このページだけは、かなり堅苦しい文章になりますが、テーマがテーマなのでご了承ください。このページの内容は、自殺願望を持っている人に対してのメッセージでもあります。
毎日、世界のあちこちで人間は自殺しています。なぜ人間は自殺という手段を選ぶのでしょうか? 「そんなことはわざわざ言わなくても解っている」という人も居るでしょう。つらい現状から逃れたい。家族に邪魔者扱いされて居場所がない。学校や職場でイジメにあっていて安堵できる場所がない。最愛の人を失ってしまって後を追いたい。何かの取り返しの付かない重大なミスをした責任をとりたい。その他にもいろんな理由があるようですよね。GIDの人が「今の性別が死ぬほどイヤ」と思って、思いつめて自殺してしまうことも多いです。
あたしも過去に、GIDの悩みを含む心の葛藤のために、自殺を数え切れないほど考えてきたので、偉そうなことは言えません。今では立ち直っていますけど、それでもたまに当時の葛藤を思い出してしまい、「早くこの人生を終わりにしたい」と思ってしまうことがあります。だけど「自殺をしたら霊界でこういう苦しい目にあう」ということを知ってからは、自殺をすることが怖くなってしまいました。どんなに苦労をしてもこの人間界で生きているほうが、自殺をした後の霊界での苦しみに比べれば何倍もラクということに気づいたんです。
自殺をしたら、霊界では間違いなく罰を受けて苦しみます。ではどういう罰を受けるのか、それを説明します。
一般に自殺願望を持っている人は、「自分の存在を消してしまいたい」とか「あの世に逃げ込めればラクになれる」とか「愛していた人の後を追いたい」とかのいろんな理由を持っていますけど、自殺したために霊界で受ける罰は、自殺した方法や動機によって大きく変わってきます。
「アラン・カルデックの『霊との対話』天国と地獄」によれば、例えばある人の寿命が70年だったとして、自殺した時の年齢が50歳だったとすると、本来人間界で生きるべきだったあと20年分を霊界の苦しみの中で過ごさなければならないそうです。飛び降り自殺した人は地面に叩きつけられた痛みが霊界で20年続き、首吊り自殺した人は首が絞められた苦しい状態のまま霊界で20年苦しまなければならないそうです。愛していた人の後を追って自殺した人は、愛していた人と霊界で再会できるどころか、全く逆で、どんなに望んでも愛していた人とはずーっと会えないそうです。
「日本編 - 死後世界地図」の秋山眞人さんによれば、自殺した人の霊は、泥でできたカプセルのような所にずーっと閉じ込もって出てこないんだそうです。更にマイヤースによれば、その状態から助け出すために高級霊が救いの手を差し伸べようとしても、自殺者の回りにうずまく暗くて自閉的な想念が邪魔をして、たとえ高級霊でもなかなか手を出せないそうなんです。
ちょっと特殊な例ですけど、老人が余命いくばくもない状態で、「夢の中でお花畑が見えた」とか「夢の景色は素晴らしいものだった」と口走ることがありますよね。あれは、霊界への旅立ちに備えて、肉体の中の幽体がせっせと幽体のバイブレーションを上げていっているために、老人の霊感が強くなってそういう景色が見えるんです。
そしてその老人は「もうこの世に生きていても仕方が無い。早くあの美しい世界に行ったほうが幸せだ」と思って自殺してしまうわけなんです。いくら幽体のバイブレーションが上がっていても、自殺してしまっては元も子もなく、やっぱり霊界で罰を受けるんですよね。
また、自殺した人は、死んだからといって必ずしもシルバーコードが切れているとは限りません。シルバーコードが完全には切れていなくて、そのために幽体が肉体の感覚と繋がっているため、肉体の苦しみを味わうことになります。実際には肉体は滅んでいるので痛みを感じるハズはないのですが、とにかく肉体的な痛みや苦しみを霊界でも味わうらしいです。この辺のメカニズムはあたしには解りませんけど、とにかく、そういうことらしいです。
自殺した霊は、殆どの場合、中間境の真っ暗闇の中に相当の期間置かれて、夢幻界の最下層部つまり環境の極めて悪い、痛みも苦しみも感じる世界に置かれるそうです。夢幻界の最下層部ではそういう肉体的な苦痛を感じるそうで、自殺者はここで苦しみ続けるというわけなんです。上の界層になれば肉体的な苦痛からは開放されるんですけど、自殺者の霊はそう簡単には上の界層には行けません。これも罰の一つのようです。
自殺した霊がこれらの地獄的な苦しみから解放されるためには、本人が「救いを求める祈り」をするしかないそうです。そのためには、神に対する純粋な祈りが必用で、少しでも神をバカにした心・反発的な心を持っていると、いつまで経っても苦しみから救われないそうです。
