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「影人間のフォークロア」case.1 「タンドゥーマの悪魔 4」 【購読無料キャンペーン中】
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「影人間のフォークロア」case.1 「タンドゥーマの悪魔 4」 【購読無料キャンペーン中】

2013-09-30 17:00


    ――――――――――――――――――――――――

    影人間のフォークロア
    case.1 「タンドゥーマの悪魔 4」

    ――――――――――――――――――――――――


    「・・・・・・・・・・・・どうなってるのよ」
    呆然として、三千子は呟いた。
    目の前には、存在しないはずの五階への階段が続いている。
    「・・・・・・やっぱり、本当に居るんだ」
    そのつもりで来たのだが、現実に証拠を見せられると、辛い物がある。
    三千子は今、現実が足元から崩れ落ちる音を聞いていた。
    「タンドゥーマの悪魔・・・・・・あなたは、なんなの?」
    呻くように喋る。足は震えていた。煮えたぎる校舎の中で、肌は冷たい汗を吹いている。怖い。三千子は心から恐怖していた。本心は、今すぐここから逃げ出したいと思っている。だが、意思は違った。彼女の意思はここに留まり、進み、探す事を選んだのだ。
    階段は、どこまでも続いた。間には、有り得ない六階や七階が挟まれている。十数回まで上がった所で疲れ果て、三千子は階段を昇るのを諦め、廊下へと進んだ。
    薄暗い事、そして、何処まで上に階が続いている事を抜かせば、学校は普段通りのように思えた。少し歩いて、三千子はそれが全くの勘違いである事を悟った。
    窓の外に広がる景色は、三千子が上に上がった分だけ遠ざかっていた。
    まだ六時前のはずなのに、太陽は消えていた。空はのっぺりとした灰色で、一つの星も見えない。まるで、そういう色の天井が遠くで天を塞いでいるかのようだ。町並みも異常だった。明かりのついている建物は一つもない。それどころか、建物という建物は全て、影絵クイズのシルエットのようになっている。
    三千子は眩暈がした。自分は今、尋常じゃない状態にある。強くそれを実感した。
    三千子は歩いた。静まりかえった校内を。サウナのように煮えた廊下を。どこからそれが現れてもいいように、細心の注意を払って歩いた。
    目は、中々闇に慣れなかった。それどころか、闇はどんどん濃くなっていくような気がする。気がつけば、廊下の終わりが見通せない程暗くなっていた。
    三千子は唾を飲み込んだ。色々な考えが次々に浮かんだ。大半は後悔と恐怖で、その事について考えると今すぐ座り込んで泣きたい気分になった。だから、三千子は泡のように浮かび上がる考えをそのまま見送る事にした。
    程無くして、三千子は今いる廊下がどうしようもなく長く続いている事に気づいた。
    「・・・・・・本当、なんだってのよ。あたしは、迷宮に遊びに来たわけじゃないのよ」
    闇に対して三千子は怒った。怒る事で、どうにか恐怖を押さえつけていた。
    ぼっ。
    背後で物音が鳴り、咄嗟に三千子は振り向いた。ロッカーか用具入れを蹴飛ばしたような音だったが、視界には怪しい者は映らない。
