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chihointokyoのプロフィール

自己紹介

ニックネーム:
chihointokyo
性別:
女性
出身地:
兵庫県
出身校:
The University of Buckingham
職業:
非専門職VBA Expert
出没場所:
東京、関西、London, New York, Singapore, Toronto, Miami
ホームページURL:
http://ameblo.jp/chihointokyo/
このブログに書いていること:
小学校の英語教材の紹介や英語教育について

好きなモノ

1961年生まれ。幼稚園教諭⇒貿易業務⇒英国留学⇒証券金融調査部等勤務、IT/Webを利用したプロジェクトに参加中。@chihointokyoでツイッター参加中。

英語関連自己紹介 - 蛇足①
●どうやって英語力を身につけたのかを振り返る

私自身は中学までは満点だったけど高校からサボったのでよくても平均程度、というよくあるパターンでした。ただ、幼少期に音感教室に通ったせいか耳はいいので中学の英語の先生方の発音がいつも聞く洋楽とかなり違うことが不安でした。

カーペンターズのレコードをかけて、日本語にない音がそっくりに自分の耳で確認できるまで何度も繰り返し練習しました。発音は日本人訛りがあまりないと言われます。(歌だけで練習するとイントネーションで多少問題出るときがあります。)

短大では英検一級保持者の先生(知合い)から週2時間くらい英語の個人レッスンを受けましたが1年続いたかどうか記憶にありません。

英検で準一級がなかった頃だったので二級を取得しましたが、今思うとそれはすごく三級に近かったかもしれません。書いたり話したりのアウトプットの方が得意だったので、市の英語スピーチコンテストや、その後夜間に通った英語学校での同様のコンテストで2位取得。ですが読むのは未だに日本語の数倍の時間がかかります。

幼稚園教諭を3年で辞めた後、20代の大半は貿易業務で英文レターを毎日書いていました。バブル景気の始まりとはいえ、雇用機会均等法ができる前(何年経っても募集年齢上限より上)。新卒での会社経験ナシな上、女性の就職口が今よりずっと少なかった頃。転職先がいつもすぐ見つかったのは、どうも英検2級というのが当時は威力があったのではと今振り返って思います。

30代で英国に留学して経済学の学士号と修士号をとりましたが、遅読ゆえ、そして好きな科目しか集中力が持続しない性分のため全科目制覇は綱渡り状態でした。

が、やはり書くことが好きだったのでエッセイ(小論文)や論文では高得点をゲット。論文形式の試験のときはネイティブとトップ争いした科目も…。

直属の上司が組織代表や部門長であることが多かったため、同クラスの人たちに公式なレターを書くことは日常でした。NPOを運営する友人が相手国の領事館にレターを出すときの添削や代筆も時々しています。

TOEICのスコアは直近で905点。これが如何に低いか、私と同じ環境で過ごしてきた人なら解る数字です。実は2008年に「読む・聞く」のInputより「書く・話す」のOutput重視に切り替えたという最初の試験で、公式模試の本を一夜漬けしたのですがどう見ても択一式ですからInputが正確にできる人が勝ち、という気がしました。

満点は990点。Nativeなら940~950点と聞いたことがあります。正解に対して意見が分かれそうな選択肢がそれくらいはあるので納得です。92年には860点で上位3%付近でしたが、今だと905点でもそんなもんです。
 受験者は韓国人と日本人がほとんどなので上に大勢いるのは韓国人受験者と思われます。また日本での英語使用人口は東京にかなり集中しているので首都圏では3%より下ではと思います。口語では幼少期を英語圏で過ごした帰国組には絶対敵いません。


英語関連自己紹介 - 蛇足②
●英語留学のつもりが大学入学に

昔々、私は英語力の目標を自分の日本語レベルとしていたので、(そして無謀にも30歳までにそれを達成するのが夢だったので…汗)いつかは留学したいと思いながらも最初は絶対、英語圏での英語学校入学しかないと思っていました。

が、留学前に勤めていた英国企業の東京支社で、どうもビジネスレターのレベルがかなりあがっていたのです。

私が渡英を目論んでいた頃に米国から帰国したMBAの同世代の男性が私の書いているレター(当時はほとんどがFAXの控え)を読んで、「これくらい書けるのに英語学校に行ったら自分を下げることになる。将来の就職を考えるなら初めから学位取得を目指さなくてはダメだ。授業の英語は学校で習った英語とほとんど変わらないから着いていける」と忠告してくれました。

で年末に退社して、年明けに渡英。2年で最初の学位が取得できる大学に入学。MBAに繋がるBusiness Studies専攻を強く勧められ最初半年はそのつもりでコース選択。

が、大学内の教授陣のレベルが圧倒的に経済学のほうが高かったので、元々やりたかった経済学に旋回。BSc(学士号)では理論的なことばかりで終わってしまったので不安になってMSc(修士号)で金融論や計量経済学を学びました。

