない戦争犠牲者たち」『週刊アサヒ芸能』1973年8月12日、前掲『証言記録 従軍慰安婦・看護婦 戦場に生きた女の慟哭』)。

 

③1921年に東京で生まれた城田すず子さんは、父親の事業の失敗で女学校時代に芸者屋に売られました。借金返済のため、17歳で台湾の膨湖島へ渡り、その後、サイパン、「トラック島」、パラオなどへ行き、慰安所で働いたのです(城田すず子『マリヤの賛歌』日本キリスト教団出版部、1971年7月)。

 

いずれのケースも、前借金に縛られて廃業の見込みのない売春生活を強いられているところへ、日本軍「慰安婦」になると、借金返済できて自由になれると勧誘され、「慰安婦」になるしか選択の余地がないと思わされたなかで「慰安婦」となったことが見て取れます。また、「死んだら靖国神社へ入れてもらえる」「お国の役にたてる」といったナショナリズムを喚起されたことも原因であることがわかります。芸者や娼妓・酌婦の女性たちは、苦しい仕事をさせられただけでなく、世間から厳しい差別を被っていたために、国の役にたてる、国に認められるということは、人一倍魅力的に感じられたことでしょう。

日本軍は、このように社会の底辺にいた女性たちの苦しみにつけこんで「慰安婦」に徴集したのです。それを自発的に「慰安婦」になったとみることはできません。しかも、強調しておかなければならないことは、「慰安婦」になる前に彼女たちが強いられていた廃業の見込みのない売春生活(事実上の性奴隷状態)とそれを認めていた公娼制度は、当時の日本においても、また国際社会の基準においては一層、すでに許されないものになっていたのです。つまり、公娼制度下の身売りの慣習が禁止されており、別の職業選択の道が存在していたならば、彼女たちは「慰安婦」になることもなかったでしょう。国際的に禁止されていたにもかかわらず,普段から,貧困な女性たちを性奴隷状態に置いていた日本社会と,それを黙認し続け,戦時に利用した日本軍と日本政府の責任が問われているのです。

 

 

2 慰安所における実態

1 文書がないから事実(被害)を証明できないか?

 このQから直ぐ思いつくのは、辻元議員の質問主意書に対する前安倍内閣の答弁書です。それには「(1993年の政府)調査結果の発表までに政府が発見した資料の中には、軍や官憲によるいわゆる強制連行を直接示すような記述も見当たらなかった」とあります。(2007・3・16)。更に安倍総理は国会答弁で、①軍や官憲が「家に押し入って人さらいのごとく」連行する狭義の強制性と、②「行きたくないけれどもそういう環境の中にあった、結果としてそういうことになったことについての関連があった」という広義の強制性に分け、①はそれを示す文書が無いから事実ではない。このことが「重要」で、米下院決議は事実誤認に基づいている。従って決議があがっても謝罪しない、と答弁しています(2006・10・6衆・予算委、2007・3・5参・予算委)。つまり、事実は、貧しい家計のためにお金を稼ごうと「慰安婦」になった「商行為」であり、国に責任はないという認識に立っています。

(下線は筆者。以下も同様。)

 

 この「文書が無いから強制連行の事実が無い」という論理は多くの観点から反論できます。例えば、

1、多くの文書は、敗戦直後焼却処分された。

2、そもそも家に押し入って拉致せよというような公文書は作らない。

3、政府発見の資料の中には記述が無いと言いながら、実は他に戦後のバタビア裁判等の資料があり、安倍総理もオランダ人に対しては軍による強制連行を認めている(2007・3・26参・予算委。他にも東京裁判、オランダ政府の調査報告書等がある)。

4、事実を証明する証拠は文書だけではないし、文書に残らない(なじまない)事実は証言によってこそ明らかにされる(オーラルヒストリーの重要性)。また、文書の方が価値が高いということもない。裁判においては、書証も証言も同様に証拠として扱われ、どちらもその内容に信憑性があるかどうかの吟味を経て事実認定に使われる。

5、そもそも、この問題の本質は募集時の強制連行ではなく、慰安所での性行為の強制(性奴隷化)であり、その慰安所制度を展開した日本の責任問題である、等です。

 

ここでは、4と5 について日本の裁判の判決を中心に具体的に考えていきましょう。

4では、まず被害者の証言が重要です。提訴された10件の「慰安婦」裁判のうち8件の判決では、原告(高裁なら控訴人)の証言(陳述や供述)が他の証拠と照らして厳密に判断されて、一人ひとりの被害事実が明確に認定されています。

(なお、賠償請求は認められませんでしたが、事実認定は確定しています。)

 

以下、判決で示された事実認定を紹介しましょう。

なおここで紹介する裁判の判決文は、坪川宏子・大森典子編著『日本の司法が認定した「慰安婦」』かもがわブックレット、2011年、に掲載されていますので、くわしくはそのブックレットをご覧ください。

 

【1】狭義の強制連行を事実認定している判決

(1)中国人「慰安婦」損害賠償請求(第一次)裁判  東京高裁判決 2004・12・15)

  

第3 当裁判所の判断

1 本件各行為及びその背景事情について

証拠(甲3ないし11…以下略、当審における証人近藤、同石田、原審における控訴人李本人、同控訴人周本人、原審及び当審における劉本人)及び弁論の全趣旨によれば、以下の事実が認められる。(一部公知の事実を含む。)

(1)(前略) なお、日本軍が占領した地域(注:山西省太原)には、日本軍人の強姦事件を防ぐ等の目的で、「従軍慰安所」が設置され、日本軍の管理下に女性を置き、日本軍将兵や軍属に性的奉仕をさせた。八路軍が1940年8月に行った大規模な反撃作戦により、日本軍北支那方面軍は大損害を被ったが、これに対し、北支那方面軍は、同年から1942年にかけて徹底した掃討、破壊、封鎖作戦を実施し(いわゆる三光作戦)、日本軍構成員による中国人に対する残虐行為も行われることがあった。このような中で、日本軍構成員によって、駐屯地近くに住む中国人女性(少女も含む)を強制的に拉致・連行して強姦し、監禁状態にして連日強姦を繰り返す行為,いわゆる慰安婦状態にする事件があった。

これに続く項で、控訴人4人の一人ひとりの拉致・連行が認定されています。劉面換さんの例をあげます。

 

(3)控訴人劉の被害事実等

控訴人劉は、…3人の中国人と3人の武装した日本軍兵士らによって無理やり自宅から連れ出され、銃底で左肩を強打されたり、後ろ手に両手を縛られるなどして抵抗を排除された上、進圭社にある日本軍駐屯地に拉致・連行され、ヤオドンのなかに監禁された。当日…多数の日本軍兵士らによって強姦された。(以後も続く)

 

ほか3件の中国人裁判(中国人第二次裁判、山西省裁判、海南島裁判)でほとんどすべての被害者について、安倍総理や右派が否定する、軍による拉致・監禁・連日の強姦(いわゆる慰安婦状態)という記述で、狭義の強制連行が事実認定されています。

占領地(中国・フィリピン・インドネシア等々)の場合はそれがほとんどです。(フィリピン・台湾の裁判では事実認定をしませんでしたが、被害事実を否定したのではなく、損害賠償の判断に事実認定は不必要と判断したためです。)

 

(2)では、植民地朝鮮の場合は、どうでしょうか?

朝鮮の場合も、狭義の強制連行が認定されています。

 

アジア太平洋戦争韓国人犠牲者補償請求訴訟 東京高裁判決 (2003・7・22)

 

(二)控訴人ら各自の事実経過について

控訴人らと被控訴人(国)との間において争いがない事実に証拠(各控訴人ごとに末尾に掲記)及び弁論の全趣旨を併せると次の事実が認められる。

(2)軍隊慰安婦関係の控訴人ら

ウ、控訴人盧清子は、…数え17歳の春、10人位の日本人の軍人に、手足をつかまれて捕えられ、トラックと汽車を乗り継がされ、オオテサンの部隊の慰安所に連れて行かれた。…(甲47の2)

カ、控訴人金福善は、…昭和19年夏、日本人と朝鮮人が来て「日本の工場に働きに行けば、一年もすれば嫁入り支度もできる」と持ちかけられ、断ったものの、強制的にラングーンに連れて行かれ、慰安所に入れられた。…(甲51の1ないし3、控訴人金福善)

しかし、一般的には、植民地では就労詐欺・甘言による場合が多く、多くは海外へ連行されています。

 

 

【2】詐欺・甘言による連行を認定した判決

アジア太平洋戦争韓国人犠牲者補償請求訴訟 東京高裁判決 (2003・7・22)

エ、控訴人金田きみ子こと朴福順は、…数え17歳の時、「日本人の紹介するいい働き口がある」と聞いて行ったところ、日本人と朝鮮人に、…を経て連れて行かれた棗強、石家荘、…など中国各地の慰安所において、一日10ないし30人の軍人に性行為を強要された。…(甲49の1ないし3,7,11、控訴人金田)

 

釜山従軍慰安婦・女子勤労挺身隊公式謝罪等請求訴訟、山口地裁下関支部

いわゆる関釜裁判(1998・4・27)

