今日で9月は終わり、ルナカレンダーを一枚破いて明日からは10月になる。
山の家ではキンモクセイが満開で、
濃厚な香りにどうにも落ち着けずトリップ気分の一日だった。
アパートのベランダでは、夏の名残の朝顔がいまでも毎日青い花を咲かせる。
日差しが弱まったせいか日中になっても花は衰えない。
その律義さを立派と思う。
写真はイエローターコイスの本勾玉(¥4,000)。
ターコイスは空色と思われているが、白色や黄色、緑色のもある。
空色のターコイスの発色成分は銅で、
銅の含有量が減ると色合いは白っぽくなり、
鉄分が入ってくると緑味のある黄色や緑色に発色する。
イエローターコイスはとても軽い。
ストレスがたまってトゲトゲしくなった気持ちをなだめてくれるようなところがある。
日本ではほとんど流通していない珍しい鉱物でもある。
■勾玉100物語・35
飼い主が猫の首輪に勾玉を付けたことで猫が変貌する話はけっこう多い。
その虎皮模様の猫は、猫は水嫌いという通説を破って、
川の深みへと潜って鯉や鮒を狩るハンターになった。
猫は猫のままでいて十分愛らしいのだが、鳥やイタチへと変身を試みる猫は、
ダイアモンドの原石をブリリアントカットして商品価値を高めるのにも似て、
数十倍、数百倍も可愛くなる。
水中での背面宙返り、スクリュー回転、腹づつみ、片足トントン、などなどを
やってのける猫は、ラッコやビーバーやカワウソよりはるかに崇高で優美だった。
ちなみにぼくはアメリカの南西部で、小川をせきとめて巣を作り、
巣の近くで泳ぐビーバーを見たことがある。
ロサンゼルスの南にあるモントレーという港町にラッコを見に出かけたこともある。
カワウソの親類のイタチであれば、
子供のころ自宅の庭に出没したからよく覚えている。
そんなふうなのでカワウソやラッコやビーバーがどんなに優美なのかよく知っている。
そのぼくが潜水する猫はカワウソやラッコよりはるかに端麗であるというのだから、
間違ってはいない。
虎皮模様で潜水の好きな猫は、水中で獲物を捕ると、
まるで小さなシャチのように水面に躍り出る。
身の丈ほどの大きさの鯉をくわえた勇壮な姿たるや、
言葉がとろけてしまいそうに雄々しかった。
■勾玉100物語・36
守護霊や指導霊に導かれて来店する人は、ものすごく珍しいというわけではない。
本人は無頓着、なぜ来店したかを理解できていないが、
守護霊がそうしむけている場合もある。
けれど、夢に降りた女神の指示で店に来たという人は初めてだった。
彼女は辰砂を探していた。スペイン産で辰砂の微結晶が岩塊状に凝集した標本を見せると、
まさにそれが欲しかった、とのことだった。
そうして彼女は半年ほどの間常連になってくれた。
南洋黒真珠のネックレスや立派なエレスチャル、
とびっきり美しい水晶クラスターなどが彼女のもとへ渡っていった。
「あのときは丹生津姫を夢見て、彼女に教えられて店に来た」
いくらか気心が知れるようになってから、彼女は言った。
あるときには、ブレスレットを結んであるワイヤーを切ってしまう人が話題になった。
そんなに乱雑に扱っているようではないのに、ある特定の客に限って、
ブレスレットのビーズを結ぶワイヤーが切れてしまう。
何度も修理を依頼してくる。
切らなくてはならないような潜在意識的理由があるかもしれないと、
ぼくは深層心理学的な解釈を披露した。
「そうではなくて、なにもしないし、なぜかわからないけれど、
ワイヤーが切れることがあるんですよ」彼女は言った。
そのせつなだった。彼女が左腕につけていた
日本翡翠の小さな勾玉付きのブレスレットのワイヤーが切れた。
はらりと彼女の腕から離れて、微速度撮影したテレビ番組のようにビーズが床に散った。
あまりに意味ありげな偶然の一致に、彼女は眉を潜めた。
■勾玉100物語・37
死んだらどうなるかということほど、不確かなものはないのではないだろうか。
死後の世界はあるのかないのか、転生するのか、
そもそも魂というモノがあるのかないのか、
確かなことは何にひとつわからない。
コンクリートのアパートの通路で死んでいくセミと同じように、
われわれ人間だって死んだ後には遺骸以外何も残らない思ってみっても、
それが正しいという保証はない。
臨死体験や死んでいく人たちの証言をもとに、
お花畑みたいな死後世界があるという人たちがいる。
けれど、ああいうのは、死という衝撃の前で脳のドーパミン回路が開いての
幻覚体験なのだといってしまえば、それだけのものだ。
医者や科学者が死後の世界について語るのを読んで、
それを科学的見解と思うのは浅はかなことで、
医者や科学者とて「死」についてはまったくのシロウトだ。
それでもともかく、
自分が死んだ後も自分抜きでこの世界は存続していくことだけは確実に思える。
そう信じて疑わないから死後の名声や財産の処遇を気にかける人もでてくる。
これに対して古代インドには、真の自我を想定して、
それを中心に生と死の意味について考えた哲学があった。
ここでは日常的な物質世界は、自分がかくあると信じてそのように思っているから、
そのように実在している世界なのであって、自分の死とともに、
そうした思い込みが終わるので世界もまた消失すると考えた。
自分と世界との関係性をつきつめて思考しての結果だった。
この思想は、世界はかくあるという認識は脳が描く劇場であるので、
脳が機能停止すると同時に、世界もまた消滅すると考える昨今の脳科学に似ている。
意識によってものごとは認知され、意味や価値が与えられて世界は構築される。
意識が崩壊するなら意味は消失し、世界もまた崩壊していく。
サ−ンキヤの思想家たちのように世界と自分との関係性を考えるのは意義深い。
簡単にいってしまえばサーンキヤによって、欲望にふりまわされ、
欲望に呪縛され、欲望を信仰している日々の暮らしから、しばしの間、離脱できる。
そんなことを窓の外の景色に目をやりながら、うすぼんやりと考えていた。
ふと気付くと向かいの丘陵から阿弥陀如来がゴジラほどに大きな姿をあらわすように、
勾玉の形をしたスターチャイルドが宙に浮かんで、胎児の眼でぼくを覗きこんでいた。