2012年1月14〜15日に実施されたセンター試験では、問題配布のミスなどが目立った。これまでと試験の解答方式が変わったり、時間的に無理のある実施方法をとったことなどが原因だ。
もともと、センター試験の実施には、細かい規定があり、ある大学では、実施前に試験監督を担当する教職員が集合し、秒単位で時計を合わせるそうだ。
公平性、公正性に気をつかうのは結構だが、ちょっと行き過ぎの感もある。
それ以上に呆れたのは、朝日新聞1月16日付の、センター入試関連の記事の見出し。
「人生かかっているのに」
日本の大学が、入学は難しいが卒業は容易、ということは、もう長年にわたっていわれてきたこと。だから、受験生は「一流大学」をめざす。暗記中心の受験勉強をし、大学に入ったら、大した勉強はしなくても、まず卒業はできてしまう。勉強する学生も、その大半は就職活動のためによい成績がとりたいだけだ。
これは、もう大学の入試ではなくて、科挙に近い。大学入試の段階で、社会全体が若者を選別する、一種の資格試験、登用試験となっているのだ。
大学入試が厳しくあるべき必要はない。基礎学力を確認するだけでよい。その代わり、入学後の成績評価を厳しくし、卒業の判定基準を厳しくすれば、学生は必死に勉強する。
これが定着すれば、無理して「一流大学」に入学しようとする受験生もなくなり、受験倍率も適正な範囲に落ち着く。実力のないまま入学しても、ついていけないことは明白だからだ。
いずれにせよ、大学入試が「人生かかっているのに」という状況は、健全ではない。韓国も似たような状況らしいが、このような、現代における科挙は、北東アジア儒教文化圏特有の現象で、日本が実力を伴わない学歴社会であることを象徴している。
そして、その背景には、形を変えた封建的身分制度の亡霊が見えてくる。