(三)原告李順徳は、…昭和12年、満17,8歳のころ、…畦道で…朝鮮人の男から、「…履物もやるし、着物もやる。腹一杯食べられる所に連れて行ってやる」と声をかけられた。家が貧しく…ついて行くことに決めた。同女が「父母に挨拶してから行きたい」と懇請したにもかかわらず、その男は「時間がない。急ごう」と言って、同女の手を引っ張って行った。…恐ろしく恥ずかしくて…泣きながら連れて行かれた。その途中、男の前を歩かされ…旅館に連れて行かれた。同旅館の部屋は、外から鍵がかけられ、…同じような年齢の娘たちが14・5人おり、いずれもどこに何のために連れて行かれるのか分からず泣いていた。…日本軍の軍人3人が同女らを…列車に乗せて…上海駅まで連れて行った。……解放の時まで約8年間、毎日朝9時から、平日は8,9人、日曜日は17,8人の軍人が、小屋の中で同女を強姦し続けた。…〔以下略〕

 

さて、右派は狭義の強制連行だけにこだわっていますが、狭義の強制と広義の強制を区別することは全く意味がありません。

例えば、上記の事実認定を読むと、甘言による連行も実際は拉致と紙一重と分かります。つまり、大騒ぎになる拉致より貧しい少女を騙す方が簡単であり、一旦連れ出したら即(そく)強制連行(部屋には鍵をかけ、列車では見張りを付け、逃げられない)という手口が分かり、より狡猾で組織的であるといえるでしょう。

また、根本的に、拉致も詐欺も本人の意思に反した連行であり、当時の国内法(刑法)や国際法(醜業条約等)では、どちらも区別なく同罪とされています。(別項目で詳説)

また、たとえ、軍でなく業者だ(広義)といっても、業者は日本軍が要請し、選定した業者であり、海外移送には日本軍(渡航許可)と政府(身分証明書発行)が直接に関与していて、軍・国の責任は免れません。

 

次に、5、そもそも「この問題の本質は募集時の強制連行の有無ではなく、慰安所での性行為の強制(性奴隷化)である」については、いかがでしょうか。

端的な例として、元外交官、東郷和彦氏は以下のように書いています。

議論に参加したアメリカ人から言われたことは、世界がこの問題を見る目がどこにあるかを知るうえで、青天の霹靂だった。日本で強制連行の有無について繰り広げられる議論は、この問題の本質にとって全く無意味である。世界の大勢は誰も関心を持っていない。多くの米国人が考えるのは、自分の娘が慰安婦にされたらどう考えるか、という一点のみである。そしてゾッとする。これがこの問題の本質である。ましてや騙されて連れてこられ、気がついた時には拒否できないのでは、後は聞く耳を持たない。「強制連行」とどこが違うのか。女性の尊厳と権利を踏みにじることについては、過去のことであれ、現在のことであれ、少しでもこれを正当化したら、社会から総反撃を受けることになる」(『世界』2012・12月号、『歴史と外交』講談社現代新書より、ほぼ原文通り引用)

皆さんも自分に引き寄せて考えれば、同感ではないでしょうか。

 

判決では、慰安所での生活をどのように事実認定しているでしょうか。

3】慰安所での性行為の強制や暴力的な状況を認定した判決

(1)朴頭理さん (関釜裁判 下関判決) 以下「  」は判決原文。他は要約。

〔要約:数えで17歳の時、就労詐欺により台湾の慰安所に連行された。客を取れと言

われ驚き〕逃げようと考えたが、言葉も分からず道も分からず、頼れる人も知っている人もいないため、逃げることはできなかった。男と接したのはその時が初めてであり、乱暴な暴行を受け、軍人たちから強姦された。日本人の軍人が客の多数を占めていたので、慰安所において朝鮮語を使うことは暴力によって禁止されており、同女の呼び名も「フジコ」であった。同女は、1日に10人前後の…性交渉を強要された。休みは1か月に1日だけであり、自由な外出もできなかった。…食事は粗末であり、食べたい物を買う金もなく、あまりの空腹のため、…近くのバナナ園のバナナを取って食べ、…ひどく叩かれたこともある。同女は、台湾にいた5年間、慰安所の主人から金をもらったことはなく、位の高い軍人からもらうチップも慰安婦として身綺麗にしておくための化粧品を買える程度のものだった。…長年、性交渉を強いられたことにより、右の太股の下がパンパンに腫れ上がるという病気に罹り、その手術痕が現在でも残っている。

〔5年後、敗戦で帰国できた。以下略〕

 

(2)宋神道さん  在日韓国人裁判 東京地裁判決 (1999・10・1)

〔昭和13年、数えの17歳の時、騙されて中国の武昌の陸軍慰安所に連行され、〕

泣いて抗ったが〔無駄で、逃亡の度に〕殴る蹴るなどの制裁を加えられたため、否応なく軍人の相手を続けざるを得なかった。軍人が慰安所に来る時間帯は、兵士が朝から夕方まで、下士官が夕方から午後9時まで、将校がそれ以後と決められており、…連日のように朝から晩まで軍人の相手をさせられた。〔日曜日や通過部隊があるときは、〕数十人に達することもあった。軍人の中には、些細なことで激昂して原告に軍刀を突きつけたり、殴る蹴るの暴行を加えるものもあった。〔その刀傷痕や呼び名の金子の刺青痕、繰り返しの殴打によって右耳が聞こえないなど後遺症が残る。〕軍人は避妊用具の使用を義務付けられていたが、使用しない者もあったため、性病にかかり、妊娠する慰安婦もいた。〔宋さんも妊娠し、養子に出さざるを得なかった〕

 

(3)南二僕さん 山西省性暴力被害者損害賠償請求訴訟 東京地裁判決(2003・4・24)

                     長く詳しい事実認定なので、以下は要約です

南は、結婚して実家に戻っていた1942年、旧日本軍が作戦行動を実施した際、乙下士官が5・6人の部下と南の実家に押し入り、その場で強姦し、南を砲台近くの民家に拉致・軟禁した。南は乙下士官に専属的に強姦され続けた。両親が700銀元もの大金を日本軍に提供したが解放されなかった。纏足で走れないため逃亡は失敗し監禁された。意に反して彼の子供を出産、親戚はそのことで対日協力者として敵視し、実家に乱入して母と2人の弟を殺害した。約1年後、再び乙の後任の丙下士官の専属にさせられ、夜は砲台に連行されて連日、複数の日本兵に暴行され強姦され続けた。ある日、壁に穴をあけて逃げ出したが、怒った丙は実家に探しに来て生き残った弟を馬に縛り付けて引きずり回し大怪我を負わせ、家に火を放った。

日本軍が村を去ってようやく解放されたが、再婚しても子供が産めない体になったため養女を取った。また、被害者であるのに対日協力者とみなされて、社会から心身ともに迫害を受け、その苦痛と性暴力による婦人病の悪化などに堪えかねた後、1967年、首を吊って自殺するに至った。

フィリピンと台湾を除く35人の原告の事実認定は、一人ひとりの慰安所生活での強制性を具体的に認定しています。そればかりではなく、性暴力の被害の重層性と残酷さ(当時の性奴隷化はもちろん、戦後も家父長制社会からの蔑視・差別、今に続くPTSDなど幸福な一生を台無しにされた)を明確に認めています。海南島の被害者には、特に「破局的体験後の持続的人格変化」(人格と行動への深刻な障害)も認定しています。

ここにすべての例を挙げられないので、ぜひ、全「事実認定」をご一読ください。

 

では、この判決の事実認定は証言をどのように吟味し、判断してなされたのでしょうか。

4】被害者の証言を認定する根拠

 もちろん、他の証拠(当時の歴史背景・現場写真・文書資料・目撃証言・研究者証言等々)と照らし合わせるとともに、以下のように判決の中で述べられています。

 

 下関判決の例をあげます。

従軍慰安婦制度の実態及び慰安婦原告らの被害事実、

2、慰安婦原告らの被害事実

 〔明瞭詳細な事実の確定が不可能な証拠状態であるため〕ここではひとまず証拠(甲1、甲3ないし甲6、原告朴頭理、原告李順徳)の内容を摘記した上、末尾においてその証拠価値を吟味し、確実と思われる事実を認定することとする。

〔次にくる(一)(二)(三)は、原告3人の陳述・供述が摘記されている〕

(四)、慰安婦原告らの陳述や供述の信用性

〔慰安所の詳しい所在地や人物・部隊名特定など詳細は分からないが、〕いずれも貧困家庭に生まれ、教育も十分でなかった〔上に〕高齢に達していることを考慮すると、その陳述や供述が断片的であり、視野の狭い、ごく身近なことに限られてくるのもいたし方ないというべきであって、その具体性の乏しさのゆえに、陳述や供述の信用性が傷つくものではない。かえって、…原告らは、自らが慰安婦であった屈辱の過去を長く隠し続け、本訴にいたって初めてこれを明らかにした事実とその重みに鑑みれば、本訴における同原告らの陳述や供述は、むしろ、同原告らの打ち消し難い原体験に属するものとして、その信用性は高いと評価され、反証の全くない本件においては、これをすべて採用することができるというべきである。

 

別の例として「河野談話」の場合をあげましょう。談話には

 

…慰安婦の募集については、軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たったが、その場合も、甘言・強圧による等、本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり、更に、官憲等が直接これに加担したこともあったことが明らかになった。また、慰安所における生活は、強制的な状況の下での痛ましいものであった。…

 

と書かれています。「河野談話」は政府調査結果(各省庁・国会図書館・米国国立公文書館等々260件以上の資料、「慰安婦」・軍人・慰安所経営者・研究者からの聞き取りを対象)に基いています。河野洋平元官房長官は、次のように述べています。