    三千子はまた、唾を飲もうとした。だが、上手く行かない。喉がからからだった。もしかして、ここでこのまま野垂れ死ぬんじゃないでしょうね。そんな考えが過ぎる。冗談じゃないと思うが、大いに有り得る事だ。だから、三千子は忘れる事にした。出来るはずもないが、出来る事にした。
    携帯を取り出す。電話の為ではない。学校に入ってからずっと、携帯は完全な圏外になっている。三千子は携帯のライトを点灯した。大した灯りではないが、ないよりはずっといい。ただ、朝から活動しているので、充電が心もとないのが心配だった。
    「いるんでしょ。出てきなさいよ!」
    暗闇に向かって三千子が叫ぶ。左手には携帯電話、右手にはサンクチュアリの厨房から持ってきた包丁が握られている。
    一瞬、何かの叫び声が響いた。本当に一瞬、それはCDの音飛びのように廊下に響く。三千子は振り向いて、また振り向いた。前と後ろ、右と左、どちらからくるか分からない。
    それでもいい。あんたがなんなのかは知らない。それでも、甲やみんなを殺した報いは与えてやる。怒りの炎にありったけの薪をくべ、じりじりと距離を詰める野犬のような恐怖を遠ざけながら、三千子は眼光鋭く辺りを見回した。
    きぃ。
    音はすぐ横から聞こえた。ロッカーが迫ってくる。三千子は咄嗟に飛んだ。直が、さっきまで彼女が立っていた場所をロッカーが押し潰した。
    三千子は肝を冷やした。ロッカーは、ただのロッカーではなかった。ロッカーが倒れた場所は、超重量の物体が落下したかのようにひび割れている。
    幸い、今回はそれほど驚かなかった。ここでは、タンドゥーマの悪魔の都合の良いように物事が動く。なんとなく、それを理解したのだ。
    激しく心臓を鼓動させながら、三千子は周囲に気を配り、立ち上がった。
    「・・・・・・いっ!」
    右の足首から、鋭い痛みが蛇のように這い上がった。どうやら、捻ったらしい。
    冷や汗の上に、脂汗が滲む。走れるだろうか? 無理だ。けれど、そもそもタンドゥーマの悪魔から走って逃げる事など出来るのだろうか? 三千子は慌てて首を振った。逃げる? 何を弱気な事を言っている。あたしは、戦いに来たんだ!
    三千子は戦いに来た。この手で終わらせに来たのだ。タンドゥーマの悪魔を殺して、この狂った悪夢を終わらせる。
    「出てきなさいってば! こそこそ隠れてないで! あたしはここよ!」
    無限大に広がった廊下に、三千子の声が反響する。
    ここよ、ここよ、ここよ、ここよ。
    声はどこまでも響き、歪に歪む。三千子の声だった物は野太くなり、金属の悲鳴のように屈折した。
    ここよ、ここよ、ここよ、ここよ、ころす。
    反響した声は、戻ってきた声は、三千子の声ではない声を引き連れていた。全身が総毛立つ。静電気の嵐の中を進むように、ピリピリと肌が泡立った。叫びたい。泣き叫びたい。家に帰りたい。誰か、人の顔が見たい。怖い。
    三千子は歯を食いしばり、涙を拭った。戦うと決めた。今朝、決めたのだ。
    視界の端を影が過ぎ去った。そちらを見るが、何もない。背後でリノリウムの床を引っ掻くような音がする。すかさず、三千子は振り返る。けれど、何もない。今度はどこから来る? 包丁を握り締めて神経を集中させると、不意に三千子は気づいた。
    後ろに誰かいる。
    かすかに聞こえるのは呼吸の音。かすかに触れるのは生ぬるい吐息。かすかに香るのは言葉にしがたい悪臭。
    いる、後ろに、いる。
    「ああああああああぁぁぁ!」
    三千子は叫んだ。恐怖が爆発する。けれど、負けはしなかった。振り向きながら、思い切り包丁で切りかかる。包丁が止まる。刃は何にも触れていない。三千子の手首を、蛆のたかった腐肉の手が掴んでいる。
