エルヴィン・ヨハネス・オイゲン・ロンメル元帥といえば、日本で最も有名なドイツ軍人といっても、あまり異論は出ないだろう。 参考文献にも、書名に「ロンメル」が入っている本が5冊もある。これ以外にも、今回は使わなかったが、ノルマンディーにおけるロンメルを描いた「ノルマンディーのロンメル」(フリードリヒ・ルーゲ ソノラマ文庫)という本も持っている。 勿論、私が持っていないロンメル本もある。これだけ個人の評論が出ている外国軍人というのは珍しい、ロンメルが日本でも有名で人気がある証拠だろう。 (ロンメルに関する評論が多いのは、ロンメルが戦争中に死んだため、ロンメル自身の回想録が無く、そのため、様々な人が、それぞれのロンメル観やロンメルとの遭遇体験を公表することが出来たためだろう。仮に、决定版というべきロンメル自身の書いた回想録があれば、こういった本の多くは世に出ることはなかっただろう。) では、ロンメルが、本当に日本で最も有名なドイツ軍人かといえば、意外かもしれないが、そうではない。実際に、日本で最も有名なドイツ軍人は、世界三大伍長(※)の一人である、アドルフ・ヒトラー伍長(正確には、伍長(下士官)ではなく、伍長勤務上等兵(兵隊)だったそうであるが、ドイツ語の分からない私には、本当かどうか皆目分からないので、ここでは、昔から言われているように伍長としておく。)である。人気はともかく、知名度という点では、ロンメルの数段上(例えば、書名にヒトラーが入っている本は100冊ではきかない)であることは間違いない。 もっとも、ヒトラーの場合は、軍人であった時期は、オーストリア・ハンガリー二重帝国の国民(ヒトラーは、1932年にドイツ国籍を取得)であり、厳密にはドイツ軍人とは言い難いし、私も含めて、殆どの日本人が、ヒトラーといった場合に連想するのは、政治家であって、軍人ではないであろうから、ここでは例外としておく。 ※ 世界三大伍長:ヒトラー伍長、三原伍長、のらくろ伍長、木村毅博士の説。 (三原伍長:毎日新聞記者、砲兵伍長、1年志願の除隊直後、日中戦争に従軍記者として出征、砲兵陣地を取材中、昂奮し「打てえ!」と号令、これにつり込まれた砲手が本当に発砲してしまったため、大問題となった。「のらくろ漫画集(1)」田川水泡 講談社少年倶楽部文庫 P195「”のらくろ”覚えがき」加藤鎌一より) 話がそれた、閑話休題。 サー・ウィンストン・レナード・スペンサー・チャーチルといえば、日本で最も有名なイギリスの政治家だろうと思うのだが、今だと、同じ保守党で、イギリス初の女性首相だった「鉄の女」ことマーガレット・サッチャーの方が有名かもしれない。 ところで、チャーチルが、実は、ノーベル賞作家でもあることは、どのくらい知られているのだろうか。嘘のように思われるかもしれないが、チャーチルは「第二次世界大戦回想録」で1953年にノーベル文学賞をとっている。 しかし、政治家の回想録が文学賞になるというのは、珍しいのではないかと思う、というより、回想録というのは、そもそも、文学なのだろうか、確かにノンフィクションも文学のうちであるし、大学でも、歴史学は、文学部の中にあるが、なんか違うんじゃないかという気がしてならない。 そもそも、歴史学が文学部にあるということ自体が、変ではないだろうか。歴史学は社会学の一部としか思えないのだが。 話がそれた、閑話休題。 さて、開設の辞にもあるように、このサイトは、戦史のうち「二〇世紀前半の日本に関係するものに限り」取り扱うことになっている。にもかかわらず、どうしてロンメルが出てくるのかと言われそうであるが、ここで、取り上げる以上、関係があるのである。 どんな関係かは、これから、説明していくことにする。 1940年末から1941年初頭にかけて、イタリアは、北アフリカで、イギリスに大敗し、キレナイカ(現在のリビア東部地方、当時はイタリア領北アフリカの一部)を失った。当時ドイツは、その年の6月に、その命運を賭けた乾坤一擲の大作戦である対ソ連侵攻作戦「バルバロッサ」を控えており、本来なら、北アフリカに戦力を割く余裕など無かったのであるが、北アフリカから、イタリアが追い落とされた場合のイタリアの政治的な問題から、この情況を放置するわけにはいかなかった。 このため、ドイツ参謀本部とヒトラーは、1941年2月に北アフリカのイタリア軍の支援を目的とした、ドイツアフリカ軍団(以下DAK)を編成し、ロンメルをその指揮官に任命する。 