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【社会】

憲兵隊が虐殺…ひっそり弔い 大杉栄の埋葬写真公開

埋葬に出発する一行。中央の遺骨を抱えた男性(左)が弟勇、その右が弟進、その右が菊。人力車に乗っているのは僧侶。その右に警察官がいる=大杉豊さん提供

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 一九二三(大正十二)年、関東大震災の混乱の中で憲兵隊に虐殺されたアナキスト大杉栄=当時(38)=らの遺骨埋葬時の写真が残されていることを、栄のおいの大杉豊さん(74)=千葉県柏市=が明らかにした。栄らの葬儀で遺骨が一時盗まれた事件があったことなどから、埋葬は仲間にも知らせず親族だけでひっそり営まれ、写真はこれまで公になっていなかった。 (小寺勝美)

 栄は伊藤野枝(のえ)=当時(28)=とおいの橘宗一(むねかず)=同(6つ)=とともに震災後の九月十六日、甘粕正彦憲兵大尉らに東京・麹町憲兵分隊に連行されて殺され、古井戸に投げ込まれた。虐殺発覚後、遺骨は返還され、同年十二月に東京・谷中で営まれた葬儀の際に右翼に盗まれたが、翌二四年五月、静岡市に住む妹の柴田菊に返還され、市内の沓谷(くつのや)霊園に埋葬された。

 公表した写真は、菊の自宅から霊園に向かう一行と埋葬翌年に本格的に墓所を整備している様子の二枚。一行の写真には、栄の墓標と豊さんの父親で栄の二番目の弟の勇、三番目の弟の進、菊らが写る。隅には警察官の姿もあり、当時の厳しい状況がうかがえる。

 墓所の整備は妨害を警戒し、前夜に土などを運び一日で造り上げたという。埋葬前夜、簡単な祭壇に置かれた三人の遺骨と遺影、埋葬後の墓標の写真もあった。この二枚も一部関係者にしか知られていないという。

 豊さんは民放局に勤めていた四十代に祖父ら一族についてまとめた本(私家版)を制作したが、「栄の部分が物足りない」との思いから退職後に十年にわたる本格的な調査を経て二〇〇九年に「日録・大杉栄伝」(社会評論社)を出版。その過程で十年前に菊の一族宅のアルバムにあった公表した二枚を見つけたが「個人的な写真と思ったので著書には載せませんでした」と言う。

 今年は虐殺九十年に当たり、命日の九月十六日に静岡市で十年ぶりの墓前祭と追悼集会が開かれ、招かれた豊さんが当日、写真の存在を明らかにした。豊さんは「大正デモクラシーの中で目覚めた民衆とともにあった人だと思う。もう少し長生きしてほしかった」と話している。

 

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