種苧原の昔

半年間だけ故郷たなすわらの昔の話をします。

 現在のことは分からないが、毎年、熊野神社秋季大祭の奉納花火大会が行われていた。山古志村唯一の花火大会で、奉納相撲と並んで秋祭りの最大の楽しみだった。

 その歴史を紐解くと、昭和38年(1963)に前田(字十二平)の未舗装の県道(現在の国道352号線)の中央部分(坂牧モータース付近)で打ち上げられたのが最初だった。


地図











 暗闇の中で動く複数の懐中電灯の灯り。『シューッ』という打ち上げの音。上空で開く大輪の花と轟音。あの夜の光景は今も鮮明に記憶している。

 39年からは、か具又の藤倉川の対岸の横坂(よこざか・字城山)で打ち上げられるようになった。東京亀有の草間万治郎さん(新八)が奉納した『草間商店』の花火文字が印象的だった。

 下掲は、昭和39年(1964)と43年の火薬類消費許可証、それに昭和41年の火薬類消費許可申請書(控)である。


花火






昭和39年の火薬類消費許可証に名のある樺澤忠太さん(たなか)は種苧原区長である。41年からは熊野神社氏子総代会長の佐藤久さん(きゅうぜんどん)の名になっている。

 後年、もっと多くの人達が見物できるようにと四方拝山に打ち上げ場所を移動した。種苧原小学校に本部を設置し、美声の女性達が寄附者名などを紹介していた。

 この奉納花火は、蓬平の高竜神社の奉納花火に触発された川上六一さん(大上)が、長岡市の花火師・嘉瀬誠喜さんに依頼し打ち上げたのが最初だった。

 誠喜さんの長男の誠次さんら花火師数人を自宅に泊め飲食を供して実現した。花火の代金も含めて全部自己負担だったという。

 花火師への泊を伴う接待はその後も暫く続いたが、道路が整備され日帰りができるようになると負担は解消された。

 六一さんと奥さんは、その後も奉納花火が軌道に乗るまで、渉外・会計からプログラムの作成などの裏方を続けたという。 ※プログラムや案内状などのガリ版刷りは農協でやっていたようである。

 嘉瀬誠喜・誠次さん親子は、長岡祭りの花火大会で正三尺玉を打上げていた花火師である。昭和26年に戦後初の三尺玉花火に成功し、長岡市民に勇気と希望を与えている。

 昭和39年から熊野神社の奉納花火大会と位置づけ、花火委員会が設けられ、村外の村出身者や商店、会社、村の役職者などから寄付金を募り、熊野神社の奉納花火大会として行われるようになった。

 後に地区の花火大会のようになったが、初めの頃は熊野神社の奉納花火らしく、早朝、花火師が家の山の旧熊野神社付近で、祭りの開始を告げる3寸程度の小さな花火を上げていた。

 この花火は、大谷地の権平(ごんぺい)の家から出た花火師さんが打ち上げていた。道を歩いていて、花火に仕込まれた落下傘を拾ったことがある。


花火2







花火3







上掲のような初期の史料が十数点手元にある。目立たないが種苧原にとって貴重な史料であろう。


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 この回をもって「種苧原の昔」を終了させていただきます。コメントをくださった樺沢さん、坂牧さん、区長さん、そしていつも閲覧いただいていた方々に厚く御礼申上げます。

 内容的には不十分なままで終わることになってしまいますが、一念一歩の思いで、私なりに精魂を傾けたつもりでおります。今は達成感よりも、肩の荷が降りたような感じがしています。

 今月の30日深夜にブログを閉鎖いたします。多くの個人名が登場していますが、私の尊敬する方々ばかりですので、保存された場合は取り扱いに充分お気をつけください。

 ご浄土に還れば現世のことが分かると言います。そして、誰もが必ず還る場所です。いつかその場でお会いできることを楽しみにしております。

袖振り合うも多生の縁”