話は戻って、留学前最後の上司は非常にキレる人で、東大受験失敗後、父上が倒産したために進学を諦めアメリカ人将校の家のハウスボーイとして独学で英語を身につけた努力家でした。

英国本社や、直属の英国人上司の居るオーストラリア支社と対峙するため「アメリカン」から「ブリティッシュ」に厳しく切り替えた、という完璧主義者。海外のマネジャーらも上司の書くレターには一目置いていました。

(なぜ東京事務所がオーストラリアの直下だったか当時でもびっくりしましたが、欧州から見るとまだ日本はFar East。これは規模の大きい日本市場にどんどん乗り込んでいた米国の認識との大きなズレでした。)

ヘルスケアや外科用品の会社だったので、上司は医薬・医療に関しては医大の教授やドクターらと日本語英語の両方で対等に話ができるくらいの知識がありました。業界でも稀なレベルなので病気で引退した後も現役中の取引先のアドバイザー役でした。(残念ながら2009年に他界。)

私の英語は80年代の輸出企業でのテレックス時代、スペルや文法などもすっかり適当になっており(通信費節約との言い訳で⇒略し方にもルールがあるのを知らず)、相手国の第一言語が英語の場合が少ないので非常にいい加減なものでした。(相手がほとんど英語で教育を受けていたことに気づいたのはずっと後。各国の訛りに惑わされていました。)

が、FAXでワンランク上のレターばかりを目にする様になって、自ずと正しく簡潔な英文を意識して書くようになりました。同時期に、徒歩圏内にあったYMCAの週1度の英会話教室で自分のレベルに合ったクラスと素晴らしい先生方(米国人・カナダ人)に巡り会い、日本の英語教科書や和英・英和辞書の間違いからくる思い込みが如何に多いかも学びました。

一旦、日本での英語の誤解が見えてくると、英国から来るFAXで流し読みしていたフレーズも非常に参考になってきました。YMCAに限らず、日本で英語を教えたネイティブの教師の多くが日本で売っている辞書は使うなと言う理由がはっきりわかってきました。

ちなみに、インターネットの無料辞書ではアルクの英辞郎はブクマ必須ですね。誤訳蔓延を憂う優秀な翻訳家らが自主的に随時更新してくれているのでとても信頼度高いです。(それでもた~まに違ってますが、総合的にこれより役立つ辞書にはまだ出会ってません。)


英語関連自己紹介 - 蛇足③
●結局は相手に自己表現したいという欲求から夢中になる
 ~まわりの多文化・多様化は果てしない~

短大時代、バイトをしていたピザハウスには外国人客が多く、そのうち長期出張で滞在中のアメリカ人のお客さんたちのひとりが、来るたびにナプキンにメッセージを書いて手渡してくれるようになりました。最初は何かの簡単なお礼でしたが、後から思うとラブレターの始まり。

時々外でお茶するようになり、帰国後もものすごい長文のエアメール(米国では既にカードが主流)が2週間に3通くらい届くように。元々書くのが好きだった私も辞書だけを頼りに同じ頻度で返信しました。

こういう頃の熱は遠距離では長続きせず、3か月ぐらいで終わったと思います。が、仲良くなった人は他にも居たので幼稚園教諭時代の夏休みに渡米。西海岸と中西部で合計10泊しました。まだ1ドル250円の頃。

貿易に携わるようになってから、仕事を通して毎日連絡をとりあう海外の同僚らともプライベートで連絡をとるようになり、休暇のときには同僚らに会える日程で旅をしました。行ったのはシンガポール、タイ、英国、フランス、カナダなど。

上司の顔をたてるのもあってか、タイでは運転手付き社用車を観光用に使わせてくれ(却って気を使ったw)、英国本社ではホテル代や食事代まで出してくれて、工場に案内されたときにはTODAY'S VISITORに名前を表示してくれていました。(ついでで、その場で翻訳を頼まれて少し仕事も…。工場長によるQCの説明も受けました。)

留学中の大学では学生数が1000人に満たないのに学生の国籍数90以上。大半が英語で教育を受けてきた人たちでしたが、多文化環境で育っており、2~3か国語以上こなせる友人のほうが圧倒的に多かったです。たまたま1ダースほど仲良しをディナーパーティに招待したらシンガポール2名を除き全員国籍が違ってました。

それ以降、帰国した後も自然とマルチリンガルで多国籍のバックグラウンドを持つ友人が増えました。

もともと仕事で知り合ったカナダ人技術者(今では生涯の友)はエジプト出身。アラビア語とフランス語両方が第一言語。イタリアで工学を学びモントリオールが終の棲家に。姉はオーストラリアで結婚。クリスチャンだったため進学や日常生活でもエジプトでは何かと不利だったとか。

