コンプレックスとどう向き合うか、というのは大きなテーマです。
「人見知り」というコンプレックス
ぼくは昔から人見知りです。まったくの初対面の人と会うのは苦痛といっても過言ではなかったりします。立食パーティとかに行くと、隅っこの方でひとりでムシャムシャグビグビと料理と酒を楽しんでそのまま誰とも話さず帰るのが定型パターンです。
サラリーマン時代は、会社に掛かってくる電話を受け取るのが苦痛でした。ぼくは声もぼそぼそしているし、人の名前と顔を覚えるのも苦手なので、ホント、電話が掛かってくるたびにドキッとしてましたね。昼休み・早朝など自分しかオフィスにいないときに電話がかかってきたときは、「うん、いなかったことにしよう」とスルーすることもありました。
そんなわけで、もちろん営業のような仕事はできません。大学時代接客のバイトを数日間やったことがありましたが、それはもうひどいものでした。あれはもう、マイ黒歴史ですね。
コンプレックスを克服せず、前提条件として受け入れる
ぼくは万事において「逃げる」ことを意識しているチキンな文科系人間ですので、こうしたコンプレックスに関しても、克服するつもりはありませんでした。というか、無理な気がします。克服しようと思って克服できたら苦労しません。
ぼくの場合は、「人見知り」というコンプレックスを「前提条件」として捉え、そこから仕事を作り上げていきました。
つまり「なるべく人と会わない仕事」「電話が掛かってこない仕事」「愛想良く振る舞わないでもいい仕事」なんて仕事を得られる環境に、みずからを向かわせていったのです。
ぼくの場合、そうした仕事は「物書き」でした。売文業なら、人と会わないでも済むし、電話も掛かってこないし、無愛想でもなんとかなる、そういう条件に魅力を感じました。
今となっては、ぼくは「自分には、物書きくらいしかまともにできる仕事はない」とまで確信しています。サラリーマンもやれなくはないですが、多分どっかでほころびがきます。フルコミットは無理ですね。
「自分には、物書きくらいしかまともにできる仕事はない」という結論は、コンプレックスを全面的に受け入れたことによって得られました。もしもぼくが「人見知りを何とかしたい」と思っていたら、この結論には決してたどりつかなかったでしょう。今ごろ「自分を変えるために」コールセンターとか派遣の営業とかやっていたかもしれません。
「自分には、物書きくらいしかまともにできる仕事はない」と腹をくくることで、売文業に関して、本気度が高まります。
というか、このくらいの覚悟がないと一流になんてなれないとも思っています。「まぁ、いざとなったらなんとかなるし」という保険を用意している人は、どっかで自分をセーブしてしまいますからね。
ぼくは本気でこの道しかないと思い込んでいるので、もう、やるしかありません。毎日必死です。人見知りであるぼくは、「物書きくらいしかまともにできる仕事はない」のです。
色々振り返ってみても、ぼくは自分のコンプレックス、弱みを「前提」として受け入れたからこそ、今の自分があると感じています。頑張って人見知りを克服していたら、それはそれで違う人生が待っていたのかもしれませんが、そういう道は、なんだかもはや「自分の生き方」ではないような気すらしてしまいます。第一、克服するのは相当大変でしょうしね。
受け入れてから、克服できるようになる
ついでにいえば、コンプレックスというのは、一度それを前提として受け入れないと、克服のフェーズに達しないようにも感じます。
ぼくのケースで言えば、「自分は人見知りである」ことを自認し、さらに「イケダハヤトは人見知りだ」と周囲からも受け入れられて、そこではじめて、ぼくは「人見知りを克服しよう」と思えるようになる、ということです。
コンプレックスを克服するというのは、ハンパないエネルギーが求められます。その苦行を乗り越えるためには、強い自己肯定感が必要です。
「自分はこのままではダメだ…」という余裕がない状態では、コンプレックスの克服は難しいでしょう。「自分はこのままでもいいんだけれど、もっとよくなるために、一肌脱いでみるか!」という余裕ある状態であれば、苦行も乗り越えられるかもしれません。
というわけで、コンプレックスは能動的に「克服しよう!」とするものではなく、まずは受け入れ、そのうちに「まぁ、ちょっと頑張ってみるかな…」と思えるようになったら、克服にチャレンジする、くらいがよいでしょう。