週刊文春 9月27日(金)13時1分配信
任天堂を一代で世界的なゲーム機メーカー「ニンテンドー」に育てた前社長の山内溥(ひろし)相談役が、9月19日午前、京都市内の病院で肺炎のため死去した(享年85)。
「私は娯楽屋」が口癖で、スケールの大きいタニマチだった。1992年にポケットマネーで米大リーグのシアトル・マリナーズを買収。経営危機のマリナーズはシアトルからタンパに移転することを検討していたが、「長い間、米国任天堂を置かせてくれたシアトルへの恩返し」として球団の運営会社の株式を購入。山内は1億ドルを出したといわれているが、カネだけ出し、口を出すことはなかった。
99年オフ、横浜(現DeNA)からFAになった“ハマの大魔神”佐々木主浩投手と契約。山内は代理人を介さず2人だけで契約交渉に臨んだ。2000年から03年までマリナーズに在籍した佐々木が日本人初の10億円プレーヤーになったのは、山内が後押ししたからだ。佐々木を、ことのほか気に入っていた。
イチローの獲得資金を出したのも山内だ。04年シーズンのオフには、イチローが年間262本の大リーグ最多安打記録を達成したお祝いとして任天堂株式5000株(当時の時価で5800万円)をプレゼントした。
晩年は新たな文化や産業の育成に力を注いだ。02年にはポケットマネーでベンチャーのゲーム会社を支援する投資ファンドを設立。06年にオープンした京都・嵐山の小倉百人一首の展示館「時雨殿」には21億円を提供した。10年に完成した京都大学のがん治療の病棟「積貞棟」の建設では事業費の全額75億円を寄付。京大は山内に「名誉フェロー」を授与した。
07年11月に任天堂の株価は7万3200円の史上最高値をつけ、山内の持ち株の時価総額は1兆円を超えた。08年には、米フォーブス誌の「日本の富豪40人」でトップに選ばれ、資産総額は8112億円と試算された。だが、最後まで一匹狼で、勲章を狙うこともなかった。任天堂の社名は「運を天に任せる」に由来するが、「人事を尽くして天命を待つ」人だった。
スマホが普及する中、ゲーム専用機で勝負してきた任天堂の業績は下降線をたどる。一代の傑物の死で、任天堂はどう変わるのだろうか。
<週刊文春2013年10月3日号『THIS WEEK 経済』より>
有森 隆(ジャーナリスト)
最終更新:9月27日(金)13時1分
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