    「――あああぁぁ・・・・・・あ・・・・・・あ・・・・・・・ぁ・・・・・・」
    息が切れ、絶叫が止む。三千子は痛感した。今、懇親の叫びと共に、勇気の全てを吐き出してしまった。もう、怒りの篝火にくべる薪がない。
    静かに、そして容赦なく、恐怖が這い寄った。
    声は出ない。足が動かない。目はソレに釘付けになり、胃の奥が狂ったよう暴れ、恐ろしく冷たい。頭の奥がジンジンと痺れ、全身の感覚が消し飛び、けれど意識はどうしようもなくクリアだった。
    それは陳腐な存在だった。ただの、腐った女子高生の成れの果てだった。黒髪の所々が皮膚病のように禿げ上がり、顔の肉はぐずぐずになって崩れて、緑色の肉、赤い筋肉、白い骨がまだら模様を描き、その狭間で無数の蛆虫が蠢いている。手足も同じだった。擦り切れた制服は穴だらけのボロ切れと化し、溶けた肉と融合している。所々で肉を失った手足は、あちこちで砕けているにもかかわらず、不恰好ながら直立している。まるで、サルのゾンビのようだ。
    喉の奥が震えた。息が出来ない。横隔膜が凍りついたようだ。なにこれ? 問いが駆け巡る。答えのない問いが。それは陳腐な存在だったが、そんな事は問題ではなかった。現実にそれがあるというだけで、三千子は死ぬほど恐怖していた。
    今更になって右手を掴まれていた事を思い出す。外気温と等しい体温を持つ腐肉の手は生暖かく、その中で無数の蛆が踊っていてむず痒い。
    一粒涙が零れ落ち、三千子はまた叫んだ。
    叫んで、捻った足で思い切りそれを蹴り飛ばした。
    「ああぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
    三千子は駆け出した。一歩踏み出すごとに右足首に激痛が走る。足と脚の連結点に重い違和感が横たわる。もしかしたら、さっきので折れたかもしれない。だが、恐怖が勝っていた。恐れが、全てを麻痺させた。怖い。何の理由も必要ないくらい、怖い。
    三千子の心は完全に折れていた。来るんじゃなかった。あたしが馬鹿だった。底なしの底抜けの大馬鹿だ。
    三千子は走る。けれど分かっている。それは無駄な事だ。さっきから、どれだけ走っても廊下の終わりは見えてこない。背後から、濡れた雑巾で床を叩くような音が近づいてくる。アレが追っているのだ。
    「あっ!」
    足が引っかかり、三千子は派手に転んだ。腹ばいのまま床をバウンドし、胸の中の空気を全て吐き出してしまう。激しく咳き込みながらも、床に手を突き立とうとする。努力に反して、三千子の体は立つ事を拒否した。
    三千子は疲労していた。心臓は、限界を超えた長距離走に悲鳴を上げ、狂ったように鼓動している。疲弊した筋肉は熱を持って鉛のように重い。酷使した右足首が耐え難い激痛を発している。
    駄目、立たないと。立って、逃げないと。朦朧とした頭で思う。何故? と思う自分もいる。無駄な事だと。そして、往生際が悪いと。最初から決めいてたはずだ。アレを殺せないのなら、せめて償いの為ここで死のうと。
    ふと気づいて、三千子は顔を上げた。
    目の前には腐乱した足が立ち尽くしている。
    視線を上げると、ソレが立っていた。
    タンドゥーマの悪魔。
    三十年前に自殺した人間の亡霊が。
    はたして、自分は地獄に行くのだろうか。
    行くのだろう。
    それだけの事を自分はしたのだから。
    三千子は泣きながら、全てを諦めた。