イタリア軍の支援が目的であるDAKは、その兵力も、第5軽師団(歩兵師団と装甲師団の中間のようなもの、後に戦車の追加無しで、第21装甲師団に再編される。)と第15装甲師団の2個師団だけと限定されたものであった。 「総統指令から引用しよう。「陸軍総司令官はトリポリタニアの防衛、特に、イギリス機甲師団【装甲師団と同じもの】に対する作戦で、有効な貢献を成し得る阻止部隊を準備すべし」とある。あくまで牽制作戦なのである。」(「鉄十字の軌跡」大木毅 鹿内靖 株式会社国際通信社 P58 【】内筆者注記) ドイツ参謀本部もヒトラーも、北アフリカでイギリスと、ヨーロッパ東部でソビエトと戦う、二正面作戦を行う積もりはなかったのである。 北アフリカでイギリスと戦うことを避けるという判断は、ドイツ参謀本部が、北アフリカ戦について検討した結果に基づいている。 「ドイツ国防軍部隊の北アフリカ派遣は、一九四〇年一〇月初旬に初めて本格的に考えられた。ドイツ参謀将校リッター・フォン・トーマ将軍が、現場調査のためにエジプト進攻のイタリア軍に派遣された。一〇月二三日、彼は機械化部隊だけが砂漠では役に立つと報告した。成功するためには『四箇機甲師団だけで十分であろう』し、この兵力はまた『砂漠越えでナイル川渓谷まで進むためには、補給物資で維持できる最大限度』であった。トーマ将軍は、この小部隊は最精鋭部隊でなければならないと述べたが、このことはリビアにいるイタリア兵をドイツ兵に交替させることをも意味していた。だがヒットラーがよく知っていたように、これにはムッソリー二が決して同意を与えないであろう。」(「補給戦」マーティン・ヴァン・クレヴェルド 原書房 P174) つまり、政治面並びに兵站面の制約から、枢軸軍は、ナイル渓谷、すなわちエジプトの中枢部にまで到達できない、従って、北アフリカでイギリスに勝つことは望めない、という結論が既に出ていたのである。 それに、対ソ連戦を控えたドイツには、北アフリカに、貴重な装甲師団を4個も割くような余裕もない。何しろ、対ソ連戦を控えて、不足している装甲師団の数を手っ取り早く増やすため、それまで2個戦車連隊で1個装甲師団を編制していたのを、半分の1個戦車連隊で1個装甲師団を編制するというという、戦力低下に目をつぶった水増しをしてまで、装甲師団の数を無理矢理増やしたぐらい装甲師団は数が少なく貴重だったのだ。 とりあえず、最小限の努力で北アフリカをイギリスから守ることが、ドイツ参謀本部ならびにヒトラーの意向であった。 普通の司令官であれば、ドイツ参謀本部とヒトラーの意向に従ったであろうが、相手は、独断専行、積極果敢、野心旺盛なロンメルである。 1941年3月、DAKの司令部で、アビシニア(エチオピアの旧名、当時はイタリア領東アフリカ)から着任し、ロンメルに問われるままアビシニアの情勢を正直に「不利」であり、「いかなる手段を以てしても、該地(アビシニア)の情勢を救うことは不可能」だと答えたハインツ・シュミット少尉に、ロンメルは、こう言い放つ。 「「わかっておらんね、少尉」【ロンメル】将軍は冷たく決めつけると、「われわれは反撃にうつって、ナイル河まで行くのだ。そして勝利のうえいっさいを取り戻す」」(「砂漠のキツネ ロンメル将軍」ハインツ・シュミット 角川文庫 P11【】内筆者注記) ロンメルが、イタリア軍を支援する牽制作戦の実施に留まらず、積亟的にイギリス軍を攻撃、撃破して、エジプトを占領した上、更にその先へ進む積もりであったことが分かる。 「われわれはイギリス軍の攻撃をしりぞけて、トリポリタニアを救わなければならない。」(「砂漠のキツネ ロンメル将軍」P14) そう言ったロンメルは、まだ、第15装甲師団が北アフリカに到着していない3月に、第5軽師団のみで、イギリス軍を攻撃し、これを撃破することに成功した。 確かに、「イギリス軍の攻撃をしりぞけて、トリポリタニアを救」った訳だが、ドイツ参謀本部ならびにヒトラーの意向に沿った行動とは言い難い。 しかも、ロンメルは、その後も、攻撃を続け、4月にはベンガジ港を奪回、トブルク港を包囲して、キレナイカを回復し、エジプト国境にまで進出する。 どう見ても、やりすぎではあるが、「勝てば官軍」はドイツにもあるのか、それとも、ロンメルがヒトラーのお気に入りであるためか、ロンメルのやりすぎは見過ごされる。