海境・ニッポン:第13回 済州島/上 インタビュー 文京洙氏(立命館大学国際関係学部長)
毎日新聞 2013年10月01日 東京朝刊
◇日本とも深いかかわり−−文京洙氏(ムン・ギョンス)氏
−−「四・三事件」の被害は、なぜ深刻化したのでしょうか。
事件が東アジア冷戦構造の「結節点」で起きたからだ。戦後、米国は朝鮮半島で、ソ連の影響力を防ぐ「とりで」を作るために南側単独の総選挙を実施し、大韓民国を成立させた。一方、北では金日成(キムイルソン)が作った臨時人民委員会が強引な社会主義改革を進め、そこから南に逃れた人々の恨みつらみが、事件の鎮圧過程で「アカ狩り」と称する島民弾圧となって表れた。
−−事件の真相解明は。
1997年ぐらいから済州島で事件解決を目指す運動が高まり、一番進んだのは金大中政権(98〜03年)のとき。真相調査報告書で明確にされたのは、韓国政府の過剰鎮圧があったという点だ。「共産勢力の暴動」を主張する団体と「民族統一のための抵抗運動」と主張する団体が分裂していたが、「受難と和解」を基本に合同した。「誰の責任か」はひとまず棚上げし、被害者は「罪のない犠牲者」であり「韓国政府が責任を負わねばならない」という点で合意した。
でも、歴史的意義付けの論議は100年たっても終わらないだろう。私自身は、右翼や警察による島民への虐待に対して立ち上がった若者たちによる「地域共同体を守るための自衛的な行動だった」という視点で捉える立場をとっている。これなら真相究明や犠牲者の名誉回復は可能ではないか。
−−日本とはどういう関わりが。
鎮圧した軍や警察の首脳の多くは日本の植民地統治に関与した人物たちで、抵抗した側も最初の武装蜂起時の司令官、金達三(キムダルサム)は中央大学の卒業生だし、後任は立命館大学の卒業生だった。済州島の南朝鮮労働党(南労党)の指導者の多くは、日本での労働運動や反日運動の流れをくむ人たちだった。その結果、多くの人が(事件後)日本に逃れた。検証が必要だが、逃れた抵抗勢力の指導者らが日本の左翼運動に大きな影響力を持った。
−−日本と済州の社会運動は一体だったのですね。