観光ボランティアガイド推薦「ふるさと三重、再発見の旅」

造船の町大湊の歴史散歩その1
(ぞうせんのまちおおみなとのれきしさんぽ)

所要時間:2時間以内

大湊は、織豊時代には、九鬼嘉隆の命により世界にも類をみない鉄板張りの軍船を多数建造し、文禄、慶長の朝鮮の役の際には「日本丸」をはじめとし「大安宅船」、「運送船」を建造しました。
江戸期に入ると回船業が盛んになり安南(ベトナム)貿易で有名な角屋七郎兵衛も大湊の年寄り家でした。
江戸後期に入ると造船に付随した鍛冶業は和釘の製造が盛んになり最盛期には200軒近くも並んでいました。
明治に入り洋釘に押され次第に衰微の傾向となりましたが八幡宮境内の常夜灯に今もその面影が残っています。
平成の今日現代的河港である大湊の歴史の道を感じられるでしょう。



語り部ガイド:

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お薦め時期

不定

ガイドマップ

なし

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アクセス
公共交通機関をご利用の場合
JR・近鉄伊勢市駅より三重交通大湊行きバス乗車、徳田バス停下車
お車をご利用の場合
補足資料
徒歩 徒歩 すぐ

 

徳田新田(禿松新田)

徳田新田禿松新田
徳田新田禿松新田

この石碑は、江戸時代後期の天保の飢饉の頃、地元有志の努力により水害による荒地を徳田新田と禿松新田として、開拓開墾したことを記念し、天保14年(1843)に建立したものです。
 大湊は昔、人家と田畑に満ちた豊かな村でした。しかし宝永4年(1707)に大地震と大津波による洪水で、徳田と西南に続く禿松の田畑は流出し、人家も次第に減少していきました。それ以降130年間再起することもなく荒地のまま残ることとなりました。天保4年(1833)長雨洪水と天候不良により農作物が不作に陥る、大飢饉が引き金となって農地が荒れ果てたため大湊の有志が、荒れたままになっている徳田と禿松を田畑に戻すことを決めました。天保7年(1836)第38代山田奉行柴田日向守康直に田畑開発の願いを提出し許しを得たので〃11年に着工1年3ヶ月かけて完工しました。
その後、徳田新田、禿松新田と呼ばれるようになり、後世に残すため、碑文として刻まれています。

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大湊中須新田経塚

大湊中須新田経塚
大湊中須新田経塚

経塚とは、経文を書き写したものを地中に埋めて保存するため、「経塚」と呼んでいます。
最古の例としては、藤原道長が寛弘4年(1007)に造営した奈良県金峰山経塚が知られています。
経塚造営の当初の目的は仏教が衰退し乱世が訪れるという末法思想により経典を後世に残す為の行為と考えられていますが後にその目的は変わっていきます。
大湊中須新田経塚は過去の発掘状況や、塚上にある石塔の刻字から天明2年(1782)頃に造営され、江戸時代にその最盛期を迎えています。経塚に埋納されている経石は、自然石に経文を墨書した礫石経(レキセキキョウ)と呼ばれるもので、一ヶ所に数万点が出土するという例もあります。
この礫石経には一字一石経(一石に一文字を書くもの)と多字一石経(一石に複数文字を書くもの)のほか、願文、供養者名、供養年月日などを書くものが知られています。
穴を掘って直接埋納する場合が多いのですが、甕などの容器に納めて埋納する例もあります。
経塚造営の主体者は庶民層であり、追善供養のほか、五穀豊穣などの祈願成就を目的に造営されました。

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御祓橋(おはらいばし)跡

御祓橋跡
御祓橋跡

宮川で大湊と交わり少し狭くなっている所を今は「せきどめ」と呼んでいます。
昔、大湊川を御祓川と呼んでいた時代は、ここに橋が架かっており、その橋は御祓川と呼ばれていました。
橋の大湊側の橋詰に小屋を建て橋を渡る人々からお金を徴収していた時代もありました。これを橋銭といって台風などで橋が壊れたときの修理費用にしていたようです。
現在の大湊橋ができるまで、この御祓橋が小林にある山田奉行所、或いは山田に通じるただ一つの橋でありました。

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西の川

西の川
西の川

大湊の西に流れている川なので大湊に住む人々は西の川と呼んでいます。(正式には宮川といいます。)
川の中にある島を現在は樫原新田といって昔は大湊と陸で続いていました。
明神さんと樫原新田の間に大塩屋敷村がありました。
大塩屋村には多くの塩田があり大勢の人々が塩を作っていました。作られた塩はまず神宮へ奉納し、残りの塩は大湊の港から船で他国へ送り出されました。
昔は塩魚(塩漬けした魚のこと)を「すし」と呼んでいました。現在の寿司ではありません。
塩魚を作っていたところを「酢沖」といい、今でも地名として残されています。
明応7年(1498)8月25日大津波が起こり塩田は壊滅しました。