半世紀以上も前の話だから、その場所とか、状況とかに記憶違いがあるかもしれない。だからといって、一人の女性の人生であれだけ大きな傷を残したことについて、傷そのものの記憶が間違っているとは考えられない。実際に聞き取り調査の証言を読めば、被害者でなければ語り得ない経験だとわかる。相当な強圧があったという印象が強い。」、「それはもう明らかに厳しい目に遭った人でなければ証言できないような状況説明が次から次へと出てくる。その状況を考えれば、この話は信憑性がある、信頼するに十分足りるというふうに、いろんな角度から見てもそう言えるということがわかってきました。」(デジタル記念館の基金に関わった人の回想、朝鮮日報「私の立場に変わりはない」2012・8・30他。他に当時の石原信雄官房副長官も同様な意見を述べています)

■以上、一般的に「文書が無いからその事実もない」という論理は成立せず、当然、「軍による狭義の強制連行を示す文書が無いからその事実はなく、従って商行為(売春婦)であり、従軍慰安婦はいなかった、日本に責任は無い、河野談話の見なおしを!」という議論は、歴史歪曲であり、被害者の人権を重ねて蹂躙するものです。何より日本の司法が、被害事実を明確に認定していることを一人でも多くの皆さんに知ってほしいと思います。

 

判決では、被害の事実認定だけではなく、加害の事実認定もしています。

【5】日本の加害事実を認定している判決

多くは、1993年8月4日、政府の二次調査発表の際、内閣外政審議室が出した発表文(調査結果のまとめ)をほぼ全面的に引用して、日本軍の慰安所制度の実態事実を認定しています(アジア太平洋、関釜、在日、海南島の各裁判)。

在日裁判(東京地裁判決・1999)で紹介します。   (高裁も地裁を引用して認定)

第三 争いがない事実など判断の前提として認定される事実

一 争いがない事実(資料に記載されていることが争いがない記載によって認められる事実を含む)

1 昭和7年…上海事変に際して、日本軍人による強姦事件が発生したことから、派遣軍参謀副長であった者の発案により、その頃その地に創設された海軍のものにならって、醜業を目的とするいわゆる従軍慰安所が設置された。…その頃から終戦時まで、長期に、かつ広範な地域にわたり慰安所が設置され、数多くの従軍慰安婦が配置された。当時の政府部内資料によれば、…慰安所開設の理由は、…日本軍人が住民に対し強姦などの不法な行為を行い、その結果反日感情が醸成されるのを防ぐ必要性があることなどとされていた。

2 …募集は、日本軍当局の要請を受けた経営者の依頼により、斡旋業者がこれに当たることが多かったが、…業者らがあるいは甘言を弄し、あるいは畏怖させるなど詐欺脅迫により本人たちの意思に反して集められることが多く、さらに、官憲が直接これに加担するなどの事例もみられた。…

3 …輸送に際し、日本軍は特別に軍属に準じて扱うなどしてその渡航許可申請に許可を与え、また、日本国政府は身分証明書の発給を行うなどした。

4 慰安所の多くは民間業者により経営されていたが、一部地域においては、日本軍が直接経営していた例もあった。民間業者が経営していた場合においても、日本軍がその開設に許可を与えたり、慰安所の施設を整備したり、慰安所の利用時間、利用料金、注意事項等を定めた慰安所規定を定めたりするなど、日本軍は慰安所の設置、管理に直接関与した。また、従軍慰安婦は、戦地では常時日本軍の管理下に置かれ、日本軍とともに行動させられ、日本軍は…定期的に軍医による従軍慰安婦の性病の検査を行うなどしていた。

〔注:「慰安婦」のためというより、兵士の性病予防のため。また、慰安所規定の中には、外出時間・場所を限定するなど「慰安婦」の管理も含む。〕

5 戦線の拡大の後、敗走という混乱した状況の下で、日本軍がともに行動していた従軍慰安婦を現地に置き去りにした事例もあった。

政府自らの調査、それに基いた司法の事実認定を無視した議論は、どういう根拠でもって、国に責任がないと言えるのでしょうか。

 

こうした事実認定に基き、一部勝訴の判決や付言を付けた判決があります。

【6】一部勝訴判決、立法的・行政的解決が望ましいという付言を付けた判決

(1)関釜裁判・下関判決は、「極めて反人道的かつ醜悪な行為であったことは明白」「いわゆるナチスの蛮行にも準ずべき重大な人権侵害」で「損害を放置することもまた新たに人権侵害を引き起こす」とし、原告に立法不作為に基く精神的損害賠償を認めた勝訴の判決を導きました。(将来の立法により被害回復があることを考慮し各30万とした)

(2)山西省裁判・東京地裁判決も、「著しく常軌を逸した卑劣な蛮行」と述べ、損額賠償請求自体は棄却しましたが、「(過去形の判断である司法による救済は不可能だが)現在も原告らの心の奥深くに消え去ることのない痕跡として残り続けると思うと、…その損害の救済のために、改めて立法的・行政的措置を講ずることは十分に可能であると思われる」、「被害者らに直接、間接に何らかの慰藉をもたらす方向で解決されることが望まれることを当裁判所として付言せざるを得ない」と付言しています。

これらには、甚大な人権侵害の被害事実に直面しての裁判官の良心がうかがえます。

 

■以上、結論として、

1、「“文書”がないから事実(被害)を証明できない」ということは間違いであり、日本の司法が、“証言”を証拠調べなど吟味して、狭義の強制連行をはじめ、この問題にとってより本質的な慰安所での強制という被害事実を明確に認定しています。

2、 さらに、慰安所制度についての日本軍の責任についても、政府調査の“文書”によって事実認定しています(これは国側も「争いがない」)。政府調査以外にも長年、研究者の調査も重ねられ、慰安所制度に関し日本軍・政府の責任は明白です。

(陸軍経理学校で慰安所開設要綱を教えていたこと等枚挙に暇がありません)、「慰安婦」は(仕方なくであっても)自発的に行った「売春婦」であるといった右派の言説に対しては、政府自らが公的に厳しく反駁すべきです。

3、 従って「河野談話」の見直しは許されないことです。前安倍内閣自体が「河野談話」を継承すると断言し、各内閣が踏襲し、国際的に日本の公式見解となっています。これまでも国連の人権理事会(前身の人権委員会も)、各人権条約委員会(社会権規約委員会・自由権規約委員会、女性差別撤廃委員会、拷問禁止委員会)、ILO等々からも解決が何度も勧告されています。そうした中、見直しを強行すれば、2013年春、安倍政権に対して英米等から厳しく批判されたように、人権感覚の欠けた不名誉な国家として、アジアはもとより国際社会から孤立するに違いありません。

 

参考文献:

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朴頭理さんと宋神道さんの体験証言が掲載されている本
アクティブ・ミュージアム「女たちの戦争と平和資料館」編『証言 未来への記憶 アジア「慰安婦」証言集Ⅰ 南・北・在日コリア編・上』明石書店、2006年

2-1-6a 本 圧縮

『日本の司法が認定した「慰安婦」』坪川宏子・大森典子編著 かもがわブックレット、2011年

2-1-6c 本 圧縮

南二僕さんら山西省性暴力被害者損害賠償請求訴訟の詳細については、石田米子、内田知行編『黄土の村の性暴力―大娘たちの戦争は終わらない』創土社、2004年、を参照

2 日本軍は女性を保護したか?

1938年3月4日の陸軍省副官通牒「軍慰安所従業婦等募集に関する件」は、中国にいる派遣軍(北支那方面軍・中支那派遣軍)が選定した業者が日本内地で誘拐まがいの方法で「慰安婦」を集めるという事件が起きたため、今後は、派遣軍は、業者の選定を厳密にし、募集にあたっては憲兵・警察との連繋を緊密にするように指示しています。

 

この通牒が意味していることはつぎのふたつのいずれかでしょう。ひとつは、以後、この通牒に従って、派遣軍の指示により、日本・台湾・朝鮮では憲兵・警察と連繋を緊密にして、軍が選定した業者による「慰安婦」の徴募が行なわれたということです。

 

しかし、朝鮮・台湾では、業者による人身売買・誘拐などによる女性たちの国外移送や満21歳未満の女性の移送が多発したことは事実です。これは犯罪あるいは違法行為ですが、そうすると、憲兵・警察は共犯者ということになります。派遣軍または朝鮮・台湾の憲兵・警察は、業者を利用して女性たちを集めさせているので、主犯ということにもなるでしょう。

 

もうひとつの場合ですが、日本内地では連携を厳密にして違法行為を取り締まったが、朝鮮・台湾では黙認した、ということも考えられます。日本内地で問題が起こると日本軍の威信を傷つけることになると通牒は指摘しているので、この方が実情に近いかもしれません。しかし、この場合の責任も同じでしょう。

 

この通牒が出された後で起こったことを含めて考えれば、この通牒から読み取れることは、このふたつ以外には考えられません。

 

この通牒は、その後の「慰安婦」徴募について多大な影響を与えたものであり、とりわけ軍が「慰安婦」徴募を統制していた証拠(徴募における軍の深い関与を明示するもの)です。「軍が業者の乱暴な募集を止めさせた証拠だ」という、一部にある読み方は誤りというほかありません。

 

また、慰安所は軍のために、軍の施設として、軍がつくったものです。業者に慰安所の経営をまかせる場合も、慰安所の運営について軍は監督・統制をしています。慰安所は、居住の自由、外出の自由、廃業の自由(自由廃業)、拒否する自由がない性奴隷制制度でした。このような施設をつくり、そこに女性たちを閉じ込めて、軍人の性の相手をさせたのですから、軍には重大な責任があることになります。

 

軍がこのような施設をつくらなければ、女性に対する重大な人権侵害はそもそも起こらなかったわけですから、「良い関与」というのはありえないことになるでしょう。

 

2-1-7a 史料 陸軍省副官通牒19380304-1

副官通牒

2-1-7a 史料 陸軍省副官通牒19380304-32-1-7a 史料 陸軍省副官通牒19380304-2

3 警察は「慰安婦」を保護?

