木目金の高田では、お打ち合わせの段階でお客様と直接やりとりをし、
職人がお二人の尊い結びつきを感じながら、一枚ものの木目金板からお二人の指輪を製作していく事にこだわっています。
木目金を発案した鈴木重吉、それを受け継いできた数々の職人・・・、
当工房の指輪職人、そして今このサイトを見てくださっているお客様、
全てに何かの縁があり、木目金の指輪は今このようにお客様とめぐり逢いました。
異なる金属が何かの縁があって、めぐり逢う。
木目金の木目模様もまた共に寄り添い、時を積み重ね合わせていく夫婦のそれと符号。
二つとない世界で一つの指輪が完成するのです。
東京表参道の工房にお越しくだされば、木目金職人と直接打ち合わせができます。【完全予約制ですので、前もってご予約くださいませ。】
役割分担はせずに、打ち合わせから完成まで職人が一貫して行う、世界で一つを実現するフルオーダーメイドをご堪能くださいませ。
木目金とは、種類の異なる金属を重ね合わせて接合させ、展性、塑性(延性)に富むという金属の特徴を生かして木目模様を織りなした金属、または技法の事。
江戸時代前期にあたる西暦1651年に生まれた出羽秋田住正阿弥伝兵衛(Shoami Denbei)本名・鈴木重吉によって発案。
高温で赤くなった状態の金属を金槌で何度も叩いては鍛えるという作業を繰り返し、薄くなった金属を鏨(たがね)と言われる道具で彫りすすめ、さらに金槌で薄くする事によって重ね合わせた色の異なる金属が木目状に浮かび上がります。
ちなみに、「木目金」という言葉自体も最近になって作られた言葉ではなく、はるか昔、古の時代から使われていた言葉である事は、様々な文献などにも記載されています。
木目金が誕生した江戸時代よりもはるか昔、色の異なる色漆を何層にも重ね合わせ、唐草文様や渦巻文様を掘り下げて模様を出す、「屈輪彫り」という技術が室町時代に中国から日本に輸入される。
この「屈輪彫り」という技術を応用し、金属で木目模様を作ったのが始まりではないかというのが通説。
木目金を発案した羽秋田住正阿弥伝兵衛(本名・鈴木重吉)が生まれたのは江戸時代初期(西暦1651年)元号・慶安。
鍔工(刀装具を作る職人)の一派として名高い正阿弥の弟子入りをして江戸(現在の東京)で修行を積んだ鈴木重吉は、後に秋田へ移住。その後、佐竹藩にお抱え工として仕え、刀装具の名工として名を残す。
西暦1876年、廃刀令が公布されて帯刀が禁止。木目金を知る多くの職人達が廃業に追い込まれ、伝承が途絶える。
時代は昭和、残された文献や実物などを参考に復活するも製作者が極端に少ない木目金を知る人は少なかった。
ところがその後、刀装具に使用されていた日本の伝統「mokume gane」としてアメリカを中心に海外で火がつき、日本よりも先に木目金の認知度が全世界に伝播する。それに伴い、現在では日本国内でも人気が高まりつつある状況になる。
木目金が完成した江戸時代では、大名や上級武士が持つ「刀装具」に使われる事が多く、金、銀、銅を主にそれらを割合で変えた合金で多種多様な色合いを出す。
現在では、結婚指輪や婚約指輪、小物、茶器、酒器、花器、鍋、皿など多岐に渡って使用され、結婚指輪にいたってはプラチナや様々な色合いを出したK18ゴールドといった色金で作られる事が多い。
長い間、木目金の技法に取り組み続け、独自の作風を確立した玉川宣夫さんが重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定される。
玉川宣夫さんは、旧下田村庭月の大橋家三男に昭和十七年に生誕、12歳の春に燕市の玉川家(玉川堂)の養子となり、5代目二男に移籍。昭和34年に秋田市立工芸学校卒業して玉川堂に入社。
昭和36年に三条実業高校(定時制)を卒業。昭和38年に上京し、人間国宝だった鍛金家、関谷四郎さん(1907-94)の内弟子になる。
昭和40年に帰郷、玉川堂へ再入社し、常務、専務を歴任。昭和47年頃から「木目金」の技法に取り組み始める。平成八年に退社、独立して創作活動に専念し、平成十四年春には紫綬褒章授章。
【参考文献】2000年4月9日 朝日新聞 東京地方版/秋田 29頁、2001年9月1日 朝日新聞 東京地方版/秋田 32頁、2004年8月28日 朝日新聞 東京地方版/秋田 26頁、2009年11月6日 朝日新聞 大阪地方版/石川 30頁、2005年10月19日 毎日新聞 地方版/秋田 24頁、宝石の四季 No.198 No.199 技の伝承 木目金の技法について、アートマニュアルシリーズ メタルのジュエリークラフト、人間国宝・玉川宣夫作品集(燕市産業資料館)