    タンドゥーマの悪魔の頭が爆発する。


       †


    「僕は言ったはずだ。信じて待っててくれって」
    立て続けに弾丸を撃ち込むと、エイジは床に倒れこんだ三千子に言った。
    三千子はきょとんとしていた。何が起きたのか分からないといった顔だ。
    「助けに来たんだよ」
    エイジは拳銃を脇のホルスターに収めると、三千子を抱きかかえて走り出す。
    銃撃を受けて吹き飛んだタンドゥーマの悪魔の体は、闇の中で瀕死のゴキブリのように身悶えている。
    「・・・・・・なんで?」
    腕の中で三千子が問う。
    「愚問だよ。君が死んだら、誰が報酬を払ってくれるんだい?」
    冗談めかして言う。ユーモアが恐怖を拭ってくれる事に期待して。
    生憎、効果はさほどなかったらしい。
    「僕はこうも言ったはずだ。有能な探偵だって」
    言ってから、エイジはキヒッっと、笑った。
    「まぁ、あれは真っ赤な嘘なんだけどね」
    「嘘?」
    「嘘さ。僕は嘘吐きなんだ。でも、本当でも有る。嘘と本当の狭間を生きてるんだ。さながら、噂のように、『彼ら』のように。キヒッ」
    エイジが笑う。嘲笑う。こうなってしまったら、もう隠す必要もない。
    「『彼ら』って、タンドゥーマの悪魔の事? エイジは、何を知ってるの?」
    「なにも。僕が知ってるのは、ほんの些細な事だけさ。ちっぽけな事実だ。あれは、ロアだよ」
    「ロア?」
    「ロア。大昔に誰かがそう名づけた。本当は『ウォークロア』らしいけど。歩く都市伝説って意味さ。駄洒落が過ぎるからね、僕はロアとだけ呼んでいる。つまるところ、あれは深淵の住人なのさ」
    エイジが駆ける。駆け抜ける。闇の向こうから曲がり角が現れる。奇妙な三叉路。エイジは左に曲がった。理由など特にない。
    「待って。ちょっと待ってよ! エイジは、幽霊なんて居ないって言ってたじゃない!」
    「言ったよ。その通りさ。あれは幽霊じゃない」
    「意味が・・・・・・分からないわよ!」
    三千子が頭を抱える。混乱しているのだ。
    「誓って言うけど、君の為、みっちょんの為だったんだ。叶うなら、こちら側の世界の事は知らない方がいい。深淵を覗き込めば、深淵に魅入られる。それは、とても危険な事なんだ。ロアは、何時だってその時を待っている。ロアはね、人間に興味があるんだ。命を持ち、知性を持ち、感情を持ち、情緒を持ち、愛と悲しみと怒りと喜びを知る人間に興味があるんだ。だから、こちら側に出てくる隙を伺っている」
    「それがロア?」
    「それがロアだ」
    前後から音が近づく。破裂音。硬質で鋭利な。
    「参ったね」
    立ち止まってエイジ。
    「嘘っ・・・・・・」
    三千子が絶句する。
    蛍光灯が次々爆発し、白い破片を廊下にばら撒いている。爆発は連続的に起こり、エイジ達の居る場所を終着駅としているようだった。
    「伏せて!」
    エイジは三千子を降ろすと、その上に覆いかぶさり、脱いだジャケットを傘のように広げた。
    次の瞬間、鋭いガラス片のシャワーが降り注ぐ。
    「通り雨だったみたいだね」
    それをやり過ごすと、エイジはずたぼろになったジャケットを羽織り、三千子を立ち上がらせる。
    「ロアは深淵の住民なんだ。そこは無限に広がる暗くて空虚な世界。虚無そのものと言っていい。そんな場所だから、『彼ら』は人間が羨ましい。羨ましくて、妬ましくて、どうしようもなく憧れてしまう。そしてついにはこちら側にやって来る。でも、『彼ら』には体がない。実体がない。意味がない。意思がない。何もない。だから、それらを借りてくる必要がある。それが噂だ。ロアは噂を依り代にする。人間の願望が、意思と願いが詰まったその思いの力に宿って生まれるんだ」
