検事の犯罪をバッシングで終わらせるな
リスクマネジメントの世界で数年前から重視されはじめた概念に、デジタル・フォレンジック(digital forensic)というのがある。直訳すると「デジタル鑑識」。情報漏えいや不正アクセス事件が起きた際、サーバやパソコン、通信機器、記録メディアなどに残されたデータを収集・解析し、法的証拠として保全・管理する技術とシステムの総称だ。大阪地検特捜部の主任検事が資料を改ざんしたニュースを聞いて、まず思い出したのがこれだった。
もともとは企業間の係争や社内データをめぐる不正への備えとして生まれたようだが、社会全体がネットワーク化、デジタル化するにつれて、民事・刑事訴訟、企業の内部統制、知的財産の保護、金融システムのセキュリティ、自治体がもつ個人データや病院や学校が管理する個人情報など、あらゆる領域で導入されつつある。
とりわけ刑事事件の捜査・解明では重要度を増しており、デジタル・フォレンジックの解説書や説明資料にさらっとでも目を通したことがあれば、フロッピーディスクに収められた文書の日付を変えても後で簡単にバレてしまうことなど、知らないはずがない。1人のキャリア官僚の人生を破綻させようとしている事件の指揮をとる検事がそんなことさえ知らなかったのか、知っていながら手を動かしてしまうほど追い詰められていたのか。どちらにしても震撼させられる。
これで逮捕翌日の朝からマスコミは検察たたき一色になるだろうが、まさにそのことが心配だ。検察はけしからん、猛省すべしだと街頭インタビューやスタジオでがなり立てて済む問題ではない。何かあると他のニュースなどほったらかして記者が押し寄せ、読者や視聴者とともにエモーショナルに怒りを爆発させ、ほとぼりが冷めると何事もなかったかのように誰も気にしなくなる。北朝鮮拉致家族、ライブドア事件、耐震偽装、食品偽装、年金記録漏れ......みんなそうだった。
テレビや新聞は大阪高検ではなく最高検がいきなり捜査に乗り出したことを「きわめて異例」と報じていたが、そこじゃないだろう、驚くところは。大阪営業所で不正があったので大阪支社ではなく東京本社が調査します、と不祥事を起こした企業が言ったら、相撲界の不祥事のように「お手盛りだ」「外部で調査を」と突っ込むはずだ。プレッシャーに押し潰された主任検事のあくまで個人的な犯罪であり、地検特捜部の捜査手法や検察組織そのものに特別な問題はない――検察庁や法務省がそんな結論を出したとき、納得できないと言いたいのであれば、何よりもまず「司法の犯罪を捜査するのは誰か」を考えなくてはいけない。
そもそもこの20年近く、官僚や警察の堕落やスキャンダルを見慣れてきた目には、権威にひたり切ったエリートがまた何かしでかした、くらいの印象しか残さないかもしれない。しかし起訴された場合の有罪率が99%という「絶対正義」の中枢で現場を仕切る人間が資料を改ざんするというのは、大蔵官僚がノーパンしゃぶしゃぶでMOF担の接待を受けるのとは宇宙的にレベルの違う問題をはらんでいる。
起訴の有罪率が99%ということは、有罪になりそうな事件のみを起訴し、起訴した事件は必ず有罪にするべく捜査を行い、自信どころか「確信」をもって公判に臨むということだろう。そこまでは小学生でもわかるが、わからないのはなぜそういう仕組みになっていて、なぜ問題が起きても直されないのかだ。
司法取引に象徴されるように、アメリカでは裁判が罪と量刑と損害と賠償を当事者間で最も合理的に最大化・最小化するための、ある種のゲーム化(「遊び」ではなく「駆け引き」という意味)している。日本の司法がそれと異なることに理由はあるのだろうが、これだけ冤罪が問題化している状況でシステム自体を見直さない理屈は立たない。就任して5日目の柳田法務大臣は「真実なら許されない」「(最高検の)捜査の行方を見守っていきたい」と語ったが、どうも他人事のようで不安が残る。
主任検事が「1」を「8」に数字ひと文字変えたことが、とんでもない結果をもたらしかねなかったことをどう受け止めたらいいのか。データをせっせと書き換えて歴史を捏造していたオーウェルの小説『1984』の主人公が自分のしていることの恐ろしさに気づいたように、検察捜査に関わる人々が何かを学ぶのか。それが期待できないとしたら、誰が何をすべきなのか。まず必要なのはバッシングで憤りを発散するのではなく、頭を冷やしてそれらを考えることではないかと思う。
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ヨロンヨロンと叫び続ける愚かしさ