 多くの同郷の方々と繋がりを持てたこと、大変嬉しく思っております。皆様のご健康とご多幸を心よりお祈り申上げます。


 郷里は雪が多いことで有名だった。子供の頃読んだ雑誌に“世界一積雪量が多い”と書いてあったのを覚えている。


五六豪雪時の熊野神社の鳥居の除雪









「種苧原は行って見ると良い所だ」とか「桃源郷」などと言う村外の人が多かった。しかし住んだことのある人は「雪が多くて・・・」と必ず付け加えた。

 よくこんなに降るものだと嘆息したことが何度もある。現在、雪の降らない地方に住んでいると「雪が降らないだけでも天国」と思ってしまう。

 下掲は種苧原農業改良普及所(初代所長佐藤久)が新潟県に報告していた種苧原の降・積雪記録の観測元帳である。


積雪・降雪量












 1960年(昭和35)1月1日から1981年(昭和56)5月17日までの空模様と降・積雪量が記録されている。この記録の中から各年の最高積雪量などを紹介する。

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《各年の最高積雪量》

1960年(昭和35)2月13日 2m90cm

1961年(昭和36)2月19日 4m20cm

1962年(昭和37)2月28日 3m50cm

1963年(昭和38)1月30日 4m90cm③ ※サンパチ豪雪。

1964年(昭和39)2月17日 2m30cm

1965年(昭和40)3月 7日 3m95cm 

1966年(昭和41)2月 7日 3m40cm

1967年(昭和42)2月18日 3m30cm

1968年(昭和43)2月13日 5m15cm① ※四三年豪雪。

1969年(昭和44)1月16日 3m10cm

1970年(昭和45)3月22日 4m35cm

1971年(昭和46)2月11日 3m40cm

1972年(昭和47)3月15日 1m65cm

1973年(昭和48)3月17日 2m20cm

1974年(昭和49)2月14日 5m00cm② ※四九年豪雪。

1975年(昭和50)3月 2日 3m40cm

1976年(昭和51)1月23日 3m10cm

1977年(昭和52)2月24日 4m20cm

1978年(昭和53)3月16日 3m65cm

1979年(昭和54)1月24日 1m75cm

1980年(昭和55)2月16日 4m10cm

1981年(昭和56)2月 9日 5m00cm② ※五六豪雪。

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 名高いサンパチ豪雪が4番目とは意外である。毎日、毎日、毎日、それこそ毎日のように雪堀りに明け暮れたように思う。

 屋根の雪をやっと降ろしても“降っては降ってはずんずん積り、掘っても掘ってもまだ降りやまぬ”種まき権兵衛のような心境に陥ったものだった。


五六豪雪時の熊野神社の鳥居の除雪2










 猛烈に降り続けると屋根に上がるまでが大変だった。1日がかりで家の前の雪を退け、明日は屋根に上れると思っていたら、翌朝また元通りになっており凄くガッカリした記憶がある。

 1963年(昭和38)、未曾有の豪雪が村を襲った。昨日除雪した場所が翌朝元に戻っており、賽の河原のような日が続いた。種苧原が全国ニュースで取り上げられた。後にサンパチ豪雪と呼ばれるようになった。

 最高積雪は6メートルに達したと噂された。隣村の福山では7メートル積もったという。福山の標高は360メートルから380メートルほど。種苧原小学校とほぼ同じ標高になる。

 当時、種苧原小学校長だった内藤弘次先生は、種苧原小学校の創立百周年記念誌で次のように回想しておられる。

『豪雪で、廊下の壁が臨月のおなかの様にふくれ上がってきた時「民家も危ないでしょうが校舎も危ない。明日と約束して頂かなければ、私の判断でサイレンを鳴らす」とまで、長谷川区長と雪ほりの電話折衝をした場面が真夏の今耳底に甦ってきた』

長谷川区長とは、三五右衛門(さんごえんどん)の先々代の長谷川松三郎さんのことである。

 初めてヘリが飛来したのもサンパチだったと思う、当時は6メートル降ったと言われた。きっと役場か小・中学校の記録だろう。福山は7メートルだったなどとも噂された。

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《豪雪の年の降・積雪量》

各年の比較2







 43年豪雪のとき、所用で2月に上京すると、種苧原の豪雪の様子がテレビ放映されていた。その後、数年間滞在したが郷里がテレビ放映されたのはこの時だけだった。

 56年豪雪のときは、仕事で北魚沼の山村に滞在していた。宿舎の後ろが杉林だったので、寝ていると雪の重みに耐えかねた杉が『ピシッ』と音を立てて折れるのを何度も聞いた。