    拳銃を取り出し、ポケットから取り出した弾丸を手早く装填する。
    「だから、『彼ら』は幽霊じゃない。そんな風に思わないでくれ。そんな風に思うから、アレは、タンドゥーマの悪魔になってしまったんだ」
    哀れなロア。アレを救うのは無理だろう。
    「あれは幽霊じゃない? 悪霊じゃない?」
    理解しかねて、三千子が呟く。
    「じゃあ、やっぱりこれはあたしのせいなんだ」
    絶望的な声音で三千子が呟く。
    「そうだとしても。みっちょんが責任を取る必要はない。少なくとも、こんな形ではね」
    三千子の視線が刺さる。やましそうに表情を向ける。
    「推理だよ。知ってるわけでも、知ってたわけでもない。推理したんだ。君なんだろう? タンドゥーマの悪魔の噂を広めたのは。だから、君はここにいる。償いをする為に、そして、アレを終わらせる為に。君は自分の名前を書き込んで、自ら学校にやって来たんだ」
    静かに、三千子が頷く。
    「理由は、イジメをなくしたかったから? 噂の内容から推理すれば、そういう事になるけど」
    「中学の時、一緒に格闘技習ってた子が自殺したの。短藤摩子(たんどう まこ)。その子とは親友だった」
    振り向いて、エイジは引き金を引く。銃火が廊下を照らし、刹那の時に闇の中を四足で這いずり回る歪な影を照らし出す。
    「摩子はいじめられてた。小さくて、優しくて、可愛くて、ドジで、ただそれだけの子だったのに。他のいじめられてる子を庇ったせいで生意気だって言われて、みんなに無視されて、制服や携帯壊されたり、机をゴミ箱にされたり、万引きさせられたり、とにかく、酷かった」
    「みっちょんは彼女を助けてあげられなかった。その事を後悔してる?」
    「あたしも摩子を苛めてたの」
    ぽつりと、三千子が呟く。
    「いじめないといじめられた。そういう空気だったから。親友だったのに。幼稚園の頃からずっと一緒だったのに。あたし、摩子を裏切って影で笑ってたの。最低でしょ? 最悪でしょ? 思い出すと、自分で自分が嫌になる」
    三千子は笑っていた。嫌な笑みだ。自分自身を嘲笑う、自嘲の笑みが張り付いている。
    「摩子が自殺した日、メールが届いたの。恨んでないよって。一言書いてあったわ。何よそれ。なんなのそれ。あたしは摩子をいじめてたのに。なんで自殺するその瞬間まで、他人の事気遣ってんのよ!」
    三千子が叫ぶ。苛立たしげに。腹立たしげに。激昂して、泣きながら。
    「それから、あたしはもういじめに関わらないって決めたの。だけど、あたしの周りにはいじめがあった。どこに行っても、どこにでも、それはそこにあって。あたしにはいじめられてる子がみんな摩子に見えてきた。止めなきゃ。今度こそ助けなきゃって思うのに、あたしには出来なかった。怖くて出来なかった。こんなに強いのに、喧嘩なら誰にも負けないのに、でも、そんなの関係なくて、あたしは一人ぼっちになるのが怖かったの・・・・・・」
    「それで、タンドゥーマの悪魔の噂を思いついた?」
    窓の外に月が浮かんでいる。黒々とした、無数の月。それは巨大な単眼の瞳だった。現実と虚無の狭間に生まれたこの世界を、『彼ら』は覗いている。
    これ以上長居するのは危険だ。誰にとっても、なにより、三千子にとって。
    「九練が死んだのは、本当にただの事故だったの。階段ではしゃいでて、滑って転んで、それだけ。その時あたしは思いついたの。いじめっこを殺す幽霊の怪談が広まれば、少しはいじめがなくなるかなって」
