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現代社会理論研究 第8号 65〜80頁 1998年11月
「反精神医学」は、1960〜70年代にかけて精神医学内部から湧き起こった精神医学的常識に対する反撥、挑戦という政治性を伴った潮流の総称である(1)。この動きは、医療批判、精神医療批判の動きと呼応して大きな注目を集め大きな影響を与えた。精神医療において、反精神医学は、「人間」を中心に据えた精神医学、精神医療への転換、すなわち精神医療の改革を促進させる大きな要因となる。反精神医学の主張は、精神医療の「人間化」と呼ばれる倫理性への志向と大きく重なり合ったのである。
この反精神医学の震源地がレイン(Laing, R. D.)、クーパー(Cooper, D. G.)らを擁するイギリスであった。彼らは、1965年4月にロンドンにキングスレイ・ホールと称する宿泊施設をひらく(2)。彼らはこれをホスピタルではなくハウスホールドと呼び、ここでは患者であるなしにかかわらず誰からの強制もなく自分の好む期間だけここに住んでスケジュールに加わることが許されていた。この実験の大きな特徴は、あらゆる社会的ヒエラルヒーを完全に排除しようとしたことである。キングスレイ・ホールにおいては、誰も患者ではなく誰もスタッフではない。そこに生活するすべての成員は完全な自由を享受できる。住人の行動は何のコントロールも受けず、好きなときにベッドに横たわり、好きなときに外出できる。このようにキングスレイ・ホールでは、誰が誰を何のために治療するのかはっきりしなくなる状況を構成することが目論まれていたのだ(3)。
レインらがこうした実験を行ったのは、分裂病の家族研究から得た知見によるところが大きい。レインとエスターソン(Esterson, A.)は、1958年から始めた分裂病の家族についての研究の一部を1964年に出版する。この『正気・狂気・家族(邦訳書:狂気と家族)』[Laing & Esterson, 1964=1972]は11人の女子患者の家族についての報告を通して、「愛」という名のもとに少女たちに加えられてきた欺瞞や破壊の様相が克明に記録されていた(4)。レインは、こうした研究を通して、社会的なものが個人に与える抑圧を捉える一連の「政治学」を展開していく[Laing, 1967=1973, 1969=1978]。レインらは、家族関係にだけにではなく、精神科医−患者関係、精神医学という制度、そして社会へとこうした「現代の疎外」となる関係性を見出し、と同時に彼らの試みはこうした関係性からの解放を追求することになる。この動きは、精神医学を超え出るものであった。1967年7月にレイン、クーパー、バーク(Berke, J.)、レドラー(Redler, L.)の4人の反精神医学の提唱者が主催して、さまざまな専門分野から「人民の解放」に向けた弁証法を模索した「ロンドン反大学」における「解放の弁証法会議」[Cooper (ed.), 1968=1970]は、反精神医学が「狂気の解放」に留まるものではなく、「人民の解放」へ向かう弁証法を目指すものであったことを証明する。反精神医学は、この弁証法を精神医学から模索することになる(5)。
このように反精神医学はその成立において特定の人間へのまなざしを持っており、反精神医学はひとつの人間学を形成していたとみることができるだろう。そして、反精神医学の人間学は、家族研究を端緒として成立していったことが注目される。このことは、反精神医学をどのように規定し特徴づけることになるのだろうか。本稿は、20世紀の精神医学、特にその後半における大きな出来事となった反精神医学を、イギリスにおけるそれを中心として(6)、反精神医学の人間学が指し示すところのものを検証することにしたい。
イギリスの反精神医学の提唱者たちの議論の基盤には家族研究がある。これは、1960年代にアメリカを中心にして盛んだった家族研究(family study)と呼応している。「ダブル・バインド仮説」[Bateson et al., 1956]を提唱したことで知られる人類学者ベイトソン(Bateson, G.)は、こうした研究者のひとりであり(12)、ベイトソンらの家族研究はその後の家族療法の開拓へと展開していく。 こうした展開は、分裂病の成因として深く家族が関与している可能性を想像させる。しかしこうした捉え方は『正気・狂気・家族』[Laing & Esterson, 1964=1972]の第二版の序(1969年10月付)において次のように否定される。
われわれは分裂病の原因の中で、家族が病因的変数であるという仮説をたてて、それを検証すべくこの研究を計画したわけではなかったのだし、そうしたと主張したことも、一度もなかったのだ。われわれがこの十一例で例証しようとしたことは、もしもわれわれが家族の相互関係を何も知らずに患者をみたなら、比較的にいって社会的に非常識と思えたであろう彼らのいくつかの体験や行動が、彼らの本来の家族という文脈の中でみると、ずっと意味のあるものになる、ということなのである。[Laing & Esterson, 1964=1972:5]
