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想像ラジオ[著]いとうせいこう

[評者]市川真人(文芸批評家・早稲田大学准教授)

[掲載] 2013年09月27日

表紙画像 著者:いとうせいこう  出版社:河出書房新社 価格:¥ 1,470

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■聞こえるかもしれない声に耳を澄ます

 Twitterのログイン画面でIDやパスワードの入力を何度かまちがえると「あなたは人間ですか?」と問いかけられる――そう一部で話題になったのは2年ほど前のこと。ランダムな英数字を次々打ち込んで他人のIDやパスワードを探る不正プログラムに対処するため、目視しての入力を要求するキーワード画像と共に、そんなメッセージが表示されたのだった(今では「スパムではないことを確認させていただきます」と書き換えられている)。
 メッセージを読んだ「あなた」は、「人間ですか?」という、ほとんどコドモの悪口のような問いが大マジメになされることに、まずはウケたり驚いたりすることになるだろう。それから一息ついて気づくのは、そうやって「あなたは~」と文字で呼びかけられる機会が、このところずいぶん増えたということだ。
      ◇
 「あなた」という呼びかけが正確に機能する条件は、呼びかける側と呼びかけられる側の関係が明確であることだ。それを確認するためには、相手と向かい合っている対面性や、コミュニケーションが双方向である必要がある。だから、発信も受信も個別に行えるインターネットのような媒体は、「あなた」に呼びかけることに向いている。
 たとえばAmazonの画面は「こんにちは、****さん」のようにログインしたユーザー名を表示することで“読んでいるあなたに向けられている”ことを強調してみせる。冒頭に書いたTwitterの「あなたは~ですか?」のような不特定のメッセージも、画像に表示された英数字を目視して「私」がその問いかけにレスポンスすることで、そこにコミュニケーションが発生し、「あなた」と呼びかける誰かと「私」の関係が成立する。仮にそれが自動化されたユーザー名のサシカエや、テンプレート的な定型文であったとしても、「私」がそれに応答できることで、「あなた」という呼びかけが自然なものとして受け止められるのだ。
      ◇
 その一方で、新聞や書物などの印刷媒体や、テレビ・ラジオのような放送媒体を通じて「あなたは~」と呼びかけられると、その「あなた」が自分を指しているのかどうかについて、私たちはいくらか疑わしく思う。
 「放送」を意味する英語が「broadcast」つまり「ブロード=幅広く キャスト=投げる」の複合語であることからもわかるとおり、それらは受け手を特定しない媒体だ。そうである以上、呼びかけを受け取る「あなた」とは、この「私」ひとりだけでなく無数にいるだろうことを、私たちは知っているからだ。その意味で、一方的なコミュニケーションである従来の印刷・出版や放送はじめあらゆる「マス・コミュニケーション」は、疑似的にしか「あなた」を構築することができない。
 まして「あなたは~ですか?」のように疑問のかたちですらなく、「あなたは~する」「あなたは~だった」のように断定のかたちで呼びかけることは、私たちに「それは(必ずしも)この私のことではない」と感じさせずにはいない。
      ◇
 そういう違和感を上手に利用したのが、この夏に芥川賞に選ばれた藤野可織の小説『爪と目』で、その冒頭は次のように始まる。
 「はじめてあなたと関係を持った日、帰り際になって父は『きみとは結婚できない』と言った。あなたは驚いて『はあ』と返した。父は心底すまなそうに、自分には妻子がいることを明かした。あなたはまた『はあ』と言った。そんなことはあなたにはどうでもいいことだった」
 このように書かれたとき、読み始めた私たちは、5文字目から登場する「あなた」に虚を突かれる。たとえばこれが「はじめて彼女と関係を持った日、帰り際になって父は~」であれば、なんの違和感もなく、父の不倫の物語として読み進めることだろう。
 もしも「はじめて彼と関係を持った日~」だったら父の隠れた同性愛的性向に、「はじめて私と関係を持った日~」だったら近親相姦のタブーに、それぞれいくらか驚いたとしても、それらはあくまでも物語やその設定に対するものであり、読んでいる「この私」に直接働きかけてくる類の驚きではない(実際にそうした性的趣味を持つひとならば、共感を喚起されるカタチで影響を受けるかもしれないが、あくまで「共感」である以上、それは“夕陽のなかで遊ぶ子供たちを見て自分の幼少期を思い出す”といったことと同様に、外部のなにかをきっかけに、自発的に「私」の中に起きることの範囲だ)。
