今回の主役は張鉄夫さん。文化大革命が始まった1966年の16歳当時、名前を紅兵に改名しています。今も名前は元に戻していません。面倒な手続きでもあるのでしょうか。
ある紅衛兵のざんげ「母を殺した事は永遠に許されない」(新京報 2013/8/7)
かつての紅衛兵のざんげ「母親は自分が通報し銃殺された」(新華社 2013/8/7)
1970年2月13日、家族で文化大革命について論争していると、母親の方忠謀は「指導者は個人崇拝されるべきでない。劉少奇は再評価されなければならない」と言った。
母ではなく、階級敵だ。私はすぐさま母を批判闘争にかけた。
※左から3人目が母・方忠謀、右から3人目が父・張月昇、右側で寄り添っているのが張紅兵
1969年末に亡くなった劉少奇は党籍を剥奪されると同時に、「党内に潜んでいた敵の回し者、裏切り者、労働貴族」と党内最大の誹謗を浴びせられて大悪人認定を受けたばかりでした。
当時は親であろうと政治的に「一線を画す」、つまり全力でその対象を批判し自分は革命的だと装うことが求められていたので、劉少奇を肯定すれば、息子であろうと密告されてもおかしくはない状況下でした。
劉少奇を支持しただけでなく、神聖にして不可侵状態だった毛沢東の発言を批判すれば、今からすれば自殺行為のほかにならないのですが、方は家族間の会話だからと深刻には考えていなかったのでしょう。
張鉄夫は父親(張月昇)、弟と共に告発。「現行反革命分子である方忠謀を打倒せよ!方忠謀を銃殺せよ!」と書かれた資料を近くに住む軍代表に提出。
まもなく逮捕され、2か月後に方は革命に反対した罪である「現行反革命」として銃殺されました。
この密告は、当時「大義のため、親族の情を顧みない中学生・張紅兵と、反革命母親との断固とした闘争の勇敢なる事績」として、鎮の教材となったそうです。
文革終了後の1980年、右派認定されたり、反革命分子として人間扱いされてこなかった連中と時を前後して、安徽省の地元裁判所は当初の「反革命」判決は誤りとして、名誉回復がなされています。特に補償があったとかは書かれていません。
父親は鎮の科長でしたが、文革が始まると同時に打倒されており、張紅兵は父親に対しても「一線を画す」ために大字報(壁新聞)を使って批判しており、前回紹介した、「教師を迫害しただけ」の紅衛兵とは格の違いを見せつけてくれています。
紅衛兵が次々と紙面で謝罪をしていく中、「自分を反面教師にならなければならない」「文革記念館を作り、自分が母にした事を展示しなければならない」と新京報の取材に答えた張紅兵。
新中国建国直後に始まった土地改革運動で母形の祖父を失ったという張の家庭環境が特殊なのか、それとも中国にはよくあるケースなのかは教養不足で判断できかねますが、これもまた死人にくちなしと言うか、被害者の反応がありません。
謝罪や後悔をどれだけ示されても、自己満足のようにしか見えないのは私の心が汚れてるからなんでしょうかね。
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