でも、誠心誠意をもって必死に「自殺したのは間違っていました。私を救ってください!」と神に祈れば、その熱意次第では、少し上の界層に行けるようになるか、あるいは人間界へ再び再生して人生をやり直すチャンスを与えてくれるそうです。神は決して分け隔てをしないので、誠心誠意を持った祈りは確実に神に受け入れられます。
人間界へ生まれてきたからには、必ず何かしらの理由があります。カルマの清算や、つらい境遇における精神の修行、また類魂の成長のために必用な経験などです。何の目的もなく生まれてくる霊は居ません。必ず目的があって使命を背負っているから生まれてくるんです。
その使命を放棄して自殺してしまうと、まだまだ人間界でやり残した使命が手付かずのまま残ってしまい、その手付かずの使命は自殺した霊にとっての「来世への宿題」となっていきます。
ただ、その「来世への宿題」を背負って再び人間界へ再生しても、今度は前世よりも更に厳しい境遇が待ち受けています。家族の問題や仕事の問題や人生での苦労が、前世よりも更に悪い状態になって降りかかってきます。これも、自殺したことへの罰になっているんです。
こういうことが、自殺をしたために受ける罰なんです。恐ろしいことですよね。「死んだらラクになる」と思って自殺したのに、死んでもなお苦しみ続けるなんて。そして再生した後でも苦しみの尾は続くなんて。
更に「生まれ変わりの村」という本によれば、自殺をしたら問答無用で強制的に再生させられるそうです。そしてまた同じような苦しい人間界での人生が待っているそうです。それを考えても恐ろしいことです。
ですので、自殺は「百害あって一利なし」なんです。自殺は本人にとってヤバすぎです。「自殺したらラクになれる」なんていう言葉は全くの迷信だと思ってください。
えっと、ここでちょっと視点を変えて、例外的な場合の自殺を説明します。
自殺をしても霊界で罰を受けないどころか、回りの霊たちから祝福される場合があります。誰かの命を救うために自分が犠牲になって死ぬ場合です。
例えば、消防士が火事の家の中に残されている人を救い出そうとして、炎の燃えさかる家に飛び込んでいって、運悪く消防士が焼死してしまう場合などです。この消防士の場合は純粋に「人の命を救いたい」という動機なので、霊界では罰は受けず、自己犠牲的・利他的行為として、大いに祝福されます。川で溺れている子供を助けようとして大人が川に飛び込んで、子供を助けたものの、大人のほうは死んでしまう、というケースも同様で、霊界で祝福されます。どちらも死のうとしてやったことではないけれど、「死ぬかもしれない」という気持ちを持っていて実行に移したことになり、一応、自殺の一部に入るようです。
また、大昔に、忠誠を誓っていた殿様の命を守るために家来が自殺する、ということが多くありましたよね。この場合も同じで、やはり霊界で祝福されます。
ただし、「この人の命を救って自分が死ねば霊界で祝福される」という下心を持っていては意味がありませんし、祝福されないどころか、その下心の代償としてやはり罰を受けるんです。
要するに、暗い気持ちや暗い動機から自殺する人は心が内向していて、回りが見えていません。それに対して自己犠牲的・利他的行為の自殺は心に内向的な面がなく、意識が外部に向けられています。そのために自殺の後でも回りのことが見えるというわけです。
それでは、「早く霊界に行って積極的に霊界を探求したい」という理由で自殺するのはどうかというと、やはり同じく罰を受けます。一見、立派な理由に見えて心が内向していないように思えても、やはり自分の都合だけで人生を放棄することには変わらないからです。
あたしも、「早く霊界に行って積極的に霊界を探求したい」とか「早く霊界に行って自分の夢である幼女化願望を追いたい」と思ったことが何度あったか数え切れません。でも自殺した後の苦しみを(少なくとも知識としては)知っているので、自殺を思いとどまることができたんですよね。
どうか、いかなる逆境に立たされても、自殺だけは考えないようにしてください。月並みな言い方ですが、人間いつかは必ず死ぬことができるんですし、事故死でも病死でも老衰死でも、極端な場合は殺人の被害者になったとしても、いつかは来る自然なる死を心待ちにしていればいいんです。
シルバーバーチも「人間は死ぬべき時に死ぬもので、本人が死期を決めるものではない」という意味合いのことを言っています。自殺は神に対しての背信行為だという意味らしいです。神を信じていないから自殺するのであり、神を信じていれば自殺など考えない、というのです。
現在の日本に自殺が多いのは、現在の日本では宗教や霊界について無関心な人が多すぎるからだと思います。昔は「自殺したら地獄に行く」「自殺したら自縛霊になって彷徨い続ける」とか言われていましたけど、昔の人たちは本能的に神様や霊界の秩序を解っていたのだと思います。
