以前にその一部を紹介しましたが、今度は建国初期に国務院副総理、外交部長、中軍委副主席など外交、軍事の要職を兼任し、文革期にその両方の分野から批判を受けた陳毅の息子・陳小魯が、紅衛兵時代の「ざんげ」を公表しました。
陳小魯は粟裕の娘と1975年に結婚しています。粟裕は陳毅のように十大元帥入りは果たせませんでしたが、それに次ぐ大将として評価の高い人物。
太子党、というか紅二世というのは、近いところで相手を見繕いたがるんですね。王岐山みたいななんちゃっては肩身が狭そうです。
陳毅子息の陳小魯が文革期の学校指導者への批判闘争を謝罪(南方都市報 2013/8/21)
今年の8月20日。北京八中老三届同学会のブログで、同会の会長を務める陳小魯が文革を反省する謝罪分を公表しました。
1946年生まれの陳小魯は、文革の始まった1966年に北京大八中学を卒業。文革初期には、学校の枠を超えた紅衛兵組織となる「首都紅衛兵西城区糾察隊」の設立を提案し、これに成功していますから、ある程度前に出ていたのではと思われます。
北京八中で起きた、振り向きたくない一幕(2013/8/18)
これはある同級生が保存していた数枚の古い写真だ。これらは1966年の北京八中の「文革」初期に、学校の指導者(校長、書記、主任)は、黒●(上が邦、下が巾)として批判闘争にかけられ、労働改造をさせられたあの頃は、振り返りたくも無い屈辱の時だ。
同じ時期、北京の各中学では毎日同じような事件が起きていた。千名以上の教師と、学校の指導者が殺害されていたのだ。
先生方が尊重されないのを目にすると、我々の気持ちは複雑になり、重く沈んだ。
当時、全ての学生が彼らは黒\x{5e2e}で労働改造されるべきで、殴られて当然というわけではなかったが、我々は全員が「文革」を断固擁護し、この災禍の共犯者であった。
中国の歴史上、謝罪を必要とする人は非常に多いが、しかし我々は本日、歴史上特殊な日である今日、私から勇敢に先生方に申し上げたい。申し訳ありませんでした。我々は心からの謝罪をいたします。
これを受けて書かれた「陳小魯会長、『北京八中で起きた、振り向きたくない一幕』について」では、陳は当時八中の学生指導者であり、革命委員会主任を務めており、学校の指導部や学生たちが批判闘争にかけられ、労働改造を受けた件で責任があると認めています。
また、指導部を批判闘争に書け、人道主義に違反した迫害を止める勇気も無く、文革に反対していると言われるのが怖かったと反省し、謝罪をしています。
そして、校友たちがその権利を与えてくれるかどうかわからないがと前置きしつつ、加害者と被害者が一同に集う同窓会を開催して、被害者に謝罪したいとまで申し出ました。
陳も他の謝罪熱に駆られた連中と同じく、悲惨な過去の再演を避けたいとの思いから、今回の謝罪に至ったと説明。またこれか。
謝っただけの一般人に比べれば、被害者の前で詫びを入れようというのは一歩進んだのかと思えなくもありません。言い訳をしない姿勢は好感が持てます。
しかし、元紅衛兵は所詮実行犯。指導者と言っても陳小魯はたかだか20歳の若者でした。
紅衛兵を煽った人間もとうに死滅していますけど、四人組に押し付けて逃げ切ったどこかの党がスルーし、個人が個人に謝罪してケリを付けるだけだったら、確実に再演します。
それはともかく、これだけ元紅衛兵の謝罪が続くのは単なるブームではなく、何らかの意図が働いているのでしょうが、さて。