給糧艦「間宮」からの生還
平成25年6月14日(木)
大和ミュージアムで10分の1戦艦大和のそばに立っていると、
一人の小柄なご老人が話しかけてきた。
ずっと「間宮」に乗っていたという。
間宮については艦艇に食糧を配給してまわる「給糧艦」という種類の艦
であることを知っていた私は興味を持った。
「間宮とはまたいい船に乗っていましたね。食べ物には不自由しなかった
でしょう」と言うと「まあね・・・」との返事。
「羊かんが美味しかったそうですね」
「そうだね、羊かんは1本を20等分して配るように云われていたが、
ワシらは22等分して2切れを自分で食べた」
その当時を思い出したように微笑まれた。
「間宮で終戦を迎えたんですか?」
「いや、間宮は19年12月に潜水艦の魚雷を受けて
沈められてしまった」。終戦の8ヶ月ほど前になる。
「どこで?」「南シナ海」。
「よく生還できましたね」
「いい具合にイカダが流れてきたので掴まっていた」。
「救助船はすぐ来たんですか?」
「いや、かなりの間漂流した。その間、波が荒かったので、
力尽きてイカダから引き離された者が多かった」
ご老人は暗い表情になった。
「イカダを掴んでいるとそのうち腕がしびれてくる。
自分はロープで体をイカダに括りつけてしがみついていた」
生き運が有ったのだろう。
あいにくそこで団体さんを案内する時間が来たので、
話しを打ち切らざるを得なかった。
呉市内に住んでいるということだったので連絡先を聞いておけば
また続きの話が聞けたのにうかつだった。
こうした戦争体験者は戦後誰にも語ることなくずっと自分の胸に
秘めてきた人が多かった。
最近は高齢になって先のことを考えた時、気持ちが変わって
自ら口を開く傾向が出ているという。
この方もその一人かも知れない。
あとで分ったことだが、
間宮が沈没した時の生存者は6名のみだったとのこと。
そうすると、あのご老人は6人のうちのお一人だったことになる。
余計にお名前を聞いておかなかったのが悔やまれる。
余談だが、間宮が呉港に碇泊している時の貴重な写真が残っている。
上はおなじみの呉海軍工廠で艤装中の戦艦大和だが、
主砲の背後に小さく写っているのが「間宮」である。
間宮を拡大すると下の写真になる。
また、呉海軍墓地(長迫公園)には間宮の慰霊碑がある。
昭和58年に建立された大きく立派な石造りの慰霊碑である。
そこには間宮竣工から沈没までの20年間に亡くなった502柱が
合祀されている。
是非一度訪ねて行って戴きたい。
呉海軍墓地 この中に「間宮」の慰霊碑もある。 |
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埋もれた歴史に陽の目を当てることは、御英霊の供養となります。
いい記事です。
今後とも宜しくお願いいたします。
2013/7/11(木) 午前 2:29 [ 瑞鶴 ]
瑞鶴さま
大和ミュージアムに居ると、いろんな人から話を伺うことが出来ます。是非一度ご来館ください。 (椿)
2013/7/11(木) 午後 10:41 [ kuh*k*51072*9 ]