 だが、「はじめてあなたと関係を持った日~」と言われると、それを読んだ私たちは、その「あなた」がこの「私」なのかどうか、と一瞬であってもたじろぐことになる。
 もちろん、それが小説である以上、そこで呼びかけられている「あなた」が「私」であるはずはない。けれども「あなた」という呼びかけは、他でもないこの「私」に向けられる言葉であるはずで、目の前の用例と日常なじんでいる文法との齟齬(そご)が、ある種の目眩(めまい)にも似た感覚を、私たちに引き起こすのだった。
      ◇
 もちろんそうした実験は過去に世界でも日本でも少なからず行われているが(最初に広く読まれたのは20世紀フランスの小説家ミシェル・ビュトールの『心変わり』で、日本でも法月綸太郎『二の悲劇』や多和田葉子『容疑者の夜行列車』、重松清『疾走』や古川日出男『LOVE』など多数ある)、冒頭に記したような「あなたは~」という文字による呼びかけがテクノロジーの変化によって日常の生活に浸透しつつある今日、あらためて行われたそのような試みが、芥川賞の受賞というかたちで評価されたことは、自然なことだと言っていい。
 1980年生まれで10代後半にインターネットが普及しだした(つまり、画面越しに「あなた」と語りかけられることになじんだ)世代である藤野可織が書いた『爪と目』が、上記の作品たちと比べれば実は純粋な意味での二人称の小説ではなく(そのことは、作者本人もたびたび自覚的に口にしている)、「わたし」という女性が子ども時代を回想し、その回想のなかで(のちに同居することになる)父の恋人に対して「あなた」と語りかけているという一人称の小説でありながら、1950年代や60年代生まれの選考委員たちの少なからずが「二人称の小説だ」と捉えてしまっていることも、デジタル・テクノロジーとそれを介したコミュニケーションの経験差と捉えてもよいだろう(もちろん、冒頭の2ページだけを切り取れば『爪と目』は純粋な二人称小説に見えるのだし、記者会見や選評といった限られた言葉数のなかで、必ずしも文学を専門としないひとたちに伝えるにあたって、多少正確でなくとも「二人称小説」というキーワードを意図して使う判断もありうるはずだ)。
 さらに踏み込んで評価するならば、「わたしとあなたがちがうのは、そこだけだ。あとはだいたい、おなじ」と結ばれる作品の最終ページを読むと、一人称と二人称をめぐる選考委員たちのような誤読の可能性も、本来はこの「私」のことではなかったかもしれない「あなたは~」という呼びかけが、レスポンスすることによって「私」のことになってしまうという(この稿の冒頭近くに書いたような)今日的な社会における「あなた」と「私」の奇妙な接合も、その両方が作者によってあらかじめ意識されて書かれているようにも読めることが、『爪と目』という作品の優れた点にほかならない。小説が、多くのエンターテインメントがそうであるように書かれた物語、で読者を違う世界に連れてゆくだけでなく、その書かれ方や作品それ自体のありかたにおいて、人間の思考や社会の様態を浮かび上がらせる「芸術」の側面を持つことを、『爪と目』はあらためて示している。
      ◇
 ……という文章を読みながらあなたは、それが延々と『爪と目』について語り続けていることに、少なからぬ疑念を抱かずにはいない(かもしれない)。なぜなら、あなたがブック・アサヒ・コムのトップページでクリックしたリンクは、いとうせいこう『想像ラジオ』についての記事だったはずだからだ。
 あなたは考える。これはサイトの運営者によるリンクの貼り間違いなのか、最近では家族や友人や仕事仲間はもとより教え子たちにまで性格の杜撰(ずさん)さと社会的不適合が露見して、要介護者としての扱いを受けつつある中年男が対象書籍を取り違えたのか、それともこの連載をいつも長々と書かずにいられない筆者が長い枕を終えて、さらなる長広舌を振るおうとしているのかと。ブラウザ右端のスクロールバーの長さに、あまり直視したい気がしない正解が示されてしまっているかもしれないから、あなたはそこから目をそらして先に進むことにする。
      ◇
 そんな藤野可織『爪と目』が受賞した第149回芥川賞は、5篇の候補作で争われていた。なかで巷間、さまざまな話題性とともに本命と囁(ささやか)かれていた作品が、件の『想像ラジオ』なのだった。著者であるいとうせいこうは、長年テレビで活躍するタレントであり、日本のヒップホップやラップ・ミュージックの草分けで、大手出版社に勤めた経験を生かして「PLANTED」などの雑誌の編集長を務め(現在同誌は「plants+」というネット配信の「世界初植物テレビ局」に進化している)、仏像や俳句に造詣が深く……と、とにかく多彩な存在だが、じつは1988年(もう四半世紀前だ!)に最初の小説『ノーライフキング』で三島由紀夫賞の候補となった小説家であり、レーモン・ルーセルやマルセル・デュシャンを論じ、奥泉光と文学談議を交わすライブトーク「文芸漫談」を年に数ステージ開く文学者でもある。そんな彼が16年ぶりに刊行した小説が、『想像ラジオ』だったのだ。