ここで主張されていることは、彼らは決して分裂病の原因として家族を捉えようとしたわけではない、ただ家族という文脈で捉えるとそこで起きている事態がより詳細に捉えることができるということだろう。しかしながら、と同時にこの序文は逆にレインらの仕事がまた家族因説として読まれやすく、家族因説との親和的な関係のもとにあることを物語っているし、われわれはこの強い否定に家族因説の肯定を読み取ることさえ可能だ。彼らはいったいなぜ家族因研究であることを否定しなければならなかったのか。
レインらの家族研究は研究史的に母親研究の延長線上に位置づけられる[阪本,1982]。レインは『引き裂かれた自己』の最後に、症例ジュリーとその母親との関係を入念に記述[Laing, 1960=1975:ch.11]して「分裂病因性の母親(schizophrenogenic mother)」という概念を批判していた。そのかわりにもちだしてくるのは「分裂病因性の家族(schizophrenogenic family)」である。
分裂病因の母親に限定するよりも、分裂病因性の家族を考えた方がいいと思われる。少なくともそうすることによって、家族全体の力動との十分な関係の欠落した、母親や父親や同胞の研究にかわって、家族布置の全体についての報告が、もっと期待されてもよくなるだろう。[Laing, 1960=1975:267]
先にあげた時間的に後続する家族因研究の否定の言明はこれと矛盾するようにみえる。「分裂病因性の家族」という概念、そして家族研究は、家族が原因とはいわないまでも家族なるものを研究対象とすることによって何らかの治療可能性が開かれるのではないかという想像が働くことによって成立したのではなかったのか。しかしながら、ひとたび家族研究が成立するやいなや、家族なるものに対する働きかけ、つまり家族療法への転回は家族因説との差延をもち、それにもとづいて家族研究が構成されるようになる(13)。アメリカにおいて、分裂病の家族研究は、家族病理という考え方から家族を一つのシステムととらえ分裂病の発生を家族的布置という組織の力動的なあり方の結果としてとらえることへと転じていく。この転回は、家族療法を先取りして、そして臨床へ逗留することによって、病としての家族よりも連鎖や構造の問題、あるいはコミュニケーション上の問題に転じることによって、出発点としての家族と家族因説を自動的に消去していくものでもあったのだ。
イギリスにおけるレインらの家族研究は、アメリカにおけるそれとは異なった様相を呈していく。家族因研究であることの否定は、アメリカ的な〈社会的なもの〉への志向から急激に転換して、反精神医学の主張へと繋がることを暗示させる。反精神医学とその政治学、そして「解放の弁証法」への志向が、家族研究を基盤にして成立していったことは、家族こそがこうした政治的様態の典型であり、まっさきに解放しなければならないところという認識と接合する。レインにおいてこのことは家族研究[Laing, 1962, 1964a, 1965, Laing & Esterson, 1964=1972]から一連の政治学[Laing, 1967=1973, 1969=1978]への展開において窺い知ることができるのみである。それに対し、クーパーはこうした主張を明示的に述べる。クーパーは、順応性の基盤としての子供の社会化による正常性の形成のさいに家族が果たす役割を検討する。クーパーは「家族とはその社会的な義務として、われわれのほとんどの経験を曖昧なやり方で濾過し、われわれの行為から純真でゆたかな自発性を奪ってしまう組織」[Cooper, 1971=1978:7]と捉える。クーパーによれば、子供を「育て上げること」は事実上人間を堕落させることに近く、教育も同じく人間を自分自身から引き出し切り離してしまうことであるというのだ[Cooper, 1971=1978:14]。
こうしてレインらの家族研究は、アメリカにおけるそれとは別のかたちで家族を超えて〈社会的なもの〉と結びついていく。これはひとつの政治学、そして反精神医学となる。と同時に反精神医学は精神医学を超えていく傾動をもつ。すなわち、反精神医学の政治学で扱っていることがらは、分裂病者にだけではなくわれわれすべてに共通することがらであるのだと。こうして反精神医学は正常な人間は自分の精神を離れた存在であり、自己の慢性的殺害に甘んじている[Cooper, 1971=1978:15]として「現代の疎外」を訴え、「人民の解放」を目指す「解放の弁証法」を志向することになるのだ。そして、この志向は、われわれの経験を司るところを批判する。反精神医学の場合、これは分裂病の存在を否定することと接合する。「分裂病とか精神病とかいったものは存在しない、専門家によって貼られたレッテルにすぎない」という反精神医学の主張は、分裂病あるいは精神病を精神医学における神話(実際には存在しないもの)という位置を与えることになる[Szasz, 1974=1975, 1976](14)。と同時に、レッテルを貼る精神科医は経験の政治学を司る権力者として、それを可能にする精神医学という組織と制度はわれわれの経験を司る機構として批判の対象となる。