こうして、2年にわたる北アフリカ戦が始まり、ドイツは望まなかった二正面作戦に捲き込まれるのである。 と、長々と書いたが、実は、ここまでは前置きである。いや、こんなに長く書く積もりは無かったのだが、書いていたら長くなってしまった。申し訳ない。 さて、ここからが本題である。 1941年といえば、既に日本と、アメリカ、イギリスの関係は極度に悪化しており、イギリス参謀本部は、マレー方面の戦力増強の必要性を痛感していた。 何しろ、マレー守備軍は、 「英兵一万九〇〇〇、オーストラリア兵一万五〇〇〇、インド兵三万七〇〇〇、マレー兵一万七〇〇〇」と頭数こそいるものの、統一の取れない混合部隊で、「装備・訓練両面において(中略)劣っていた。しかも日本軍は戦車二一一輌<マレー英軍はゼロ>、飛行機五六〇機<英空軍のほぼ四倍>の支援を受けており、その飛行機は質において英軍のものよりもはるかにまさっていた。」(「第二次世界大戦」リデル・ハート フジ出版社 P251) のであるから、当然といえば、当然である。 一方、アメリカは、 「【1940年】十一月十二日(中略)スターク海軍作戦部長は、マーシャル陸軍参謀総長同意の下に、「枢軸国及び日本に対する行動の統制を、促進する確乎とした計画及び協定を、作成することを目的として、英国当局と徹底的な参謀会議を秘密裡に即刻開始するために、陸海軍代表を任命せられたい」旨大統領に進言した。ルーズベルト大統領はこれを承認し、英国側にはもとより異存なかった。十一月三十日スターク海軍作戦部長から英国の陸海軍両統帥部長あて、会議の招請状が個人的招請の形で発せられた。」(戦史叢書「大東亜戦争開戦経緯<3>」防衛庁防衛研修所戦史室 朝雲新聞社 P342 【】内筆者注記) かくして、1941年1月29日から3月29日までの3ヵ月にわたり、ワシントンにおいてアメリカ、イギリスの高級参謀による極秘の非公式軍事会談が開催された。 会談において、イギリス代表は全般戦略に関するイギリス側の見解の要約を提出した。その冒頭の三つの前提の一つが 「ニュージーランド、濠洲、シンガポールを含めて極東領地の安全は、英連邦の結合のためにも、その戦争努力の維持のためにも、重大である。シンガポールはこれらの利益の防衛のための要点であり、その保持は確実にせねばならない。」 であった。 そして、この軍事会談の結果、3月29日までに、「ABC−T」及び「ABC一U」より成る、「米英参謀会談報告」すなわち「米英参謀協定」が締結された。 「ABC−T」において、「両国の戦略的防衛方針」として、 「英連邦究極の安全のため、極東を維持する基本方針が、英連邦の結合と安全とを保障することを目途とするごとく、一般配備がなされなければならない。」(「大東亜戦争開戦経緯<3>」P343〜347) と定められた。 ところが、その後、太平洋戦争の開戦までに、マレー守備軍が受けとった増援は、歩兵6個旅団だけで、戦車も、航空機も無かったのである。そして、そのままの状態で、日本軍の攻撃を受けたマレー守備軍は、イギリス参謀本部の懸念通り大敗し、イギリスにとって極東の要であるシンガポールまで陥落してしまう羽目になる。 何故、このような事態が起こったのか、そこに、ロンメルとチャーチルが絡むのである。 1941年4月、チャーチルは、ロンメルの攻勢に対抗するため、戦車をかき集め、295輌もの戦車を北アフリカへと送り出した。しかも、反撃を早くするため、輸送期間の短縮を狙って、あえて危険を冒して、ドイツ空軍が跳梁跋扈する地中海経由で送り込んだのだった。 悪天候が幸いして、ドイツ空軍の攻撃をうけることはなかったが、輸送船1隻が機雷に触れて沈み、57輛の戦車が海没した。だが、残りの238輛の戦車は無事北アフリカに到着した。(内訳は、当時としては破格の重装甲を持つ歩兵支援戦車マチルダ2が135輛、高速の巡航戦車マーク2が82輛、軽戦車マーク4が21輛となっていた。) その上、チャーチルは、更に、追加の戦車100輛を喜望峰経由で北アフリカに向けて送り出した。 このチャーチルの北アフリカ偏重に、イギリス陸軍参謀本部は異を唱える。 「【1941年】五月初め、(陸軍)参謀総長ジョン・ディル卿は首相に書面をもって、英本土あるいはシンガポールを犠牲にして北アフリカにおける攻撃部隊の兵力増強を継続することには反対である、と述べた。 〈(前略)シンガポールの防御体制はなお相当に基準を下回っていると言わねばなりません。