高橋和巳の文革
日経新聞13年9月29日に、明大教授で比較文学者の張競さんが、「詩文往還 作家と中国」に作家の高橋和巳と文化大革命について書いている。抜粋してご紹介します。
高橋和巳の文革②
紅衛兵の「直接行動」に当惑
高橋和巳は「直接行動論」の思想にもとづいて紅衛兵運動を擁護した。紅衛兵たちの言動をすべて支持するわけではない。というより、上海で紅衛兵に直接取材したとき、判で押したような考えや威圧的な態度にむしろ失望した。彼らは旧い文化を破壊する一方、それに続く創造はほとんどない。中国に行く前に、大きな期待を抱いていただけに、現実を見て少なからぬ衝撃を受けた。
中国では今年に入ってから、かつての紅衛兵たちの謝罪ブームが起きた。きっかけは『炎黄春秋』誌6月号に掲載された謝罪広告だ。
ある元紅衛兵が実名を公表し、文化大革命中に犯した罪を告白した上、被害者たちに公式に謝罪した。広告は大きな反響を呼び、その後、全国各地の新聞や雑誌に続々と謝罪広告が掲載されるようになった。
メディアに広告を出したのは、迫害を受けた人が複数いたり、所在がわからなくなったりしているからだ。学生時代に紅衛兵として先生や友人を密告したり、拷問したり、ひいては死なせたりした人が加齢するにつれ、罪の意識にさいなまれるようになった。
かつての中高校生もいまや還暦を過ぎ、大学生にいたっては古希になった人も少なくない。いまのうちに被害者に謝罪しないと間に合わない。そのような緊迫感がメディアでの公開謝罪というアイデアを生み出した。
元紅衛兵たちの謝罪は勇気ある行動として、あるいは人間性の覚醒として社会から好意的に受け止められている。メディアでも彼らの文革体験が詳細に報道されるようになった。それに励まされ、自らが犯した罪を文章に綴り、本にして出版する計画も進められている。いまでも涙なしでは読めない内容ばかりである。
高橋和巳が中国を訪問したとき、一般の知識人だけでなく、作家たちに対する迫害も頂点に達した。北京の庶民生活を描いた老舎(ろうしゃ)は文化大革命が発動した直後につるし上げられ、農民の喜怒哀楽を表現する文学を模索していた趙樹里(ちょうじゅり)も批判された。高橋和巳は2人とも自殺したという噂を耳にした。
老舎の自殺は事実だが、趙樹里は自殺していない。凄惨なリンチを受け、折れた肋骨が肺に刺さり、さらに高所から突き落とされ、寛骨が断裂して半身不随になった。ろくに治療も受けられず、監禁中に亡くなった。事実上の拷問死である。
2人とも当局の方針に逆らったことはない。創作の自由が極度に制限されるなかで、最大限の努力をしたにもかかわらず、筆舌に尽くし難い迫害を受け、悲惨な結末を迎えた。
高橋和巳は「あまりにも痛ましい」と悲しみながらも、民衆を目覚めさせる者の運命だとして甘受すべきだと思っていた。
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(感想・意見など)
高橋和巳も結局、時代の人だったと言わざるをえない。社会主義にイルージョンを持っていた。
文化大革命による死者・行方不明者は数千万人と言われている。死にいたらなくても、迫害により負傷したり不具になったり何らかの被害を受けた人の数は、中国の公式発表でも1億人。食べられた人も沢山いたという。当時の中国の人口は6~7億人の筈だから、すさまじいとしか言いようがない。
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『時代の風音』(朝日文庫)の中で、司馬遼太郎さんは次のように言っている。
ドグマで支配するのは大領土国家の一つの型ですね。中国は、秦帝国によってはじめて統一されると、法家の思想でもってすべてを統御せざるをえなくなりました。漢の武帝の時代に儒教が国教になりました。
その儒教のたががはずれると、毛沢東さんがマルクス・レーニンというドグマを津々浦々まで行き届かさなければならなかった。
これはロシアも同じで、けっきょくマルクス主義をもたざるをえなかった。大領土国家の一つの型の常です。それがじつに世界の迷惑だった。二十世紀の迷惑だった。
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中国は、今も、腐敗しきった「共産党支配」を正当化し、13億の人民を統御するため「反日」を利用している。ある程度はやむを得ないが、早く老成しておとなしくなってほしい。一番怖いのは、暴発して、何億人という難民が発生することである。
以上