 ある日の早朝、折れた杉が宿舎の屋根に倒れた轟音で目が覚めたこともあった。吹雪の中、スキーを履いて山仕事に出たときは、あちこちで杉の折れる音を聞いた。

     * * * * *

《降雪量の1位から15位》

 1960年(昭和35)12月30日 130cm

 1973年(昭和48)12月24日 115cm

 1963年(昭和38) 1月12日 101cm

 1979年(昭和54) 1月15日 100cm 

 1969年(昭和44)12月14日  90cm

  1980年(昭和55) 1月15日  90cm

 1977年(昭和52) 1月 6日  87cm

 1963年(昭和38) 1月25日  86cm

 1963年(昭和38)12月28日  84cm

 1966年(昭和41)12月 2日  81cm

 1967年(昭和42)12月23日  80cm

  1976年(昭和51) 1月20日  80cm

  1980年(昭和55) 2月 4日  80cm

 1973年(昭和48)12月 5日  75cm

  1975年(昭和50) 1月12日  75cm

  1980年(昭和55) 1月16日  75cm

 1966年(昭和41) 1月 8日  71cm

  1967年(昭和42) 1月 5日  71cm

 1969年(昭和44)12月15日  70cm

  1969年(昭和44) 1月 6日  70cm

  1969年(昭和44) 1月15日  70cm

  1970年(昭和45)12月 4日  70cm

  1972年(昭和47)12月14日  70cm

  1973年(昭和48)12月 8日  70cm

  1977年(昭和52) 1月 4日  70cm 

  1980年(昭和55) 2月16日  70cm

  1980年(昭和55)12月28日  70cm

  1980年(昭和55)12月30日  70cm

  1981年(昭和56) 1月11日  70cm

 1969年(昭和44)12月17日  65cm

  1975年(昭和50) 1月11日  65cm

  1970年(昭和45)11月30日  65cm

  1976年(昭和51) 1月20日  65cm

  1981年(昭和56) 1月13日  65cm

  1980年(昭和55) 1月17日  65cm

 1961年(昭和36)12月28日  60cm

  1968年(昭和43) 1月 5日  60cm

  1969年(昭和44) 1月 7日  60cm

  1971年(昭和46) 3月 7日  60cm

  1973年(昭和48)11月25日  60cm

  1976年(昭和51) 1月11日  60cm 

  1976年(昭和51) 1月22日  60cm

  1977年(昭和52) 1月 7日  60cm

  1977年(昭和52) 2月 2日  60cm

  1977年(昭和52) 2月23日  60cm

  1978年(昭和53) 3月14日  60cm

  1980年(昭和55) 2月 2日  60cm

  1980年(昭和55) 2月11日  60cm

  1981年(昭和56) 2月 9日  60cm


積雪計











上掲は普及所周辺の略図である。積雪計は百葉箱より1メートルほど上がった所に設置されていた。

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 小学生の頃から雪道つけは私の担当だった。家の玄関前と土蔵の入口、頼まれていた家の道つけと玄関前の雪退けをした。雪道つけだけでも100メートル以上もあり大変だった。

 1メートル前後の降雪になるとカンジキでは進めない。スカリを履いての出動となるが、酷いときは胸までもあり大人でも大変。そうなると親や飼い犬も出ての総力戦となった。

     * * * * *

《初雪・根雪・融雪の早いと遅い》

   早い初雪           遅い初雪

 36年11月 3日     ①50年12月 9日

 46年11月 9日     ②53年11月29日

 42年11月10日     ③35年11月27日

   早い根雪           遅い根雪

 49年11月17日     ①38年 1月 1日

 48年11月18日     ②36年12月22日

 43年11月23日     ③38年12月19日

                ③52年12月19日

   早い融雪           遅い融雪  

 54年 4月10日     ①40年 5月21日

 47年 4月17日     ②43年 5月21日

 39年 4月20日     ③38年 5月19日


雪下ろし









《昭和35年のドカ雪》

12月25日・降雪量(  0cm)・積雪量( 20cm

12月26日・降雪量(  6cm)・積雪量( 20cm)

12月27日・降雪量( 30cm)・積雪量( 38cm)

12月28日・降雪量( 52cm)・積雪量( 85cm)

12月29日・降雪量( 87cm)・積雪量(125cm)

12月30日・降雪量(130cm)・積雪量(220cm

12月31日・降雪量( 30cm)・積雪量(220cm)

 1月 1日・降雪量( 10cm)・積雪量(223cm)