      ◇
 文芸春秋の創始者であり有数の人気作家だった菊池寛が「新人作家の台頭を公正に助けよう」と始めた芥川賞の候補に、いとうせいこうの名前が挙がることは、上にごく一部を挙げた経歴と実績を思えばいささか不似合いにも見えた。だから、それが理由であるならば、落選にも納得できただろう(その場合は、候補を選ぶ基準が問い返されることになるけれど)。
 けれども『爪と目』を受賞作に選んだ発表の記者会見を聞き、「文芸春秋」2013年9月号に受賞作とともに掲載された選評を読めば、『想像ラジオ』が選ばれなかった理由はそうした条件の不一致ではなく、あくまで作品そのものだったという。選者を代表して記者会見にあたった島田雅彦の言葉によれば「『いとうせいこうともあろう者が、このような安易なヒューマニズムに走るのはどうだろうか』という非常に厳しい(村上龍の)指摘」などがあり、作品が「エンターテインメントにも仕上がっていることが評価されつつも、その結果としてのあざとさが、非常に世論を意識している」点に、違和感を持たれての評価だという。同じ会見で語られた島田氏の「私見」を引くなら、「文学はヒューマニズムでない、別の方法で死を受け入れることができたのではないか」というわけだ。
 だが『想像ラジオ』とは、彼らが言うようなヒューマニズムと、世論を意識したあざとさに満ちただけの小説であっただろうか?
      ◇
 『想像ラジオ』の物語は、海沿いの小さな町で生まれ育った38歳の男性が、リスナーの想像力を電波やマイクやスタジオや電波塔代わりに、DJとしてラジオ番組を放送する場面から始まる。自身の生い立ちから音楽に明け暮れた学生時代、そしてミュージシャンの裏方を務めた東京での生活を経て妻子連れで郷里に戻った近況や帰還の理由を語る「DJアーク」。リスナーからのメールを読み上げ、その一つひとつにレスポンスをし、なつかしい名曲を流しているうちに、彼がなぜだか「細くて天を突き刺すような樹木のほとんど頂点あたりに引っかかって、仰向けになって首をのけぞらせたまま町並みを逆さに見」ながらその放送をしていることが、読者たちにもわかってくる。直前の記憶を失って「ただ体の感覚として前後左右に引っ張り回されてから浮かんだ実感だけはある」状態の彼は、大きな地震と津波に襲われて死んだ人物であるらしい。
 そんな彼が流すの番組だから、聞いているのもメールや電話で参加するのも、どうやらみな死者ばかり。放送に参加するリスナーたちもDJアークと同様に、彼ら彼女たちのささやかな、しかし唯一無二の「生」について語り始める……。
      ◇
 紙の単行本初版に巻かれた帯を見れば、「『想像すれば聞こえるはずだ』というストレートなメッセージに感動」や「時代の『気分』を鮮やかに捉えている」等々の、文芸時評からいかにもベタなくだりを抜き出した惹句(じゃっく)たちや、途中の論理を書く余地もなく「読めば涙が止まらない」とだけ記された結論などが並んでいる。
 そんな帯文に誘導されて、“ひとりひとりの生の尊さを描く”的な装いを作品の主旋律に読み取って終わる読み方に対してであれば、村上龍らが指摘した「安易なヒューマニズム」という批判は、むろん無意味ではない。さしもの著者の多彩な職業にも「口寄せ」は含まれていない以上、現実の死者たちに話を聞いたり、死んだ者の内面を「正しく」言い当てたりすることなど望むべくもないのだから、どんなフィクションよりも徹頭徹尾フィクションでしかありえない死者たちの声を描いたことに対して、「死者の声はあくまでも無音だ。無音を言葉に変換するのではなく、無音のままに言葉で描くのが小説ではないだろうか(小川洋子選評)」「死者のための鎮魂歌が鎮魂歌のための死者方向に重心を傾けたよう(山田詠美選評)」と拒絶反応が出ることも、わからなくはない。
 とはいえ、そんなことは著者も十分にわかっている。だから『想像ラジオ』では、“死者たちのラジオ放送”とは違う物語として、被災地をボランティアで訪れる者たちの姿を描き、彼らに「遺体はしゃべりませんよ。そんなのは非科学的な感傷じゃないですか」「心の領域っつうんですか、そういう場所に俺ら無関係な者が土足で入り込むべきじゃない」「亡くなった人のコトバが聴こえるかどうかなんて、俺からすれば甘すぎるし、死者を侮辱してる」等々と語らせる。けれどもそうした構成自体も、選考委員たちの目には「あらかじめカジュアルなスタンスで死者の弔いをすることへの批判封じをして、しのいでいるところが非常に技巧的である」と批判の対象として映ったそうだ……。だが、それはほんとうにただ「批判封じ」で、「しのいでいる」だけなのか。