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大湊川

大湊川
大湊川

大湊町は、二つの島と向こう側の徳田と中洲で形成され、現在は徳田から近代的な橋が架かっております。
橋の下を流れているのが大湊川です。
西の川(宮川)と東の勢田川を繋いでいるこの川の別名を御祓川といいます。
昔、斎王制度があったころ斎王が神宮へ参拝される際この川で禊をされたと伝えられています。この近くで採れた塩を神宮へご奉納する際もお祓いを行い、船で参宮をするため神領へ入るときもお祓いしたとの言い伝えがあります。
また昔は、小野の古江といわれ京の都までも伝わり、歌人から多くの歌が詠まれています。
この時代には、大湊川とはいわず宮川樫原と大湊の二つに別れて流れていました。

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志宝屋(しおや)神社

志宝屋神社
志宝屋神社

志宝屋神社のことをを大湊の人々は「明神さん」といって親しんでいます。明神さんの御祭神は塩土老翁という塩の神様で外宮の末社です。昔は、宮城県塩釜市にある塩竈六社明神の内一座の御魂を頂いてお祀りしたと伝えられています。その昔、この付近は大塩屋村といい百八十軒ばかりの家がありました。多くの人々が伊勢神宮へ奉納する御塩を焼いておりました。また八百年以上も昔から塩が焼かれていたことが知られています。
明応7年(1498)大地震が起こり大津波が押し寄せてきました。大湊大塩屋村の家は千軒ばかり流され五千人余りの人が亡くなりました。
その際、大湊の人々がお参りしていた明神さんも社殿が流されましたが寛永21年(1644)再興されました。

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忘井(わすれい)の水饗(みあえの)社跡地

忘井の水饗社跡地
忘井の水饗社跡地

むかしむかし、大和の都から倭姫命が天照大御神のご神体である神鏡を捧持しつつ、大神の鎮座地を求めて各地を遍歴され、その途中で、大湊に立ち寄られ飲み水を求められました。
大湊に住んでおられた鷲取の翁が冷たい水を差し上げたのです。
命は大変喜ばれ水戸水饗社を定め大湊の浜を鷲取小浜と名付けられたと伝えられています。
のちに言いやすいように鷲鳥小浜から鷲ヶ浜と呼ばれるようになりました。
冷たい水を汲んだ井戸は忘井と呼ばれ、また水饗社は明治時代になってから八幡宮の境内に移されました。

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忘井(わすれい)の碑

忘井の碑
忘井の碑

倭姫命が、大湊に巡行されたとき、鷲取の翁が忘井の清水を差し上げたことからこの地に水饗社を定め、浜を鷲取小浜と名付けられたとの言い伝えがあります。
伊勢参宮名所図絵にも「鷲取清水跡」として記述されています。
このことを後世に伝えるために大正八年(1919)10月、菊川安之助氏が記念碑を建立しました。

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大湊墓地のお惚(とぼ)けさん

大湊墓地のお惚けさん
大湊墓地のお惚けさん

大湊墓地にお惚けさんといわれる石仏が二体あります。
東のお惚けさんは釈迦如来、西のお惚けさんは阿弥陀如来といい、大湊で亡くなられた方々を見守っておられます。
このお惚けさんは元禄7年(1694)大湊の山中道喜という方が、江戸の名工といわれる石屋にお願いして伊豆の石を使って作りあげられました。
お惚けさんは翌年江戸へ回航した味噌船で運ばれてきたそうで、その際大湊の人々は大変喜びお惚けさんを車に乗せ5日も費やし運んだといわれています。
お惚けさんは今の場所に安置され、盛大な法要が行われました。これほどの大きな石仏はこの辺りにはありません。
皆様もお参りされてみてはいかがでしょうか。
お惚けさんは2体ともよく似ていますがよく見ると手の印の結び方が違います。

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秋山安房守正光の墓

秋山安房守正光の墓
秋山安房守正光の墓

秋山安房守正光は、第47代の山田奉行で大湊の波除亭の修復をされ、奉行職として5ヶ年努められました。
秋山正光は奉行屋敷で亡くなり当時の大湊長楽寺に葬られました。
現在その墓碑は袖野商店の裏庭にあります。
墓碑の正面には「宗厳院殿従五位下前房州刺史貞誉義山顕道大居士」、側面には文久三年癸亥年(1863)四月七日「秋山安房守源正光朝臣墓」と刻まれています。

以降「その2」に続く。

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