新たな節目を迎えて
いま、伝統ある我われ日本臨床心理学会は、曲がり角に来ています。しかしこの角を、躓くことなくしっかりと曲がりきり、次の時代の臨床心理学を示してゆける底力を、我が学会は持っています。節は、芽の出る所でもあります。
私たちは、半世紀に渡る臨床現場の「生きた臨床」を、折りに触れ再確認してきました。臨床の実践とは、己れの身全てを以て行い、クライエントとの共同作業が体に刻み込まれるものと考えております。理論を弄ぶだけでは、何も起こりません。企ては、実践によってはじめて意味を持ちます。だが、考えなしの実践の独りよがりも、相手方をいかに傷つけてきたか。学問と実践の両輪がそろって、学会活動はまっすぐに進みます。
日本臨床心理学会は、西暦1964年の創立から、いくつもの節目を越えてきました。最大のものが、1969年に始まった改革です。日本精神神経学会や日本精神分析学会など、精神医学をふくむ臨床心理学全体に、大きな改革の波が起きました。心理検査や心理療法が「する側」の都合を押し付け、「される側」となった「精神障害」当事者の立場を考えなかったことへの批判と言えます。背景には、差別を当然とする治療や検査の場を作り出す、世の中の仕組みがあり、これを批判できなかった学問の未熟がありました。このときに確かめあったことは、今も生きています。当事者ともどもに考えてこそ、真[まこと]の臨床心理学への道は開けます。
二十年あまり経った1991年には、本学会も心理職の国家資格化を容認し、推進する向きに舵を切りました。「精神障害者」の立場を守るためには、心理職の待遇と地位の安定も必要と考えたからです。ここもきびしい峠越えでした。はじめの時と同じく、多くの会員が去りました。
さて、それからまた二十年が経過しました。いま、私たちはどう進めばよいのでしょう。中国と手を携え、比較民俗学会の協力を得た大連大会は、他の学会に類をみないものでした。これまで、西洋からキリスト教文化による方法論が輸入され、あたかも偏見のない、新しい心理学であるかのごとくに宣伝されてきました。しかし、私たちの出会う「精神障害」の当事者たちは、東洋の一角の日本で暮らしています。まず同じ所に身を置いて、人びとの心に寄り添うことが求められます。山川郷土、草木鳥獣に守られ、祖先から受け継いだ「うぶすな」の身がまえを省いて、まことの臨床心理学はあり得ません。
私たちは「いま」「ここ」で、日本人・東洋人としての己れを反芻し、臨床の原点に立ち返らねばなりません。はじめの改革で大きな足跡となった当事者との対等の付き合いが、何より大事です。彼らの入会を認め、互いに「私たち」となれる学会は、いまや少数となりました。「する/される」の固定した枠組みからでなく、対立にはまらぬ「お互い様」の臨床心理学を組み立ててゆきましょう。
東日本大震災では、「心のケア」の言葉が蔓延し、ボランティアが全国から駆けつけました。しかし、体を切り離し「精神性」のみに注力しては、片寄ります。本年度大会の東京会場では手林さんが「心のケアを熱く語ったのは、外部から来た人たちだけだった」と報告しました。これも、近代心理学の歪みの露呈です。気仙沼のある被災者は「ボランティアに気を使って、被災者がケアした」とぼやきました。ある宗教団体の若者たちは、「心の」話を一切せずに黙々と物を運び、掃除し、修繕し、所属も語らずに去って、感謝されたといいます。タイ焼きを配って、「心から」喜ばれた人もいます。
人と人が出会ったとき、「おのづから」見えてくることを為すべきです。「心の」であれ何であれ、あらかじめ構えた「専門性」からでは、こちらの都合の押し付けになります。私たちは、何であれ相手方を軽んじてはならないことを、半世紀の歴史から学んできました。いまが、これを広く伝えてゆく時なのです。
「うぶすな」の暮らしを考えれば、霊性とかスピリチュアルと呼ばれる、広い意味での宗教的次元を、心理学に取り戻さねばなりません。明治以降これらは「非科学的」として、教育からも学術からも締め出されてきました。しかし、盆と正月、秋祭り、お彼岸、先祖の年忌、諸々の供養など、私たちの暮らしには神仏、精霊との付き合いが根付いてます。これら民俗は、間違いなく「心の」事柄です。精神科やカウンセラーにかかる人の大部分は、宗教や拝み屋さんなどにも頼ります。近代医学が支配するはずの病院で、必ず霊異が語られます。ふつうの若者たちも占いが大好きで、「パワースポット」に群がります。霊、精、気、魂は今も求められ続け、むしろ「心の」営みの礎と言えます。だからこそ、オウム真理教のような動きが、それを取り込んだのでした。これを学問として、治療法として、きちんと位置づけるのが、学術団体の課題です。
お互い様とおのづからとを双璧の礎に、「障害」の当事者、霊性・魂、うぶすなの暮らしを三本の柱に、臨床心理学という屋根を掛けるのが、これからの仕事です。『臨床心理学研究』は屋根の瓦、掲げる幟、千木・鴟尾ともなります。理論と実践、経験と論証を混ぜ合わせ、崩れない壁土を捏ねましょう。
私たちの学会は、赤堀裁判(島田事件)などで「精神障害」当事者を支援し、精神保健福祉法、医療観察法などの法律、保安処分への動きなどに、立場をはっきり示してきました。象牙の塔や治療室に引き篭もらず、世の中に働きかけることも、私たちの務めです。おかしいことにはおかしいと、はっきり声を上げねばなりません。ただ、批判には心構えが要ります。己れの正しさを信じ込めば、批判のための批判、片言隻句を捉えての揚げ足取りに陥ります。視野を広げ、事の軽重を見分け、学術団体として言葉の重みを量りつつ、これからも発言を続けてゆきたいと考えます。
そのためにはまず私たちの側で、学会運営を風通しよいものにせねばなりません。運営委員は、会員に背を向けて独走してはなりません。無駄を省き、情報を公開して運営を透明を保ち、学会員による学問と実践の創意工夫、新しい芽を伸ばす身がまえを、私たち運営委員がとりたいと考えます。そして、その先に来るであろうまことの臨床心理学を築くのは、他の誰でもない、この頁に集われる皆さま一人一人です。
日本臨床心理学会デコ
この挨拶文は、20期運営委員会の有志の意見です。
現在の21期運営委員会選出委員の顔ぶれから、必ずしも、この意見に賛同されるとは思われません。平成25年8月10日発足の21期運営委員会からは、現在(平成25年9月24日)の段階でも依然、HPはトップページの他は閉鎖され、会員への広報は滞っております。
この意見公告の発信者を「前(20)期運営委員会有志」として明らかにするとともに、現体制の方針との差異を明示することにより、本学会が多様な意見が並立しつつ組織として成り立つ、ふところの寛さを公に示していただきたいものと願う次第です。
前20期事務局長 戸田游晏拝