要するに物よりも心を大切にしていたのですね。
経済大国になって、文明がどんどん発達して物質的には豊かになっても、その文明の虜になってしまって、肝心の「心の大切さ」が軽視されている現代では、「自殺したらラクになれる」「あの世に逃げ込みたい」「存在を消したい」などの安易な理由から、あまりにも簡単に自殺してしまう人が後を絶たないのだと思います。また、心の大切さが軽視されているから、イジメなども減らないどころか増えてきているのだと思います。
日本人の多くが「今がよければそれでいい」「心なんか磨いてカネになるのか?」という考え方をしている限り、現状は良くならないでしょう。この世に生まれてきたのは、心の修行をするためであると言われています。それを忘れたくは無いですね。
ちょっと脱線しますけど、最近何かに付けて「スピリチュアルうんぬん」という言葉が聞かれ、霊的なことや精神的なことや心霊現象やインチキ霊感商法など、全部ひっくるめて「スピリチュアル」という言葉で一くくりにしたがる人がいらっしゃいますけど、流行のいわゆる「スピリチュアル」という言葉と、19世紀から始まった、イエスがリーダーとなっている人類救済のためのプロジェクト「スピリチュアリズム」とは全くの別物だと思っています。
インチキ霊感商法いわゆる「スピリチュアル詐欺」に引っかかってお金を騙し取られた人は、スピリチュアルという言葉を聞くだけで拒絶反応を示すでしょう。そして「スピリチュアルなんてデタラメだ。科学のチカラを崇めよう。人間は死んだらそれで終わりだ。神など居ない」という短絡的な物質的思考にハマってしまい、「今がよければそれでいい。死んだ後のことなんか知るか!」という人が増えているのだと思います。スピリチュアリズムを「スピリチュアル」という流行語に捻じ曲げて金儲けに利用する輩が絶えないので、純粋なスピリチュアリズムの思想が誤解されても仕方が無いことでしょう。スピリチュアル詐欺は本当にどうにかならないものか、と思います。
イエスの言葉はもちろんのこと、シルバーバーチ、モーゼス、インペレーター、アラン・カルデック、フレデリック・マイヤース、ジュリア、ウイリアム・ステッド、コナン・ドイル、エマニュエル・スウェーデンボルグなどのスピリチュアリズムの霊的・哲学的思想を何でもかんでも「スピリチュアルだからダメ」の一言で片付けてしまうのは、それこそ思考停止と同じことです。イジメをやっている人や自殺を考えている人は、もっと「心」を大切にして欲しいです。精神世界では何一つ誤魔化しがききませんから。いくら表面上で悟ったようなフリをしても本心はバレバレなんです。気をつけてください。
閑話休題。
霊的に見て、自殺というのは大きなカルマをわざわざ自分で背負うことになり、その自殺というカルマの清算のために更に苦しい思いをしなければならなくなるんです。
自殺をしたら罰を受ける、とうるさく書きましたけど、自殺しようと思っている人を思い留まらせるためにあえて罰という言葉を何度も使いました。罰というといかにも神が恐るべき存在で非情な罰を与えるようにきこえてしまいますけど、本当は、神は優しいお方です。罰を与えるというのは、正確にいえば「カルマの清算をするために必要な状態に置く」という意味です。神は恐ろしい存在でもなく非情な存在でもありません。自殺した霊が早くカルマの清算をできるように、そういう状態(本人にとっては苦しい状態ですけど)に置くんです。そういう状態に置かれるということは、宇宙の因果律がそういう風に自動的に働くということでもあります。
更に、宗教によっては自殺は罪であるかのように説かれていますけど、この罪という言葉はちょっと大げさで、正確にいえば「過ち」なんですね。悪いことをしたというよりは失敗をしてしまった、と捉えるべきでしょう。シルバーバーチの霊訓で、「罪という言葉は好きではありません。私なら“過ち”と言いたいです」というのがありますが、まさに的を射た表現だと思います。
罰ではなく「カルマの清算をするために必要な状態」、そして罪ではなく「過ち」、これらの言い回しを考えると、神や高級霊がいかに優しいお方で、自殺をした霊のことも決して見捨てない、それどころか一生懸命救おうとしている、そういう果てしない懐の大きさがうかがえます。
霊界においての基準では、自殺は最大の過ちだといわれています。そのために大きなカルマをわざわざ自分で背負ってしまうんです。そう考えれば自殺なんて怖くてできません。人間界において、どんなにつらくても、天寿を全うするほうが何倍もラクなんです。どうか、このことを忘れないでください。
魂がたどる永遠の旅を考えてみれば、今人間界で生きているこの人生は、ほんの一時のものなんですから。