このようにレインらの動きは、家族研究を結節、転換点として「人民の解放」を目指す「解放の弁証法」を志向するようになる。と同時に、「人民の解放」への志向は、一方では権力的様態としての〈社会的なもの〉に対する批判へと向くとともに、もう一方では狂気に対して特別の位置を与え精神の本質をそこに見出していく。これは、ベイトソン的な「精神の生態学」[Bateson, 1973=1990]を構成していくものとなる。レインはベイトソンからの影響のもとに「分裂病旅路説」を展開する[Laing, 1967=1973:124, Bateson (ed.), 1961:�f]。レインは、狂気を意識の内的時空間を探検し正気へと帰還するはずの一つの旅路であると捉える。「この世界から別の世界へ入っていくプロセス、そして別の世界からこの世界へと帰ってくるプロセスは、死や生を与えることや生を与えられることと同様に、自然なこと」[Laing, 1967=1973:132]であるというのだ。
しかしながら、反精神医学は「人民の解放」を志向するとき、分裂病と呼ばれていたものを狂気に置き換えていくにすぎないのである。「分裂病は存在しない、存在するのは狂気だけだ」という反精神医学の主張は、分裂病を狂気へとラベルを付け替えたにすぎず、分裂病の存在自体を完全に否定することはない。もちろんこれは単なるラベルの付け替えではなく、それと同時に分裂病と呼ばれていたものの内容が置き換えられる。それは従来の分裂病に対する治療不能性から治療の可能性の開かれたものとみなすことへの転換に並行するものであるけれども、反精神医学のもつ狂気に対する素朴な実在性への逗留は、別の形の分裂病の実在性を素朴に信じることと等価なのである(それはもはや分裂病とは呼ばれないとしても)。さらに、こうした分裂病ないし狂気への視点は、「正常」を基準にして設定されていることには変わりない。反精神医学は、狂気を私たちが「正常」と呼んでいるところの私たちの疎外状態をいやす自然の方法[Laing, 1969=1971:175]として設定するにもかかわらず、結局のところ潜在的に自然なプロセスの一つの挫折型として位置づけてしまう[Laing, 1969=1973:131]。このことは、再び「解放」の志向と結びつく。レインは、現代ほどこの自然治癒過程と接触を失った時代はないと捉え、その原因として精神医学の診察、診断、予後判定、ときには精神分析ですらこうした自然のシークエンスが発生するのを妨げることになると捉える[Laing, 1969=1971:175]。こうして反精神医学は再び精神医学を反駁していく。
レインらの家族研究から「解放の弁証法」への転回はひとつのオイディプスの所在を指し示している。反精神医学のオイディプスは、「経験の政治学」を超克し「人民の解放」を志向するオイディプスだ。このオイディプスは、臨床によって超克可能な道をあらかじめ開いておくことのできる精神分析のオイディプスの消去されるそれとはちがって、超克の不可能性が刻印されたそれである。というのも、「解放の弁証法」たらんとした反精神医学は、いかなる政治性も自らの実践の中から排除しなければならない。反精神医学は精神医学における「解放の弁証法」の過程として、到達されるべき非精神医学を先取りして、それを現在に置き換えていなければならない。反精神医学は原理的にはいかなる形態の医学や医学的実践であってはならないのである。それにもかかわらず、「解放の弁証法」は現在を病理的なものとしてみる医学的なモデルに依拠する。そして、何よりも反精神医学は「狂気の解放」の実践において精神医学と臨床的なものを所与としていく。反精神医学は分裂病の実在を否定するけれども、分裂病であるといわれている人たちに対する治療らしきものを放棄するわけではない。反精神医学は、従来の精神医学に対する反駁を企てるけれども、それがまたひとつの精神医学的な営為として臨床的なものにかかわる(それは「狂気の解放」であっても「人民の解放」であってもよい)かぎり、医学的な実践でしかないのだ。
「解放の弁証法」は、こうした反精神医学の刻印された否定性を如実に表現するところとなる。反精神医学が精神医学の人間学的転換による精神医学に対する否定性を自ら負うことを選択することは、自ら抑圧の中に留まることに繋がっていってしまう。反精神医学にとってこのことは「解放の弁証法」の派生的効果にすぎないのであって問題にならない。その一方で、この抑圧は何よりも反精神医学自身に対して降り注がれる。反精神医学は、「現代の疎外」の原因たる抑圧とその構造を反復して〈社会的なもの〉——例えば「精神病」においては家族的関係性や精神医学・精神病院という制度——の中に求めなければならなくなって、反精神医学はそれ自身が形成するひとつの構造から逃れ出られなくなってしまう。反精神医学が自ら抑圧された/ている様態を選び取ってしまう構造にあるのである。だが、こうした反精神医学の抱える原理的問題は反精神医学の何らかの実践を介して析出し、反精神医学を自ら崩壊させていくはずである。それは、直接この原理的問題が反精神医学のある種の「失敗」を帰結させるのではなく、何らかの実践を通して、志向の逓減を招き、しだいにそれを内部から崩壊させていく。
