甘味処 給糧艦
[No.212] 2013/09/14 (Sat) 17:45
※2135時、『響』育成状況速報追加
はお
ヾ('ヮ'*)ノ
鋭意、『響』の育成中で御座いマス。
とはいえ、西方や北方の主戦域に旗艦任務で借り出して放浪するわけにもいかず...
ひたすらなるままにキス島沖の敵艦隊撃滅を繰り返す―――
敵は無尽蔵の生産力(?)にモノを言わせ、沈めても沈めても、沈めた数の倍の深海棲艦を繰り出してくるという、大戦序盤の南東方面の戦況にも似た状況をつくりあげている次第。
繰り返される出撃で―――

演習で殺る気MAX気分が高揚します状態だった『響』も、疲労の色濃く...
それでも、随伴艦に続けと、軋む艦体に鞭打って出撃するわけです。
そのような出撃と撤収を繰り返すと―――

殺る気ゲージがMAXとなり、ランボーならぬヒビキー怒りのキス島状態で出撃していくことになるわけです。
こうなったヒビキーを止めることは、もはや何人にもできなひ……
オマイガ止メロヨ( *'-')っ―[] /☆ペチ
( 0w0)デスヨネー
こうなってしまった際に頼りになるのが、和風メイドな『間宮』さんなワケですね。
さて、今回の四方山は、後方で働く甘味処の艦娘たちのお話。
『間宮』さんについてさらに知りたいという方ははワルナンデス司令長官のところをドーゾ☆ミ

特務艦『間宮』
『間宮』や『伊良湖』といった食糧の輸送艦艇を給糧艦と呼びます。
そして日本海軍では給糧艦は運送艦という特務艦に含め、菊の御紋章を艦首に戴いた軍艦と区別して運用されていました。
給糧艦は作戦行動中の艦艇乗員へ各種糧食を配給することを目的としています。とはいえ、ただ糧食を運ぶだけの艦ではありません。
艦内で加工食品を生産できる設備を備えているフネもあり、いまと違ってたいした娯楽もなかった時代の戰鬪艦乗員にとって、食事は戦意向上に貢献する貴重な手段でした。
日本海軍は大正の終わりごろまでは専門の給糧艦は保有せず、徴用した民間船で代用していました。
だけど、欧州大戦(第一次世界大戦)終結後、日本は旧獨逸領であった南洋諸島を信託統治することとなり、日本海軍の防備海域は劇的に拡大しました。
そのため、徴用船だけでは広大な太平洋に展開した艦隊に十分な糧食支援はできないと痛感します。
そこで完成したのが、大正12年(1923年)7月に登場した専門の給糧艦『間宮』です。
大正時代の一般的な商船と外見はほとんど変わっておらず、設計も純商船構造の三島型―――船首楼、船橋楼、船尾楼配置のこと―――でした。
大きさは全長144.8米、最大巾18.6米で、排水量は基準排水量15,820噸、総噸数では8,000噸です。
※基準排水量=乗組員・弾薬・燃料・水など、計画上搭載できるもの全てを搭載した状態である満載排水量から、燃料および水の重量を差し引いた排水量。
※総噸数=船内の総容積から、二重底と上甲板より上の部屋の容積を除いたもので、一般的に民間船の大きさを示す。国際総噸数と日本国内総噸数にわかれる。
推進装置は5,000馬力のレシプロ機関2基の2軸推進艦で、出しうる速力は最高16節(時速約29.6粁)です。
『間宮』艦内は商船構造となっているものの、貨物船のような大容量の船倉はなく、三段構造の工場や倉庫という配置になっています。
艦内には各種菓子類、豆腐、蒟蒻、羊羹、最中、アイスクリームやラムネなどの加工工場、保存場所としての冷凍庫や冷蔵庫、各種貯蔵庫があります。
貯蔵される物資も豊富で、米や麦、小麦粉、味噌、醤油、酒、野菜、果物、肉類、加工魚、漬物などなど...
およそ1,800人の将兵を3週間は養える量を運ぶことができたと言われています。
乗員は総勢290名で、その大半は加工食品製造の職人です。
『間宮』=菓子やアイスを配る艦、というイメージが大きいですが、もうひとつ特徴があります。
それは充実した医療設備です。
給糧艦は泊地などで艦隊に糧食を配布するわけですが、その際、艦隊で発生した急病人や負傷者の治療措置を、病院船にかわって行なえるようにしたためです。
さて、『間宮』がいかに良好な給糧艦とはいえど、やはり1艦では限界があります。
日本海軍は昭和15年(1940年)、大型の新鋭給糧艦を建造します。それが『伊良湖』です。
本艦は太平洋戦争開戦直前の昭和16年12月5日に完成します。