1938年2月23日の内務省警保局長通牒「支那渡航婦女の取扱に関する件」は、今後、「醜業」(売春)を目的とする女性の中国渡航(事実上「慰安婦」の中国渡航を意味する)については、満21歳以上で、かつ現に「醜業」に従事している者に限り黙認するという制限を課しています。また、女性たちに身分証明書を発行する時には「婦女売買又は略取誘拐等の事実なき様特に留意すること」と指示しています。内務省は、「慰安婦」を送り出す際に、婦人・児童の売買禁止に関する条約や刑法第226条に違反することがないように注意しているのです。犯罪防止に努めようとしているようにみえます。

 

しかし、この通牒は、日本内地でしか出されませんでした。なぜなら、日本は、婦人児童の売買禁止に関する国際条約に加入していたので、このような制限をしたのですが、この条約に加入する時に、植民地(朝鮮・台湾)には適用しないという条件を付けていたからです。このように、朝鮮・台湾では制限はしなかったのです。こうして、朝鮮・台湾からは、21歳未満の未成年者や、売春経験のない女性たちが数多く「慰安婦」として送り出されたのです。

 

漢口兵站司令部の副官で、軍慰安所係長であった山田清吉大尉(着任当時は少尉)は、日本内地からきた「慰安婦」は、だいたい娼妓・芸妓・女給などの前歴のある20歳から27歳の妓が多かったが、朝鮮から来た者は「〔売春の〕前歴もなく、年齢も十八、九の若い妓が多かった」と記しています(山田清吉『武漢兵站』図書出版社)。売春の前歴のない女性や21歳未満の女性という、日本内地からの渡航は禁止されている女性たちが、植民地からは数多く連れ出されている、ということがよく分ります。

 

なお、日本の外務省の資料によれば、1940年には、6名の台湾人女性が中国広東省に「慰安婦」として送られていますが、その年齢は、18歳(1名)・16歳(2名)・15歳(1名)・14歳(2名)でした。

 

こうして、この通牒は、すくなくとも朝鮮・台湾では「よい関与」を示すものではない、ということになります。逆に、派遣軍が作り始めた「慰安婦」制度を日本政府が黙認したものであって、女性たちに対する人権侵害に関して、日本軍とともに日本政府に責任があることを示すものというべきでしょう。

 

内務省警保局長の通牒では、女性たちの募集・周旋の際、軍の諒解とか軍との連絡があるという者は厳重に取り締まると言っていることも重要です。日本政府は、軍が集めさせているということ自体を隠そうとしているのです。

 

なお、この通牒が出されたにもかかわらず、それが厳密には遵守されなかったということ指摘しておきたいと思います。中国の山海関領事館の佐々木高義副領事は、1938年5月に売春を目的とする芸妓3名が警察発行の身分証明書を持っているのでやむなく通過を認めたが、全員通牒が禁止している21歳未満だった、このようなケースは他にも二、三あった、と報告しています(佐々木副領事「支那渡航婦女の取扱に関する件」1938年5月12日)。また、長沢健一軍医が検診したある女性は、日本内地からきた、売春経験のない女性でしたが、そのまま「慰安婦」にされています(長沢『漢口慰安所』図書出版社)。秦郁彦氏が「信頼性が高いと判断して選んだ」証言によると、1941年に「部隊の炊事手伝いなどをして帰る」といわれて大陸慰問団として済南に来た日本人女性約200名が「皇軍相手の売春婦」にさせられた、といいます(秦『慰安婦と戦場の性』新潮社)。

 

通牒が出されたにもかかわらず、日本人女性でもこのような目にあっているのです。通牒が出されなかった朝鮮・台湾の女性がどのような目にあったか、自ずから明らかではないでしょうか。

2-1-8a 史料 内務省警保局長通牒19380223-1

資料1 内務省警保局長通牒「支那渡航婦女の取扱に関する件」1938年2月23日

2-1-8a 史料 内務省警保局長通牒19380223-2 2-1-8a 史料 内務省警保局長通牒19380223-3

2-1-8b 史料 その1

資料 台湾・高雄州知事「渡支事由証明書等の取寄不能と認めらるゝ対岸地域への渡航者の取扱に関する件」1940年8月23日、外務省外交史料館所蔵、吉見義明編『従軍慰安婦資料集』(大月書店より)。

2-1-8b 史料  その2

4 業者を処罰?

女性たちをその意思に反して慰安婦にした業者が、警察によって取り締まられたことを示す新聞記事や、女性たちが自由意思で応募したことを示す新聞広告がある?

 

櫻井よしこさんらの歴史事実委員会は、『東亜日報』1939年8月31日の新聞記事(資料参照)を取り上げて、女性の意思に反して「慰安婦」になることを強制した業者を警察が取り締まっていると述べています(『ワシントンポスト』2007年6月14日の広告)。この新聞記事はハングルの原文と英訳を付して紹介されています。朝鮮釜山の警察が女性を国外に誘拐する業者を逮捕したというものです。これは女性たちをその意思に反して慰安婦にした業者が、警察によって逮捕されたことを示すものでしょうか。

 

同様の記事はこのほかにもいくつかあることが知られています。女性の誘拐や人身売買による国外への連れ出しは、刑法第226条に違反する犯罪でしたから、警察が取り締まるのは当然のことです。しかし、問題は、これが、「慰安婦」に関するものであるかどうかです。記事の全文はつぎのようなものです。

 

悪徳紹介業者が跋扈/農村婦女子を誘拐/被害女性が百名を突破する/釜山刑事、奉天に急行

【釜山】満州に女娘子軍が大挙進出して、その相場がすこぶる高くなるとして、朝鮮内地の農村から生活の苦しい婦女子を、都会で潜伏活動するいわゆる紹介業者が限りなく跋扈(ばっこ)し、最近、釜山府内でも悪徳紹介業者四五人が結託して、純真な婦女子を甘言利説を用いて誘惑し、満州方面に売った数が百人を超えるとされ、釜山署事犯係が厳重取調べを行なっていたところ、同事件の関係者である奉天の某紹介所業者を逮捕するため、去る二八日夜にユ警部補以下刑事六人が奉天に急行したという。同犯人を逮捕したら、悪魔のような彼らの活動経緯が完全に暴露されるだろうとのことだ。

一読すれば明らかなように、「女娘子軍」とあるだけで、どこにも「慰安婦」だとは書かれていません。「女娘子軍」は、軍の「慰安婦」をさす場合もありますが、軍とは関係ない民間の「売春婦」をさす場合もあります。これを「慰安婦」だと断定するのはミスリードでしょう。この記事が示すのは、刑法の国外移送目的誘拐罪に該当する犯罪を警察が取り締まっていたということです。

 

しかし、重要なポイントは、それにもかかわらず、略取・誘拐や人身売買によって朝鮮から国外に移送される「慰安婦」が数多く生れたのはなぜか、ということでしょう。その理由は、軍か警察が選定し、身分証明書を持つ業者が集めた場合は黙認し、持たない業者が集めた場合は摘発したということでしょう。また、軍の後ろ盾のない業者が行う国外移送も、摘発されるのは一部だったのではないでしょうか。

 

次に、「慰安婦」募集の広告が当時の朝鮮の新聞に載っているので、女性たちは自由意志で応募したことは明らかで、収入もよかった、という一部に広まっている意見についても、念のために検討しておきましょう(「慰安婦募集広告と強制連行命令書の有無 現代史家秦郁彦氏に聞く」2007年3月2日)。その新聞広告とは、『京城日報』(1944年7月27日)と『毎日新報』(1944年10月27日)に載っている広告のことです(資料参照)。

 

『京城日報』の方は、年齢17歳以上23歳まで、勤め先は「後方○○隊慰安部」、月収は300円以上となっています。募集しているのは今井紹介所という所で、紹介業者(人身取引業者)です。『毎日新報』の方は、年齢18歳以上30歳までとなっており、月収は書かれていません。募集しているのは許氏とあるので、朝鮮人の紹介業者でしょう。

 

まず、月収300円はとても高収入だというのですが、これは人身取引業者がよく使うきたない甘言の常套(じょうとう)手段です。それを事実だと信じるのはどうかしているのではないでしょうか。1937年3月に大審院で有罪が確定した業者の場合ですが、1932年にすでに月収は200円から300円になるといって長崎の女性たちを誘拐したという前例があるのです。

 

つぎに、女性たちがこの新聞を読んで応募したと考えるのもどうかしています。「慰安婦」にされた少女たちは1920年代に生まれて、1920年代後半から1930年代に学齢期をむかえました。しかし、日本と違って、植民地朝鮮では、義務教育制ではなかったので、普通学校(初等学校のこと)に通うには高い授業料が必要でしたし、学校自体も不足していました。また、朝鮮総督府でも朝鮮社会でも女子に教育いらないという考えが根強かったのです。女子の就学率が10%を超えるのは1933年頃からです。「慰安婦」にされた少女たちのほとんどは文字を読むことができなかったのです。また、親族の少女を人身売買しなければならないような貧しい家が新聞を購読しているということもありえないことです。