先日あるラジオ番組の企画で、「こいつはスゴイ! と思う日本の男を挙げてください」と質問された。パッと思いつかず、5分近く悩んでやっと頭に浮かんだのが「龍馬」と「白洲」と「湛山」。悩んだわりにありきたりなのが情けないが、後から思い返しても、山田方谷や上杉鷹山のように有能で勇敢な人物はいろいろあるが、理屈抜きに単純に「凄い」と感じるのはこの3人と杉原千畝くらいしかいない。
坂本龍馬も白洲次郎も、ドラマや小説で美化された部分がおそらく少なからずあり、豪胆な傑物というイメージ通りの人物だったかどうかは疑わしい。しかし信じるに足る史料だけから判断しても、その視野の広さ、時代におもねらない意志の強さは、近現代に政治の舞台にかかわった男たちの中で突出している。
龍馬も白洲も石橋湛山も強烈なナショナリストでありながら、もっぱら日本だけでなく世界全体をスケールとした枠の中でで国の進むべき道を考えた。情や理想に流されず現実を冷徹に計算し、沸き立つ世論に逆らっても正論を唱え続けた。リアリストでありプラグマティストであり、筋金入りのグローバリストだった。ネットはおろかテレビさえなかった時代に、なぜか的確な世界観をもっていた。
思い出したついでに半藤一利氏の『戦う石橋湛山』(東洋経済新報社・新装版)を読み返した。昭和初期、関東軍が暴走していくなかで新聞がそれを支え、熱に浮かされたように世論が醸成されていく過程が詳しく書かれている。昭和5年のロンドン軍縮会議の後、統帥権干犯問題では毅然として軍を批判した朝日新聞や毎日新聞が、翌年柳条湖事件が起きると事実関係もろくに確かめずに関東軍の行動を正当化し、支那に屈するな、満州を守れと書き続けた。新聞が世論を煽り、世論が新聞を煽った。
ことほどさように世論があやふやで危ういものであるとは、今回の民主党の代表選を見てもつくづく感じる。新生党結党以来の小沢一郎氏の盟友でありながら、菅直人首相支持に回った石井一参院議員は代表選後、「決め手は世論」「世論の勝利」と語った。石井氏の言う世論とは党員・サポーター票での圧倒的な差であり、代表選前に行われた新聞各紙の世論調査における菅首相の支持率の高さ、小沢氏の支持率の低さを指しているのだろう。
その「世論」とはつまるところ何か。世論調査の内容やテレビで紹介される街頭インタビューを見るかぎり、2人の政策の中身や政治手腕、政治家としての実績を比べての判断ではなく、「小沢さんはクリーンでない」「総理大臣をコロコロ変えるべきでない」という印象論だけから生まれた薄っぺらなものだ。
コミュニケーションの不得手さ、何事も説明を軽んじる態度、集票至上主義的な手法を考えると、「政党家」「政局家」としての力量は別としても、政治家として小沢氏がいまこの国の指導者にふさわしいとは思わない。しかし司法がクロと認められなかったものを、あれだけ報道されているのだから怪しい、強制起訴になるかもしれないから首相にするべきでないといった"イメージ"で偏った世論が醸成され、それが首相を決める選挙の結果を決定的に左右したとすれば、何かが狂っていると言わざるをえない。
検察審査会の問題点については、ジャーナリストの江川紹子氏が自身のサイトに掲載した記事で鋭く指摘している。江川氏が書いているように、「刑事責任は、道義的責任、民事責任、あるいは政治的責任とは別に考えるべき」だ。メディアはそれをごちゃまぜにし、読者や視聴者は思考を停止して政策や政治ビジョンの違いから目をそらした。世論というモンスターが暴走する様は昭和初期と変わりない。
軍需に沸く財界や市民は満州事変を歓迎し、不買運動を恐れた新聞は好戦的な論調を強めていった。東洋経済新報主幹だった湛山はそうした圧倒的な空気に抗って中国を「侵略」することの不道理と不利益を説き、 「満蒙を捨てよ」と主張し続けた。いま学ぶべきは湛山という稀有なジャーナリストの存在ではなく、なぜ多くの人が彼の言葉に耳を傾けなかったのか、ということかもしれない。
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靖国参拝を「記号化」する不毛
終戦の日、民主党政権のすべての閣僚が靖国神社を参拝しなかったことを、読売、毎日、産経、朝日、東京の各紙が1面で報じていた。「外交でのアジア重視の表れ」と解説する新聞が多く、批判的なニュアンスを込めた記事もあるが、それで「ああ、そうか」と納得してしまっていいものか。