特務艦『伊良湖』 ピットロード社製700分の1艦船模型
『伊良湖』は基準排水量9,570噸、全長152米、最大巾19米、出力4,150馬力タービン機関2基で17.5節(時速約32.4粁)の最高速度を出します。
搭載物件は食糧品各種580噸、配給用の大發4艇。自衛火器として12糎高角砲2基、25粍機銃を三聯裝3基、聯裝2基。
『伊良湖』も『間宮』と同じく商船設計の三島型で、巨大な船倉はなく、『間宮』と同じく三段構造となっています。
『伊良湖』の加工食品製造能力は陸上のソレに比肩しうるもので、主な加工食品として下記のものがあります。
餡パン:1萬個
最中:6萬個
豆腐:1,500瓩
ラムネ:7,500本
などなど...
『伊良湖』は昭和19年9月に米軍機に撃破されて放棄されるまで、トラック諸島やミンダナオ島のダバオへの食糧輸送に従事し、膨大な量の食糧品を前線に届けました。
『間宮』、『伊良湖』のほかに、日本海軍は戦時中、中小の給糧艦を新規建造及び他艦船からの改造で取得しています。
そのうちの1艦が『荒崎』で、終戦まで生き残り、戦後は東京水産大学の練習船『海鷹丸』として生まれ変わります。
世界第3位の海軍力を誇る日本海軍をこれだけの給糧艦で賄うのは厳しく、海軍は主な水産会社が所有していた冷凍船36隻を徴用し、特設給糧艦として運用します。
民間の船なので大きさも1,000総噸前後でしたが、なかには8,223総噸もの大きな冷凍船『厚生丸』もありました。
驅逐艦『響』Lv61
目標Lv70まで必要経験値およそ76,500