キングスレイ・ホールはこの反精神医学の原理的問題が析出する場となる。これをキングスレイ・ホールのひとりの住人を通して観察することにしよう。バーンズ(Barnes, M.)は、分裂病というレッテルを貼られた元看護婦である。彼女は、キングスレイ・ホールに滞在し、レインの教えを受けて、狂気への旅を実行する。彼女は、この狂気への落ち込みを通して描画を覚える。彼女の絵画は注目を集め、展覧会を開くまでに至る。彼女は、のちにキングスレイ・ホールでの経験を中心に幼少期からの回想を、キングスレイ・ホールでレインらの実験に参加していたアメリカの精神科医バークの回想を添えて報告書として出版する[Barnes & Berke, 1971=1977](15)。
キングスレイ・ホールにおけるメアリーの行動は、キングスレイ・ホールにおいて最小限の規律を保つべきか否かという問題を俎上にのせた。レインの狂気への旅のすすめにしたがって忠実にかつ厳密に実行された幼年期への「退行」は、彼女を赤ん坊同然にする。栄養は哺乳瓶でとらなければならず、彼女は裸で糞便をからだ中にくっつけたまま歩き回り、ベッドで放尿し、何でもかんでも壊してしまう。彼女の仮借のない「退行」は何度も彼女を栄養失調で死にかけさせ、周囲をあわてさせる。こうした彼女の状態は、彼女を精神病院に送るべきか否かという問題を発生させてしまう。そしてこうした規律の問題は、彼女の狂気への落ち込みからの「回復」の途上にあっても発生する。彼女は自分が大きな「家族的愛情」と「神秘的愛情」をそそぎこんでいるレインとバークとしかかかわりをもとうとしなかったのだ(16)。
キングスレイ・ホールは、反精神医学の臨床的実践であった。キングスレイ・ホールは、少なくとも反精神医学においては、いかなる支配的規範からも解放された自由な領土という位置が与えらるはずである。しかしながら、キングスレイ・ホールという場もまたいかなる政治的関係性から逃れることのできる場とは限らない。狂気への旅は、またその旅を通して正気へと還帰してくることを要求する。これはまたひとつの政治性を伴った社会化となるのである。この要求は、反精神医学の目指したところと反するような言動を反精神医学の提唱者たちにとらせることになる。バーンズの旅は、エスターソンをして昔ながらの権威と示唆を使った方法に回帰させるほどであり、彼女が飢え死にしかけたときに彼は突然絶食をつづけることを禁止する。バーンズに暴君としてふるまわれたバークは、我慢しきれなくなって彼女に対して二度ほど鉄拳を加えてしまう(17)。さらに、反精神医学の動きは、マス・メディアなどが介入してくることによってキングスレイ・ホールを格好の宣伝の材料と化させてしまう。絵を描くバーンズは一躍注目をあつめ、一種の狂気のスターにしてしまう。このことは、ほかの住人たちから仮借なき嫉妬を集中させるし、またこのことが彼女の再度の狂気への落ち込みの大きな誘因となってしまう。
バーンズのキングスレイ・ホールにおける狂気への落ち込みの最大のものは、キングスレイ・ホールという共同体の危機の時期と重なる。1966年の春、共同体はしだいに敵対を増す二陣営に分裂してきていた。エスターソンらは、キングスレイ・ホールのあまりにも粗雑な共同体に明確な規則を作るべきであり、誰もがそれに従い、従わないものは共同体から放逐されるべきであり、そしてこの共同体は相互承認によって決められた権限をもつ最高管理者によって維持されるべきであることを主張した。結局、エスターソンはキングスレイ・ホールを去ることになるのだが、このことはまたキングスレイ・ホールという共同体の性質をよく表している。キングスレイ・ホールは、共同体の個々のメンバーが自分の狂気を達成できる共同体としてかなりうまく機能したことも事実だろう。しかし、それはまたレインというカリスマ性をもった指導者のもとに集まった者によって構成されていたことも事実なのである。バークが分析する[Barnes & Berke, 1971=1973:363]ように、エスターソンがいなくなってしまったために共同体は一層具合がわるくなっていったというのは、反精神医学の志向に相反する諸事実がしだいに明るみになってしまってきていたことを示すのである。
これらのことすべてのうちに、反精神医学はその志向とは裏腹に、反精神医学もまた政治的にふるまわなければならない場面に遭遇してしまったことが証明される。そして、このことは反精神医学の志向を挫き、逓減させ、内部から崩壊させていくのである。ガタリ(Guattari, F.)がいうように「キングスレイ・ホールをおびやかす本当の脅威はむしろ内側からやってくる」[Guattari, 1973=1988:192]というのはその通りなのだ。このことは、何よりもレインらのキングスレイ・ホールによる実験が5年あまりで幕を閉じ、長くは続かなかったことが表示している。むしろ、レインらの実験は、バーンズら狂気のスターを排出したところまでで、ある程度のものが達成され、そしてもうある程度役割を終えていたのである。もちろん、この実験は、その後の精神医学と精神医療に対してそれらのあり方を提示してくれるひとつのモデルとして生き続けることになったのではあるのだが、そのときにはもはやそれは通常医学化して精神医学の中に取り込まれてしまい、それが反精神医学のものでもあったことが消去されていく。