 

では、業者は誰を対象にしてこの広告をだしたのでしょうか。それは、他の人身取引業者(下請業者)への呼掛けだったのです。もう一つ重要なことは、『京城日報』も『毎日新報』も朝鮮総督府の事実上の機関紙であったことです。とすれば、この広告は、国外移送を目的とする「慰安婦」を公然と募集するものであり、「慰安婦」の募集に限って、総督府が認めていたことを示すものだということです。広告主は、軍が選定した募集業者と考えるほかありません。この募集業者の呼びかけに応じた下請業者が女性たちを集める場合、人身売買や誘拐等によって集めるのがほとんどでしたから、これは、それを総督府が黙認したという証拠になるでしょう。

 

『京城日報』には、「月収三〇〇円以上(前借三〇〇〇円迄可)」と日本語で書いてありますが、これは日本語が読める業者への呼びかけです。同じ広告が、23日・24日・26日と連続して出されていること、その前後にはないことから、この時期に軍が「慰安婦」を必要として、急いで集めさせたものと思われます。24日から「前借三〇〇〇円迄可」という文が追加されたのも重要です。これは下請業者に人身売買の資金を提供するという呼びかけだからです。この広告は、朝鮮総督府が国外移送目的の人身売買と誘拐を、「慰安婦」移送については、黙認していたということをさらによく示すものといえるでしょう。

 

また、婦人・児童の売買禁止に関する国際条約が禁止している21歳未満の女性の国外移送も公然と行われおり、朝鮮総督府もそれを認めていたことをしめす証拠となる新聞広告であることも重要です。

 

2-1-9a 史料 Fact

5 「従軍慰安婦」というのは存在しない?

「慰安婦」「慰安所」という言葉が使われていたことを示す、日本軍と外務省の文書

「従軍慰安婦」を教科書から削除するように要求する理由の一つが、「従軍慰安婦」という「言葉自体が存在しなかった」し、「従軍」という言葉は「軍属の身分を指し示す言葉」であるから不適切だというものです(藤岡信勝「文部大臣への公開書簡」)。
しかし本当にそうでしょうか。当時の日本軍は彼女たちのことを初めのころは「酌婦」「慰安所従業婦」などいろいろな言い方で呼んでいましたが、「慰安婦」と呼ぶことが一般的でした。彼女たちのいる場所は「慰安所」「軍慰安所」と呼ばれていました。

 

「従軍慰安婦」という言葉は、この問題の先駆的な研究である千田夏光氏の『従軍慰安婦』(初版は1973年)が使いはじめ、その後広く使われるようになりました。日本軍の行くところ、どこにでも連れられていくありさまは「従軍」という言葉がピッタリだったからでしょう。

 

しかし1990年代に入ってから、「従軍」という言葉は女性が自発的についていったというニュアンスがあり、また「慰安」という言葉も実態にあわないという批判が戦争責任問題に取り組んでいる人たちから出てきました。女性たちは無理やり性的相手を強制された性犯罪の被害であり、けっして「慰安」したのではない、実態とはかけはなれた、欺瞞的な言葉だという問題があります。そこで「慰安婦」に代わって「性的奴隷」や「(軍用)性奴隷」という呼び方も使われるようになってきました。
しかし一方では、実態とは違うけれども歴史上そのように呼ばれていたのは事実であり、日本軍が欺瞞的にそういう表現をしていたことは歴史の事実として記録する必要があるとも言えるかもしれません。ただ「従軍」という言葉を避け、かつその主体をはっきりさせるために「日本軍慰安婦」という言葉を使うことが多くなってきました。

 

「慰安婦」「慰安所」という言葉が使われていたことを示す、日本軍と外務省の文書

しかし「従軍慰安婦」という言葉がまちがいであるとはいえません。「従軍」には「軍属」という意味が含まれていないことは少し調べればわかることです。また「従軍看護婦」「従軍記者」「従軍作家」などの例を見ても、徴用で無理やり召集された人たちもいますから、「自発的」という意味があるという主張は成り立たないでしょう。軍隊本体ではないけれど、軍隊が行くところに従っていく人たちという意味で、「従軍慰安婦」という表現は、実態を適確に表現しているとも言えます(この点は論者によって評価が分かれるところですが)。

 

千田夏光『従軍慰安婦』(講談社文庫版、1984年)

当時そういう言葉がなかったから使うべきではないというのならば歴史を書くことはできません。たとえば第一次世界大戦や第一次護憲運動、日清戦争、日露戦争、日中戦争、幕藩体制、縄文時代、弥生時代をはじめ、歴史で使う言葉の多くがあとから作られた言葉であることは言うまでもありません。
「従軍慰安婦」という言葉は当時なかったから、そんなものは存在しなかった、とか、教科書に書くなという議論は歴史をまったくわかっていない、こっけいな議論でしかありません。

6 スマラン事件で日本軍は責任者を罰した?

歴史事実委員会が『ワシントンポスト』(2007年6月14日)に出した広告では、「〔スマラン事件に関与した〕責任ある将校たちは処罰された」と書かれています。これは事実でしょうか。

事件が発覚してから、間もなくここの慰安所は閉鎖されました(1944年2月開設、約2ヵ月後に閉鎖)。しかし、注意とか譴責はあったかも知れませんが、厳重な処罰はなされていません。

その証拠に、管轄する部隊のトップは、南方軍幹部候補生隊隊長兼スマラン駐屯地司令官の能崎清次少将でしたが、彼は、事件の直後の6月に独立混成第56旅団長になり、1945年3月には中将に昇進しています。4月には第152師団長に就任して、内地に帰り、千葉県銚子附近で本土決戦に備えているのです。

また、たとえば、オランダによるBC級戦犯裁判で10年の懲役刑を受けた幹部候補生隊副官の河村千代松大尉は、1944年12月には少佐に昇進しています。

処罰されていればありえない処遇です。

 「慰安婦」は厚遇されていた?

日本軍「慰安婦」は厚遇されていたという人たちがあげる文書に米戦時情報局のレポートがあります。これは、アメリカの戦時情報局Office of War Information(OWI)のReport, No.49(日本人捕虜尋問報告)1944.10.1付、のことです。このレポートの内容を見ながら、はたして、“厚遇”していた証拠になるものなのかどうか、検証してみましょう。

 

2-1-12a 史料

(出典)米戦時情報局Office of War Information(OWI)のReport, No.49(日本人捕虜尋問報告)1944.10.1付


1 差別・奴隷制を見るときの留意点

現在の女性の人身売買・強制売春の犠牲者の中からも、ごくわずかであるが成功する者は出ます(たとえば大金をためて郷里に送金する者や、自らが売春宿経営者になる者など)。黒人奴隷制においても、成功する黒人がわずかではあるが出ました。歴史的に見ても、さまざまな差別・人権侵害の制度の下においても、差別される中からわずかな成功者が出てきます。しかし、その例をもって差別がなかったとは言えないですし、奴隷制はよかったのだと言うことはできないでしょう。ある制度や仕組みを正当化しようとする人は、例外的な成功例を持ち出すのですが、それにごまかされないような社会の見方が大切です。

 

2 OWIレポートを読むときの注意―レポートの作成のされ方の問題

ここでは朝鮮人慰安婦20名と日本人の業者2名が捕まり、かれらが尋問を受けているのですが、尋問担当者は日本語のできるスタッフです。業者は自分たちの行動を正当化しようとする傾向が働いているでしょうし、尋問担当者は日本語のスタッフであり、朝鮮語はまず理解できなかったでしょう。ですから当然、日本語のできる業者の言い分が強く入っていると見られます。

 

3 そうしたレポートであったとしても、よく読むと、次のようなことがわかります(「 」の中はレポートからの引用です)。

① 女性たちはだまされて募集されていた。つまりうその説明がなされていたことがわかります。

「病院にいる負傷兵を見舞い、包帯を巻いてやり、そして一般的に言えば、将兵を喜ばせることにかかわる仕事であると考えられてきた。」

「楽な仕事と新天地―シンガポール―における新生活という将来性」

「このような偽りの説明を信じて、多くの女性が海外勤務に応募し、200-300円(a few hundred yen)の前渡金を受け取った。」

 

② 彼女たちの大部分は、それまで売春には関わっていなかったことがわかります。

「大部分は売春について無知、無教育であった。」

もちろんそれまで売春に関わっていたとしても、騙して連れて行ってよいということにはなりません。

 

③ 女性たちは前借金で縛られていたことがわかります。つまり人身売買がおこなわれていたことが明らかです。

「家族の借金返済に充てるために前渡しされた金額に応じて6ヶ月から1年にわたり、彼女たちを軍の規則と“慰安所の楼主”のための役務に束縛した」

 

④ 半数以上は未成年者でした。

尋問されたのは1944年8-9月です。彼女たちがビルマに連れてこられたのが1942年8月、つまりちょうど2年前です。20人の慰安婦のなかで、連行された時点において21歳未満の者は、12人います。

21歳未満の者、つまり国際法との関係で問題になる未成年者は、たとえ本人の同意があったとしても、売春目的で勧誘・誘引・誘拐した者は、婦人・児童の売買禁止に関する国際条約(1910年条約と1921年条約、日本も加入)に違反する犯罪でした。どう言い訳しようと、国際条約に違反する犯罪であったことが、この尋問記録からわかります。

なお日本はこうした国際条約に加盟する際に植民地を除外するという条件を付けていますが、だとしても、日本国籍の船舶を使って連れて行った場合は(ビルマに連れて行ったのは船を使っていますので)この条約が適用されますし、また植民地を除外すること自体が必ずしも適法とは言えません。かりに植民地だから適用されないという解釈をとるにしても、普通であれば犯罪になることを植民地の女性には平気でやるというのは、明らかに差別であり、それを正当化するのは自らが民族差別主義者であることを自白しているだけでしょう。

 

④ このレポートとセットの東南アジア翻訳尋問センターSEATIC Report No.2 を読むと、前借金を返済すれば帰国できる契約だったが、戦況のためという理由と、説得されて、帰国できた者はいませんでした。

 

4 以上、このレポートを読むと、売春をしていなかった女性たちが、騙されて(詐欺)、前借金で縛られて(人身売買)、連れてこられたことがわかります。騙して、あるいは人身売買によって女性を海外に連行したことがはっきりとわかり、これは当時の日本の刑法226条に違反する犯罪でした。しかも半数以上の女性は未成年であり、たとえ本人が同意していても国際条約にも違反する犯罪でした。

8 文玉珠(ムン・オクチュ)さんはビルマで大金持ちになった?