5年前に小泉元首相の公式参拝をめぐって中国と韓国で反日感情が高まったときは、ある種の教訓というか建設的意見として、戦没者への慰霊の仕方やあり方、歴史観や歴史認識をどう共有するかといった問題にまで議論を広げていこうとする機運が高まった。それが、政権交代したからとはいえ、再び「首相や閣僚が参拝したかどうか」だけが物差しであるかのように考えるのはアナクロすぎる。
靖国に参拝したら、それだけでOKなのか。参拝しなかったら、イコール戦没者への慰霊の気持ちに欠け、政治家として歴史をかがみとする気持ちが足りないことになるのか。そうじゃないだろう。こうして靖国参拝だけをクローズアップすることが中国や韓国の社会に沈殿するナショナリズム的な感情をあおり、不要な外交カードを与えることを学んだのではなかったか。
民主党にも首をひねりたくなる。全閣僚が参拝しなかったことについて、個人の判断としてならかまわないが、官房長官なりが指示して申し合わせたのであれば信教の自由の上で問題ではないか、と自民党の安倍元首相がコメントしていたが、その通りだと思った。あくまで閣僚個人の判断なのかもしれないが、結果的に靖国「不」参拝を不必要に政治メッセージ化してしまっている。
必要なのは、民主党は自民党と何が違うのかという、もっとわかりやすくてバイアスのかかっていないメッセージだろう。今朝のテレビ番組で同席したコメンテーターが、全国戦没者追悼式で式辞を述べる菅首相の映像を見ながら、「これだからダメなんだよね」とつぶやいていた。式辞の内容が10年前からほとんど変わっておらず、おそらく官僚が用意したものを棒読みしているだけではないかと言う。
調べてみるとなるほど、細かい表現には多少変化があるものの、「悲痛の思い」「アジア諸国に多大な損害と苦痛を与え」「世界の恒久平和の確立」などなど、橋本・小渕・森政権のころとまったく同じ文言が菅首相の式辞にもいくつも並んでいる。主張が正しいかどうかや内容の良し悪しはともかく、アメリカやイギリスの指導者はこういうスピーチをするとき、いかに前任者と異なる言葉を使うかに気を配る。方向性自体はさほど変わらなくても、前より何かはよくしてみせるという意気込みをアピールするためだ。
アジアではなく日本の人々のために、菅首相はどの自民党政権も使ったことのない言葉で戦争と戦没者への思いを語るべきではないかと思う。
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電子書籍はいかに読者を見失うか
80年代の終わり、池袋の西武百貨店の地下にあったリブロという書店によく行った。家からわりと近い銀座近辺に教文館、近藤、山下、旭屋、福家、改造社、丸善、八重洲ブックセンターなど大きな書店が数々あったのにわざわざ池袋まで通ったのは、ひとえに品揃えや店の造りがユニークで、訪れて店内をぐるぐると歩き回るたびに脳みそがチクチクと刺激を受けるような気がしたからだ。
その書棚は書店員が意匠を凝らした作品のようで、古今東西の歴史と文化と社会をいろいろな角度から切り取った本が、からみ合うように並べられていた(気がする)。こんな小難しいものを誰が買うのだろうと不思議になる思想書を、目の前で手に取ってレジまで運ぶ人が少なからずあり、ニューアカ華やかなりし時代の空気にかぶれていた自分も背伸びして何冊か買って帰ったが、多くは2、3度パラパラとめくっただけであとはしばらく積んだままになった。
そんなことを思い出しながら、先週東京・有明で開かれていた東京国際ブックフェアへ行ってみた。出版社員の端くれでありながら、恥ずかしながらブックフェアと名のつくものには行ったことがない。ひと足先に訪れた編集部員Kから「すごい人の数」「行く価値はあった」と報告があった。何がどうすごくて価値があるのか。
受付にはぎっしりと行列ができていた。だだっ広い会場は人文書、実用書、児童書など出版社のジャンル別と、物流関係、印刷関係、デジタルパブリッシング関係とに出展社のブースが固まっている。受付を済ませると一目散にGoogleやボイジャーのブースがあるデジタル系のゾーンに向かう人が多かったが、電子書籍の川上(版元)から川下(端末)への流れを何となく見られるかなと思って、古手の出版社から順にまわり最後にデジタル系というルートにした。
洋書のコーナーではテーマ国らしいサウジアラビアの教育省・大使館が巨大なスペースを占めているが、人影はまばら。その周りではイランやスペイン、台湾の売り込み担当者が流暢な日本語で商談を誘っている。聖書協会、カトリック協議会、東本願寺出版部などが隣り合うエリアから少し離れた会場の隅に幸福の科学出版のブースがあり、カバーに菅直人首相の顔写真が載っている本をめくると、現世に戻ってきた(?)市川房枝と高杉晋作がインタビュー(「公開霊言」というらしい)に答えて菅首相についていろいろと語っている。
