北海道新聞旭川支社
Hokkaido shimbun press Asahikawa branch

さんでー対談 この人と

坂本勝之さん*幌加内そば道場運営委員長*町内で生産加工高校で指導も*ソバ通じ地域づくり 販売・流通も視野に    2012/11/25

さかもと・かつゆき
 1942年、幌加内町生まれ。深名線が幌加内まで通じた3年後の1932年に、神戸市職員の祖父が「広々した北海道で農業に挑戦したい」と10代の父親を連れて入植。5人兄弟の長男として一家を支え、今は3女と孫5人に恵まれ「そばに関わらなかったら平凡な農家のじいちゃんだった」と振り返る。

 まもなく師走。年越しをはじめそばを食べる機会が増える時期となる。日本一のソバ産地、幌加内町で生産から加工まで手がけ、町中央改善センター内にある「そば道場」の運営委員長も務める坂本勝之さんに、今年のソバの出来やおいしい味わい方などを聞いた。(聞き手・石川徹、写真・伊丹恒)

 ――今年の幌加内のソバの出来はいかがですか。

 「132戸の農家が3240ヘクタール作付けし、実入りの良いソバが収穫できました。雨は多かったのですが、種まきと結実する時期の気象に恵まれました。収穫したてのソバは青臭くえぐみがありますが、熟成するこれからは本当においしい新ソバが味わえます」

 ――坂本さんはそば打ちもされますね。

 「1973年にコメの減反政策が始まり、私の家では終戦前後から作っていた水田を76年以降、ソバ畑に切り替えました。でも、そばは好きじゃなかったんですよ。きっかけは96年から始まったオーナー制度のソバ畑の管理者になったこと。そば打ち愛好者との交流会などで、そばをゆでたりしているうちに、全麺協(全国麺類文化地域間交流推進協議会)認定素人そば打ち最高位の5段で、現在町長を務める守田秀生さんから『あんたも打ってみなさい』と勧められ、99年から本格的に打ち始めました」

 ――すぐに上達し、製粉工房まで開いていますね。

 「そば打ちを始めてからはゴルフはやめ、2000年に初段、翌年に2段、02年に3段、04年に4段と昇段しました。3段認定の年に趣味の延長で石臼を取り寄せ、粉をひき始めました。町内の製粉所に『こんな粉を』と注文しても小回りがきかなかったからです」

 ――農家直営製粉所は珍しかったのでは。

 「生産者直営はうちが皮切りです。3段は日光、4段は松本と、いずれも本州の認定会で取ったのですが、そこで知り合った人たちから『坂本の粉を使いたい』と声がかかるようになりました。いまでは自分のソバ畑(18ヘクタール)の玄ソバだけでは間に合わないほど注文が来て、三女の光津恵(33)が製粉とネット販売などの責任者を務めてくれています。町内の製粉所8カ所のうち生産者直営は5カ所。『付加価値を付けられるなら私たちも』と続いてくれ、やってよかったと思います」

 ――幌加内高校でもそば打ちの指導をしていますね。

 「十数年前までは、何かまちで事件があると『幌高生の仕業か』などと言われていました。でも、10年前にそば打ちが必修科目になり、生徒たち生き生きとそば打ちをしています。そば職人にならなくてもそば打ちの技術を習得したことは生徒たちの自信につながっている。彼らが頑張っているから幌加内の将来は明るいですよ」

 ――今後の夢は。

 「いっぱいあります。自分のためではなくて、地域づくりにつながることをしたいですね。ソバ生産量は日本一でも、生産から加工、販売・流通まで行う6次産業化の努力をしないと地域として生き残れませんからね」

 ――年越しそばですが、市販の乾麺でもおいしく食べられる秘訣(ひけつ)はありませんか。

 「大きな鍋で麺を泳がせるようにゆでてから、冷水で軽くもむようにして表面のぬめりを取ってください。コシが出ます」

■寸言
 素人の質問にも丁寧に答えてくれる。誠実な人柄が、頑固な人が多いとされるそばの世界でもみんなから慕われる理由だろう。そばのまち幌加内の発展のため今後もますます活躍してほしい。

北海道新聞社ページへ
戻る