反精神医学の経験は何を記述するのか。ひとは、反精神医学の「解放の弁証法」の不可能性のみを抽出し、人間の社会化には社会的家族的なものが必要であること、人間相互の交流には政治性を伴うことが必然であることを抽出するかもしれない。だが、ある出来事からこうした教訓を抽出するという短絡は、何よりもその経験自体を削ぎ落とし排除することによって可能になる。それは、決してその経験に依拠してはいないし、依拠することは原理的にできないのである。
反精神医学であるならば、こうした排除こそ問題にするかもしれない。社会化には何らかの社会的家族的なものを伴うとしても、それが家族であるということはどこまでも抽出されない。たとえ具体的な関係性を家族的なものとしてあげられるとしても、個人的な関係に帰することもできる特定の関係を、家族に置き換えることはそこからは導き出せないのである。そもそも、人間の社会化には〈社会的なもの〉が必要であるというのはただ単に定義的あるいは同語反復に真なのであって、〈社会的なもの〉には決して何ものも代入され得ず、それ以上の意味をそこに付け加えることは政治的なふるまいなのである。そこに家族らしきものを見出すとしても、それは〈社会的なもの〉を具象化するときにそれを家族と同一視することなのであって、家族主義であるのはむしろこのような見方のほうになってしまう。そして、人間相互の交流には政治性を伴うことが必然であるというのは、〈社会的なもの〉と一体化したひとつの人間観を主張することに傾く。20世紀精神医学の人間学的転換と反精神医学の主張が表示するのは〈社会的なもの〉あるいは共同体から距離をもった人間の実存の可能性であるにもかかわらず、そのことを消去してしまうのである。
そしてまた上記のことは、レインらの反精神医学にもあてはまるのだ。反精神医学のオイディプスは、レインの家族に対するまなざしに象徴される。ガタリは、これを「レインにとってすべては家族から発する、しかしレインは人が家族から脱することを待望する」[Guattari, 1973=1988:195]と簡潔かつ的確にまとめる。このダブル・バインド的な関係性の言明は、反精神医学の試みが陥った困難を表象する。ガタリはこれを反精神医学のもつ頑強な家族主義として描く[Guattari, 1973=1988]。だがガタリの分析はある程度妥当であるけれども、「アングロサクソン系の反精神医学の隠された顔」としていささかセンセーショナルに描くガタリの記述には行き過ぎも含まれている。レインらの家族研究から「解放の弁証法」への転回において、反精神医学を成立させたところのものである「家族の政治学」ないし家族主義的なものを取り除こうとする志向は、破壊的に家族主義を現出させる。反精神医学の末路を「失敗」と捉えるのなら、この「失敗」は必然性を伴っていたということができるだろう。だが、反精神医学が家族主義的なものをみせるとしても、それは反精神医学が家族の政治学を介して「解放の弁証法」へとつながったたことの残滓であったり、それはすでに反精神医学という値をとらないものであったりすることも事実なのである。
レインを反精神医学の中心人物とみなすことは適当ではないのかもしれない。レインは「自分のことを反精神医学者と呼んだこともなく、初めて友人でも同職者でもあるデイヴィッド・クーパーが『反精神医学者』という言葉を用いた時にはそれを非難しさえした」[Laing, 1985=1986→1990:22]と明言する。レインは精神医学が社会のもつ排除や抑圧の傾動に荷担しているとする反精神医学的なテーゼにもちろん賛成するけれども、反精神医学から距離をとるという姿勢を貫く(18)。それに対し、反精神医学を提唱したクーパーは反精神医学の否定性を請け負ったことが何よりも彼の家族観にあらわれている。クーパーは後に、「家族の政治学」から、家族の死を主張するところまで行き着くことになる[Cooper, 1971=1978]。家族の政治学から個人を解放し、まったく家族的なヒエラルキーのないところにおいて「家族の死」は必然であったのだ。しかし、クーパーの主張は、「家族の死」とは全く逆の事態も含まれていた。クーパーが主張したのは、「愛」や「やさしさ」や「自己」や「関係」が再生される可能性が少しでもあるとすれば、まずわれわれは「家族」の死を、結婚、教育、性、死についての「革命」を語らなければならないということであった。クーパーはこうして死から再生した家族、すなわち「人間が選択によってその中に入ることができ、またそこでなさなければならないことをやり終えた時には再び選択によってそこから抜け出すことができるような家族」[Cooper, 1971=1978:19]を一種の「反−家族」と置いている。
反精神医学を提唱したクーパーの「家族の死」という概念には、反精神医学の可能性/不可能性が縮約されている。もちろんクーパーは自らのヴィラ21やキングスレイ・ホールの実験や精神分析の経験と重ね合わせて、「家族の問題をその構成員に投影したりせず、逆に構成員自身からさし出された実存を受容してくれると想像される家族」[Cooper, 1971=1978:10]を「理想的な家族」として置いたし、そうした家族が共同体的なものと重なり合わさって想像されていたことは事実だろう。クーパーの家族観は共同体的なものとの重なりから離れてはいない。けれども、クーパーの提起した一種の「反−家族」は、こんにちでいえば「選択的家族」の可能性の提示というべき、家族に選択という要素を持ち込むのである。クーパーの「家族の死」は、反精神医学が家族主義から超え出す位置を照らし出すものではなかったのだろうか。