 1月 2日・降雪量(  8cm)・積雪量(225cm)

 1月 3日・降雪量(  0cm)・積雪量(223cm)


普及所の建物と積雪計












 上記は標高333.5メートルの農改普及所の記録なので、標高が380.9メートルの小学校や389.5メートルの中学校の積雪量はもっと多くなる。

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 3月31日に紹介した『郷里の住所表記と呼び名の変遷』の《江戸前期の住所》で、正保四年 (1647年)の越後国絵図に棚須原と中野の名があることを記したが、それが下掲の絵図である。

 棚須原の名が記された最も古く史料価値の高い絵図である。1枚目は造脱庄の村々の名が記された部分であり、2枚目は棚須原と中野の名の部分を拡大したものである。


正保の越後国絵図











正保の越後国絵図2











 なお史料として保存されている方もおられると思うので、『郷里の住所表記と呼び名の変遷』にも同絵図を付加したのでご覧いただきたい。


 近隣には廃村・消滅・移転した村が幾つかある。その中で私が見聞した村を紹介する。


《中江》

 既述したが黒倉山(金倉山)の南の平にあった町である。実態は不明だが、大同ニ年三月二十五日(806年5月10日)の黒倉崩で全滅し、住人は小栗山(小千谷市東山)と、濁沢(長岡市濁沢町)に移住を余儀なくされたという。崩落前は、二十村郷一の人口を有し、耶麻(長岡市村松町)や中野と並ぶ古志郡の交通の要衝だったと思われる。


中江












金倉山は3度ほど車で行ったことがある。山頂に展望台があり、越後平野や三島、北魚の町や村、山並みが見える眺めの良い所だった。


《古都》

 北魚沼郡竜光村(魚沼市堀之内町)や古志郡木沢村(長岡市川口町)の付近にあったと思われる町。

 正平九年九月二十三日頃(1354年10月17日頃)、宇賀地城が新田義宗ら南朝方の攻撃を受け落城した折、家数三千数百軒を誇った古都も焼亡した。生き残った人達は、荒谷、峠、十二平、塩谷の上村などに逃れたという(槙道雄著・日本中世武士の時代・越後相川城の歴史)。


古都












所在が分からない町なので、大雑把に印をつけてみた。まあ、こんな所だろうと思う。


《稲越》

 古都の跡地に一寒村として残った稲腰村だったが、土地が崩落し、500年ほど前に約20軒が木沢の地に移転した。これが木沢村の始まりだという(越後相川城の歴史)。

 木沢村の一帯は古来より崩落を繰り返した所で、現在も崩落が続いているらしい。1997年(平成9)に出会った、若い頃に川口町へ転居したというAさんは、以前住んでいた木沢の家は崩落して現存しないと話していた。


《荒谷(あらや)にあった廃村》

 北魚沼郡荒谷村(長岡市川口町)の語源は、草分けの宮氏が踏み入ったとき、多くの荒屋(廃屋)があったので村名にし、それがいつしか荒谷になったという。消滅した村の名は不明という(越後相川城の歴史)。


荒屋












荒谷は何度も車で通ったが狭隘な谷間の村だった。花立峠の中腹に隋道が出来てからは、本村の相川村との行き来が便利になった。


《蛇山(へびやま)》

 古志郡蛇山村(長岡市滝谷町)。往昔、城山と呼ばれる所に蛇山城があり、その山麓に7戸の集落があった。いつの頃か麓の平野部に降りたという(岡南の郷土誌)。

 現在の滝谷町2丁目が麓の蛇山村である。かつて存在した山谷沢村は蛇山・滝谷・渡沢から一字をとったもの。

 下掲は昭和30年代の地図。黄緑色の辺りに蛇山城があったと思われる。昔は城跡を城山と呼び、城之腰の地名が残っているという。滝谷城も近くにあったようである(岡南の郷土誌)。


蛇山












《白岩(しらいわ)》

 古志郡白岩村。唯一信濃川の対岸の魚沼地域に食い込んでいた古志郡の村。古志郡三俵野村(長岡市)の対岸に位置していたという。北魚沼郡三仏生村(小千谷市)に隣接していた(岡南の郷土誌)。元禄四年七月十七日(1691年8月10日)の信濃川の大洪水で消滅したという(岡南の郷土誌・越後相川城の歴史)。

