小林健治
1950年、岡山県生まれ。解放出版社事務局長を務める。1980年から、部落解放同盟中央本部・マスコミ対策部文化対策部/糾弾闘争本部の一員として、出版・新聞・テレビにおける差別表現事件にとりくむ。にんげん出版代表。
本シリーズ五回目となる今回は、橋下徹に対する差別キャンペーン記事への抗議主体である部落解放同盟の対応について考えていきたい。
今回の事件を通して、部落解放同盟の抗議の経過などにおいていくつかの点が浮き彫りになっている。それは、抗議の方法と抗議の内容についてだ。
①抗議の方法について
それは、部落解放同盟の大阪府連の委員長名で、10月31日『週刊新潮』、『週刊文春』の両誌に抗議文が送致されたこと。ついで、11月7日に兵庫県連、そして11月22日に、大阪府連の抗議文に遅れること3週間を過ぎて、中央本部から抗議文が郵送されてきたことだ。
部落解放同盟の組織原則としては、例えば、熊本日日新聞、中国新聞、山陽新聞など地方紙の紙面上の差別表現事件は、当該県連が担当するが、今回のような週刊誌、月刊誌、そして全国紙については、一括して中央本部が対応することになっている。テレビ、ラジオもこれに準じている。
それは、かつて差別表現ではない表現を地方組織が差別として、例えば“部落”という言葉を使っただけで抗議・糾弾した悪しき前例(森敦『月山』)を糾す意味において、差別表現問題については中央本部が一括して対応することを、全国の都府県連に通達を出し徹底しているのである。
その原則に照らして、今回の両誌に対する抗議方法はおかしいと言わざるを得ない。
他に、自由同和会中央本部や地域の生活者ネットワーク、さらに個人からの抗議もあったと聞くが、解放同盟としては、中央本部で一本化して取り組むべき差別表現事件である。今回のように事柄が大阪に係る事案である場合、大阪府連が中央本部の糾弾闘争本部のメンバーに入ることがあっても、本部主導という原則に変わりはない。
この点、対応に統一性がみられないのは、組織原則がないがしろにされ、抗議対象(今回は両誌)に混乱を与えることになり、解放同盟の生命線である糾弾の正当性そのものがゆらぐ事態を招来させかねない危険性があるだろう。
②抗議内容について
今回、抗議主体となった大阪府連より出された抗議文の中に次のような文言が付与されている。
「私たちは、こうした部落差別をなくすために運動を進めていますが、橋下徹氏を擁護するために抗議しているのではありません。」
どんな意図の下に書き記された一文か意味不明だが、直接の被害者であり、部落差別を受けた当事者である橋下氏に対して、彼が公人であり、また、いかに同盟と政治的主張や立場が異なるとはいえ、あまりにも冷酷な一文と言わざるを得ない。
部落解放同盟は、部落差別を許さないというその一点で結集した大衆団体だ。
だからこそ、差別ハガキを何百枚も送りつけられ、くじけそうになる重圧と苦しみの中から抗議糾弾に立ちあがった東京在住のUさんを、解放同盟の東京都連は全力で支え、共に闘っているのである。
どのような思想的・政治的立場の違いがあろうとも、部落差別(しかも選挙前というこの時期に差別キャンペーンが張られたことは非常に問題だ)に抗議して、正面から週刊誌2誌と対峙している橋下氏を支え、この一点において擁護すべきではないのか。本末転倒した一文と断ぜざるを得ない。 政治的思惑を優先させて、橋下氏に会おうともせず、励まそうともしない組織は、“兄弟”の持つ共通感情の絆を謳う水平社宣言の精神とは、かけ離れていると言わざるを得ない。
③回答文の評価について
大阪府連は、両誌の回答文について、これを了とし、一応の解決を見たことになっている。しかし、「両者は、……真摯に迅速に対応され、それぞれ見解を示された」。「両社とも指摘している本質については語ることなく、淡々とした見解として取りまとめられている」(月刊『ヒューマンライツ』より大阪府連書記長、赤井氏)としているが、ほんとうに、この程度の回答で「了」とできるのか、大いに疑問だ。
とくに、『週刊新潮』の回答文には、
その情報が取材で得た真実で、公共性、公益性を備えており、読者の「知る権利」に応えるものであるのは当然ですが、しかしながらそれが基本的人権や、プライバシーを不当に侵害する懼れがある場合は、タイトルや文章について最大限の熟慮と配慮を致します。本件のような情報がきわめてセンシティブな(社会的差別を引き起こす恐れがある)ものであるというご指摘にも、異議を唱えるものではありません。記事全体に部落差別を助長、煽動する視点がないことはご理解いただけると存じます
と書かれているが、よく読むと全く矛盾した記述になっていることがわかる。
抗議文の指摘に「意義を唱えるものではありません」と述べたそのすぐ後に、「記事全体に部落差別を助長、煽動する視点がないことはご理解いただけると存じます」とある。
角度を変えて言えば、『週刊新潮』の回答文は総論賛成、各論反対、あるいは、一般論としてはご指摘の通りだが、具体的に今回の件は違いますよ(つまり、部落差別ではないですよ)と言っているだけで、何ら反省的内容を含まない、到底「了」とすることのできる回答文ではない。
11月22日に出された中央本部の抗議文は、大阪府連の抗議文よりはましだが、やはり不十分と言わざるを得ない。
ひとつは、選挙のネガティブキャンペーンに部落差別が利用されたという視点がぬけていること。ふたつめは、被差別部落に固有の名前が明らかにされたことによる、全国の「橋下」姓の人々に対する配慮と怒りが表現されていない点があげられる。
出自に関する記事で相手を叩くという、週刊誌ジャーナリズムが、いちばんしてはならないことを行った、この差別性に対しては、もっと怒りをもって問うてしかるべきではないだろうか。