(後略)> チャーチルはこれを読んで思い悩んだ。これはロンメル軍に攻勢を掛けることによって、北アフリカにおける決定的勝利を早期にかち取ろうとする彼の念願に反するものであった。(後略) 〈(前略)日本は最初からシンガポールを攻囲するようなことはしますまい。それよりも巡洋艦、巡洋戦艦を東方貿易ルートヘ派遣する作戦のほうが、日本にとりはるかに危険が少なく、われわれにとりはるかに損失が大きいからであります>」(「第二次世界大戦」P259〜260) 北アフリカにおける決定的勝利を早期に勝ち取ろうとするチャーチルは、イギリス陸軍参謀本部の反対を無視するのである。 北アフリカにおいてイタリア軍に大勝し、ドイツ軍に敗れた、イギリス中東方面軍総司令官アーチボルド・パーシバル・ウェーヴェル元帥は、戦車の増援を与えられはしたものの、チャーチルの念願のような北アフリカにおける決定的勝利を早期に勝ち取るのは無理と判断し、とりあえず、ドイツ軍をトブルク以西に撃退し、トブルク港を解放するという限定的な目的を目指した「バトルアクス作戦」を、1941年6月に実施する。 しかし、ドイツ軍の堅固な守りの前に、攻撃は敢え無く失敗し、戦車91輌(100輛以上という資料もあり)を失うという大損害を被ってしまう。敗北後、チャーチルから消極的と見られたウェーヴェルは、その功績にも拘わらず、インド方面軍総司令官に更迭された。代わって、イギリス中東方面軍総司令官には、インド方面軍総司令官であったサー・クルード・ジョン・エアー・オーキンレック元帥が就任する。 「一九四一年夏、決定的勝利を手中に収め、アフリカ大陸から敵を駆逐するという目標を達成しそこねたチャーチルは、かえってますます執念を燃やし始め、(中略)エジプトに増援軍が派遣された。チャーチルの軍事顧問の面々は、シンガポールを中軸とする極東の確保こそ英本土防衛に次ぐ重要課題であり、中東防衛はその後の問題であるとした年来の決定事項を思い出させようとしたが、チャーチルは受け付けなかった。」(「第二次世界大戦」 P207) 7月になると、アメリカのルーズヴェルト大統領は、外交顧問であるハリー・ホプキンズをロンドンヘ派遣し、北アフリカに固執するイギリスの姿勢に懸念を表明し、アメリカ陸海軍も、北アフリカよりシンガポールを優先させるべきだと申し入れた。 だが、 「チャーチルはそれでも自説を曲げなかった。「私はエジプトの戦いを放棄する意図はなく、マレーにおいていかなる罰金を課せられようと、その支払いは甘受する」。」(「第二次世界大戦」 P261) と言うにまで至ったのである。 チャーチルは、すっかり、ロンメルに魅入られてしまったという外はない。どう見ても、これは、まともな判断ではない。 前述のように、シンガポール防衛を優先するというのは、イギリスの基本方針として既に決定されていたし、「ABC−T」は、「両首脳【ルーズベルト大統領とチャーチル首相】とも実質的には、この協定に準拠して、爾後の軍事諸計画及び決定が行なわれることに同意していた」)のである。(「大東亜戦争開戦経緯<3>」 P347 【】内筆者注記 決定事項を反古にし、アメリカとの合意事項である「ABC−T」すら無視して、ロンメルの打倒に邁進するチャーチルの行動は、最早、異常という外はない。 しかし、統帥権を軍が握っていた、大日本帝国では考えられない事であるが、文民統制のおかげで、最高指揮官でもある文民のチャーチルの暴走を、軍のトップといえども止められなのである。 文民統制は、民主主義国家には、絶対に必用なことであるが、チャーチルやヒトラーのケースを見ると、孫子が、「君の軍に患となる所以のものに三つあり」として、王が軍に介入することを戒めたように、文民すなわち軍事には素人である、政治指導者が軍事行動に口を挟むとろくなことにはならないということのようである。 さて、同じ1941年7月、極東において日本は、アメリカの警告を無視して、南部仏印に進駐し、アメリカ、イギリスとの対立を決定的にしてしまう。 アメリカ、イギリスは、オランダと共に、日本の対外資産の凍結を行い、石油の対日輸出を停止する。この結果、石油の輸入が不可能となった日本は、これ以降、石油獲得のため、戦争へと突き進むことになる。 8月になって、石油の禁輸措置の結果生じる、対日戦争の脅威に気づいたチャーチルは、対策を講じた。禁輸措置実施から、実に1ヵ月も後のことである。