金曜日の午後に会場を見たかぎり、大手出版社のエリアは総じてあまりやる気が感じられなかった(そもそも「やる気」が必要なのかどうか、わからないが)。講談社や小学館、集英社などの最大手は、世間で話題になった本を雑然と並べているだけのようにも見える。文藝春秋のブースを通りかかった若い女性来場者が、2年前に休刊になった月刊誌がずらりとワゴンに並べられているのを見て「わーバックナンバー買えるんだ、すごーい」と連れの女性に言っていた。私にはただの在庫処分にしか見えなかったが。
ブースの看板が目を引くのは「書物復権8社の会」という場所で、東大出版会や紀伊国屋書店、岩波書店、みすず書房、白水社などがメンバーとして軒を並べている。「復権」という気合いの入った言葉を掲げているわりに、ブックフェアのそれぞれのブースには学術書、人文書、思想書などが整然と並んでいるだけだが、この会は活動を始めた14年前から専門性の高い既刊書の復刊プロジェクトというのをやっていて、昨年は2年前に他界した加藤周一の自選集などを復刻刊行している。
それはそれでとても有意義なプロジェクトなのはよくわかる。わからないのは、そうした取り組みが電子書籍の流れの中でどう位置づけられようとしているのかだ。
出版社にやる気がないように感じたのは、これだけ電子化のうねりが業界を揺さぶっているのに、版元だけが提供できるコンテンツや新しい価値を読者向けにどう発信・提供していくのか、ほとんどメッセージがないように見えたからだ。軒先にiPadを飾って展示している出版社もいくつかあったが、紙の本をデジタル化して表示している以上の何かがあるわけでもない。
デジタル系のゾーンへ行くと、そちらはそちらでハードウエアのスペックや、電子化・ネットワーク化する効率と商圏の広がりを語る言葉しか聞こえてこない。ある出展ブースのステージで著名なITジャーナリストが、iPad(タブレット端末)がいかに革命的なデバイスで、実はその出現を何年も前に予言していた人がいた...などという話を延々としていたが、そのような話をこの場所で語り、聴く意味がよくわからない。
人だかりができていたGoogleのブースで、GoogleブックスとGoogleエディションのプレゼンが15分くらいごとおきに行われている。新聞やネットで報じられている以上の内容はなさそうなことがわかり、よそへ移ろうとしたらGoogleの人に声をかけられたので、ブースの裏の商談スペースのようなところで少し話した。Googleブックスの全文検索がサービスとして画期的なことはわかるが、言葉を記号として扱うことの問題もあるのではないかと、アナログ思考な意見を言った。四季の移ろいを形容する表現でも、実用書と谷崎の『細雪』ではニュアンスや文脈が異なるのではないかと。それを串刺しで探すことにどんな意味があるのか。いや、体系やセグメントにとらわれずに膨大な知の世界からすくい取ることに意味があるのだと。
GoogleはGoogleが自らの使命と考えることをサービスとして具体化している。モリサワのブースで電子端末に表示されていたリュウミン書体の美しさも印象的だった。これだけメジャーなデバイスが出てきているのに独自の電子書籍端末(2画面!)を披露する光和コンピューターという会社には意気が感じられたし、河出書房新社や筑摩書房のブースには書物の何を文化として伝えていかねばならないと考えているか、みたいな信念のようなものが感じられた。
しかしそれらは、それ以上でもそれ以下でもない。一つのフェアでありながら、出版社のゾーンとデジタル系のゾーンには意思疎通が絶えた断裂があり、同じ商品を扱おうとしている見本市に見えなかった。「復権8社の会」の試みは貴重と思うが、プロジェクトを電子書籍にも広げることでどんな可能性があるのかを読者は知りたいのではないか。テクノロジーは、知を体系化し、世の中のトレンドをすくってきた大手出版社のノウハウと目利きを新しい商品としてどう昇華させようとしているのか。その説明が、広い会場のどこにもない。
過渡期と言えばそれまでだし、そもそもが刊行物や版権、翻訳権、出版制作・物流に関わる業界向けの見本市なのだから、もとより読者目線で見るのは筋が違うのかもしれない。が、これだけ電子書籍元年と騒がれているのに、これだけ当事者が集まった場で読み手を意識して――紙であれデジタルであれ――本の形や価値を再定義しようという意欲や試みがあまり見えないというのは不思議なことだった。