反精神医学とは何であったのか。反精神医学は自ら崩壊していきつつ、精神医学の中に取り込まれていったとみることができるだろう。しかし、ここに大きな問題の余地が残されている。精神医学における「人間化」の徹底は、単純に精神医療の倫理と接合するだけでなく、その周辺に多くの「反倫理」を生じさせる可能性を含み込んでしまう。精神医学の「人間化」は、別の形でより人間を激しく拘束してしまう可能性を指し示している(19)。
反精神医学が精神医療の倫理と重なりあって精神医学の中に定着するにすることは、精神医療の「人間化」の徹底として反精神医学が受容され消費されたということだ。だが、それにしたがって精神医学は反精神医学的なものを否定してきたのではなかったか。反精神医学が主張したような「反倫理」が生み出されている可能性のもたらす懐疑主義的な基調は、精神医学に対してある種の停滞をもたらしたことは事実であるかもしれない。しかし、懐疑的であることとそれを禁忌することとは別のものである。むしろ、精神医学、そして医学は自らが原理的に人間を捉えることができないことに留意し、かつその否定性のうちに留まるべきではないのか。確かに反精神医学の言説は、革新さを求めるがゆえに議論が不精緻だったり突き詰めて考えられていなかったりするし、現代からみれば当時の時代状況に制約された「過去のもの」であるかもしれない。しかし、反精神医学が主張する事柄は精神医学に対して根本的で原理的な問題であって、現代の精神医療においても免れることはできない。反精神医学を不断に必要とするのは何よりも精神医学であるはずである。
反精神医学の人間へのまなざしが、精神医学を超え出ていったことは、反精神医学の医学性をよく表している。医学は〈ひと〉とかかわるとき、医学を超え出る。反精神医学の政治学は、むしろ医学を超え出ることによって、そこに病としての〈社会的なもの〉を発見していく。だが、その結果として反精神医学は、病の内に留まる。もし反精神医学の提示した「解放の弁証法」に可能性が残されているとすれば、病がそこにあるということではなく、病の内に留まることを選択することではないのか。「解放の弁証法」はその不可能性を取り込むことによって反復するようになる。それは、一度限りの反復、つまり精神医学→反精神医学→非精神医学という不可逆的な過程を所与としたかつての反精神医学と対比され、再帰的に反精神医学を必要とする新たな「解放の弁証法」として置き直されるだろう。
(1)「反精神医学」という名称を提起したのはクーパーだ[Cooper, 1967=1974]。クーパーは「自分の学問上の営みを既成のものへの対抗上、「反精神医学」と名付けた」[Cooper (ed.), 1968=1970:7]と言う。
(2)キングスレイ・ホールは、レインらの実験の舞台となる以前から、社会的実験と急進的政治活動センターとしての長い歴史があった。レインらの実験において、キングスレイ・ホールには、1965年6月から1969年8月までの4年3ヶ月の間に、119名が滞在した。参加時の年齢は、20代が3分の2を占め、30代をあわせると87%を占める。全体の3分の2が男性。滞在期間は、3日から4年超までさまざまであるが、1ヶ月以内が3分の1、半年までで7割近く、1年までだと8割を超える[Laing, 1969=1978:91-93]。キングスレイ・ホールの経験については、レイン自身によるもの[Laing, 1968=1975]のほか、キングスレイ・ホールの住人とレインらの試みに参加した精神科医によって書かれた「報告書」(後述)[Barnes & Berke, 1971=1977]を参照。
(3)レインはこの実験以前にガートネイヴァル王立病院において閉鎖病棟の解放と投薬停止の実験を行ってある程度の成果を収めている。キングスレイ・ホールの実験的試みは、このガートネイヴァルにおけるときほど「過激」なものではないが、ガートネイヴァルにおける経験をもとに新たな精神医療の形態を目指すという意味で積極的なものであった。また、クーパーは、キングスレイ・ホール以前にロンドン郊外の2千床をもつ公立病院の中で、自ら分裂病者のための治療共同体を作る試みを行っている[Cooper, 1967=1974]。このヴィラ21(Villa 21)の実験は、1962年1月から1966年4月までの4年にわたって続けられたが、そこでも精神病院における患者とスタッフという階層構造を排除して、反精神医学的共同社会を創出することが目論まれていた。
(4)エスターソンはのちにこれら11家族の中から1家族をとりあげて詳述している[Esterson, 1970]。