      ◇
 たしかに、『想像ラジオ』に書かれた死者たちの声は、どれひとつとして、現実の死者の声を正確に拾ってなどいないだろう。正確でないどころか一言一句も当たってなどいないかもしれないし、たまたま合致している死者があったとしても、それはたんなる偶然でしかない。震災での死に限らず近しい者の死を経験した、あらゆる“遺された者”たちにとって、亡くした者を悼んで生者が思い浮かべる「死者の声」は徹頭徹尾、確認することなどできようはずもない妄想であり、まして第三者がそうするなど、「あくまで無音」である死者の声を音として想像する冒涜(ぼうとく)と感じられるだろう。
 けれども、「鎮魂歌」であれ読経であれ、教会や寺院の祈りであれ、魂を鎮め、弔い悼むために読まれ口にされることになってはいても、死者たちがそれらの言葉を聞いていると確かめようもない以上、確かなのは、置き去りにされた“生者たち”の営みとしてあるという部分だけだ。それらを宗教的にどう信じるかはひとりひとりの自由だし、まさに「心の領域」の問題だが、その「心」とは決して死者の心ではなく、生きている者の心である。だから、土足で踏み込むかどうかが問題になる対象もまた、死者の心ではなく、死者を悼む生者の心にほかならない。
      ◇
 だとすればそれは「安易なヒューマニズム」などではなく、それと正反対の(それこそ、村上龍がかつて真摯に描いてきたような)徹底した暴力ではないか。それは『想像ラジオ』やその著者ひとりの暴力ではなく、あらゆる瞬間の私たちが、確かめようのない他者の心情を想像するに際して行使する暴力であり、すべての死者への悼みと鎮魂に付随する暴力だ。
 だから『想像ラジオ』で語られる無数の(そして架空の)死者たちの声は、「時代の『気分』」から離れて読めば、どれひとつとして正しさを欠いて暴力的だ。それゆえ真摯に読む者ほど(仮に最初は癒やされ安寧を与えられたとしても)苛立たされずにはいない声であるかもしれない。だが、無数に聞こえる(と私たちが想像する)声のすべてが“私の聴きたいあの他者の声”などではないとあらためて確かめたとき、それでも私たちは、その先でかそけく響いているかもしれない“あの他者の声”を探してしまう。
 むろんそれも妄想である限りは暴力でしかありえないのだし、探す自分や聞き取る自分に満足して読む側が歩みを止めればそれは、安易なヒューマニズムと呼ばれても仕方がない(『想像ラジオ』自体ではなく、その読まれ方が批判の対象となりうるとはその意味においてだ)。それは、私たちの生の周辺と生そのものには無数に漂っている“暴力と自覚されない暴力”にほかならない。
 けれども、そのような自分自身の暴力を省みつつ(みずからが安易に想像したすべての声にNoを突き付けながら)それでもなお聞こえるかもしれぬ声に耳を澄ますなら、そこには祈りにも似た敬虔が生じる。
      ◇
 『想像ラジオ』の作中、生きている登場人物のひとりが口にするこんな言葉をいま、あなたは読む。「亡くなるまでのその声を考えるのと、亡くなったあとを想像するのにそれほど差があんのかって思う」――それは『爪と目』のあの一節、「わたしとあなたがちがうのは、そこだけだ。あとはだいたい、おなじ」という認識と、どこか似て見える。それらはどちらも暴力だが、暴力だからいけないのではない。暴力を暴力と認識し行使した先で、あるいは行使された先で初めて“他者”について考えることが可能となるような、不可避の暴力がそこにはある。
 『想像ラジオ』は表面上のあざとさとは対照的に、徹底して暴力的で、しかしあえてそのようであることによってしか浮かび上がらせることができない私たちの“暴力”を描き、その暴力を認めた先で初めて出会い言葉を交わすことができる(生きている者も、死んでいる者も含めた)“他者”に向けて、私たちの背中を押してくれる。『爪と目』は「あなた」と呼びかけてその行動や思考を規定する語りも、「あなた」の視力(と、物語ることによってその記憶と)を奪う物語であることも含めて、「わたし」と「あなた」のあいだに存在する暴力を浮かび上がらせようとしている。そのふたつはコインの裏表、ドーナツの輪を描くことでその中心の空白を描くか、輪そのものを描くかのようなものなのだ。『想像ラジオ』と『爪と目』が違うのはそこだけで、あとはだいたいおなじなのだとしたら、賞は両作に与えられるべきではなかったかと、いまや「あなた」は感じないだろうか。

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