「慰安婦」は金儲けをしたのかのように言っているものがありますが、そういう主張の例に挙げられるのが、ビルマの慰安所に送られた文玉珠(ムン・オクチュ)さんが2万円以上貯金をしていたことです。2万数千円は現在の価値でいえば数億円にあたると吹聴している人さえいます。

 

またアメリカの戦時情報局Office of War Information(OWI)のレポート第49号(1944.10.1)や東南アジア翻訳尋問センターSEATICのレポート(1944.11.30)のなかで慰安婦の収入が月300円から1500円ほどあったことも、その理由に挙げられています。ここでは、文さんのケースを検証しましょう。

 

1 ビルマにいた「慰安婦」が得たお金

ビルマで得た収入ですから、日本国内の円ではなく、ビルマで流通していた軍票または南方開発金庫券(南発券)です。後者は厳密に言えば、軍票ではありませんが、事実上は、軍票と変わらないし、日本人にも現地の人にも軍票として認識されていました。

マレー半島で使われていた軍票

 慰安婦の月収が1500円ほどあっても、楼主に月750円を渡していました。また「多くの楼主は、食料、その他の物品の代金として慰安婦たちに多額の請求をしたため、彼女たちは生活困難に陥った」とあります。つまり慰安婦の生活は、「多額」の収入にもかかわらず楽ではなかったことが書かれています。その一因は業者による収奪ですが、それだけにはとどまりません。

 

3 物価水準

太平洋戦争が始まった1941年12月を100とした場合、物価指数は次のように変化しています。

 
東京 ラングーン シンガポール バタビア
1944.6 121 3635 4469 1279
1945.8 156 185,648 35,000 3197

(日銀統計、安藤良雄編『近代日本経済史要覧』、岩武照彦『南方軍政下の経済施策』下)

 

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1942年の軍票発行段階では、1ルピー(ビルマ)=1ドル(マラヤ)=1円(国内)で設定されました。つまりビルマと日本の円は等価とされていました。

 

しかし、OWI レポートに記された「慰安婦」たちが捕まったのは1944年8月10日ですが、その直前の時点(1944.6)でのインフレは、東京に比べて、ビルマは約30倍でした。

 

したがって、「慰安婦」たちの月収が1500円としても、貨幣価値は東京では、1500円÷30=50円程度にしかすぎません(下士官クラスの収入)。ですから1500円の収入があったとしても、半分は楼主にとられ、さらに食料などで高い額を請求され、生活困難に陥ったのは当然と考えられます。

 

4 文玉珠さんの場合

文さんが2万円以上の貯金があるといっても、彼女が貯金を預け入れたのは、1945年4月に10,560円、1945年5月に10,000円などと、ほとんどが1945年に集中しています。

 

敗戦時には、東京の物価は、1.5倍の上昇にとどまっていたのに対して、ビルマは1800倍、つまり東京と比べて、1200倍のインフレでした。つまり、ビルマで貯めた2万数千円は、その1200分の1、つまり20円程度しか価値がなかったのです。なおビルマは、日本の占領地の中でも最もインフレがひどかった地域でした。

2-1-13a グラフ
5 物の値段

参考までに当時の現地での物の値段の例を紹介しておきましょう。

ビルマでの1945年初頭時点での物の値段は、次のようだったということです。

 

コーヒー 5 ルピー
背広1着 10,000 ルピー
シャツ1枚 300-400 ルピー
絹ロンジー1着 7,000-8,000 ルピー

(太田常蔵『ビルマにおける日本軍政史の研究』吉川弘文館)

 

さらにこの時点よりインフレは一層ひどくなりますから、2万円があっても背広1着も買えなかったでしょう。なお、太田氏は「20年〔1945年〕3月マンダレー失陥後は、軍票はほとんど無価値になってしまった」と記しています。文さんの貯金の大半は、軍票が無価値になった時期に将校たちからもらったものです。

 

ところでほかの地域での例も紹介しておきましょう。いずれもビルマほどにはインフレがひどくなかったことに留意してください。それにしてもひどいインフレで、日本軍に占領された東南アジア各地の経済が破壊されたことがよくわかります。

 

米 6kg 1942.12    $5 1945.8     $750
腕時計 1942.12  $85 1945.8  $10,000

 シンガポールでの物の価格(シンガポールの中学歴史教科書による)

 

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(出典)小林英夫『日本軍政下のアジア』岩波新書、p179

スマトラでは、ある将校の回想によると、将校の1か月の給料で、ラーメン1杯しか食べられなかったといいます(つまり、100円あるいはそれ以上)。

(小林英夫『日本軍政下のアジア』岩波新書、『証言集―日本占領下のインドネシア』)

 

6 ビルマで貯金したお金は?

占領地での通貨は、当初、円と等価とされていましたが、東南アジアなどインフレが進んだ地域のお金を等価で円に換えると為替差益で大もうけしてしまうので、それを規制するために、1945年2月に外資金庫を設立、東南アジアのインフレが日本国内に波及しないための措置がとられていました。つまりビルマで貯金をして、額面では多額になったとしても、日本円には交換できなかったし、しかも日本が負けると、軍票も南発券もただの紙切れになってしまいました。

 

7 したがって、ビルマでの事例を持ち出して「慰安婦」は金もうけをした、文さんは現在の価値で数億円もの大金持ちになったというのは、占領地の経済状況を無視した、まったくの空論にすぎません。占領地のひどいインフレは、少し調べればかんたんにわかることなのですが……。

9 一般の女性は守られた?

2-1-14a 史料

第62師団「石兵団会報」49号、1944.9.7

日本軍が慰安所を作った理由の一つが強姦を防止するためでした。だから一般の女性を守ることができてよかったのだという議論さえあります。はたして本当でしょうか。

 

日本軍が慰安所を中国各地に作りはじめたのは1937年の冬からでした。しかしそれから3年近くたった1940年9月に陸軍省が作成した文書によると(「支那事変の経験より観たる軍紀振作対策」)、依然として日本兵による「強姦」「強姦致死傷」が多いと指摘されています。

 

アジア太平洋戦争が始まってから、東南アジアでも各地に慰安所を設置しましたが、開戦から9ヶ月たった1942年8月になっても「南方の犯罪610件。強姦罪多し。シナよりの転用部隊に多し。慰安設備不十分」(陸軍省の会議での法務局長の報告)と報告されるような状態で、1943年2月にも「強姦逃亡等増加せる」と報告されるようなありさまでした。

 

戦争末期の沖縄では、米軍の来襲に備えて日本軍が次々に増強されました。日本軍は当初から沖縄に慰安所を設置していきましたが、日本軍の資料によると「本島に於ても強姦罪多くなりあり」「性的非行の発生に鑑み…」というように地元女性への強姦などが相次ぎ、軍上層はくりかえし兵士たちに注意を発せざるをえませんでした(「石兵団会報」)。

 

日本兵による地元女性への強姦は慰安所設置にかかわらずずっと続いていたのです。

 

慰安所を利用することと地元女性への暴行はどのような関係にあったのでしょうか。中国の河北省と山西省についての研究によると(笠原十九司「中国戦線における日本軍の性犯罪」)、日本軍による強姦や強姦殺害は戦争中を通しておきています。ただその場合、日本軍が駐屯し支配していた「治安地区」では強姦は憲兵によって厳しく取締まられました。ここでは日本軍は善政を施していることを示す必要があったからです。

 

ところが抗日勢力が強く日本軍の力が及ばない地域は「敵性地区」と呼ばれていました。ここでは日本軍はいわゆる「三光作戦(殺し尽くし、焼き尽くし、奪い尽くす)」と呼ばれた皆殺し作戦をおこないました。どうせ殺すのならばと、女性を強姦したり、拉致してきて慰安婦にすることが野放しにされました。つまり日本軍の駐屯地などでは強姦は取締まられ慰安所を使うことが奨励される一方で、抗日勢力の粛清などのために出かけた場合には強姦や略奪が放任されたのでした。

 

ですから慰安所が作られたから強姦がなくなったのではなく、慰安所と強姦は並存していたのが実態なのです。フィリピンや中国でしばしば見られたように強姦とともに日本軍による慰安婦狩りがおこなわれていたこともその表れです。

 

ところで本来、強姦を防ぐためには兵士の犯罪を厳しく取締まると同時に兵士の人権を保障し待遇を改善することが大切ですが、日本軍がおこなったことはそれに逆行したことでした。補給もなしに戦場やジャングルに送り込み多くの餓死者を出したり、捕虜になることを許さず無意味に「玉砕」させるなど兵士の人権を踏みにじったのでした。そうした発想しかない日本軍は女性の人権を踏みにじることを平然とおこなったのです。女性への性暴力、人権蹂躙という点では強姦も「慰安婦」にしたことも同じなのです。

2-1-14b 史料

第62師団「石兵団会報」49号、1944.9.7

2-1-14c 軍紀振作対策 圧縮

「支那事変の経験より観たる軍紀振作対策」

 

10 証言は矛盾だらけ?