(5)クーパーは精神医学からのこの弁証法を「精神医学→反精神医学→非精神医学」として書き表す[Cooper, 1978:126]。クーパーは反精神医学を精神医学の解体、解消の過程として捉えていたのである。この図式は、the Ψ → anti-Ψ → non-Ψ と表される社会的革命の弁証法に一般化されている。こうした反精神医学は、対抗文化[Berke, 1970]や新左翼の運動において熱狂的に迎えられ、またそうした文脈でも捉えられてきた。しかしながら、反精神医学が当時の精神医学においてそれなりに力をもちえたのにもそれなりの背景がある。フロイトにおいて結果的に絶望視された分裂病の分析療法は、分析療法が精神療法に一般化し、かつ臨床的な精神療法が確立していく中で、しだいに切り開かれていき、1960年ごろまでには部分的に確実性を帯びて立ち現れていた。このことは、了解不能とされ自閉する分裂病者にも、了解可能でコミュニケーションをとり得る余地があることが、臨床的経験として可能になっていたことと対応する。そして、1950年代の薬物療法の登場は、精神医学のまなざしにおいて分裂病の治療不能性がいくぶんなりとも取り除かれることを決定づける。精神医学の改革への道筋は、こうした20世紀前半から中葉にかけての精神医学の経験のなかですでに準備されており、むしろ「体制側」が嘱望していたことであるとすらみることができるものであるのだ(以上拙稿[周藤,1997]参照)。反精神医学は、こうした当時の精神医学の状況にうまくはまったのである。事実、反精神医学的な動きは、精神医学の内部から世界的な広がりをもって同時多発的に湧き出す。反精神医学の言説が精神医療の言説空間において影響力を持ち得たのには、反精神医学が精神医療批判、精神医療改革の文脈において、精神医療の倫理性を志向する運動でもあったことによって、精神医学においてすでに変容してきていた人間観(精神病者観)を臨床の場に還元することを可能にするものであったと考えなければならない。
(6)アメリカ、西ドイツ、イタリア、フランスなどで同時的に勃興しつつあった反精神医学的志向を表出させひとつにまとめ直す機会を与えたということにおいて、クーパーによって提起されたこの名称とイギリスにおける反精神医学の動きは反精神医学全体の中でとりわけ大きな位置を占めていたと考えられる。こうしたことから本稿では主としてイギリスにおけるレイン、クーパーらの反精神医学を取り上げることにする。
(7)精神医学において現象学的精神病理学と現存在分析学とはほぼ同一のものとみなされる。これらは20世紀前半の精神医学における人間学的転換の中心と目されてきたのであるのだが、これらは精神医学を基礎づけようとする哲学的志向において、現象学と実存哲学の近接する関係性のなかで純粋現象学よりも実存哲学のほうに志向をもってきた。ディルタイの精神科学における了解(Verstehen)の方法を精神病理学に応用し、20世紀の精神医学における人間学的転換の端緒とされるヤスパース(Jaspers, K.)は、精神病理学の確立に力を注いだ後、自ら実存哲学者への道を歩む。ビンスワンガー(Binswanger, L.)やボスらが確立させた現象学的精神病理学の中心となったのは、ハイデッガー(Heidegger, M.)の哲学をもとにした現存在分析であった。だが、われわれはこれらのドイツ語圏における現象学的あるいは実存哲学的であることを内実とする精神医学における人間学的転換の背景に精神分析学の翳を読んでおかなければならない。精神分析学の誕生から10年余り遅れて精神病理学を確立するヤスパースは、精神分析的な了解的方法に対してリビドーという虚構の仮説に依ることによって了解と説明とを混同する誤謬を犯しているとしながらも、フロイトこそ偉大な了解心理学者であったことを認める。そして、何よりもビンスワンガーやボスは、精神分析家を出自としている。こうしたことがらは、精神分析が20世紀の知における地下茎(リゾーム)であること、そしてこのことは精神医学においてもまた例外ではないことを窺わせてしまう(もっとも地下茎は見ることができないのだが)。
(8)レインとクーパーは、自らサルトルの思想についての書を刊行している[Laing & Cooper, 1964=1973]。
(9)こうした観点でレインの精神医学をサリヴァン以後の研究史の展開に位置づけたものとして阪本の論文を参照[阪本,1982]。
(10)こうしたところには、新フロイト派精神分析と実存哲学との親和性をみてとることができるだろう。
(11)このことはフーコー(Foucault, M.)が、「心理学と狂気との間に存在する関係と、そこにある根本的な不均衡とが、狂気の本質や性質など、狂気のすべてを心理学の立場から扱おうとする努力を、ことごとく徒労にしてしまう」[Foucault, 1966=1970:133]として、心理学と精神病(フーコーは精神病を疎外された狂気と捉えた)との関係において捉えることになったところのものである。実存的視点にこのことから逃れて狂気あるいは精神病を捉える可能性をみることができるのは、精神病者との実存に接触することによって観察者の実存と交錯するがゆえにである。だが、実存的視点も本質的には狂気あるいは精神病を捉え得ない可能性から免れることはできないし、またこうした捉え得る可能性を残してしまうがゆえに悲劇的にこの否定性を請け負わざるを得ないことが起こりうる。少なくともビンスワンガーは、このことに気づきはじめていたようだ。ビンスワンガーは、思い上がり、ひねくれ、わざとらしさといった日常語から分裂病者の「失敗した現存在」の個別様態を実存的に分析するとき、それらを病的な「劣等」、「間違い」あるいは「症状」として医学的−精神医学的に判断されることはもはやなく、人間的現存在の挫折あるいは失敗として熟考されるとおいている[Binswanger, 1956=1995:xivf]。ビンスワンガーのこの主張には、分裂病者のことについて論じるのではなく、普遍的な人間的現存在の様態を明らかにすることであるのみという志向がうかがわれる。