留学中、寮で最初に仲良くなったのはマンハッタン育ちの男の子、Quarter Jew(4分の1ユダヤ系)。母親がジュネーブで職を得て米国を離れたためスイスから英国への留学でした。二代前はロシア。母方のお爺さんの頃、スターリンが台頭しドイツに移動。そこへヒトラーが台頭し、フランス・英国経由で米国へ。彼を含め親戚のほとんどが最低3つのパスポートを持っているとのことでした。お爺さんはロシア語は小や孫の誰にも学ばせなかった、とか。

おなじフロアには湾岸戦争から避難したパレスチナ人姉弟がいてよく料理や食事で一緒になりました(彼らにはクウェートが故郷でしたがパスポートで守られるのは両親の代まで。その親たちももともとパレスチナからの難民)。英語も英国も大嫌いだったけど兄たちがいる英国しか選択肢がなかった、と。パスポートを発行してくれるのはヨルダンだけなので、卒業後はヨルダンで就職。

その後、キャンパスのそばとロンドンで同居した当時のボーイフレンドはロンドン生まれのイスラエル人。父方は英国系、母方はポーランド系ユダヤ。母方祖母はアウシュビッツを辛うじて逃れた人ですが家族を収容所で失くしました。涙を浮かべながら悲しい思い出を語ってくれたとき84歳でした。96年のこと。

97年の夏に私はイスラエルの国境を越えてヨルダンで2泊してきたのですが、両国とも彼らに会うのが第一の目的でした。…(ウソw。彼らには別の場所でも会えるので、どんな所に住んでるか見てみたかった[わーい(嬉しい顔)]w。)

中国系はどこ出身であろうと海外数か国に親戚がいるのが普通。シンガポールでも英語とマンダリンを無意識に混ぜて喋っている光景はしょっちゅう見ました。

6年前に東京案内をしたことでお互いの家を訪ね合う仲になったふたりの友人も多国籍。(インターネットの旅行系サイトでの出会い。)

キューバ難民として3つのときに家族と一緒にプエルトリコ経由でマイアミに移住した友人はスペイン語だけでなくフランス語も堪能。キューバ脱出はぎりぎり合法だったそうですが情勢を掴んでいた政府に所持品はすべて没収されて一文無しからのスタート。

トロント在住の友人のひとりは南ア出身。家族の大半はオーストラリアに移住したので毎年会いに出かけます。1年のうち2~3か月は旅行しているので北米だけでなく世界中歩いてます。

書きだすとまだまだ尽きないのですが(この数倍の人数や国名が…)、ここで何が言いたかったかというと、赤ん坊のころから多文化・多言語の中で育ったから母国語や第一言語がきちんと使えない、とかそれで人生が困難になっている人には出会った事がない、ということです。

また、多文化の多様性のために固有の文化が崩壊しているというのもない。(それが起こるとしたら戦争。)

私も外の世界を見るまでは「幼いうちは母国語だけをしっかり学ばせないといい加減な言語能力になるのではないか」という説を半分信じていました。今でもそう信じている人に時々出会います。

が、いい(?)学校を出てきちんと就職したり起業したりして食べて行く、ということが基準ならそのような心配は杞憂でしかない。むしろ、音の数が少ない母国語だけの環境で耳の能力が制限されたり、世界情勢が見えない情報鎖国の中で暮らすほうがよっぽど危険だと思っています。

これは外から自国を見た日本人の多くに共通する認識だと思います。

小学校高学年といわず、幼稚園・保育所でも色んな言語が耳に入ってくる環境ができればと願います。できれば生まれた時から。音を聞き分ける敏感期が過ぎる前に。

英語が大嫌いで苦手だったというパレスチナ人の友人、英国に来て1年で大学受験資格を得ました。アラビア語と文法が違うので書くのは大変だったようですが、音の数は母国語のほうが多いから英語は全部聞き取れると言っていました。

彼のお姉さんのほうはテレビの英語放送を幼い頃から見ていたため、喋り方は一見日本人のようなたどたどしさがあるのに聞き取り能力はネイティブと同レベルでした。

中国人や韓国人に語学をすぐマスターする人が多いのも母国語の音の多さが関係しています。

ちなみに私の高校時代からの親友は西アフリカ文化を紹介するNPOを運営しており、彼女のまわりも国内外とも超多国籍。とりあえずフランス語と英語両方が必要。(現地では現地の言語で挨拶とかはしてるみたい。)私同様、母国語のハンデを背負う立場です。

日本語の音の少なさからくるハンデがどれほど大きいものか、文法や読み書き以上に一般認識が広まればと思います。(論理的な自己表現は母国語でできれば外国語でも自ずと身に付きます。)ネット時代になって他国との格差は広がり続けています。