    「そして、君は実行した。タンドゥーマの悪魔の噂を黙示録の掲示板に流し、管理人の男里女々がそれを育てた。噂は広まり、『彼ら』の興味を引いて、ついにはロアを、タンドゥーマの悪魔を現出させるに至ったわけだ」
    三千子の顔が後悔に歪む。
    「こんなつもりじゃなかった。愛先輩にも、甲にも、あたしは死んで欲しくなかった。他のみんなだって。嫌いな所はあったけど、死ぬ程の物じゃなかった。あたしはただ、いじめをなくしたかっただけなのに・・・・・・」
    「君は悪くないよ、と言うつもりはない。だけどね、みっちょん。君が悪いと断罪するつもりもない。僕は探偵だ。警察官や裁判官じゃあない」
    闇が深まる。終わりが近づいている。
    まるで世界が一点に向けて収束するかのように、暗黒が忍び寄る。
    「なに?」
    三千子が腕にしがみつく。
    「フィナーレの時間さ」
    闇は無と同義だった。闇に飲まれた世界は消える。二人は丸く切り取られた廊下の上に取り残され、無限に広がる虚無の軍勢に囲まれた。
    無数の目玉に見つめられながら、二人は邂逅する。
    漆黒の闇の中から、歩く都市伝説が姿を現す。
    復讐の亡霊の姿を、その役割を与えられたロア、タンドゥーマの悪魔が現れる。
    「やぁ、兄弟」
    にっこりと、エイジはソレに挨拶をした。
    「君は運が悪かった。その事が僕は、残念でたまらないよ」
    「なにをするの?」
    すぐ横の三千子が尋ねる。
    「塵は塵に、灰は灰に。だから彼には、深淵――闇に帰ってもらうんだ」
    エイジは、縋りつく三千子を引き離した。
    「みっちょん。一つだけ、お願いがある」
    「・・・・・・なに?」
    「僕の事を怖がらないで欲しい」
    そしてエイジは解き放った。彼の内に巣食う闇を、闇を飲み込む深淵の影を。
    エイジの顔が虚ろになる。表情が、ではない。顔自体が綺麗さっぱりなくなって、無限に続く底なしの谷底のように、黒々とした深い闇へと姿を変える。
    「お帰り、タンドゥーマの悪魔。それは君の望んだ姿じゃない。君がなりたい君じゃない。そんな辛い事は、そんな苦しい事は、もう止めにするんだ」
    両手を広げ、エイジは言った。招くように、歓迎するように、親しみを込めて、エイジは言った。
    「帰ろう。タンドゥーマの悪魔。もう、終わりにしよう」
    エイジは、タンドゥーマの悪魔を抱き寄せた。まるで恋人にするように、慈しむように、愛するように、別れを惜しむように、熱い抱擁を交わす。
    タンドゥーマの悪魔の輪郭が崩れる。水をかけられた水彩画のように、あるいは溶けた氷像のように、それは自らを形作る外郭を失って、黒い泥のようなスープへと変わっていく。
    「さようなら、タンドゥーマの悪魔。君の事を、僕はずっと覚えているよ」
    排水溝に流れ込む水のように、タンドゥーマの悪魔だったものは、エイジの顔に開いた大きな穴に、黒々とした影の沼に、深淵の世界へと吸い込まれて消えた。
    唐突に、闇が晴れた。闇の外には、目が眩む程に明るい夜が待ち受けている。
    満月の下、二人は校舎の屋上に立ち尽くしていた。
    「闇は闇に帰り、噂は噂に戻った。僕達も、家に帰ろう」
    悲しげな笑みを浮かべて、エイジは言った。
    「エイジ・・・・・・あんたは何者なの?」
    辛うじて恐怖ではない表情を浮かべて、三千子が問う。
    「斜篠エイジ。ただのしがない私立探偵さ」
    キヒッっと、エイジが笑う。


