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「あまちゃん」完全版 Blu-rayBOX1 NHKオンデマンドでは目下、全話が配信中ですが、自分の手元に置いて、いつでも見たいという方にはやはりBD-BOXはマストアイテムでしょう!
■「あまちゃん」は震災をどう描いたか?
きのうに続き、しつこく「あまちゃん」レビューです。
「あまちゃん」を語るうえで、やはり東日本大震災の描写についてとりあげないわけにはいかないだろう。これについては、「あまちゃん」放送開始当初から視聴者のあいだではさまざまな憶測が飛び交っていた。震災で登場人物の誰かが死んでしまうのか、いや、ひょっとしたら劇中では震災は起きず、北三陸の町が一種のパラレルワールドとして描かれるのではないか……という推測すらあった。最終回ののち公開されたある記事によれば、ほかならぬ作者の宮藤官九郎自身、スタッフとともに震災をどうとりあげるかかなり悩んだようだ。

結果からいえば、クドカンは逃げることなく震災を描いた。しかし登場人物は誰ひとりとして死んだり行方不明になったりしなかった(その前週では、あれほどユイに死亡フラグを立てておきながら)。私は夏ばっぱ(宮本信子)が倒れたとき、このまま震災が起きるまで意識不明の状態が続き、震災後に覚醒するのではないかと予想したのだけれども、いやー見事にはずれましたね。

震災は物語の終盤の展開上、重要なできごととして扱われていた。が、ドラマ全体から見れば、震災もまた物語におけるひとつの事件として扱われたともいえる。それは、ヒロイン・アキ(能年玲奈)の親友・ユイ(橋本愛)の劇中の足跡をたどればはっきりするだろう。東京に出てアイドルになるという夢を持っていたユイだが、それを阻んだのは震災より以前に、父の病気であり母の失踪であった。このことは重要だと思う。

「あまちゃん」における震災の位置づけは、過去の朝ドラにおける戦災のそれと重なるとは、すでに多くの論者が指摘するところである。しかし、朝ドラの歴代作品においても、戦災は登場人物たちに振りかかる事件のひとつにすぎない、というのもまた事実だ。

考えてみればこれって、べつにドラマのなかにかぎらず、多くの人にとっても言えることではないだろうか。戦争や自然災害に遭わなくとも、家庭の事情などで人生が変わったり、ときには夢を捨てざるをえなくなるなんてことは、誰にだって起こりうることだ。そのことをクドカンは、ユイを通じてさらりと描いてみせた。少なくとも私はそう受け取った。

朝ドラで名作と呼ばれる作品はたいてい、戦争などの大事件とともにそれと地続きの日常をさりげなく描いている。たとえば「カーネーション」(2011年)において、ヒロインの糸子(尾野真千子)は戦争で夫を失うなど辛酸をなめるが、終戦を受けての彼女の第一声は「さ……お昼にしよけ」というものだった。

同様に「あまちゃん」がすばらしいのは、先述のとおり登場人物を震災によって誰ひとりとして死なせることなく、その後の彼・彼女たちの振る舞いにこそスポットを当てるなど、震災そのものではなく、震災と地続きの日常を描いたことではないだろうか。

■朝ドラ本来の要素を最大限に生かす
この半年、「あまちゃん」は朝ドラの常識を覆したという趣旨の意見をあちこちで見かけた。が、私はあえてこれに異を唱えてみたい。「あまちゃん」はむしろ、NHKの連続テレビ小説における“定番”を踏襲したからこそ、幅広い支持を得ることができたのではないだろうか。

ドラマのひとつの軸となったアキとユイの関係(終盤で“太陽と月”にたとえられた)からして、ヒロインと親友(もしくはライバル)が対照的な人生をたどるという朝ドラにおけるテッパンともいうべき構図だ。

たとえば、アキよりも美人で向上心も強いユイが、東京でアイドルになりたいという夢がかなえられず、やさぐれるという展開は、かつての朝ドラ「ちりとてちん」(2007年)における、ヒロイン(貫地谷しほり)の幼なじみ・清海(佐藤めぐみ)の境遇を彷彿とさせた。清海の場合、マスコミに強い憧れを抱き上京、アナウンサーになったもののレギュラー番組が打ち切りになり夢破れて郷里の小浜に戻る。そのやさぐれ度合いは、ヤンキー化したユイに匹敵する。ついでにいえば、のちにヒロインと結婚する落語家の徒然亭草々(青木崇高)が、最初は清海とつきあっていたというのも、アキ・ユイと種市(福士蒼汰)の三角関係と重なる(「ちりとてちん」は来週10月7日朝からNHKのBSプレミアムで再放送が始まるので、チェックしてみてください)。

朝ドラの定番といえば、“ふるさと”というのも欠かせない要素である。もっとも、「あまちゃん」における“ふるさと”北三陸は、ヒロインのではなくあくまで母・春子(小泉今日子)の郷里にすぎないわけだが、東京出身のアキがすっかり北三陸になじみ、母以上に訛ってしまうという展開は、クドカンならではのひねり技だったと思う。

かつてクドカンは、TBSテレビの「愛の劇場」という昼ドラ枠で「吾輩は主婦である」と題して、主婦(斉藤由貴)に夏目漱石が乗り移るという突飛な設定のドラマを手がけている(2006年)。「愛の劇場」はNHKの朝ドラほどにはかっちりとした枠組があったわけではないが、それでも主婦層を主なターゲットとする昼ドラにおいて、クドカンがやったことは十分に冒険といえるだろう。

ひるがえって「あまちゃん」では、「吾輩は主婦である」のように設定自体はさほどぶっ飛んだものではなかった。「あまちゃん」が新鮮だったとすれば、それは朝ドラに従来から存在する定番を生かしつつも、それを微妙にずらしたり、過剰に見せたりした点ではないだろうか。言い方を変えるなら、朝ドラという枠組をぶち壊したというよりはむしろ、もともとあった素材を活用しながら、それを組み替えたことにこそ「あまちゃん」の面白さがあったと思う。そう考えると、漁協の事務所の間取りを流用した海女カフェって、「あまちゃん」という作品そのもののメタファーだったのかも!?

……と、ここまで「あまちゃん」の最終回前に思っていたことを書いたのだけれども、新たに始まった「ごちそうさん」を見ていたら、「あまちゃん」の特異さをあらためて感じた。物語内の時間の流れ方からして、まるっきり違うのだ。

思えば、「あまちゃん」の毎回の15分間は、みっちりと内容が詰まっていた。舞台が北三陸と東京と交互したり、ときには時間も飛び越えたりと場面の転換に次ぐ転換で、気づけば15分が経っていたという印象が強い。その濃縮度合からいうと、「あまちゃん」全編で半年分以上の内容はあったと思う。

ファンのあいだでは「あまちゃん」の続編をという呼び声も高い。でも私はもうこれで十分に堪能したというのが正直なところだ。あの続きをつくるとしても、よっぽどうまくやらないかぎり蛇足にしかならないのではないか。とにかくあの最終回、アキ・ユイがこれからどこへ向かおうとするのか、あれこれと想像をかき立てるシーンで締めくくったのはお見事というしかない。

色々書いたけど、私は最終週で鈴鹿ひろ美というか、薬師丸ひろ子の歌声を聴けただけでもう満足である。うん、あれは小泉今日子よりもずっとうま……って、思っててもそんなこと言っちゃダメだべ! まったく油断も隙もねえな。(近藤正高)