A:「証言の度に話が変わっている」「陸軍や他の政府機関によって強制的に働かされたという言及はない」(「THE FACTS2007.6.14)等、被害者の証言を否定するような主張があります。しかし、当初の証言になかったからその事実はないと言いきれるでしょうか? また、証言が変わるから証言自体、信用できないと言えるでしょうか? ここでは被害者証言への向き合い方について考えてみます。

 

1、記憶とトラウマ

まず、証言全体を見て言えることですが、確かに被害女性の証言には、「いつ」「どこで」「誰が」などが曖昧なものもあります。中国や東ティモールの被害女性をはじめ被害証言の中には、自分の生年月日すらはっきりしないものもあります。また、連れていかれたところが中国だとは分かっても、地名まで覚えていないケースもあります。

例えば文必ギさんの場合、汽車に乗せられて慰安所に連れて行かれますが、新義州を経て「満州」に入ったことは覚えていても、自分が入れられた慰安所があった土地の名前や、その慰安所を使用していた部隊名を思い出すことはできません(アクテイブ・ミュージアム「女たちの戦争と平和資料館」編 『証言 未来への記憶 アジア「慰安婦」証言集Ⅰ―南・北・在日コリア編 上―』明石書店2006P165P177)。

 

しかし、慰安所の詳しい説明や、日本兵が大勢来たこと、軍人が慰安所の歩哨に立っていたこと、どのようにして連れて行かれたかなど、驚くほど詳細に記憶していることもあります。彼女が詳細に語る「何があったのか」の中にこそ、長い時間を経ても忘れることのできない痛みと苦痛の体験があるのです。たとえ一部分の記憶が抜けているとしても、固有名詞を記憶していないとしても、だからと言って証言全体を信憑性が無いといって切り捨てることはできません。

 

記憶の問題は、長い年月が経ったことにより忘れてしまったこともありますが、例えば朝鮮女性の場合、日本の植民地支配下、特に女性であったことも手伝い、女性の普通学校の完全不就学は1932年の時点で91.2%に及んでいます(金富子『植民地朝鮮の教育とジェンダー』世織書房2005年)。学校教育を十分に受けることができなかった結果、字が読めない女性も少なくなく、文字としてではなく、耳で聞いた音の記憶に頼らざるを得なかったのです。被害女性の証言を聞く時、そのような状況への理解も必要です。

 

また、記憶の断片化、記憶の断絶は、女性たちの被害の大きさでもあるのです。記憶の断片化について精神科医の桑山紀彦氏は、「11つの記憶は非常に鮮明であるにもかかわらず、その相互、あるいは時間的な前後の繋がりがはっきりしないという現象である」と説明します。またトラウマの本態について、「人間が経験する上で著しい苦痛を伴い、生きる希望を打ち砕き、大切な人間関係を崩し、二度と立ち直れないかと思うほどの出来事に遭遇してこころが傷ついたその状態をいう」としています(桑山紀彦「中国人元『慰安婦』の心的外傷とPTSD」『季刊 戦争責任研究』第19号、1998年)。

 

ジュディス・L・ハーマンによると、これはトラウマを持つ人の外傷性の記憶の特徴です(ジュディス・L・ハーマン『心的外傷と回復』みすず書房1996年)。初めて口を開いた時、被害女性はまだ重いトラウマを背負っています。つじつまが通っていないと思われるようなぶつ切りの断念的な証言がなされるのはPTSD(心的外傷後ストレス障害)の症状です。しかし、自分の話をきちんと聞いてくれる人がいるという「安全の確保」(想起と服喪追悼・再結合と共に回復過程の1つ)がなされる中で、次第に凍りついた記憶は解凍していくのです。

 

90年代になり、女性たちが沈黙を破り自分の身に起きたことを語り始めたのは、ハーマンによれば「回復過程」でもあるのです。自分の体験を危害を加えずに聞いてくれる人がいるという環境の変化は、被害回復への扉を開く1つのきっかけになったといえます。そうした女性たちの証言に対して「でっちあげだ」「お金が欲しくて嘘を言っている」等とただ攻撃するのは、被害女性に更なる暴力を加えることに他なりません。

 

2、金学順さんの証言をどう見るか?

しばしば金学順さんの証言について、提訴した時の訴状に書かれた連行状況とその後の証言とニュアンスが違うとか、妓生だったことを隠していた等を挙げて証言を否定する人がいます。例えば『慰安婦と戦場の性』(秦郁彦著)では「金学順証言の異同」という表が掲載されています。この中の「f 慰安婦にされた事情」ではABCとそれぞれの「連行」証言が書かれていますが、よく見れば矛盾が無いことが分かります。Aは「北京の食堂で日本将校にスパイと疑われ養父と別々に、そのままトラックで慰安所へ。・・・」、Bは「Aに同じ」、Cは「養父をおどして日本兵が慰安所へ連行、・・・・」とあります。この場合の「異同」の「異」を挙げるとしたら「養父をおどして」の部分ですが、「スパイと疑われ」のやり取りの中で養父が脅されたということであったといえ、全く相反する証言ではありません。しかも、養父とバラバラにされていた金さんが日本兵にトラックに乗せられ慰安所に連行されたことは違いないわけですから、証言のたびに内容が異なるとは言えません。証言を重ねる中で思い出されたり、鮮明になることもあるでしょう。当初の証言に無かったからといって証言を全面的に否定することはできません。

 

 また、「慰安婦」にされた女性が妓生であったかどうかは関係ないのです。無理やりトラックに乗せて慰安所に連れて行ったということが、連行の問題なのです。仮に本人が知らないところで養父が彼女を軍人に「売った」というのであれば、日本軍が未成年の女性の人身売買に関わったということになります。そうであれば当時の刑法に違反する犯罪であり、それはそれで重大な問題です(刑法224条「未成年者略取及び誘拐」には、未成年者を略取又は誘拐してはならないとしていますし、第225(営利目的等略取及び誘拐)は、営利、わいせつ又は結婚の目的で、人を略取又は誘拐してはならないとしています。

 

3、河野談話も歴代総理も「証言」にみる強制性を認めてきた

河野談話は、「慰安婦」の徴集と慰安所における強制性を認めています。談話を発表した河野洋平氏はその理由について、16人の被害女性から話を聞いたが、「明らかに厳しい目にあった人でなければできないような状況説明が次から次へと出てくる。その状況を考えれば、この話は信憑性がある。信頼するに十分足りうるというふうに、いろんな角度から見てもそう言えるということがわかってきました」(女性のためのアジア平和国民基金『オーラルヒストリー アジア女性基金』20073月)と話しています。

 

橋本龍太郎首相以来、第一次安倍内閣を含めて歴代の内閣総理大臣は河野談話を踏襲してきました。「強制」を認めた説明として政府は、「政府が調査した限りの文書の中には、軍や官憲による慰安婦の強制募集を示すような記述は見当たりません。総合的に判断した結果、一定の強制性があるということで判断した」と、答弁してきました。いわば、歴代政府も被害者の証言を認めてきたのです。

 

4、責任の所在を立証するのは被害女性ではない

そもそも、被害女性の証言に、自分が入れられた慰安所を誰が管理・監督していたのか、誰の命令で設置されたのか、誰の命令で自分たちはそこに連れてこられたのか、事実関係の立証を求めるのは無理な話です。彼女を直接だましたのが警官や区長、業者だったとしても、誰が集めるように指示したか、「首謀者」「命令者」については、彼女は知る由もないからです。

 

このように、責任の主体が被害女性の証言に出てこないからといって、その事実はないということはできません。むしろ、被害女性たちの数々の証言を通して見えてくるものが何であるのかを明らかにすること(真相究明)は、被害者ではなく、日本政府の責任です。

 

証言 未来への記憶 アジア「慰安婦」証言集Ⅰ——南・北・在日コリア編

証言 未来への記憶 アジア「慰安婦」証言集Ⅰ——南・北・在日コリア編

 

 

3 謝罪とは 日本政府の対応

1 閣議決定で強制連行の証拠はないと言っている?