 320年以上前に流失した村であり、当時と現在では川の位置も違うと思うので、位置の完全な特定はできない。妙見と対岸の高梨を結ぶ妙見堰の少し下流に村があったと思われる。


白岩











温古の栞に『天正十八年 白岩六軒』とある。


《真木(まぎ)》

 古志郡栖吉村(長岡市)の枝村。鋸山の中腹にあった村だが、1955年(昭和30)以降に栖吉本村に移転したらしい。


真木











昭和40年代に何度か通ったことがある。すでに廃村だったが建物は残っていた。平場の人の別荘になっていると聞いたことがある。


《切下(きりくだし)》

 北魚沼郡切下村。北魚沼郡荒谷村(川口町)の崖上にあった村。1955年(昭和30)以降に大原(小千谷市)の地に集団移転した。


切下











大原は2003年10月26日に1度だけ訪れた。高台だが平坦な地で見晴らしのいい所だった。


《山ノ相川(やまのあいかわ)》

 北魚沼郡田麦山村(川口町田麦山=長岡市川口町)の枝の山ノ相川は、1973年(昭和48)に全戸が西川口(長岡市川口町)に移転したという。但し水田の耕作を続けており、農家は貸別荘として利用されているとのこと。

 1979年(昭和54)に1度訪れたことがある。川口町一周ツアーに参加したのだが、当時は町内なのに車の通る道がなく、町のマイクロバスで隣の堀之内町まで行き、国道252号線経由で山ノ相川に入ったものである。

 1974年(昭和49)に廃校となった山ノ相川小学校が民宿になっており、そこで山菜料理のお昼を食べた。眼下に大きな沢が広がる迫力のある場所だった。もう1度行ってみたい所だ。


山ノ相川











田麦山の枝の小高(こだか)は、2004年(平成16)の中越地震を期に1軒を残して西川口(長岡市川口町)に集団移転したという。


《十二平(じゅうにだいら)》

 古志郡十二平村(長岡市妙見町)。妙見の枝村という。妙見からは距離が離れており、小栗山村の山を挟んで隣りにあった。妙見から分かれたものという。一説には鎌倉時代に開かれたともいう。

 1967年(昭和42)に11軒あった集落が1軒を残して集団で離村し、残った1軒も1975年(昭和50)に長岡市千手町に転居したという(岡南の郷土誌)。


十二平(じゅうにだいら)











1度訪れてみたいと思っていたが叶わなかった。


《大平(おおだいら)》

 北魚沼郡高倉村(魚沼市)の枝村の二分(にぶ)の枝と思われる。二分集落から見える山の中腹に位置していた。

 1975年(昭和50)に仕事で二分まで行ったことがある。その時は大平にも村人が住んでいた。その後、廃村になったらしい。


大平











古い地図もないのでよく分からないが、緑に着色した辺りに集落があったものと思われる。


《十二平(じゅうにだいら)》

 十二平(じゅんだいら)は古志郡塩谷村(小千谷市)の枝村。道路の整備の関係か、塩谷よりも東竹沢村の梶金に近かったように思えた。

 2004年(平成16)の中越地震で被害を受け小千谷市に集団移転したという。


十二平(じゅんだいら)












3度ほど訪れたことがある。


《竹之高地(たけのこうち)》

 古志郡蓬平村(長岡市蓬平)の枝村での竹之高地(たけんこうち)は、2004年(平成16)の中越地震を期に村人が転出し廃村になったという。


竹之高地












親戚の人が嫁いでいたので、昭和40年代に何度か訪れたことがある。狭隘な谷間の細長い集落だった。立派な鉄筋の小学校舎が印象的だった。


《兎畑(うたぎばたけ)》

 北魚沼郡越又村(広神村=魚沼市)の枝村と思われる。広神ダムの建設に際し、1988年(昭和63)12月に全世帯18軒が北魚沼郡小出町(魚沼市)に移転したという。名前が印象的な村だった。


兎畑












車で何度か通ったことがある。滝之又と兎畑間は、未舗装の狭い道路で途中に危険な場所もあったが、越又に抜ける近道だった。

     * * * * *

 この外にも牛ケ首、谷内、雷、軽井沢などの名が思い出される。種苧原の隣村の田代も数軒になったらしい。

雷の情報(http://www004.upp.so-net.ne.jp/takanamiho/info_002.html


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