それ程、チャーチルの関心は極東から離れていたのである。 チャーチルは「戦争阻止のため」、海軍の極東への増援を決定する。陸軍、空軍の増援ではなく、海軍のみの増援であることから、チャーチルはあくまでも、北アフリカに、というより、ロンメルを打倒することに固執しており、そのために必要である陸軍や空軍を、極東へと割くことを避けた事が分かる。 海軍省は、 ネルソン級(40cm砲9門搭載、日本の長門級に相当) 2隻、 旧式戦艦 (38cm砲8門搭載、日本の伊勢、扶桑級に相当)4隻、 レナウン級(38cm砲6門搭載、日本の金剛級に相当) 1隻、 空母 (概ね、攻撃力は劣り、防御力は勝る) 2、3隻 の派遣を計画した。 これは、相当に強力な戦力で、実際に派遣されていれば、金剛級2隻を主力とする、日本海軍のマレー攻略支援艦隊ではとうてい太刀打ちできず、海軍戦力や航空戦力の追加等で、マレー攻略戦に大きな影響を与えただろう。 だが、チャーチルはここでも、横槍を入れ、「最精鋭艦をごく少数」投入したいとして、戦力を値切り、結局、 プリンス・オブ・ウェールズ(35.6cm砲10門、日本の長門級以下伊勢級以上に相当)、 レパルス(38cm砲6門搭載、日本の金剛級に相当)、 インドミタブル(装甲空母、45機搭載、攻撃力は劣るが、防御力では圧倒的に勝る) の3隻のみの派遣がきまった。 チャーチルは 「<私としては日本は、現在形成されつつある合衆国、英国、ソ連の反日連合には対抗できないと考える……。私があげたような兵力、特に「キング・ジョージ五世」【プリンス・オブ・ウェールズはキング・ジョージ5世級の2番艦】の出現ほど、日本のためらいを増大させるものはないであろう。>」(「第二次世界大戦」P252【】内筆者注記) と考えたそうである。 ビスマルクに手も足も出なかった戦艦1隻を相手に、怯むだろうというのだから、当時世界第3位、空母を中心とする機動部隊では世界最強であった、日本海軍も隨分過小評価されたものである。 それに、そもそも、この時点では日ソ中立条約が生きており、ソ連は反日連合には入っていない。大体、1941年8月といえば、ソ連は、国土をドイツ陸軍に蹂躪されつつある情况で、ドイツ陸軍の侵攻を食い止めるため、その国力を振り絞っている状態であった。 この上、日本を敵に回して、二正面作戦を行うような余裕が有る筈もない。というか、当時のソ連は、逆に日本陸軍の攻撃され、東西から挟撃されることを、非常に警戒していたのである。 チャーチルの判断は、よく言えば、楽観的、悪く言えば、状況認識が甘いとしか言いようがないものであった。 だが、アメリカにしても、日本軍に対する評価は似たようなものであった。 「【スチムソン陸軍】長官はフィリピンを基地とするこの「空の要塞」がフィリピン自身の防衛に役立つばかりでなく、日本の南進行動に対する脅威となるので、今後における日本の南方に対する侵略を抑制することができるという主張を支持した」、 「昭和十六(一九四一)年秋米国陸海軍当局の空気は、フィリピン防衛の可能性について楽観的な気分であった。九月十九日の陸海軍統合会議の見解は「計画されている増援は太平洋における紛争に大きな戦略的な影響を与え、日本が敵対行動に出ることを抑制する決定的な要素に十分なり得るであろう」というのであった。」(戦史叢書「戦史叢書 大東亜戦争開戦経緯<5>」防衛庁防衛研修所戦史室 朝雲新聞社 P355〜356 【】内筆者注記) Bー17を数十機ばかり、フィリッピンに配備すれば、フィリッピンの防衛が出来る上、日本の南進まで押さえられると考えられていたのだから、当時の日本軍に対する対外的な評価というのはこの程度のものだったのだろう。 話しを戻そう、確かに、プリンス・オブ・ウェールズとレパルスのシンガポール派遣は、日本軍に衝撃を与えはした、与えはしたが、それだけのことで、マレー攻略戦に大きな影響を与えることはなかった。 後にチャーチルは 「白状するが日本からの脅威というものは、他の必要事項に比べれば、心の片隅の暗がりにひそんでいただけである」(「第二次世界大戦」P262) と語っている。こういう認識であったから、マレーそっちのけで北アフリカに、のめり込めたのだろう。 話は、北アフリカへと移る。 1941年11月、オーキンレックは、トブルク港の包囲解除を目指した「クルセイダー作戦」を実施する。