       †


    「全部で六文字。二番目が【か】で最後が【び】。玄米を精白する時に生じる種皮や胚芽の粉末の小ささに由来する諺」
    「答えないわよ」
    数日後の事務所にて。いつかのクロスワード雑誌を片手に尋ねるエイジに、マリア冷たく答えた。
    「つれないな。これさえ分かれば、全部埋まりそうなんだ」
    「最後のページ?」
    「そう。これで最後だ」
    「ますます答えたくなくなったわ」
    どことなく楽しげに、マリアが言う。
    「知ってたかしら。わたし、あなたの困った顔を見るのが趣味なの」
    エイジはソファーの上で肩をすくめた。
    「生憎だね。僕は困らない。今日は、みっちょんからの報酬が届く日だからね。こんな懸賞を当てにする必要はもうないんだ。これはちょっとした、余興みたいなものだよ」
    「あら、そう」
    どことなく、マリアの呟きには浮かれた感じが混じっていた。
    「シロヌコ宅配便でーす」
    「ほら来た。最新型のエアコンだ。はっは、まったく、最近の女子高生はお金持ちだね」
    うきうきした足取りで、エイジは玄関に向かう。
    角刈りの配達員は持って来たのは、片手で持てるくらいの小さな箱だった。
    「えっと、これだけ?」
    「はい!」
    ハツラツとした笑みに押されて、荷物を受け取る。箱は空なのではないかと疑いたくなるくらい軽かった。
    「あらあら、随分小さなエアコンね。流石は最新式と言った所かしら」
    「まさか。何かの間違いか、さもなきゃ別の配達物だ」
    そんな心当たりはなかったが。
    「いいえ。それは間違いなく、次木三千子からの報酬の品よ」
    確信を持ったマリアの声。
    「・・・・・・マリア。何か知ってるね?」
    「えぇ。でも、まだ教えてあげない。あなたがその箱を開けるまではね」
    マリアがそう言うなら、これ以上の追求は無駄だ。エイジは大人しく、軽いダンボールを開封した。
    「これは・・・・・・団扇(うちわ) ?」
    「くすくすくす」
    口元に手を当てて、マリアはわざとらしく笑った。
    「やられたね。これは、マリアの仕業か」
    渋顔でマリアを見る。
    「ええ、そうよ。わたしの仕業。みっちょんが下の店にいる間、わたしは彼女とお友達になったの。みっちょんたら、報酬の支払い方法に悩んでるみたいだったから、相談に乗ってあげたのよ」
    「へぇ、それで、なんで団扇になるのかな?」
    「えぇ。つまりこれは、こういう事」
    ぱちんと、マリアが指を鳴らそうとする。だが、指が擦れるだけでなんの音も出ない。三度試した後、マリアはこほんと咳払いをして、執事でも呼ぶかのように手を叩いた。
    「みっちょん」
    事務所の扉が開き、メイド服を着た三千子が姿を現す。
    「ひ、久しぶり・・・・・・」
    恥ずかしそうに三千子が挨拶をする。
    「再会を喜びたいのは山々なんだけど、その前に、なにが起きてるのか説明してもらえるかな?」
    「ごめんなさい!」
    三千子が頭を下げた。
    「彼女、お金がないの。事件が解決したあと、両親に事情を説明してお金を借りる予定だったのね。でも、都市伝説の怪物が犯人だったなんて言っても信じて貰えないでしょう? だから、わたしが立て替えてあげる事にしたの」
    「そこまでは理解出来る。問題は、何でエアコンが団扇に化けたのかだ」
    「あらあらあら。お得意の推理とやらで考えてみたすぐに分かるじゃない」
    無表情だが、マリアの口調は明らかに楽しげだ。
    「あなたはわたしにとても沢山借金をしている。だから、わたしへの返済額で、報酬はチャラ。その団扇は、わたしなりの優しさといった所かしらね」
    「・・・・・・それはそれは。嬉しくて涙が出そうだ」
    「ごめんなさい! その、なんか、とにかく!」
    もう一度、三千子が九十度の角度で頭を下げる。
    「仕方ないさ。こればかりは、みっちょんのせいじゃない」
    苦い笑いを浮かべて、エイジが告げる。
    「で、みっちょんがメイド服を着ているという事は、つまりはそういう事なんだろう?」
    「そう。彼女はわたしに対する借金を返済する為、メイド喫茶サンクチュアリの店員になりましたとさ。めでたし、めでたし」
    満足そうに告げると、マリアは事務所を後にした。朝から無駄に居座っていると思ったら、これがやりたかったらしい。
    エイジが苦笑していると、閉まりかけた扉の隙間から、ひょいとマリアが顔を出した。
    「さっきの質問に答えてあげる。正解は、糠喜びよ。くすくすくすくす」
    「笑えるね。最高にファニーだよ」
    マリアを見送ると、事務所にはエイジと三千子の二人だけになった。
    「その、だから、そういうわけで、その、よろしく、お願いします」
    三千子が三度目の頭を下げる。
    「同情するよ。みっちょんは、悪魔に魂を売り渡したんだからね」
    苦い顔を浮かべながら、エイジは古城の描かれた団扇を眺める。
    「その、あたし、仰ごうか?」
    ばつが悪そうに三千子が言う。
    「嬉しい申し出だけどね、止めとくよ」
    少し考えて、エイジは断った。
    そんな事をしたら、後でマリアに馬鹿げた額の請求をされるに違いない。
    「それにね、みっちょん。僕にはこれがある」
    と、エイジは手に持った懸賞雑誌を掲げた。
    「昔から言うだろ? 不幸の後には幸運がやってくる。さっきので、丁度全部埋まったんだ。エアコンは、こっちに期待するよ」
    言いながら、エイジは最後のキーワードを埋めた。
    「ねぇエイジ」
    「なんだいみっちょん?」
    「凄く言い辛いんだけど、その雑誌、去年のよ」


    case.2へ、つづく。


     ―――――――――――――――
    七星十々 著 / イラスト 田代ほけきょ

    企画 こたつねこ
    配信 みらい図書館/ゆるヲタ.jp
    ―――――――――――――――

    この物語はフィクションであり、実在の人物・団体とは一切関係ありません。

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