――と、他人事のように嘆いている場合ではない。本や雑誌の作り手、売り手の意識や発想に何が欠けているのか、リブロでのような体験は新たな世界でどんな形で再現されうるのか、などと考えながら東京ブックサイトビッグサイトを後にした。
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追記: 出展ブースとは別に、電子書籍に関連する講演、セミナーはいくつか行われていた。リブロ池袋店については、当時店長を務めた田口久美子さんの著書『書店風雲録』(本の雑誌社刊/文庫版はちくま文庫)に詳しい。
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大相撲「連帯責任」に物言いを
NHKが大相撲名古屋場所の生中継の中止を決めた。視聴者から1万2000件以上の電話やメールがあり、反対意見が68%を占めたという。ようやくほとぼりのさめた受信料支払い拒否がこれで再燃すれば、NHKにとっては確かに悪夢だろう。しかし世論に迎合し、賭博問題とは直接の関わりがない関係者やファンにまで責任を押しつけるような判断には疑問が残る。
知っての通り、当初は名古屋場所の開催そのものの中止を求める声も多かった。しかしどの意見を聞いても、根拠がいま一つはっきりしない。ここ数年、不祥事が相次いでいることへの批判も多いが、頭から湯気を出して怒っている人の中には、あんた、相撲になんか興味ないでしょと言いたくなる人も少なくない。独りよがりの「義憤」で、相撲でまじめに飯を食っている人、テレビの本場所中継を心から楽しみにしている人の権利をこうも簡単に奪っていいのだろうか。
今回の件でとがめを負うべきは、野球賭博に関わった親方、力士、床山など32人とそれぞれの所属部屋の親方11人、それに運営責任をもつ協会理事10人(外部以外)だろう。それらの人々には相応の処分・処罰が課されるべきだが、責任の所在を明確にして対策を講じるには、同時に処分の範囲と対象をきちんと限定することも必要だ。相撲に限らず、何でもかんでも連帯責任を取らせ、「けしからん」という気持ちを発散させることで事を済ませてしまい、個別の責任が置き去りにされることが多すぎる。
高校野球ではおよそ1カ月前、部内での暴力や喫煙などで7校が対外試合禁止処分を受けた。以前によその学校で謹慎処分を受けていながら、再び部員に暴力を振るった監督もいる。これだけ毎年何校もの野球部が処分を受けていながら、飲酒、喫煙、暴力、恐喝が後を絶たない。注目度が高い競技だからという面もあるが、少なくとも連帯責任という責任の取らせ方は再発防止に何ら役立っていない。
相撲の野球賭博では、処分の対象や内容についても過去の不祥事と比べてもう少し考えるべき点がある。大麻所持の若ノ鵬は検察は起訴猶予処分で協会は解雇、露鵬と白露山は尿検査陽性のみを根拠に解雇。一般男性への暴行を疑われた朝青龍は解雇されず、引退。野球賭博の直前に発覚した、土俵際の特別席入場券を暴力団関係者に手配していた問題では、木瀬親方が部屋閉鎖と降格だった。
賭博の違法性やモラル的な問題の線引きはあいまいだ。2人が数百万円をすったのが競馬や競輪や競艇であれば問題なかったのか。暴力団の関わるヤミ賭博でも、賭けたのが数万円であれば解雇されるほどのことではないのか。他の不祥事と比べて大嶽親方と琴光喜の処分は重すぎ、フェアでない気もする。
個々の力士や親方の個人としての責任は別にして、何よりも問題視すべきなのは相撲の世界と暴力団のつながりだと思う。NHKの中継中止も、昨年の名古屋場所で暴力団関係者が土俵際の席に座り、テレビの全国中継を利用して自らの影響力を誇示しようとしていたことが理由というのであれば、むしろ納得できる。自治体や企業、地域などが反社会勢力の排除に苦労している中で、受信料で経営されている局や税の優遇措置を受けている公益法人が彼らに利用されていたという事実は、報道されている以上に深い罪をもっている。
プロ野球で黒い霧事件が起きた40年前は、問題となった八百長以外にも暴力団との関わりが次々と明るみに出たが、リーグの開催が中止されることはなかった。今とはもちろん社会の意識、感覚が異なるが、直接関わった者のみを厳しく処分することでプロ野球界は浄化されていった。連帯責任というあいまいなけじめのつけ方で満足するのでは、問題は解決しない。
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