壁|'-')ノよいお年を。

はお
鋭意、『響』の育成中で御座いマス。
とはいえ、西方や北方の主戦域に旗艦任務で借り出して放浪するわけにもいかず...
ひたすらなるままにキス島沖の敵艦隊撃滅を繰り返す―――
敵は無尽蔵の生産力(?)にモノを言わせ、沈めても沈めても、沈めた数の倍の深海棲艦を繰り出してくるという、大戦序盤の南東方面の戦況にも似た状況をつくりあげている次第。
繰り返される出撃で―――
演習で殺る気MAX気分が高揚します状態だった『響』も、疲労の色濃く...
それでも、随伴艦に続けと、軋む艦体に鞭打って出撃するわけです。
そのような出撃と撤収を繰り返すと―――
殺る気ゲージがMAXとなり、ランボーならぬヒビキー怒りのキス島状態で出撃していくことになるわけです。
こうなったヒビキーを止めることは、もはや何人にもできなひ……
オマイガ止メロヨ( *'-')っ―[] /☆ペチ
( 0w0)デスヨネー
こうなってしまった際に頼りになるのが、和風メイドな『間宮』さんなワケですね。
さて、今回の四方山は、後方で働く甘味処の艦娘たちのお話。
『間宮』さんについてさらに知りたいという方ははワルナンデス司令長官のところをドーゾ☆ミ
特務艦『間宮』
『間宮』や『伊良湖』といった食糧の輸送艦艇を給糧艦と呼びます。
そして日本海軍では給糧艦は運送艦という特務艦に含め、菊の御紋章を艦首に戴いた軍艦と区別して運用されていました。
給糧艦は作戦行動中の艦艇乗員へ各種糧食を配給することを目的としています。とはいえ、ただ糧食を運ぶだけの艦ではありません。
艦内で加工食品を生産できる設備を備えているフネもあり、いまと違ってたいした娯楽もなかった時代の戰鬪艦乗員にとって、食事は戦意向上に貢献する貴重な手段でした。
日本海軍は大正の終わりごろまでは専門の給糧艦は保有せず、徴用した民間船で代用していました。
だけど、欧州大戦(第一次世界大戦)終結後、日本は旧獨逸領であった南洋諸島を信託統治することとなり、日本海軍の防備海域は劇的に拡大しました。
そのため、徴用船だけでは広大な太平洋に展開した艦隊に十分な糧食支援はできないと痛感します。
そこで完成したのが、大正12年(1923年)7月に登場した専門の給糧艦『間宮』です。
大正時代の一般的な商船と外見はほとんど変わっておらず、設計も純商船構造の三島型―――船首楼、船橋楼、船尾楼配置のこと―――でした。
大きさは全長144.8米、最大巾18.6米で、排水量は基準排水量15,820噸、総噸数では8,000噸です。
※基準排水量=乗組員・弾薬・燃料・水など、計画上搭載できるもの全てを搭載した状態である満載排水量から、燃料および水の重量を差し引いた排水量。
※総噸数=船内の総容積から、二重底と上甲板より上の部屋の容積を除いたもので、一般的に民間船の大きさを示す。国際総噸数と日本国内総噸数にわかれる。
推進装置は5,000馬力のレシプロ機関2基の2軸推進艦で、出しうる速力は最高16節(時速約29.6粁)です。
『間宮』艦内は商船構造となっているものの、貨物船のような大容量の船倉はなく、三段構造の工場や倉庫という配置になっています。
艦内には各種菓子類、豆腐、蒟蒻、羊羹、最中、アイスクリームやラムネなどの加工工場、保存場所としての冷凍庫や冷蔵庫、各種貯蔵庫があります。
貯蔵される物資も豊富で、米や麦、小麦粉、味噌、醤油、酒、野菜、果物、肉類、加工魚、漬物などなど...
およそ1,800人の将兵を3週間は養える量を運ぶことができたと言われています。
乗員は総勢290名で、その大半は加工食品製造の職人です。
『間宮』=菓子やアイスを配る艦、というイメージが大きいですが、もうひとつ特徴があります。
それは充実した医療設備です。
給糧艦は泊地などで艦隊に糧食を配布するわけですが、その際、艦隊で発生した急病人や負傷者の治療措置を、病院船にかわって行なえるようにしたためです。
さて、『間宮』がいかに良好な給糧艦とはいえど、やはり1艦では限界があります。
日本海軍は昭和15年(1940年)、大型の新鋭給糧艦を建造します。それが『伊良湖』です。
本艦は太平洋戦争開戦直前の昭和16年12月5日に完成します。
特務艦『伊良湖』 ピットロード社製700分の1艦船模型
『伊良湖』は基準排水量9,570噸、全長152米、最大巾19米、出力4,150馬力タービン機関2基で17.5節(時速約32.4粁)の最高速度を出します。
搭載物件は食糧品各種580噸、配給用の大發4艇。自衛火器として12糎高角砲2基、25粍機銃を三聯裝3基、聯裝2基。
『伊良湖』も『間宮』と同じく商船設計の三島型で、巨大な船倉はなく、『間宮』と同じく三段構造となっています。
『伊良湖』の加工食品製造能力は陸上のソレに比肩しうるもので、主な加工食品として下記のものがあります。
餡パン:1萬個
最中:6萬個
豆腐:1,500瓩
ラムネ:7,500本
などなど...
『伊良湖』は昭和19年9月に米軍機に撃破されて放棄されるまで、トラック諸島やミンダナオ島のダバオへの食糧輸送に従事し、膨大な量の食糧品を前線に届けました。
『間宮』、『伊良湖』のほかに、日本海軍は戦時中、中小の給糧艦を新規建造及び他艦船からの改造で取得しています。
そのうちの1艦が『荒崎』で、終戦まで生き残り、戦後は東京水産大学の練習船『海鷹丸』として生まれ変わります。
世界第3位の海軍力を誇る日本海軍をこれだけの給糧艦で賄うのは厳しく、海軍は主な水産会社が所有していた冷凍船36隻を徴用し、特設給糧艦として運用します。
民間の船なので大きさも1,000総噸前後でしたが、なかには8,223総噸もの大きな冷凍船『厚生丸』もありました。
驅逐艦『響』Lv61
目標Lv70まで必要経験値およそ76,500
壁|'-')ノよいお年を。
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