このとき、オーキンレックの指揮下には、兵力10万、各種航空機1,000機、戦車800輛があった。(「砂漠の戦争」アラン・ムーアヘッド 早川文庫 P137、「第二次世界大戦」では、航空機700機、戦車710輌以上756輌以下があり、この外に、戦車の予備が、海路輸送中のものを含めて500輌あったとされている。P208〜209) こういう数字を見ると、イギリスは、兵力に余裕がなかったから、マレー守備軍に増援が送れなかった訳ではなく、チャーチルが、ロンメルを撃退することに執着し、かき集められる兵力を全て北アフリカに送ってしまったから、マレー守備軍に増援が送れなくなってしまったということがよく分かる。 リデルハートは、このことについて、厳しくチャーチルを批判している。 「一九四一年を通じ、本土防衛に要する分を除いた戦闘機の大半は、失敗に終わった地中海方面の攻勢活動支援のために送られていた。(中略)マレーにはほとんど割当てがなかった。長距離爆撃機は一機も送られず、(中略)マレー防衛の必要手段に充分な配慮が払われていないのは明白だった。」(「第二次世界大戦」 P259) 「マレーの不完全な防衛体制を強化できなかったのは、主としてチャーチルの責任であり、それは彼が北アフリカにおける時期尚早な攻勢開始を主張したためであることは明らかなのである。」(「第二次世界大戦」P262) どうして、チャーチルが、ここまで、ロンメル打倒に執着したのかということについては、「ウルトラ・シ−クレット」(F・W・ウィンターボーザム 早川文庫)に興味深い記述がある。 「【ロンメルは】あらゆる補給品が不足していることについて激しい不満をたたきつけ、新しい装備を要求し、(中略)国防軍最高司令部は差し迫ったロシアに対する攻撃で明らかに手がいっぱいだったので、それ以上、ロンメルのアフリカ軍団を増強することを拒否し、さらにまずいことには、ドイツ空軍の大部分を地中海戦域から引きあげ、ロシア戦線へ移動させてしまった。(中略)彼【チャーチル】が現場のイギリス軍司令官たちよりも楽観的な考えに傾きがちで、ウェーヴェルにトブルクの解放を命じたりしたのも、こういったウルトラ情報のすべてに目をとおしていたためではないかと思う。(中略) ウェーヴェルの”失敗”にもかかわらず、そして、私自身は註釈で過小評価するようにしていたのに、チャーチルは相かわらずロンメルの物資不足に対する不平をいささか楽観的にとりすぎていた。」 (「ウルトラ・シ−クレット」P105〜106、【】内筆者注記) チャーチルが、ロンメル打倒に執着したのは、イギリスが、ドイツの暗号を解読していたため、ロンメルが、補給品や装備の不足に苦しみ、増援の見込みも無く、更には空軍の支援すら打ち切られるという状況を、ロンメルを打倒する好機だと捕らえたからだと言うわけである。 問題は、同じウルトラ情報を見ていた、イギリス陸軍参謀本部も、ウェーヴェルも、オーキンレックも、ウルトラ情報の管理責任者であるイギリス空軍情報部SLU(特別連絡部)の部長のウィンターボーザム大佐自身も、そして、アメリカもそうは思わなかったという点にある。 ウィンターボーザムは、チャーチルは「楽観的な考えに傾きがち」「いささか楽観的にとりすぎていた」と曖昧な書き方をしているが、要は、チャーチルが、情報を読み間違えて、判断を誤ったのである。 そして、1941年12月8日、日本陸軍は、マレー半島に上陸し、長さ1100kmののマレー半島を、僅か55日間で蹂躪し、1942年2月15日には、イギリスが「確実」に「保持」しなければならなかった、極東の要、シンガポールを陥落させた。 「 シンガポール陥落による直接の戦略的結果には、破滅的なものがあった。それは、その後ビルマとオランダ領東インドの喪失という由々しい事態を招くことになったからである。これは一方では日本軍の脅威がインドに迫り、他方ではオーストラリアにひた寄せるという二面的危機であった。(中略) しかしシンガポール陥落のより長期の、より広範な影響には、抜きさしのならないものがあった。シンガポールはそもそもひとつの象徴−極東における西洋の力のまごうかたなき象徴-であった。それは英海軍力が確立し長く維持してきた支配権だったからである。第一次世界大戦以来、シンガポールに一大海軍基地創設の必要があまりに強く叫ばれたため、その戦略的価値よりも象徴的重要性のほうが印象づけられる結果となった。