「慰安婦」問題に関する「2007年閣議決定」は9件あり、いずれも衆議院議員(辻元清美議員)からの質問趣意書に対する「答弁書」です(2007316日、420日2件、65日3件、7月6日、815日、119日、http://www.shugiin.go.jp/index.nsf/html/index_shitsumon.htm)。

 

ここでは、A「強制連行」に対する認識、B「河野談話」に関する認識、という点から、これらの9件の閣議決定を検討してみましょう。

 

まず、A「強制連行」に対する認識について見ると、確かに、2007年3月16日の「答弁書」(答弁第110号)は、「政府が発見した資料の中には、軍や官憲によるいわゆる強制連行を直接示すような記述も見当たらなかった」と述べています。しかし、

① 「河野談話」は、文書類の「強制連行を直接示すような記述」のみを根拠に、「慰安婦」連行(募集)の強制性を認めたのではなく、被害者・軍関係者の証言、米公文書、沖縄現地調査などを「総合的」に判断して「慰安婦」制度の体系的な「強制性」を認めたものです。したがってこの答弁をもって「河野談話」を否定することはできません。

② 上記の点は「2007年閣議決定」自身で認めています。同上「答弁書」でも「『強制性』の定義に関するものであるが、慰安婦問題については、政府において、……関係資料の調査及び関係者からの聞き取りを行い、これらを全体として判断した結果、……談話のとおりとなった」としており、420日「閣議決定」(答弁第169号)でも同様に「(河野談話は)政府において、平成三年十二月から平成五年八月まで関係資料の調査及び関係者からの聞き取りを行い、これらを全体として判断した結果、当該談話の内容となったものであり、強制性に関する政府の基本的立場は、当該談話のとおりである」と述べています。つまり「2007年閣議決定」は、「河野談話」を否定していません。

 

B「河野談話」に対する認識に関しても、「2007年閣議決定」9件のすべてが「河野談話」の「継承」を確認しています。したがって橋下市長が、河野談話か閣議決定か、二者選択を主張しているのは誤りです。「2007年閣議決定」は河野談話を継承しているのです。

 

このように、橋下氏は、連行の強制性を証明する資料類がないことをもって、「慰安婦」問題全体を否定する詐術を使っていますが、内容的に破綻しています。被害者の証言のみならず、BC級戦犯裁判や東京裁判の証拠書類などにも強制的に連行したことを示す公文書の証拠もありますし、元日本軍将兵の証言もたくさんあります。

 

さらに日本の裁判所が強制連行を含めた「慰安婦」の被害事実を「公的に」認めたことも重要です。日本では、韓国(在日韓国人含む)・フィリピン・中国・台湾・オランダの被害者が10件の「慰安婦」・性暴力裁判を起こした。裁判では賠償請求は棄却されたが、「慰安婦」被害の事実そのものは認められた(10件中8件)。即ち、裁判では、「手足を捕まえられて捕らえられ」「断ったものの、強制的に」などの拉致及び拉致に近い強制連行が31人(韓国6人、中国24人、オランダ1人)、甘言による詐欺4人(韓国4人)あったことが事実として認定され、「動かぬ歴史証拠」となっています(坪川宏子・大森典子『司法が認定した日本軍「慰安婦」』かもがわブックレット、2011年)。「河野談話」とともに、裁判判決で被害事実が認定された意味は大きいと言えます。

 

またウェブサイト「はげしく学び、はげしく遊ぶ―石川康宏研究室」に掲載されている次の3つをご参照ください。

 

「『2007年の閣議決定』はいずれも『河野談話』の継承を明示している」

(フルサイズ版) http://walumono.typepad.jp/blog/2012/08/29-01.html

( 同 要約版) http://walumono.typepad.jp/blog/2012/08/29-03.html

「まるで成り立たない橋下資料の『慰安婦』発言」http://walumono.typepad.jp/1/2012/10/29-01.html

2 教科書で慰安婦を教えることは「自虐的」?

 

教科書に「慰安婦」を書くことは「自虐的」とか、「慰安婦」の問題は国の恥であり、あえてそれを教えて子どもたちに日本人としての誇りを失わせることは教育的でないという人たちがいます。また、「慰安婦」問題は本当のことではない、元「慰安婦」の言うことは嘘ばかりで、彼女たちは売春婦として働いて大金をため、今も賠償金目当てで騒いでいる、などが理由だといいます。

 

教科書で「嘘」を教えてはいけないのは、全くその通りです。万一、「慰安婦」問題が本当のことではなかったら、教科書に書くのはとんでもないことです。しかし、「慰安婦」問題が事実であることは、世界では共通認識となっています。10代の少女たちを騙して拉致監禁し、一日に何十人もの兵士がレイプし続けて女性の人権が極端に踏みにじられた実態を重視して、国際的には、「慰安婦」ではなく「軍事的性奴隷」と呼んでいます。日本政府に対しては、被害者への謝罪と賠償などの誠実な対応をしなさいと何度も勧告しています。これらについては、他の項目で詳しく述べていますので、ぜひ、目を通して下さい。

 

では、最初の理由、“国の恥になることは書く必要はない”と言えるのでしょうか?

 

かつて授業で生徒たちに聞いたことがあります。「日本人にとっては、知るのが辛いようなことを授業で取り上げるのだけれど、どう思う? 知りたいと思う?」と。生徒は、即座に答えました。「知りたいよ。教えて、先生」「当然だよ。本当のことを知らないままだったら、その方が嫌だ」って。そして「先生、嫌なことでも、きちんと正直に言ってくれるのが、本当の友達だよ」と。

 

横浜にある学校ですので、中華街に住む華人の生徒も多くいます。彼女たちは、「先生が、なんでそんな質問をしたのか、判りません」と感想文に書きました。

「日本が戦争中にやったことを、日本人は知らなさすぎます。本当のことを学ぶのは当たり前です。…私のおばあちゃんは、中国での子どもの頃のことは話しません。でもある時、戦争のニュースを見ていて、日本のしたことはひど過ぎた、中国では日本人を“日本鬼(リーベン・クイズ)”といって恐れたけど、恐ろしいだけじゃなくて、恥知らずだ、と涙を浮かべていました。本当のことを、もっともっと、きちんと教えて下さい。」

 

私は、日本人だけの視点におちこんでいた誤りを、その生徒から教えられました。被害者側からは、日本の教科書に「慰安婦」問題が載らないことは、どう見えるでしょう。

 

自分だけを尊重し他を尊重しないのは、自己中心で、本当の自尊心や誇りとは全く違うものです。どんな厳しい真実もしっかり受け止め、謝罪すべきは心から謝罪し、二度と同じ過ちを繰り返さないということが、本当に自分を尊重することなのではないでしょうか。

 

自国にとって都合の悪いことを教科書に書くのははたして「自虐的」でしょうか? 第二次世界大戦時、日本が同盟を結んだドイツでは、国としての厳格な反省を行動で示し、法律にも定め、教科書にもドイツが行った加害の事実を詳細に書いています。子どもたちは、しっかり学び、二度と同じ過ちを繰り返さないことを自ら考えるそうです。教科書だけでなく、ドイツでは、ありとあらゆる機会と場所で、戦争を反省的に振り返っています。町の中の何気ない場所にも加害の歴史を記録し、今でもナチスの関係者は公職に就けず、私たちが普段やっている「挙手の動作」についても、手を前に出すという動作にしています。なぜって、手を上げる「挙手の動作」は、ハイルヒットラーを思い起こさせるためで、被害者への配慮も含めてのことだそうです。

 

ドイツ政府は2014年から2017年にかけて、ナチス政権当時に迫害を受けたユダヤ人に対して賠償金として10億ドル(約1010億円)を追加で支払うことを決めました。ドイツは1952年から60年間にわたり総額で700億ドル(現在のレートで約7兆800億円)をナチス被害者への賠償金として支払いましたが、ドイツ政府は定期的にナチス被害者や団体と交渉し、ナチスによる犯罪行為があらためて確認された場合は追加で賠償を行っています。ドイツと日本の違いは、お金の問題ではなく、国としての歴史に対する姿勢の違いです。「ナチスによる犯罪は永遠に追跡する」との意思を表わしているのです。

 

本表紙 ヴァイツゼッカー演説 縮小版西ドイツの大統領ヴァイツゼッカーは、1985年に「荒れ野の40年」と題する演説を行いました。少し長いですが引用してみます。

「大抵のドイツ人は自らの国の大義のために戦い、耐え忍んでいるものと信じておりました。ところが、一切が無駄であり無意味であったのみならず、犯罪的な指導者たちの非人道的な目的のためであった……」「心に刻むというのは、ある出来事が自らの内面の一部となるよう、これを信誠かつ純粋に思い浮かべることであります。そのためには、我々が真実を求めることが大いに必要とされます」

「罪の有無、老若いずれを問わず、我々全員が過去を引き受けねばなりません。全員が過去からの帰結に関わり合っており、過去に対する責任を負わされているのです。」「問題は過去を克服することではありません。そんなことができるわけはありません。後になって過去を変えたり、起こらなかったことにするわけにはいきません。

 

過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となります。非人間的な行為を心に刻もうとしない者は、またそうした危険に陥りやすいのです。」

 

日本の首相や政治家たちは、過去の戦争犯罪を否定し、反人間的犯罪行為の被害者である日本軍性的奴隷の生存者を冒涜(ぼうとく)する発言を繰り返しています。A級戦犯が靖国神社に「神」として祀られ、首相や閣僚、国会議員が参拝しています。アジアの人々にとっては日本の侵略の象徴である「日の丸」「君が代」が学校で強制され、戦争を美化する教科書が(多くの間違いがあるのに)検定を通って使われています。

 

恥だから隠して知らせなかったら、また、同じような「恥ずかしい」ことを繰り返すかもしれません。じつは、「自分に都合が悪いから隠してしまう」ことの方が「恥ずかしい」ことではないでしょうか? それこそ、自分を虐げ、貶める行為ではないでしょうか。 どんなに「都合が悪く恥ずかしいこと」でも、正直に告白し、なぜそうなったかをしっかりと見つめ、反省し、二度と同じ過ちを繰り返さないこと、そのために事実をしっかり学ぶこと、それこそ、「学ぶ」ことの、大切な意味ではないでしょうか。