これらのことは、実存的視点に狂気を捉える可能性をみていたフーコーは狂気という対象を追いつめきれてはいなかった側面をうかがわせる。狂気あるいは精神病を捉えきることができないという問題は、精神医学や心理学の問題であることを超えて、20世紀の知全体の問題であるのである。だが、フーコーの記述は精神医学を出発点とし実存的視点の可能性に依拠することによって、こうした側面を超えて示唆的なものとなった。フーコーが「精神病をつくりだしている澄みきった世界では、もはや現代人は狂人と交流してはいない」[Foucault, 1972=1975:8]というのはもっとも破壊的に捉えられるだろう。20世紀の精神医学における人間学的転換が表すことは、もはや精神医学とは関係なく、決定的に最終的に狂気は疎外されていることである。20世紀の精神医学においては、もはや精神病を単純に狂気の閉塞させたところと捉えることはできない。20世紀の人間学的転換とは、狂気を精神病から解放することでもあるのである。そして、このことの先鋒となったのは、現象学的精神病理学あるいは現存在分析学派であるよりも、精神分析学のほうが位置するのである。
(12)その後、ベイトソンの思想は、レインの思想に対して大きな影響を与えることになる。ベイトソンの晩年の東洋的なものに対する傾倒は、またレインを東洋的なものの方へ引き込むこととなった。
(13)レインらの家族研究も家族療法的なものへの志向をもっていた。レインらはこれを「家族に志向した療法(family-orientated therapy)」として専門的な記述を行っている[Esterson, Cooper, & Laing, 1965]。
(14)こうした捉え方は、社会学におけるラベリング論と共通する。ベッカー(Becker, H. S.)のラベリング論をもとに社会学から精神病を残基的逸脱として捉えたシェフ(Scheff, T. J.)の論考[Scheff, 1966=1979]は貴重だ。しかしながら、反精神医学におけるラベリング論的視角はもっぱら告発の文脈として用いられ[Laing, 1964b, 1964c, 1967=1973:126ff, Cooper, 1978:153-173, Cooper (ed.), 1968=1970:8]、これ以上深く考えられることはなかった。このことは、レインがガーフィンケル(Garfinkel, H.)の論考[Garfinkel, 1956]をもとにして今までの精神医学の扱いを位階剥奪の儀礼として捉えたこと(レインはこれに代わって精神医学は「成人儀礼」をおこなうようにならまければならないことを主張した)[Laing, 1967=1973:135]や、ゴフマンの精神病にかかわる研究[Goffman, 1961=1984]にも共通する。反精神医学の社会学への接近はこうした告発性に依るところが大きいのであるが、これは反精神医学に限定されない。これら当時のアメリカの社会学において勃興してきていた精神病にかかわる諸研究は、反精神医学だけでなく一般に精神医学に対する告発的文脈のもとに受容され、またそうした背景がこれらの社会学的研究を可能にしたところでもあるのだ。
(15)本稿におけるバーンズの例の記述は、バークによる記述[Barnes & Berke, 1971=1977:pt.4]およびガタリの分析[Guattari, 1973=1988]に依っている。
(16)ガタリはバークを彼女の父親と母親、そして精神的恋人の三役を兼ねる存在と分析している[Guattari, 1973=1988:193]。
(17)バークはこのことによって「混乱した家族の社会的諸関係の正体をつきとめようと一致結束した人たちからなる集団が、まさしくそうした家族と同じようにふるまうにいたるというようなことがどうして起きるのだろうか」と自問することになる。
(18)そして、反精神医学の成立はキングスレー・ホール以後、つまりキングスレイ・ホールの実験がある程度の成果を納めてから後に位置づけられるのである。キングスレイ・ホールとは、反精神医学の実験なのではなく、反精神医学が生まれてきたところなのである。
(19)人間をより激しく拘束する「反倫理」的事態は、分裂病を事例にとると次のような概念的変容に表れている。20世紀の精神医学における人間学的転換を通して、分裂病は了解不能なものから了解可能性のほうに置き直された。だが、そうして登場する「寛解」概念はまた治療可能性をもたせたまま不治性を刻印づけることでもあるのだ。
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