シンガポールが一九四二年二月に難なく陥落した事実は、アジアにおける英国およびヨーロッバの威信にとって致命的な打撃であった。 のちにこれを奪回しても、その印象は拭い去ることはできないものだった。白人はその神通力を失い、威信は失墜してしまった。白人といえども弱みがあるという発見は、ヨーロッバ人の支配、侵略に対する戦後のアジア人の反乱の蔓延をはぐくみ励ましたのである。」(「第二次世界大戦」P262) 歴史に「もし」は禁物だが、DAKの司令官が、ロンメルではなく、ドイツ参謀本部とヒトラーの意向に従う普通のドイツ軍人であったら、DAKによる先制攻撃は無く、当然、チャーチルが北アフリカにおける決定的勝利を早期にかち取ろうとすることもなく、史実では北アフリカに向けられた増援兵力の戦車や航空機は、イギリス陸軍参謀本部の考えたようにマレーへ送られた筈である。 また、逆に、イギリスの指導者がチャーチルでなかったら、あるいは、チャーチルが、史実より他人の意見を採り入れることの出来る人物であったら、ロンメルの先制攻撃の影響で、若干の変更はあっても、史実では北アフリカに向けられた増援兵力の戦車や航空機の相当部分は、当初の計画通り、マレーへ送られた筈である。 どちらの場合も、マレー守備軍は、史実では受け取れなかった戦車や航空機の増援兵力を得ることになる。この戦車や航空機の増援兵力が、日本軍のマレー攻略戦に悪影響を与えることは間違いないだろう。(日本陸軍は、マレー守備軍に対する、歩兵や航空機の増援は考慮していたが、戦車の増援は考慮していなかった。戦史叢書「マレー侵攻作戦」防衛庁防衛研修所戦史室 朝雲新聞社 P30) 数多くのスピットファイヤやホーカーハリケーンといった新鋭機との戦闘は、数も少ない時代遅れのブリュースターバッファローと戦うのとは比較にならない程厳しいだろうし、新鋭戦闘機と戦いつつ、増強された多数の爆撃機の迎撃するのは、相当に苦しい戦いになるだろう。 だが、なにより問題となるのは、増強された戦車である、ドイツ軍も手を焼いた、重装甲の歩兵支援戦車マチルダ2を、アメリカのM3軽戦車でさえ、撃破できなかった日本陸軍がどう対抗するのか、果たして対抗できるのか、非常に疑問である。 緒戦であるマレー攻略戦がもたつけば、日本の第一段階作戦全体に悪影響が生じる。場合によっては、精緻に組まれた(逆に言えば余裕のない)第一段階作戦全体が瓦解する恐れもある。そうなれば、太平洋戦争は初っぱなから躓くことになり、史実とは全く違った展開になった可能性がある。 しかし、実際には、北アフリカにおけるロンメルの攻撃が、日本のマレー侵攻作戦の陽動となり、イギリスはマレー守備軍に適切な増援を与えられなかったため、日本のマレー侵攻作戦は成功裏に終わった。 ドイツと日本は、同盟を組みながら、ろくな連携が取れなかったと言われているが、このケースでは、見事な連携で、イギリスを翻弄し、日本のマレー侵攻作戦を成功させている。 但し、そもそも双方に、そういう意図が全くなかったといという、重大な問題があるのであるが。 結論としていえば、ロンメルは、北アフリカで、独断で攻勢に出ることにより、日本のマレー攻略戦の陽動を行ったわけである。 そして、チャーチルは、ロンメル打倒に執着しすぎ、日本軍の脅威を軽視し過ぎたたため、この壮大極まりない陽動に引っかかり、日本のマレー侵攻に対処することが出来ず、極東の要であるシンガポールを失なったのである。 以上で、本論は終了、以降は余談である。 チャーチルは、ウルトラ情報の解釈を誤り、北アフリカを、というよりロンメル打倒を、過剰に重視するという誤りを犯し、結果としてシンガポールを喪失するという大失敗を犯したわけだが、ウルトラ情報そのものは、イギリスにとってこの上なく有用で、北アフリカ戦において、ロンメルの攻撃計画を事前に入手し、その裏をかいたり、北アフリカに向かう輸送船団の情報を入手して、これを全滅させ、それでなくとも苦しいロンメルの補給状況を更に悪化させたりと、イギリスが北アフリカにおいて勝利を収めるために重要な役割を果たしている。 従って、問題は、情報そのものにはない、問題は、情報をどう解釈・判断するかにある。情報には、相反する場合、不十分な場合、曖昧な場合が少なくない、そのため、それをどう解釈し、どう判断するかという点が問題になる。 当然、情報の解釈・判断は、客観的、合理的に行う必要があるのだが、そこは、人間のすることであるから、どうしても主観が入り、自分に都合のいいように解釈・判断しがちである。チャーチルもその例外では無く、日本のマレー侵攻作戦の危険性は低く、ロンメルの北アフリカ侵攻作戦の危険性は高く、と誤った解釈・判断をした訳である。 情報を自分に都合のいいように解釈・判断するという現象は、程度の差こそあれ、洋の東西を問わずある。これが、極端になると、日本軍のように、自分の都合のよい情報だけしか受け付けなくなってしまう。 話がそれた、閑話休題。 さて、チャーチルは、ウルトラ情報の解釈を誤り、その結果、北アフリカとマレーの重要性の判断を誤って、シンガポールを失うという大失敗をした訳だが、こういう具合に、明らかに上司の判断が間違っている場合、それをどうやって修正するかは、部下にとって非常に重要かつ切実な問題である。 チャーチルの例のように、上司の誤判断を、部下が修正することに失敗すると、時として、破滅的な状況になる場合がある。(筋論からいえば、上司の判断の是非を検討し、修正するのは、上司の上司の役目であり、部下の役目でないが、社会に出るとそういうことを言ってられなくなる場合が多々ある。何より、実際問題として、上司の誤判断の結果、最大の被害を直接に被るのは、部下なのである。被害を回避しようと思えば、上司の判断を修正させるしかないのである。) そういう状況を避けるため、上司を説得し、判断を改めさせなければならないわけであるが、やっかいなのは、自分の判断に固執する人である。こういうタイプは、非常に説得が難しく、しばしば、説得に失敗して、悲惨なことになる。 最近(2010年)「ぶれない」というのがよいとされているが、部下の立場から見れば、ぶれない人というのは、自分の判断に固執する人のことである、人が間違いを犯さないのであれば、「ぶれない」のは結構だろう、また、状況が変化しないもので有れば、「ぶれない」でもよいだろう。 しかし、残念ながら、人は間違うし、状況は変化する。間違った場合や状況が変化した場合も「ぶれない」というのは、単なる頑固親父でしかなく、組織にとって有害な存在でしかない。 わたしは「ぶれない」ことをよしとする人の考えが判らない。彼らは、人は間違うこともあるということや、状況が変化すれば、判断を修正する必要がある場合もあるということが理解できないのだろうか。 参考文献(著者名順) アラン・ムーアヘッド「砂漠の戦い」早川文庫 F・W・ウィンターボーザム「ウルトラ・シ−クレット」早川文庫 大木毅 鹿内靖「鉄十字の軌跡」国際通信社 近代戦史研究会「情報戦の敗北―なぜ日本は太平洋戦争に敗れたのか」PHP研究所 小林良夫「兵器図鑑」池田書店 サイモン・シン「暗号解読」新潮文庫 ジョン・ピムロッド「ロンメル語録―諦めなかった将軍」中央公論新社 デズモンド・ヤング「ロンメル将軍」早川文庫 田川水泡「のらくろ漫画集(1)」講談社少年倶楽部文庫 ハインツ・シュミット「砂漠のキツネ ロンメル将軍」角川文庫 マーティン・J・ドアティ「図説 世界戦車大全」原書房 防衛庁防衛研修所戦史室 戦史叢書「マレー侵攻作戦」朝雲新聞社 リデル・ハート「第二次世界大戦」フジ出版 リデル・ハート「ロンメル戦記−ドキュメント」読売新聞社 ディヴィッド・アーヴィング「狐の足跡―ロンメル将軍の実像」早川書房 パウル・カレル「砂漠のキツネ」フジ出版 上記2冊については、「鉄十字の軌跡」において、大木毅氏から、作者が偏向している(パウル・カレルは元SS中佐のナチエリートで、そういう方向性を持って書いている、ディヴィッド・アーヴィングはネオナチで、やはりそういう方向性をもって書いている)という理由から資料として使うのは好ましくないと指摘されている。 現時点では、この指摘が妥当かどうかの検証はできないのだが、大木毅氏については、戦史研究者として評価しているので、今回は、指摘された2冊を、直接的に資料として使うのは避けた。 しかし、そうはいっても、この2冊はずいぶん昔から読んでおり、特に、パウル・カレルの「砂漠のキツネ」は、私が小学校3年の頃から30年以上に渡って読んでいる愛読書であり、私の軍事に関する基礎知識はこの本に負っている点が少なからずある、このため、何らかの影響を受けている可能性は否めないので、とりあえず参考文献として挙げておく。 |
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